16:30 頃にホテルで荷物を受け取り、タクシーを呼んでもらった。 ホテルから空港まで、来た時と概ね同じルートを通り 7 km ほどであっただろうか、143k ドン (860 円) であった。 このタクシーはメーター制であり、明瞭会計であった。
我々の飛行機はベトナム航空 300 便、0:15 サイゴン発である。 我々は日没後の行動を避けるために早めに空港に着いた。 荷物を整理して預け入れ、出国審査に向かった。
何か不慮の事態があったのか、それとも普段通りなのかはわからないが、出国審査には長蛇の列ができていた。 しばらく待っても、列はなかなか進まない。 遠目に審査の様子をみると、係官のところで何か書類を提出している人もおり、一体、どんな審査がなされるのかと我々は不安になった。 列のある場所にはモニタも設置されており、搭乗便と旅客氏名が表示され 「以下の者は荷物の検査で問題があったので、チェックインカウンターに戻られたし」といった表示がなされている。 中にはトルクメニスタンのアシガバート行き旅客の名もあった。 このアシガバート行きの便は出発が迫っていたらしい。 トルクメニスタンのパスポートを持った複数の旅客が、不安そうな面持ちで周囲の様子を窺っている。 やがてトルクメニスタンのパスポートを持った人が手を挙げ「アシガバートはこちらへ」と大きな声を上げた。 するとトルクメニスタン人がぞろぞろと集まり、集団で移動していった。 おそらく、出発の迫った人々が係官に相談し、特別ルートで出国手続きを済ませたのであろう。 見事な団体行動であった。
トルクメニスタン人が去ると、我々の列はだいぶ進んだ。 やがて私の番がまわってきた。 私は Hello と言い、係官にパスポートと搭乗券を提示した。 係官は無言で淡々と手続きを行い、私にパスポート・搭乗券を返却した。 実にスムーズな出国手続きで合った。 先ほどまでなかなか手続きが進まなかったのは、国籍による違いであったのか、それともビザの関係であったのか、よくわからない。 我々は日本の旅券を持ち、45 日のビザなしで滞在できる期間をキチンと守った旅行者であったから、話が早かったのであろうか。
サイゴン空港には「滑走路のみえるフードコート」があった。 この空港の売店や飲食店では、入国しないトランジット客を想定しているのであろうか、値段が全て米ドル表示であった。 むろん支払いはベトナムのドンでも可能である。 我々はここで牛肉の炒飯 9.5 ドル、シーフードの炒飯 9.5 ドル、Gyoza 12 個 12.4 ドルであった。 問題は、飲み物はいるか?と問われた私が、深く考えずに、メニューも確認せずに、水 2 本を注文してしまったことである。 ハノイやサイゴンの市中では、水としては Lavie という地元ブランドらしき水などが 500 mL 15k ドン (90 円) 程度であったので、 その感覚で注文してしまったのである。 実際には、このフードコートでは Evian 500 mL が 2 本、供された。 ベトナムでは Evian は、高い。ここでは 2 本で 9.2 ドルであった。全部で 40.6 ドルである。 これほどの金額を支払うぐらいなら、フードコートではなく空港ラウンジを使用したほうがよかった。
サイゴン空港には、無料のシャワーブースが存在する。 空港全体の案内図には表示されていないのでわかりにくいが、それは Gate 25 の搭乗口近くにあるトイレ内にある。 ゲート付近までいけばシャワーを示す表示があるので、注意深く探索されよ。 我々はバスタオル等を持っていないのでシャワー自体は使わなかったが、着替える場所としては便利である。
日本では台風 10 号が九州付近で猛威を振るっており、飛行機が飛ぶのかどうか多少の心配はあったが、 どうやら我が便は予定通りに飛ぶらしい。 我々は、空港をブラブラしながら出発の時を待った。
既に書いたように、ベトナムにおけるバイクや四輪車の交通マナーは、たいへんよろしくない。 赤信号であっても「イケる」と判断すれば交差点に突っ込むバイクは稀ではないし、 交通量が多い道路であるにもかかわらず対向車線にはみ出して追い抜く運転者も少なくない。 幸い我々は交通事故現場には遭遇しなかったが、危ない場面は目撃した。
ある日の夕方、サイゴンでホテルに戻ろうとした時である。 ホテル前の道路は交通量が多いにも関わらず、横断歩道はあるが信号機がない。 サイゴンには、このような道路が多いようで、道路横断に苦労する。 バイクや自動車の流れが完全に途切れることは多くないので、比較的交通量が減ったタイミングで 「ちょっと、ごめんなさいよ」と渡らなければならない。 幸いハノイに比べると、サイゴンでは歩行者の横断を待ってくれる運転者が多いので、なんとか渡ることができる。
ある四輪自動車が、対向車線にはみ出す格好で、前の車両を追い越そうとした。 そこに正面から、バイクがやってきた。 あわや、という状況であったが、両者ともに停止し、大事には至らなかった。 が、問題はここからである。 バイクも四輪自動車も、譲らない。 おまえがどけ、と言っているようである。 20 秒ほど粘った後、バイクが道を譲ってすれ違っていった。 バイクは四輪自動車の横を通るとき、運転者に向かって怒りを露わにし、なにやら激しく罵り去っていった。
ベトナムに滞在していて不思議なことがあった。 観光客が往来するような場所を歩いていると、呼び込みをしている店員から、 こんにちは、とか、いらっしゃいませ、とか日本語で呼びかけられるのである。
彼らが簡単な日本語を話すこと自体は驚かない。しかし、なぜ我々が日本人、というより日本語話者であるとわかるのか。 ヨーロッパに旅行した際にも、一目で日本人と見抜かれて日本語で挨拶されたり、飲食店でいきなり日本語のメニューを提示されることはあった。 しかしヨーロッパでは、ニーハオなどと中国語で話しかけられることもあり、「東アジア人」まではわかっても、日本人と中国人・朝鮮人の区別は難しいようである。 それに対しベトナムでは、我々を中国人や朝鮮人ではなく日本人であると、正確に判定されているのである。
これは我々が会話をしていなくても声をかけられるのだから、不思議なことである。 たぶん、我々の服装や立ち居振る舞いが、日本人にみえるのであろう。具体的に何がそうみえるのかは、わからない。
これについては、ハノイ医科大学を訪れた時、面白い出来事があった。 我々が構内を歩いていると、前方から 20 代または 30 代ぐらいの、スクラブを着た若い男がやってきた。 すれ違った後、我々は「あれは、日本人の医師ではないか」と囁きあった。
確かに、なんとなく、わかるのである。 顔つきや髪型、服装も、少しばかり普通のベトナム人とは違うのだが、何より、歩き方が違うのである。 堂々としているとか、姿勢が良いとか、そういうことではない。 具体的に説明することは難しいが、肩の揺らし方、足の運び方が、少し、違うのである。
サイゴンの中心部に、名前は失念したが、たいへん有名な市場があるらしい。 現在では観光スポットになっており、多くの外国人が訪れるという。 我々は特に用事もなかったが、その市場を覗いてみた。
この市場は、元々は地元の人々の生活を支える普通の市場であって、農産物や水産物などをはじめとする 生活用品が売られていたのであろう。 ところが観光客が増えるにつれ、店舗の種類も観光客を対象とするものに変遷していったものと思われる。 現在では、観光客価格の飲食店や、「異常に安い」ブルガリやらシャネルやらのブランド品、宝石などが売られている。 客引きが、ひっきりなしに声をかけてくる。 噂では、スリも多いらしい。
このような雑然とした市場を東南アジア的、あるいは発展途上国的であると考え、味わいのある光景、あるいは活気のある市場だと感じ、喜ぶ旅行者も少なくないと思われる。 しかし、このような観光客を狙い撃ちする商売、商標権を無視する商売は、伝統的なベトナムの価値観を反映するものではない。 また現地人にしても、こういう商売に喜びを感じているかどうかは疑わしい。 フォーを売る店にしても、明らかに伝統的なフォーとは違う、ファーストフード化した、風情も何もないフォーを、ペプシコーラと一緒に売っているのである。これのどこがベトナム的なのか。 他に日々の糧を得る手段がないから観光客向けファーストフードビジネスを展開し、 まっとうに収入を得る手段がないから偽ブランド商売に手を染めざるをえなくなっているのではないか。
以前にも書いたが、大卒初任給が月 8M ドン (5 万円)、というこの国では、 外国人観光客を中心とする経済と、地元民の生活を支える経済とが、分離して回っているように思われる。 特に前者は外資が入り込み、ベトナムの富の少なからぬ部分を国外に運び出している。 はたして、これが健全な経済発展なのであろうか。
余裕があればベトナム戦争証跡博物館や、ホーチミン市 2 区などにも行ってみたかったが、我々は慣れぬ異国の地で 1 週間以上を過ごし、疲れている。 資本主義の誘惑に屈するようではあるが、サイゴン中心部にある Starbucks なるコーヒー屋で休憩しつつ、この日記を書いている。
