2016/04/09 ある教授のこと

過日、北陸医大 (仮) 附属病院の某診療科で催された花見に参加した。私は現在、この診療科で研修を受けているのだが、ここの教授が、立派な人物なのである。

名古屋大学にせよ北陸医大にせよ、医学教育のあり方を巡る根深い問題を抱えている。学生の大半は、試験に合格し、医師免許を獲得し、既存の枠組みの中で出世することばかりを考えている。 その枠組みを自らが構築しよう、明日の医学を切り開こう、などとは微塵も考えていないのである。 その証拠に、よくわからない問題に遭遇したとき、多くの学生は、すぐに「エラい先生に訊いてみよう」などと言い出す。 皆がこのようであっては、いずれ医学は衰退し、医療は崩壊することが明白である。 それに対する教授陣の問題意識、改革意欲についていえば、私は、名古屋大学より北陸医大の方が先進的であると考えている。 そう見込んだからこそ、「都落ち」などと揶揄されながらも、この北陸の地にやってきたのである。 そして幸運にも、さっそく、見識の高い教授と出会うことができた。

私は名古屋大学時代に一度だけ、学部教育委員会に出席したことがある。これは 10 人程度の教授によって構成される委員会であって、私は「講義の際に学生の出欠を確認し、出席率が 50% に満たない学生には試験の受験資格を認めない」という制度の撤廃を求める学生側の請願について、参考人として参加したのである。 この請願は、平たく言えば「天下の名門、名古屋大学において、講義の際にイチイチ出欠を確認するなどというのは幼稚であり、恥ずかしい」という趣旨のものであった。 当時の医学科二年生から五年生の学生から請願への賛同の署名を募ったのだが、結局、加わってくれた学生は全体の 1 割にも満たなかったように思う。 ただ、私は、数の問題ではない、と考えていた。 これは、多数決ではなく、名古屋大学の誇りの問題なのだ。 学生から「恥ずかしいではないか」という声を発することが重要なのであって、それを聴いてなお教授陣が何も行動しないようであれば、名大医学科に未来はない。

学部教育委員会では、少なからぬ教授が請願の趣旨を理解してくれたものの、昨今の社会情勢にあっては出欠を確認することはやむを得ない、という論調であった。 その中で、ある教授は「署名といっても、学生の 1 割にも満たないのだろう」というような発言をした。問題の本質を全く理解していない暴言である。 何より遺憾であったのは、この暴言に対して「いや、数の問題ではない」という発言をする教授が一人もいなかったことである。 名古屋大学というのは、そういう大学なのである。

さて、冒頭で紹介した教授の話である。 花見の席上で、私は、教授に対して不満を述べた。 学生に対する講義などの際に「国家試験対策」というような言葉を使いすぎではないか、と批判したのである。 私は、国家試験を強く意識した「教育」は教授にとっても不本意であることも、そういう指導をしなければならない事情もわかっている。 こうした指摘をすれば教授が困ることまでも理解した上で批判したのだから、イヤラシイと言えなくもない。

しかし教授の凄まじいところは、「国家試験対策を強調するのは、やむを得ないのだ」というような正当化をしなかった点である。 詳細は敢えてここには記さないが、教授は、学生に対する教育のあり方について悩みに悩みぬいて、ついに、自身が心の底から納得できる結論に至り、実践しているようである。 その信じるところを、率直に、私に語ってくれた。

教育制度を改革しようとするならば、いくらエラい先生だけが頑張っても、無理である。 教育を受ける側の者が、それに呼応して声を上げ、古い体制を揺さぶっていかねばならない。 名古屋大学には、改革しようというエラい先生がいなかった。 北陸医大では、教授陣の思いに応える若者が少なかった。

私は、ここに来て正解であった。


2016/04/06 質問をすること

医学において、学会やカンファレンス等で質問をするとき、その目的は 3 つに大別できよう。

第一は、学術上、あるいは臨床上、重要な意義のある情報を引き出すための質問であって、たとえば、示された実験や統計について、その妥当性を検討するための質問である。 第二は、発表者や他の聴衆に対して何らかのメッセージを発するための質問であって、たとえば、発表者が見落としている問題を指摘するような質問が該当する。 そして第三は、明確な意図はないものの、とにかく何か質問しようとして無理やり発する質問である。

学生の場合、とにかく質問を発するということ自体に重大な意義があるから、上述の「第三」にあたるような内容で構わないから、とにかく、何か発言するべきである。 とはいえ現実には、あまりくだらない質問をしては申し訳ない、あるいは恥ずかしいと考え、萎縮し、なかなか質問できない学生が多いであろう。 本当は、どんなくだらないトンチンカンな質問であったとしても、質問をする者の方が黙っている者よりエラいのだが、それでも、学生は黙りがちである。