サイゴンには高島屋がある。 同行者の希望により、我々は、この高島屋に入っている茶屋を目指した。 ホテル前からバスにのって一人 6k ドン (36 円) である。
高島屋は、それ自体が単独の建物なのではなく、大きなショッピングモールの一角を高島屋が占めているらしい。 我々は 2 階 にある茶屋に向かったが、あいにく、一時的に閉店・改装中とのことであった。 我々は地下 2 階の飲食店街に行き、台湾料理屋で炒飯と水餃、肉団子を食べた。 Alluvia Chocolatier というチョコレート屋で土産を買った。 一辺 3 cm 程度のチョコレート 20 個で 280k ドン (1680 円) ほどであった。
高島屋というと、日本では高級デパートのような印象があるが、サイゴンではイオンモールぐらいの軽いショッピングモールのような雰囲気である。 現地人であると思うが、靴を脱いで椅子の上で足を延ばしている婦人もおり、我々の感覚からすれば、いささか品がない。 ただ店側は整っており、日本の百貨店と同じように清掃が行き届いており、店員も丁寧に、英語を含めた接客を行っていた。
高島屋の近くにある Ha Phuong という刺繡屋で、同行者はハンカチや巾着を買っていた。 完全に手作りの刺繍屋であり、日本の雑誌等で紹介されたこともあるらしい。 小さな店であるが、興味のある方はぜひ探して行ってみられよ。
ここでトイレ事情について書いておこう。 日本からベトナムを訪れた場合に気になるのは、使用済みの紙の扱いである。 日本語で書かれたベトナム案内ウェブサイトなどをみると、「紙は流してはならず、ゴミ箱に捨てよ」と書かれていたり 「高級ホテルでは流しても大丈夫」と書かれていたりする。 我々がハノイやサイゴンで泊まったホテルの場合、トイレには小さなゴミ箱が設置されていたが、紙質は日本のものと同じような感じで、流せそうな雰囲気であった。 この場合、ホテルスタッフに「使用済みの紙は、どうすればよいのでしょうか?」と尋ねるのが一番正確であろう。 まぁ、ゴミ箱が明らかに「使用済みの、便が少しついているような紙」を捨てるのに適さない風貌であり、 かつ紙が日本と同じような水と親和性の高いものであるならば、少量ずつ流してしまってもよいのではないか。 責任は持てないが。
シモの話になるが、大事なことであるので、トイレについてもう一つ、尻の洗い方について述べておく。 私の知る限りでは、東南アジアからアラブあたりの地域では、トイレの便器の横にシャワーが設置されているのが普通である。 排便した後は、そのシャワーで肛門周囲を洗浄する。 紙は、その後に水滴を拭き取るのが主たる用途であって、肛門周囲に付着した便は基本的に水で流すのである。 このシャワーの基本的な使い方については、インターネット上で多くの人が説明してくれているので、ここでは述べない。 シャワーを使う上で注意を要する点だけ書くことにしよう。
まず水圧であるが、シャワーの水圧は、便器横のシャワーの根元あたりにある水栓ハンドルで調節する。 初心者は、肛門へのダメージを心配し、水圧を弱くしがちである。 便が硬質で「拭かなくてもイケるのではないか?」ぐらいの調子であるならば、そのような弱い水圧でも問題ない。 しかし便が粘質の場合、水圧を上げて強い力でこそぎおとさねば、便は諸君の肛門周囲から離れない。 しっかり洗ったつもりでも、紙で水滴を拭き取った際に茶色いものが付着することがある。洗えていないのである。 では、どうすればよいのか。
多くの場合、シャワーは右手側にあるので、諸君は右大腿を浮かせ、右方からシャワーを会陰部・肛門周囲に向けて当てることになるだろう。 ここで肛門を確実に洗うためには、遠慮なく思い切り下肢を挙げ、とても恋人にはみせられないような体勢をとって 肛門めがけてシャワーを確実に当てなければならない。 うまく洗えないという人は、この部分の思い切りが足りないのではないか。
このように遠慮なく肛門を洗うと、水が飛び散る、という問題がある。 油断すると諸君の衣類にも水が飛んでしまうし、いくら気を付けても便器には確実に水が飛散する。 利用頻度の高い公衆トイレの個室は高い頻度で水浸しになっている、という事実から考えて、 水が飛散するのは私の技量が至らないからではなく、そういうものなのだと思う。 だから使用後は、便器、特に便座部分に飛び散った水を拭き取ってから退出するのがマナーであろう。 ただし紙が設置されていない場合には、貴重な手持ちのティッシュペーパーを使ってまで便座を拭くかどうかは、判断の分かれるところであると思われる。
以上のことから考えると、この種のシャワー併設トイレは、少しばかり汚いのではないか、という懸念が湧いてくる。 排便後の肛門に水を噴射し、その水滴はシャワーヘッドや便座に飛び散る。 いくら水滴を拭き取るにせよ、そのような水滴がまき散らされた便座やシャワーを使うのは、私としては、抵抗を感じる。 それよりは、シャワーを使わずに紙だけで後始末する方が、私としては気分がよい。
ところがベトナムなどでは、紙だけで始末することは、あまり歓迎されないのではないかと思われる。 1 ロールに含まれる紙の量が少ないのである。 日本の場合、60 m であったか 120 m であったか、かなり長い量の紙を巻いて 1 ロールにするのが主流である。 ところがベトナムでよくみかけるトイレは、巻き方が緩く、おそらく日本の半分か 1/3 か、あるいはもっと少ない量の紙から 1 ロールが形成されているのである。 従って諸君が紙だけで事後処理をした場合、あっという間に 1 ロールを使い切ってしまう。 ホテルで連泊した際に、毎日紙を使い切っていると、清掃スタッフから「こいつは、どういう尻の拭き方をしているのか?」と心配されてしまうであろう。
今日は朝寝坊してホテルの朝食を摂らず、11:30 頃にチェックアウトした。 荷物はホテルに預けたまま、最後のサイゴン観光に繰り出した。
我々が宿泊したホテルの 1 階はジムになっており、宿泊客は自由に使えるらしい。 このジムには何種類かのトレーニングマシーンが置かれていたが、フロアには人気がなく、 またトレーニングルームの隣は真っ暗な倉庫のような部屋になっていた。 ジムに入るまでにホテルのルームキーなどは必要なく、その気になれば、誰でも入ることができる。 みわたした限り、監視カメラがあるのかどうかもよくわからない。 つまり、ここは犯罪の温床としか思われない。
なお、このサイゴンのホテルでは階数の数え方が英国式であり、地上の高さが Ground floor であった。 階段を一つ上がれば 1 階であり、つまりジムがあったのは日本でいう 2 階の部分である。 ハノイのホテルでは日本と同様の、地上の高さを 1 階とする方式であった。 この国では、階数の数え方に両方の方式が混在しているのであろうか。
今日も夕食は例のレストラン Aleppo に行った。 ハンバーグのような肉のグリル、Iskender Kebab, チキンフムス、水で、二人で 530k ドン (3200 円) ほどであった。 美味ではあるのだが、いささか量が多かった。塩も、もう少し控えめでもよい。
食べ残し問題について触れておこう。 一部の文化圏では、他人から食事を出された際に、食べ残すのがマナーである、とされることがある。 食べきれないほど出してもらった、という意味であるらしい。 その場合、完食してしまうと、もてなす側は「足りなかったのだろうか」と不安になる、というわけである。 このような「食べ残すのがマナー」というのは食料が豊富にある社会状況の場合に限られるであろうし、 近年では、そういう習慣は良くない、として改めようとしている地域もあると聞く。 ベトナムがどうであるのかは知らぬが、街中のレストランで店主の友人らしき人々が大量に残して出ていく姿をみたこともある。 その他にも、食べ残してレストランを出ていく人はたいへん多かった。 食べ残すのがマナー、とまでいくかどうかは知らぬが、残す、という行為に対する抵抗は、日本よりも少ないものと思われる。
レストラン Aleppo の主人が、どういう感性の持ち主であるかは知らぬ。 だが、本日供された料理は、サラダとパン付き、とのことであったものの、サラダもパンも、たいへん大量であった。 これが彼らにとって普通の量であるのか、それとも昨日、一昨日と完食した我々に対する意地であるのかは、わからない。 先方の意図はわからぬが、日本育ちの我々としては、出されたものは全部食べなければ落ち着かない。 だが、あまりに多かった。パンとサラダと主菜は全部食べたが、ヨーグルトを少しばかり残した。
この時点で私は、洗濯の都合上、明日履く靴下とズボンがない、という状況に陥っていた。 そこで、やむなく Vincom Center を再び訪れ、H&Mなる外資系の服屋で靴下を購入することにした。 この資本主義の権化のような商業施設で買い物するのは、いささか不快ではあるが、私はまだベトナム社会に溶け込めておらず、また同行者の希望もあったことから、ここを訪れたのである。
靴下は 5 足セットで 250k ドン (1500 円)、ズボンは 500k ドン (3000 円) であった。 値段表示はそれぞれ 249k ドンと 499k ドンであったが、会計時に繰り上げられたようである。
我々はバスに乗ってホテルに帰った。
予定では、統一会堂の後にベトナム戦争証跡博物館を訪れる予定であった。 しかし同行者の体調がいささか思わしくなかったために、この予定はキャンセルした。 またサイゴンを訪れる機会はいくらでもあるだろうし、この博物館が近い将来になくなるとも思われない。 無理に今日、訪れなくても、また次回、来ればよいのである。
同行者の強い希望により、我々は Maison Marou なるチョコレート屋に向かった。 これは過日訪れたサイゴン中央郵便局の近くにあり、ベトナム産のカカオを使って、ベトナム国内で製造しているチョコレート屋である。 日本などで流通しているチョコレートの多くは、原材料のカカオをガーナなどから輸入している。 カカオの生産においては、児童労働が多いこと、極めて安価に買い叩かれているためにカカオ生産者の生活が困窮していること、などが問題視されている。 児童労働に関しては、ガーナ政府の公式見解では近年急速に改善しているらしいが、実態を伴っているのかどうかは、知らぬ。 カカオが安価に買い叩かれる件については、自由競争の結果だ、と主張する者もいるであろう。 しかしガーナやコートジボワールをはじめとするカカオ生産国は、かつて欧米の植民地であった時代にモノカルチャー化が進み、カカオ農業以外の産業が衰退してしまった。 現在では、カカオを作る以外の産業能力が育っていないために、たとえ買い叩かれることがわかっていてもカカオを作るしかない、という農民が多数、存在するのである。 これを自由競争と主張するのは、あまりに身勝手であろう。 我々が訪れた Maison Marou はフランス人が創業し、ベトナムに根差した会社であるらしい。 いささか高価ではあるが、ガーナから富を吸い上げて作られたチョコレートよりも、ずっと美味である。 私はこの店で、ココナッツブラウニー 60k ドン (360 円) を食べ、アイスショコラ 90k ドン (540 円) を飲んだ。 同行者はカシューナッツブラウニー 60k ドンを食べ、カプチーノ 70k ドン (420 円) を飲んだ。
話が前後するが、Maison Marou に向かう途中で激しい雨が降ってきたため、我々は近くのカフェで雨宿りした。 私は Peach Lassi 79k ドン (480 円) を、同行者は Earl Grey Tea 179k ドン (1080 円) を頼んだ。 私は Peach Lassi を「ピーチラッシー」というように発音したのだが、店員には通じなかった。 メニューを指さして伝えると、店員は「ピークラッシー」のように発音した。どうやら桃はベトナムではピークと発音されるらしい。 なお、この桃と言うのは黄桃のことであった。マンゴーラッシーはメニューになかったように思われる。 同行者が注文した品は、なにやら洒落たティーポットに入って運ばれてきた。 ティーポットの中にはハーブのティーバッグが入っており、ナツメヤシや幾種類かの花のようなものを伴っている。 これが本当に Earl Grey Tea であるのかどうかは甚だ疑問であったが、ベトナム風 Earl Grey はこのような姿をしているのだ、ということにして、飲んだ。 意図したものではなかったが、漢方薬のようなものであって、同行者の体調を癒す効果があるだろう、ということにした。
バスを降りて少し歩くと、統一会堂 Palace of Reunification に到着した。 ところでサイゴンの街では、ハノイに比べると、乞食が多いように思われる。 中には英語で自分の窮状を訴える看板を作っている者もおり、観光客の憐憫を誘う意図があるものと思われる。 社会主義を標榜するベトナムの政府が、このような人々についてどのように認識しているのか、私は把握していない。 またサイゴンでは路上の物売りの性質が、ハノイとは異なる印象を受けた。 ハノイでは、農産物など庶民の実生活に直結する実用品を売る物売りが、街中を闊歩していた。 ところがサイゴンでは、少なくとも私が行動した範囲では、サングラスやマグネットなどの土産物を、 旅行客に売りつけようとする物売りが多かった。 カフェのテラス席で飲食している旅行者に話しかけて断られている姿を幾度もみかけた。 なお、こうした物売りへの対応として、買う気がない場合には、完全に無視する、というのが標準的であるらしい。 中途半端に対応するとややこしくなる恐れがあるからであろう。 しかし私としては、話しかけられたものを無視する、というのは気分が良くないので、 軽く首を振るとか、短く No... と言うぐらいの対応はすることにしている。
さて、統一会堂の入場料は一人 65k ドン (390 円) である。 会堂の敷地内には、1975 年のサイゴン陥落の際に会堂敷地内へ突入した戦車が 2 両、展示されている。 入口に近いのは中華人民共和国製、遠いのはソビエト社会主義共和国連邦製のものである。 そのさらに奥には米国製の F5E 戦闘機が展示されている。 機体には米国と南ベトナムの印があり、その上に大きく×印が描かれている。 この戦闘機は、説明文を私が正しく理解できているならば、南ベトナム空軍に潜入した北側の兵士が奪取し、 南ベトナム大統領府 (現在の統一会堂) を爆撃して北側に脱出した、ということらしい。 この南ベトナム大統領府を爆撃した、という事実は、統一会堂内部の展示で何度か繰り返し述べられており、北ベトナム軍の戦果として誇られている。
統一会堂の中は、南ベトナム時代の様子が概ね維持されて展示されている。 大広間だけは、現在でも国際会議などのイベントの際に使われているらしい。 いずれの部屋も、高級そうな装飾が施された机や椅子がおかれ、由緒ありげな壺が置かれ、大きな象牙が飾られている。 バルコニーの手すりは大きな大理石で作られている。 平たくいえば、とても豪華なのである。 この豪奢な建物の中で、あるいは庭園で、 インスタグラムにアップロードするのであろうか、格好つけた写真を撮っている者が多数みかけられた。 彼らが一体、どのようなメッセージを込めて写真を世界に向けて公開するのかは、知らぬ。
当時の南ベトナム市民も、現在のベトナム民衆も、一部の例外を除けば、それほど裕福な暮らしをしているわけではない。 南ベトナムの大統領閣下が、そうした民衆の困窮を知らなかったわけではあるまい。 あの絢爛たる宮殿と民衆の生活の乖離を、当時の権力者は、どう考えていたのか。 社会全体の幸福を目指しているはずの自称共産主義者達は、あの宮殿をみて、どう考えたのか。 ぜひベトナム共産党の公式見解を聞きたいところである。
統一会堂の敷地内には「4 月 30 日カフェ」がある。4 月 30 日というのは、もちろん、サイゴン陥落の日である。 我々は、何か特別な品が販売されているのではないか、「ホーチミンクッキー」などがあるのではないか、などと想像しつつ、このカフェを訪れた。 ところがメニューは驚くほどに平凡であり、ただ値段が高いだけであった。 我々は、カフェを素通りした。
会堂を去る前に、私は会堂地下にあるトイレに立ち寄った。 いささかアンモニア臭がするものの、割とキレイなトイレであった。 ただし建物の構造上、私が排尿している様子が外から丸見えである点には辟易した。
トイレの近くには土産物店もあった。 驚くべきことに、この土産物店では、Hermes だの Louis Vitton だの Burberry だののストールが 250k ドン (1500 円) で売られていた。 極めて安価である。素直に考えれば、これらの品は、税関で没収される類の代物であろう。 そういう物品が統一会堂の土産物屋で売られているというのは、一体、どういうことなのか。 国ぐるみで、そういうことをやっている、ということなのか。 恥ずかしいと思わないのか。
本日は 8:15 に起床し、ホテルで朝食を摂った。 ベトナム風の炒飯と焼きそばに加え、ソーセージとベーコンを食べた。 朝食後、9:00 頃にに部屋に戻ると、部屋は清掃中であった。 Please make up the room の札をかけていたわけでもないのだが、えらく早い時間帯に清掃が入るものだと驚いた。 我々はロビーで 30 分ほど休憩した。
午前中はホテルで休憩し、我々は正午過ぎにホテルを出発した。 向かう先は統一会堂、Palace of Reunification である。 昨日述べたように、これは南ベトナムの大統領府であって、ここに北ベトナム軍の戦車が突入したことをもって サイゴン陥落、とみなされることが多い。