私は昨日より、北陸医大附属病院 (仮) の某診療科で実際の研修を受けている。 大学病院であるから、当然、臨床実習の学生もいる。 こういう状況では、私のような研修医がカンファレンス等で質問する場合には多少の気を使うべきであろう。 というのも、学生が理解できないような質問をしてしまうと、学生は「何やら高度な議論をしているようだから、邪魔をしないように黙っておこう」などと勘違いしてしまう恐れがある。 本当は、質問者は出席者全員のことを考えて発言するべきなのだから、学生にも理解できるような言葉で質問をしなければならない。 つまり、もし学生が質問内容を理解できなかったとしたら、それは質問者の罪なのであるが、どうも現実には、そのあたりを理解していない学生が多いのではないか。

理想的な質問というのは、学生に「何を議論しているのか、よくわかるぞ。この程度の議論になら、私も加われそうだ。よし、一つ、質問をしてみよう。」と思わせるような質問である。 残念ながら私は未だ力量不足で、そういう立派な質問を発することは、なかなかできていない。

その代わりに、というわけでもないのだが、私は学生に対しては「カルテやレポートには、自分が何を考えたのか書くべきだ」という点を強調することにしている。どうせ学生なんだから、間違えても当然であるし、トンチンカンなことをカルテに書いても、指導医が修正してくれる。患者に害が及ぶことはないのである。 これは我々研修医にも言えることなのであって、今のうちに、たくさん失敗をしておくべきであろう。 実際、私は、さっそく一つの失敗を犯してしまった。詳しくは書かない。


2016/04/02 患者を満足させることと医師として誠実であること

昨日から、北陸医大 (仮) の初期臨床研修医である。 いずれ我が大学の悪口も書くことになると思うので、大学名は伏せておくことにする。 というのも、大学の就業規則に「故意に大学に対し損害を与えた場合は賠償しなければならない」というような条文があるからである。 名指しでの攻撃は、この条文に抵触する恐れがある。

さて、昨日、新入職員に対する研修の一環として、某有名企業から講師を招いての接遇講座があった。 要するに、患者に対する接し方、基本的な立居振舞についての講習である。 講師は、顧客を満足させるための接し方を丁寧に語ってくれたが、これは、我々医師にとっては、必ずしも適切な内容ではなかったように思われる。

医師にとって、患者に対する理想的な接し方とは、患者を満足させることではない。 たとえば、ある検査を行うことを患者に対して提案する際、もちろん我々は、その検査の目的や必要性などについて説明する。 この時、かみくだいて「わかりやすい」説明を行えば、患者に納得させ、満足感を与えることは、比較的、容易であろう。 しかし、はたして、それは医師として誠実な態度だろうか。

かみくだいて「わかりやすい」説明をするためには、どうしても、少なからず嘘をつかねばならない。 臨床検査というものは、素人が簡単に理解できる性質のものではない。 特に、感度や特異度の概念をよく理解していない素人に対しては、その検査の意義を本当に正しく伝えることは、まず不可能である。 この時点で、既に多少の嘘が避けられないのだが、まぁ、このくらいは、社会通念上、許容されるかもしれぬ。

問題は「乳房に『しこり』がある、という理由で受診した女性に対するマンモグラフィ」のような、医学的に意義がはっきりしない検査の存在である。 こういう状況でのマンモグラフィは、臨床的にはしばしば行われるようだが、これで一体、何がわかるのか、患者にとって、どういう利益があるのか、キチンと認識している医師は極めて稀であろう。 私自身は、これは無駄で不必要どころか単に有害な検査であると思っている。 このあたりの問題については、過去に書いたので、何を言っているのかわからない人は参照されよ。 こういう患者に対してマンモグラフィを行う最大の理由は、医師側の安心のため、であろう。 マンモグラフィを行ったからといって、痛いのも金を払うのも患者であって医師ではない。 むしろ、医師にとっては、あまり診断の役には立たないとはいえ、情報が増えて損はないのである。

もし、こうした事情を正直に患者に伝えた場合、中には「キチンと全部説明してくれる、信頼できる医師だ」と解釈してくれる患者もいるだろうが、「この医者、なんだか頼りないな」と考える患者も稀ではあるまい。 それよりは、「『しこり』の形や性質を調べるため」などと言って「診断のために必要な検査なのだ」と思い込ませてしまう方が、患者満足度は高くなるであろう。

言うまでもないことだが、こうして不正確な情報を与え、医師にとって都合の良い方向に導く手口は、インフォームドコンセントを欠くものであり、ジュネーヴ宣言などの定める医療倫理に反するものである。 患者満足度を高め、病院経営には貢献することができるかもしれないが、医師としては、あるまじき姿である。

昨日の講習において、私は、こうした専門職における葛藤について質問した。 すると講師は、患者に安心感を与えることは重要であり、そのためには、敢えて情報を伏せることも必要ではないか、という意味の回答をした。 たぶん、その講師は、医療倫理についてよく考えたことがなく、ジュネーヴ宣言も知らないから、そういう発言をしたのであろう。

この質疑応答でわかったのは、この講師が所属している某社は、顧客を満足させるためには平然と嘘をつくよう社員を教育しているらしい、ということである。 私は、これまで、この会社をヒイキにしていたのだが、今後は極力、競合他社の方を利用しようと思う。


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