我々はホテル近くのバス乗り場から統一会堂近くに向かうバスに乗った。 停留所付近で地面を指さして乗りたい意思をアピールすると、バスはウインカーを出して停車してくれた。 車掌氏は丁寧な人で、さぁ乗れ乗れ、と我々に手を貸してくれた。 車掌氏は英語を話さなかったが、我々はスマートフォンで目的地までの経路情報を示し、 一人 6k ドン (36 円) の運賃を支払った。 車掌氏は親切な人で、我々の降りるバス停を念入りに確認してくれたり、 老婦人が乗車する際に荷物を運んだりと、快適な旅を提供していた。
ところで読者の中には気づいた人もいるかもしれないが、実は我々はベトナム語をほぼ読めない状態で旅行している。 これについては反省している。 せめてバス停や地名を相手に伝えられる程度にはベトナム語の読み方、話し方を習得しておくべきであった。 現時点で流暢な発音は必要ないにせよ、カタコトで地名を伝えられるぐらいでなければ、 バスでの移動の際に運転手や車掌に、いらぬ手間をかけさせてしまう。
私が自信を持って読んだり話したりできるベトナム語といえば、 便所、こんにちは、ありがとう、バインミーその他いくつかの食べ物の名前ぐらいである。 ところでこのバインミーというのは、日本では「フランスパンに鶏肉などを挟んだサンドイッチ」を指す言葉として使われることが多いように思われる。 しかしベトナムでは、バインミー Banh Mi とは「パン」ぐらいの意味であって、サンドイッチを意味する場合には 「xxx のバインミー」というような言い方をする。 たとえばハノイのナイトマーケットでは、豚肉や鶏肉の串焼き 15k ドン (90 円)、バインミー 5k ドン (30 円) という屋台があった。 我々はこの時点で、バインミーをサンドイッチのことだと思っていたので、安すぎる、と訝しく思った。 やがて気づいたのだが、このバインミーというのはパンのことであって、つまり「串焼きをパンに挟む場合は 5k ドン追加」という意味であった。
夕食は、昨日と同じくAleppo という名のシリア/トルコ料理の店で摂った。 客は少なかったが、美味である。諸君もサイゴンを訪れた際は、この店に足を運ばれるとよい。 本日は羊肉のピラフと、追加でパンを注文した。 同行者は豆と肉のスープとライスである。 水 500 mL x2 とあわせて 375k ドン (2250 円) であった。
郵便局を出た我々は、統一会堂 Palace of Reunification に向かった。 これは南ベトナムの大統領府であった。 ベトナム戦争末期の 1975 年 4 月 30 日に、北ベトナム軍の戦車がこの会堂に突入し、 この瞬間をもってサイゴンは陥落した、とみなされている。
郵便局から統一会堂までは徒歩で向かったのだが、その前に、郵便局の近くにある Vincom Center に立ち寄った。 これはハノイで訪れたのと同じ系列のショッピングセンターである。 ユニクロをはじめ、外資系の商店が多数入っている建物であり、私は、あまり好きではない。 ただしトイレはたいへんきれいであるので、必要が生じた際には、買い物ついでに赴かれるとよい。
統一会堂に向かう途中で、路上のココナッツ売りに何度か遭遇した。 いずれも値段を明示していない。 たぶん、交渉しなければならないのだろうが、どう考えても観光客を狙った高値をふっかけられそうなので、我々は買わなかった。 なお、サイゴンの街中には靴磨きも多くみかけた。
統一会堂の入口と思しき場所に入ろうとした我々は、警備員らしき人物から、 こちらではない、右に行け、と英語で指示された。 どうやら我々は、入口を間違えたらしい。
正しい入口に向かう途中で、明らかに観光客向けの、高そうなフードコートに遭遇した。 時刻は 14:00 頃であったため、我々は軽食を摂ることにした。 フードコートにはインド料理店や伝統的フエ料理店、日本料理店などもあったが、全体的に観光客向けで値段が高く、 また本当に伝統的な料理とは少し異なる印象を受けた。 我々はココナッツアイスクリームを食べた。一人 90k ドン (540 円) ほどであり、安くはない。 なお写真には水のような液体が入ったボトルが写っていたが、これはココナッツジュースであった。
雨が降り出していたこともあり、我々は統一会堂を訪問するのは明日にして、ホテルに戻ることにした。 途中、同行者の希望により「やわらかい草」という意味の名を持つ店で、リップクリームと、喉スプレーを購入した。 同行者によると、これはプロポリスとミントを主成分とする品であるらしい。 これはオーガニックコスメの品々を生産・販売する店であるという。
小雨が降っていたが、私はハノイで入手した笠のおかげで、快適にホテルまで帰ることができた。
展望室から降りた我々は、サイゴン中央郵便局に向かった。 途中、タイの茶を基調とする飲料を供する Cha Tra Mue なるチェーン店に立ち寄り、 私はココアラテを、同行者はタイ風の茶を、飲んだ。一人 55k ドンか 60k ドン (360 円) 程度であったように思う。 それを飲みつつ、グエン・フエ通りという公園のような場所を、郵便局方面へと歩いた。 途中で Karate のトルクメニスタン代表と書かれた服を着た集団をみかけた。 マニラで Karate のジュニアおよび U21 のアジア大会が先日開かれたらしいので、その帰途、飛行機の乗り継ぎのため立ち寄ったのであろう。
サイゴンはハノイに比べると、いささか道路を横断しやすいように思う。 というのも、ハノイではバイクが遠慮なしに交差点や横断歩道へ突っ込んで来るのだが、 サイゴンでは無茶な運転が、比較的少ないように感じられるのである。 むろん、サイゴンでも道路を逆走したり、赤信号に敢然と突入したり、あるいは歩道を暴走するバイクは存在するので油断できないのだが、多くの運転手は多少なりとも穏やかな運転をするように思われる。 それでも、青信号だからといって警戒を怠ると危険であるため、道路横断時には周囲の景色には目もくれず、左右から襲ってくる自動車やバイクの動きに細心の注意を払わなければならぬ。
中央郵便局の近くにはノートルダム聖堂があった。 この聖堂は修繕中なのか、外観が覆い隠されていた。 入口には「celebration のため旅行者の訪問はお断りしています」という旨の表示がなされていた。
郵便局で、同行者は絵葉書を購入し、家族宛に発送していた。送料は一通 30k ドン (180 円) であった。 切手 3 枚を貼らねばならないため、スペースが足りず、苦戦したようである。 この郵便局は観光地にもなっているらしく、外国人らしき多くの旅行者が訪れていた。 土産物店も郵便局内に展開されていた。 この郵便局では、鉄道のチケットも購入できるらしく、自動券売機が設置されていた。 この券売機は英語表示にも対応している。 ためしにサイゴンからハノイまでの長距離鉄道を調べてみると、便によるが、34 時間から 38 時間程度で到着するらしい。 運賃は 1.2M ドン (7200 円) 程度である。 この長距離列車は一日に何便も走っているようであるが、だいたい満席である。 一般的なベトナム人にとって飛行機での移動は高価であるため、鉄道での移動が一般的なのであろう。 環境負荷の観点からは、間違いなく、飛行機よりも鉄道の方が優れている。 ベトナムは南北に長い地理的特徴から、高速鉄道が導入されればたいへん便利で効率的だと思うのだが、 そういう計画があるのかどうかは、私は知らぬ。
私は、この郵便局で Palace of Reunification の意匠をあしらった栞を購入した。 ベトナムの農村風景のものを探したのだがみつからなかったからである。 アオザイ姿の女性を描いた品が多かったが、前述の理由で、私はそれらを購入することを避けた。
この郵便局の壁には、フランス語が書かれた 1936 年の南ベトナムおよびカンボジアの大きな地図が描かれていた。 1936 年というのは、フランスがインドシナの支配を喪失する直前の時期にあたる。 この地図を眺めながら、フランスによる支配に抵抗して戦ったベトナムの若者達のことを思い、少し泣きそうになった。
ベトナムにおけるフランスやアメリカに対する抵抗、独立戦争の歴史について、擲弾兵のことを補足しておこう。 ここでいう擲弾兵というのは、ほぼ手榴弾のみを持って敵陣に突撃する兵士のことである。 難しい武器の扱いを習得する必要がないことから、戦闘意欲は高いが技術の乏しい新兵が、擲弾兵として戦場赴いた。 彼らは敵陣に向かって手榴弾を一斉に投擲することで敵の戦力を一時的に制圧し、味方の主力が前進することを助ける任にあたった。 手榴弾を敵陣まで投げ届けられる距離まで接近するわけであるから、たいへん危険な任務である。 むろん、多くの擲弾兵が敵に銃撃されて死亡した。 まず生きては帰れない、とわかっていながら、擲弾兵は最前線で突撃した。 植民地に住む奴隷として生きるか、次の世代が独立するための礎として死ぬか、という選択において、後者を選んだのである。 ベトナムは、そうした犠牲の上に成立した国である。 そのことは、B-52 戦勝博物館を含め、いたるところに記録として残されている。 ハノイの街中には、一人の女性と、銃を持った一人の男性と、刺突爆雷を持った一人の男性の、三人の姿から成るモニュメントもあった。 刺突爆雷というのは、歩兵が持つ武器であり、敵の戦車に接触して爆発させるものである。 攻撃に成功すれば、歩兵一人で戦車と相討ちに持ち込める、という、日本風にいえば特攻兵器である。 この刺突爆雷を持った兵士の像は、B-52 戦勝博物館にも展示されていた。 いうまでもなく、擲弾兵にせよ刺突爆雷にせよ、まともな戦い方ではない。非人道的戦法といってよい。 それでも、自由と独立を獲得するための抵抗の手段として、それ以外の選択がなかったのである。
サイゴン中央郵便局の前には、サイゴン 300 周年を記念する像があった。 正面入口に向かって左側にある像は、武装した男女の姿であり、戦争が続いたこれまでのベトナムの歴史を象徴したものと思われる。 これに対し向かって右側の像は、現代風の平和な服装をした男女がにこやかに立っており、これからの平和で明るいベトナムを象徴したものであろう。これらの像は左右を合わせてみなければならぬ。 諸君が中央郵便局を訪れる際には、建物の内部だけでなく、これらの像もしっかりと見学されるとよい。
8:30 頃にホテルでビュッフェ形式の朝食を摂った。 ベトナム風料理だけでなく、ソーセージやベーコンもあり、満足した。 ベトナム料理も良いのだが、肉食を好む私としては、朝から肉料理が欲しい。 なお、中国人と思われる若い女性 4 人組も我々と同じ時間帯に朝食会場に現れたが、 そのうち 3 人はパジャマ姿であった。 朝食会場に明示的なドレスコードはないし、彼女らの地元では普通の行動なのだろうが、 当地においては奇異な行動と思われるので、慎まれた方がよかろう。
朝食後に我々はSaigon Sky Deckを訪れた。 これはホテルの近くにある Bitexco Financial Tower なる高層ビルの 49 階にある展望室である。 入場料は一人 240k ドン (1440 円) である。 この展望室は地上 178 m にあり、360 度全周をみわたすことができる。 私は高い場所が苦手なので、同行者にしがみついてサイゴンの街を眺めた。 この展望室には土産物屋の他、サイゴンの街の歴史の簡単な展示がなされている。 ただし、この「歴史」は、現在のベトナム社会主義共和国における多数派であるキン族の視点で描かれていることに注意が必要である。 この地にはもともとクメール人が住んでおり、カンボジア王国の支配地域でもあった。 しかしキン族が徐々に流入・定着し、1698 年には大越 (黎朝ベトナム) のグエン将軍がサイゴン周辺を制圧した。 ベトナム社会主義共和国の歴史では、この年をサイゴンの始まりと認定しており、 1998 年にはサイゴン 300 周年が祝われたようである。
この展望室で私が最も感動したのは、太陽の位置である。 サイゴンは北緯 10 度にあり、北回帰線よりも南側である。 すなわち夏季には、正午に太陽が真北に位置する。北中するのである。 我々は 11:00 頃にここを訪れたのだが、太陽が北側にあることに、私は驚き混乱し、感激した。
この展望室には、ベトナム女性の民族衣装であるアオザイの歴史展示も行われていた。 現在のアオザイの元となる装束は 17 世紀頃に成立しているが、これは 4 個のパーツから成る日常的な服であったらしい。 それが時代とともに、女性の体形、特に胸部や腰部を強調するようなデザインに変化していったらしい。 そのような形態の装束が広まった理由は知らぬが、「豊かな胸と細い腰を有することが、女性らしさ、女性の魅力である」という 価値観を反映しているのではないか。 そのような歴史的価値観自体を否定しようとは思わないし、歴史的事実としてそういう装束が用いられたことは記憶しておくべきであろう。 しかし、そういうステレオタイプを安易に受け継いで、現代において制服等にアオザイを取り入れたり、 アオザイ姿の女性を「ベトナム的」とみなして土産物などの意匠に濫用するのは控えるべきであろう。
ホテルにチェックインした後、我々は夕食を求めて街に繰り出した。 サイゴンの街には、犬がいた。
ハノイでは、我々はほとんど犬に遭遇しなかった。 外国人旅行客らしき人物が犬を連れて歩いていることは稀にあったが、実に稀であった。 B-52 戦勝博物館では野良犬らしき中型犬をみかけ、私は狂犬病の恐怖に震え上がったし、 ハノイ空港に向かう途中でもタクシーの車中から中型の野良らしき犬をみかけたが、その程度であった。 しかしサイゴンでは、地元民なのか旅行客なのか知らぬが、犬を連れて街中を歩いている者が多い。 カフェで、犬に「伏せ」の態勢をとらせてリードを放した状態でくつろいでいる者もいる。 また幼児にリードを持たせており、犬が暴走したら制御できないのではないかと思われるような態様で散歩している者もいる。 犬の方はなかなか力強そうであり、たぶん、喧嘩したら私は負ける。 私は恐れおののきながらサイゴンの街を歩かねばならなかった。
ホテルの近くには、名前は憶えていないが、何やらサイゴンで最も有名らしい繁華街があるらしい。 我々は少し足を踏み入れたが、穏やかならぬ雰囲気であり、すぐに退散した。 ホテルの近くを散策したが、マッサージ店が多く、あまり落ち着かない。 飲食店にはベトナム語だけでなく中国語や朝鮮語の表記がなされていることが多く、たぶん、中国人や朝鮮人のコミュニティがあるのだろう。
少し歩くと、我々は aleppo という名の料理屋に出会った。 10 代と思われる若者が店番をしているその店に、我々は入った。 ここはシリア/トルコ料理店、ということになっているが、メニューの中にはクルド風料理もある。 確認はしていないが、ひょっとするとシリア/トルコあたりのクルド人の店なのかもしれぬ。 我々は Iskander kebab, Kurdish cheese, ロールキャベツ風の米料理、水 x2 で 500k ドンを払った。 美味であった。
現代日本におけるクルド問題について補足しておこう。 近年、日本で難民申請するクルド人が少なくないが、難民認定される例は少ないようである。 クルド人を支援する団体もあり、法制度の隙を突くような形での難民申請が行われたり、それに対応するため入管法が改正されたり、といったニュースが流れている。 このクルド人問題について、特に支援者側が触れるのを避けている問題が二点、あるように思われる。 一つは、彼らがなぜ難民になったか、という問題である。 特にトルコ国籍の場合、トルコ政府は、クルド人であることそれ自体を理由にした迫害は行っていない。 クルド人の国会議員だって、少数ながら存在するのである。 しかしクルド人の一部が過激派として反政府武装闘争を行っており、その過激派に対し支援を行った者などが 犯罪者として政府から追われ、国外に逃亡する例は少なくない。 これを支援者らは「特定の政治勢力を支援したことで政府から弾圧された」などと表現することがあるようだが、公正ではない。 やましいことがないならば「特定の政治勢力」の実名を出すべきである。 出せないということは、つまり、PKK (クルディスタン労働者党) やそれに類する過激派の関係者なのではないか。 私は、民族の独立を求めて戦うこと自体を、一概に否定しようとは思わない。 しかし武装闘争の事実を隠して「政府に迫害された被害者」として振る舞うのは、公正な態度とはいえまい。 もう一つは、強制送還や仮放免についてである。 基本的には、難民として認定されず、入国許可も得られない外国人は、自国に帰らなければならない。 これは日本に限らず、諸外国でも同様である。 本人が帰国に同意しない場合、強制的に母国に送り返されることになり、これが強制送還である。 ところが日本の場合、強制送還を大幅に遅らせる手段が存在し、これを支援団体が不法滞在者に教示している。 そのため入国は認められないが、強制送還を拒否しているため居場所がない、という事例が生じる。 場合によっては、厳しい移動の制限つきで、日本の一般社会での生活を許容されることがあり、仮放免と呼ばれている。 忘れてはならないのは、そういう人々はあくまで日本への入国を許されておらず、難民でもなく、基本的には母国に帰るべき立場にある、ということである。それにもかかわらず、不法に就労している者も少なくないらしい。 一部の支援者は「何も悪いことをしていないのに、自由に移動も就職もできない」というような表現をするが、 そもそも日本への入国も就労も認められていないのだから、当然である。
私は何も、クルド人は出ていけ、と言っているわけではない。 むしろ心情的にはクルディスタン建国を応援しているし、対トルコ武装闘争を非難するつもりもない。 私はトルコも大好きであるが、クルド問題に限っては、クルドの側に立ちたい。 ただ、都合の悪い部分、批判されそうな過去を隠して難民としての支援を求めるのは、不公正ではないか、と言っているのである。
およそ 2 時間の飛行の後、我が航空機はサイゴンに着陸した。 途中、機内食としてチキンパスタ (スパゲッティ?) と甘い菓子が供された。 着陸前には、窓から、メコンの雄大な流れを眺めることができた。
我々は、ハノイでもそうであったが、空港から市中への移動手段を事前に確認していなかった。 そのため「市中まで鉄道で行けるかな」などと話していたのだが、空港内をみても鉄道駅の表示はない。 どうやらバスかタクシーを使うしかないようである。 タクシーカウンターのスタッフがしきりに声をかけてくるが、我々はバス乗り場へ向かった。
空港の外に出たのは 13:20 頃である。 バス 109 系統がホテルの近くに行くらしいのだが、同行者がスマートフォンで調べたところによると 次の便は 14:00 頃のようである。 我々は空港内でココナッツジュース 49k ドン (300 円) を飲みつつ、バスを待った。 なお、このとき、私の英語がまずかったようで、なぜか 30k ドン (180 円) の水 500 mL も買うことになってしまった。
14:00 頃にバス停留所に行ってみたが、109 系統が来る気配はない。 我々が見逃したのか、間に合わなかったのかわからないが、とにかく、来ない。 やむなく我々はバス 103 系統に乗った。 この場合、途中で一回乗り継ぐことで、ホテルの近くにまでたどり着くことができる。
ハノイでもそうであったが、サイゴンでも、街中の一般人は英語を話さない。 観光客を相手にするような店のスタッフは英語を話す、というよりも、英語を話す人はそういう観光客向けの店で働ける、 という方が正しいのかもしれぬ。 おそらく、そういう店は食品にせよ日用品にせよ価格が高く、スタッフの給与も高いのであろうと想像される。
何を言いたいのかというと、バスの中では基本的に英語が通じない、ということである。 ただ我々が空港から乗った 103 系統のバスの運転手は英語が堪能な紳士であり、 2 人と荷物 1 個で、単価 6k ドン、計 18k ドン (110 円) である旨を英語で説明してくれた。 なお、車掌は乗っていなかった。 このバスの運賃は目的地によって異なるので、乗車の際に目的地を伝えて支払う必要がある。 あいにく我々は言語を理解しないので、バス路線図を示して意思の疎通を図った。 少々手間取ってしまい、出発を遅らせてしまったことは申し訳なかった。
我々は乗り換え地点で降りたのだが、付近をみわたしても停留所らしき標識が存在しない。 首をひねりつつ、少し歩いてみたが、やはり停留所はみつからない。 そこで近くにあった、高級感のある月餅屋で 149k ドン (900 円) の月餅を買い、バス停の位置を訊ねてみた。 なお、月餅というのは、日本では中華菓子として広く認知されている、あの菓子である。 月餅は、昔ベトナムにも伝わり、現在でも広く好まれている伝統菓子である。 このような高級菓子店のスタッフであれば英語を理解するであろう、と期待して話しかけたのだが、 どうやらこの店の人々も英語を話さないらしい。 我々が降りた地点の近くに停留所があるらしい、という情報を入手するのが限界であった。
我々が降車した地点に戻ると、同行者が、道路上の表示に気が付いた。 橙色のジグザグ記号が描かれていたのである。 それをみて私は、ピンときた。 空港のバス停留所にも同じ模様が描かれており、しかも空港では文字で Bus Stop と併記されていたのである。 つまり、標識はないが、この道路上の表示をみれば、ここが停留所だとわかる仕組みなのである。 我々は、ここでバス 65 系統を待てばよいのである。
その停留所でしばらく待つと、65 系統よりも先に 103 系統が来た。 が、我々の前を素通りしていった。 おそらく、当地のバスに対しては「乗りたい」という意思を明確に表示しない限り、止まってくれないのであろう。 停留所で待っていればバスは止まってくれる、というのは日本における常識であるが、世界の常識ではない。 バスを全力で止める心積もりをして、我々は待った。 来た。65 系統である。 私は停留所の路面を指さして「止まってくれ給え」という意思を運転手に伝えた。 するとバスはウインカーを出し「承知した」と我々に伝えた。
この 65 系統のバスには、運転手とは別に車掌が乗っていた。 車掌は英語を話さなかったが、我々は 2 人と荷物 1 個の計 18k ドンを払った。 ところで、この時私は、ハノイで買った笠を被っていた。 荷物で両手が塞がっていたために、乗車してからも被ったままであった。 ところがこの「車内で笠を被っている」というのは、ベトナムの感覚からすると、たいへん奇異な行動であるらしい。 車掌は私の肩をトントンと叩き、振り返った私に対し「自分の頭部を人差し指でトントンと示す仕草」をしてみせた。 これは「お前、脳味噌が足りないのか?」という挑発的な仕草のようにみえなくもないが、 私は「笠を取れ、の意味か」と理解し、直ちに脱いだ。 すると車掌は「よろしい」とうなずいた。 たぶん、ベトナムにおけるマナーを、言語の通じない野蛮人に教えてくれたのであろう。 なお、私の感覚からすれば、この車掌氏も野蛮人である。 自分が座っている座席の向かいに椅子を置き、靴を脱いで、伸ばした足を椅子の上にデーン、とおいてくつろいでいた。 公共の場所で、勤務中にその態度は、はしたないのではないかしら、と思う。 が、サイゴンの一般大衆は、そんな細かいことは気にしないのであろう。
目的の停留所前で、車内に備えられている STOP ボタンを押した。 日本のバスでもみかけるような、降車ボタンである。 これはハノイのバスではみられなかった設備である。 ハノイでも似た外観のボタンはあったが、これは SOS ボタンであった。 おそらく、バス車内で助けを要するような事態が生じることがあるのだろう。 このバスは前乗り後降り方式であったので、停留所で速やかに降車できるよう、後部扉前に移動しようとした。 すると私の後に座っていた老婦人が私を制止し、 左腕を上前方に挙げて「キラキラ星」のような仕草をした。 どうも私とベトナム人ではジェスチャーの感覚が違うようで、老婦人の意図を理解できない。 私は Next stop. と述べたが、通じないようで、とにかく座っておれ、と言われたような気がした。 我々はやむなく着席した。 するとバスは、何やら大きなターミナルに到着した。 どうやら我々が降りるつもりであった停留所は、終着点であったらしい。 それゆえ、あの老婦人は、慌てるな若者よ、と私をたしなめたのであろう。 バスを降りて少し歩くと、そこにホテルがあった。
空港からホテルに移動した、というだけの話なのだが、なかなかの大冒険であった。
6:15 に起床し、ホテルで朝食を摂った。 身支度を整え、チェックアウトしたのが 7:30 である。 ホテルでタクシーを呼んでもらい、空港 (ノイバイ国際空港) に向かった。 料金は 330k ドン (2000 円)、ホテルを通して前払いした。
空港で荷物を預け入れた後、追加で 5 万円をベトナムドンに交換した。 1 円 -> 163 ドン、179 ドン -> 1 円ぐらいのレートであったと思う。 国内線ターミナルは簡素な作りであった。 少しばかり洒落たカフェやレストランもあったが、市中よりも値段が 1.5 倍から 2 倍ほど高かったように思われる。 我々は 500 mL の水 1 本のみを買った。
我々は、ベトナム航空 211 便、11:00 ハノイ発、サイゴン行きに乗った。
私にとって初めてのハノイであったが、住める、というのが率直な感想である。 大気汚染がひどいのと、道路交通が乱雑すぎることには辟易するが、これは今後 10 年のうちに改善が期待できる。 私は 10 年後には日本を脱出することを目論んでいるが、国外逃亡先としてハノイは、有力な候補といえる。
テレビをつけると、何やら大規模な屋外ステージで行われるイベントの様子が放映されていた。 1954 年 8 月 25 日に起こった「ある出来事」の 70 周年を祝うイベントのようである。 政府要人らしき人物の長い挨拶の後に、歌手が登場した。
イベントの盛大さからすると、何か重要な出来事の記念式典のようである。 ベトナム人にとっては「1954 年 8 月 25 日」は誰もが知っているような事件があった日なのであろうが、あいにく、私は教養が乏しい。 Wikipedia をみても、1954 年はジュネーブ協定の年とあるのみだが、この協定は 7 月 21 日に署名されており、日付が合わない。 画面の表示を頼りに検索してみると、どうやらこれは、Vinh Linh tradition の 70 周年記念であるらしい。 Vinh Linh というのはベトナム中部の地名であり、北ベトナムと南ベトナムの境界線により分断された地域である、とのことである。 さらに検索するとVinh Linh の政府 公式サイトに 1954 年 8 月 25 日についての記載があった。 それによると、この日はジュネーブ協定に基づくフランス軍の北ベトナムからの撤退が確約された日であり、共産党の地区大会で Vinh Linh の日と定められているらしい。
ジュネーブ協定については、多少の説明が必要であろう。 日本が降伏した後、インドシナ再占領を目論むフランス軍の侵攻を、ベトナム軍は多大な犠牲を払いつつも撃退した。 そしてフランスやベトナムその他の関係諸国によりジュネーブ協定が締結された。 この協定では、インドシナにおける停戦に加え、ベトナムを北緯 17 度線で南北に分割すること、 1956 年に総選挙を行いベトナムの平和的な統一を図ることなどが規定された。 この協定には中華人民共和国やソビエト社会主義共和国連邦なども加わっていたが、 アメリカ合衆国は中華民国を中国正統政府として承認している立場から、協定に署名しなかった。 ただし米国も、総選挙の実施を含め、ジュネーブ協定の内容を尊重する旨の声明は発している。 また、この時点で南ベトナムは傀儡政府であり、ジュネーブ協定への参加は認められなかった。
ジュネーブ協定では、ベトナムが平和的に再統一されるべきであることが、間接的な表現ではあるものの、規定されていた。 そしてベトナムで総選挙が行われた場合には、北ベトナムの方が南ベトナムより多くの人口を有していることなどから、 ホーチミン率いる北ベトナムが圧勝するであろう、と予測されていた。 これに対し南ベトナム側は、北ベトナムにおいて自由な選挙が保障されていない、と主張し、選挙の実施を拒否した。 またフランスや米国をはじめとするいわゆる西側諸国も、 ベトナムがいわゆる共産圏に取り込まれる形で統一されることを恐れ、南北ベトナムの分断を恒久化させたかったようである。 米国は選挙の実施を拒否する南ベトナムの姿勢を支持した。 このため、ベトナムの平和的な統一は実現しなかった。 その後、南北の武力対立は激化し、ベトナム戦争へと突入した。
ハノイの道路では、四輪車も多いが、二輪車が非常に多い。 二人乗りしている場合が多く、その中には Grab なるバイクタクシーも多い。 時々、三人乗りや四人乗りのバイクもみかける。 30 年ないし 40 年ほど前であれば、一家 5 人が一台のバイクに乗るようなケースや、 溢れんばかりの荷物をバイクに搭載する例も多かったと聞くが、現在では当局の取り締まりが強化され、 そういう無茶な乗り方は減ったようである。
テレビをみると、シートベルトを締めろ、だとか、正規の駐車場以外の場所で路上駐車するな、とか、 ヒラヒラしたレインコートは車輪に巻き込まれて危ないからやめろ、とか、交通ルールの普及に取り組まれているようである。 思うに、市内にメトロ交通網が整備された暁には、交通手段はより整備され、ハノイも快適な街に変化するであろう。
なお、日本語で書かれた観光案内などでは、移動手段としてタクシー配車サービス Grab を勧めるものが多いようである。 中には「バスは不便」などと書かれているものもあるが、正しくない。 ハノイのバス網は十分に発達しており、地域住民の足として活躍している。 高価なタクシーに乗って大気汚染に貢献するよりも、安価なバスに乗って庶民の空気を満喫する方を、私は推奨する。
追記: ハノイの街中にはレンタル自転車ステーションも散見される。 しかし道路事情が悪いせいか、利用者は少ないようである。 しかしメトロの整備やバイク交通の整理が進めば、アムステルダムのように、自転車交通が普及し、 ハノイもより快適な街になるであろう。 とにかく、現在のハノイの交通状況がひどい、という事実は、ほとんど全てのハノイ人が同意するであろうほどに明らかなのである。
今日は日曜日である。ホテルで朝食を済ませ、我々は街へ繰り出した。
ホテルの近くに National Library があるらしいので、そちらに行ってみた。 敷地内にカフェが併設されているようであり、喫煙しながらくつろぐ紳士の姿があった。 図書館の本館と思われる建物に入った。 事前によく調べていなかったので、これが誰でも自由に入れる建物であるのか、登録が必要であるのかは、よくわからない。 ただ、明らかな「ご自由にお入りください」という雰囲気でもなく、人も少なく、言語の不自由な状態でブラブラするのもいささか憚られたので、外観を眺めただけで図書館を後にした。
図書館からは、いわゆるハノイ大聖堂、正式には聖ヨセフ大聖堂が近い。 聖堂に向かう途中に、別の教会もあった。 扉は開いておらず、入り口付近に「聖ヨセフ大聖堂は 100 m ほど先です」なる旨の表示があった。 誰でもお入りください、という具合ではないのだが、明らかに立ち入り禁止という風でもない。 我々は教会の庭を見学しようとしたが、スタッフから「聖ヨセフ大聖堂はあちらですよ」と退出を促された。
聖ヨセフ大聖堂の前には、インスタグラファーが集い、撮影会がひっきりなしに行われていた。 若い女が多かったように思われるが、短いスカートや半ズボンをはき、肩を出したワイセツな恰好をしている者が多く、 とても厳粛な宗教施設を訪れる服装ではない。
聖堂では朝から何回かのミサが行われており、時間帯によってベトナム語のミサ、フランス語のミサ、英語のミサなどが開催されていた。一般人の訪問は午前の部と午後の部に分けて行われており、午前の部は 8 時から 11 時、午後の部は 14 時からであった。 我々が聖堂に到着したのは 10:30 頃であったので、少しばかり中を見学させていただいた。 聖堂内では、聖職者の説法が行われていた。 我々は邪魔にならないよう、静かに移動した。 詳しい歴史的経緯は知らぬが、このカトリックの教会ではマリア信仰が強いようである。 聖堂の外には聖母子像があり、聖堂併設の売店でもマリア像が頒布されていた。 マリアを信仰の対象とすることの是非については見解がわかれるが、 おそらく、聖母信仰の強い集団がベトナムにおいて積極的に布教したのであろう。
いささか意外であったのは、ベトナム人やベトナム訪問客の行儀の良さである。 聖堂の外には盛んにポーズをとって撮影しているワイセツなインスタグラファー達があふれているが、 その不適切な恰好で聖堂内に入る者は少ない。 また聖堂内で不躾に大声で会話・通話したり、フラッシュ撮影したりする者にも遭遇しなかった。 が、どうもこれは我々が幸運であっただけのようで、インスタグラムなどでは 聖堂内を不躾に撮影した動画や写真が多数存在するらしい。
聖堂を出た後に、近くのカフェで休憩した。 ベリーのスムージー、マンゴーとパッションフルーツの茶、ティラミスで 208k ドンであった。 店内の壁には欧米風の絵画が多数飾られていた。 ひょっとすると、これはサイゴン風なのだろうか。
一昨日の夕方にフォーを食べた店で、今日は昼食を摂った。 私は鶏肉と牛肉の炒飯のようなものを、同行者は牛肉野菜炒めライスのようなものを食べた。 水 500 mL 2 本とあわせて 180k ドンである。 美味ではあったが、もう少しニンニクは少なめの方が私の好みである。
よく知らないのだが、ハノイに日本人街があるらしい。 日本大使館のある一帯、特に Kim Ma 通りなどを中心に日本人コミュニティが形成されているという。 私はハノイ在住の日本人諸君がどのように暮らしているのかは知らぬ。 ただ、この一帯に日系企業や韓国企業による商業施設ビルなどが林立しているのをみると、不安になる。 一箇月程度の短期滞在ならともかく、数箇月から数年単位で長期滞在する人々は、現地社会に融和できているのだろうか。
日本とハノイでは、社会習慣が大きく異なる。 言語はもちろん、気候も、食生活も、交通規則も、おそらく商習慣も、全く違う。 こうした異国の地で暮らすとなれば、かなりのストレスを感じる人も多いであろう。 似たような文化的背景を持つ日本人同士でコミュニティを形成し相互扶助を図るのは、自然なことではあるだろう。 しかしそれは、ヨーロッパ等で問題になっている、移民が現地社会に溶け込めずに孤立した社会を形成している問題と、似ているのではないか。 日本においても、一部地域で、外国人が独自のコミュニティを形成し、日本語も日本の社会習慣も理解せずに、 摩擦を引き起こしている事例がある。 それと同じようなことを、日本人が、外国で行ってはいないだろうか。
私はハノイのごく一部しか巡っていないが、日本大使館周辺のあの区域は、ハノイの中にあってあまりに異質であるように思う。 あの地域を、ベトナムの土着の人々は、どうみているのか。 米ドル換算で月の家賃が 500 ドル、1000 ドルといった家に住み、Vincom Center で一食 100k ドンの食事をするような人々を、彼らは、どうみているのか。
自分の経済状況に相応の家に住み、相応の生活をすること自体が問題であるとは思わない。 しかし、現地社会、現地文化に溶け込むことなく、ただ出自の違いによる現地人との経済格差を当然のものとして享受する人々がもし存在するならば、醜いことである。
この記事を書いているのは 8 月 25 日 14:30 である。
メトロに乗る頃には、空は暗く、遠雷が聞こえ、遠くを走る稲妻もみえた。
Cau Giay 駅からはバス 34 系統に乗ればホテルの近くまで行ける。 駅を出ると雷雨であったが、歩道橋の上から、34 系統のバスが停留所に止まるのがみえた。 我々は、停留所に向かった。 停留所には、一応、屋根があった。 一応、というのは、雨漏りが著しいために、屋根の下に立っていても大いに濡れる、という意味である。 34 系統のバスがなかなか来ないため、しばらく待った後に、我々は 38 系統のバスに乗った。 38 系統も、34 系統と同様にホテルの近くまで行くらしい。
ハノイではこの時期、激しい夕立が降る。 稲妻が駆け、雷鳴が轟き、豪雨は道路を濁流へと変える。 停留所前の道路脇にある排水溝の蓋部分が落葉がゴミで塞がれてしまったらしく、停留所前には立派な池が形成された。 地元の婦人や紳士が排水溝からゴミを取り除こうと試みたが、うまくいかなかったようである。 バスが停留所に止まるたびに、大きな波が歩道に押し寄せる。 バスの乗り口は水深 15 cm ほどの水溜まりになっているので、乗車する際には、躊躇なく水溜まりに足を突っ込まなければならぬ。 ある婦人は、この水溜まりの中でサンダルが脱げてしまったらしく、サンダルを探すそぶりをみせた。 バスはドアを開いたまま、動き始めた。 婦人は、サンダルを諦め、裸足でバスに乗った。 バスが去った後、そこには一足のサンダルが残されていた。
やがて 38 系統のバスが来た。 バスが減速し、扉が開く。 私は濁流に足を踏み入れ、勢いよく乗車した。同行者も、私に続いた。 靴はもちろん、ズボンの裾まで、水に浸かった。
思うに、ハノイで暮らし現地社会に調和するには、こういう雷雨や道路冠水を楽しむ童子のような心を持つ必要があるのではないか。
ハノイでは、都市鉄道すなわちメトロの整備計画が着々と進行している。 そのうち 3 号線は今月 8 日に開業したばかりであるらしい。 計画ではハノイ中心部まで伸び、他の路線と合わせて高度な交通網が形成される計画のようである。
我々は Vincom Center からバス 32 系統に乗り、さらに西の Cau Giay へ向かった。 これは 3 号線の現在の始点である。 駅にはチケットを販売する有人窓口があり、長蛇の列ができていた。 自動券売機も 2 個あったので、我々はそれを使用した。 券売機は英語表示もでき、Cau Giay から終点の Nhon 駅まで一人 12k ドン (72 円) である。 が、券売機は Exact change を入れろ、などと表示しており、私はこの英語を正確に理解できなかった。 釣りは出ない、という意味なのかと私は思った。あいにく、二人分 24k ドンぴったりの紙幣は財布になく、 50k ドン紙幣しか持ち合わせていない。我々は有人窓口に並びなおした。 我々の順番が来て、窓口で To Nhon terminal, two persons と述べたが、通じない。 私の英語が悪いというよりも、先方が英語を理解しないようである。 係員が 3 人ほど何かやりとりした上で、マシーンを使え、というような仕草をする。 私の後に並んでいた男が何か大きな声を発する。イライラしているのだろうか。 私はやむなくマシーンに並びなおし、釣りを諦めることにした。 24k ドン分のチケットを購入すると、2 個のトークンがマシーンから出てきた。 このトークンを使って、自動改札機を通過するのであろう。 マシーンには「トークンと釣りを取れ」と表示されたが、釣りが出てくる気配がない。 我々はトークンを持って自動改札機に向かった。 すると一人の青年が、札束を持って私の肩を叩いた。 よくわからないが、私がマシーンから離れた後に、26k ドン分の釣りが出てきたのであろうか。 私は彼に礼を述べた。
メトロには、家族連れらしき集団が多数、乗った。 老若男女問わず、大はしゃぎである。子供達は車内を駆け巡っている。 飲食禁止、の表示があるのだが、子供達は菓子を食べ、若い男女はジュースを飲んでいる。
途中に National University 駅があった。ハノイ国家大学であろう。
終点の Nhon 駅前には Hanoi University of Industry があった。 私は、これが名門のハノイ工科大学かと思ったのだが、後で調べてみると ハノイ工科大学は Hanoi University of Science and Technology であり、別の大学であったらしい。 駅前、というか大学前には串焼きなどの屋台だけでなく、コピー機を多数揃えたコピー屋も並んでいた。 学生がノートや教科書をコピーするのであろうか。
Nhon 駅の自動券売機で帰りの切符を購入しようとしたが、なぜか「片道切符」を選択できない。 やむなく、有人窓口に並んだ。 今度は同行者がスマートフォンの翻訳ソフトウェアを使ったおかげで、無事に Cau Giay までのトークンを購入できた。
ところで今日はたいへん暑く、B-52 戦勝記念館を見学する頃には私は著しく発汗していた。 トイレで汗を拭き、扇風機に当たって休憩した。 なお、館内は入口のある階だけでなく、上階にも展示があるので、見学する際には注意されよ。
さて、我々は戦勝記念館から再びバス 9A 系統に乗って西へ向かった。 このとき、我が財布には 500k ドン (3000 円) 札と少々の少額紙幣しかなかった。 バスの運賃二人分 14k ドン (84 円) を支払うのに 500k ドンを渡すことは憚られたので、 近くのフォー屋で水 500 mL を購入した。 このフォー屋の主人であろうマダムは英語を理解しないようであった。 私は water と言ったのだが「フォーを訛って発音しているのか?」と思ったらしく、 フォーの具材が入った容器を示して「これか?」などと言う。 そうじゃない、water だ、と、水を飲む仕草で頑張ると、 フォーを食べていた若い男が何やらベトナム語で「いや、水のことだよ」とマダムに教えてくれたらしい。 マダムは奥の冷蔵庫へ私を誘い、「これか?」という。 私は yes, yes, これをくれ、と言い、500k ドン紙幣を崩すことに成功したのである。
ところでバスの車掌は職務に忠実な人が多いらしく、あまり余計なおしゃべりをしない。 英語を理解するのかどうかわからないが、私が how much? などと訊いても、窓に描かれている「1 乗車 7k ドン」という 表示を黙って示し、ニコリともしない。 しかし、これを不愛想だ、などと感じるのは素人である。 30 年前の日本を思い返すとよい。 街中で外国人に話しかけられた日本人の多くは、アイキャンノットスピークイングリッシュ、などと言って逃げるのが普通であった。 現代のベトナムも同様で、英語で話しかけられたら困惑して無口になってしまう、シャイな人々が多いのである。 ただし、中には実に親切なベトナムおじさんもいる。 我々が初めて乗ったバスの車掌は、同行者がスマートフォンの画面を示して「ここに行きたいんですけど、これで合ってますよね」と英語で話しかけたのに対し、にこやかにベトナム語で対応してくれた上、目的地が近づくと「次だよ、次」と教えてくれた。
さて、我々は日本大使館の近くにある Vincom Center なるショッピングモールを訪れた。 先日、ハノイ医科大学の近くで訪れたのとは別の店舗である。 このショッピングモールにはユニクロや無印良品がある。 レストラン街には日系の飲食店も多数入っており、たとえば丸亀製麺やカプリチョーザなどもある。 詳しい値段は覚えていないが、丸亀製麺の値段はぶっかけうどんが 59k ドンであっただろうか、日本より僅かに安いようである。 が、以前述べたように、フルタイムの大卒ユニクロ営業職の月給が 8M ドンから、という現地人の給与水準を考えると、 これらの飲食店の料金はかなり高いように思われる。 そのような高い料金を払って飲食したとして、その収益の少なからぬ部分は日本の資本家に還元されるわけである。
資本主義というのは、基本的には弱肉強食の競争原理による経済構造である。 資本すなわちカネを持っている者が、ベトナムで事業を起こし、利益を得る。 その利益は、資本家すなわち株主に分配される。 ベトナム人がベトナムで働くことによって得られる利益を、資本家たる日本人が享受するわけである。 これにより、富める者はますます富み、貧しき者は貧しいままである。 日本や欧米に経済的な意味で豊かな者が多いのは、彼らが高い能力や学識を有し高い生産性を発揮しているからではなく、 こうした資本主義の経済構造に基づいて世界中から富を吸い上げているからではないのか。
そうした経済構造による不労所得は、人々の能力や努力ではなく、実質的には生まれによって経済的格差を生じさせている。 日本に生まれれば、ただ漫然と進学して漫然と就職するだけで、少なくとも年収 200 万円程度は事実上、保証される。 しかしベトナムに生まれ、同じように漫然と進学して就職すれば、せいぜい年収 60 万円である。 ベトナム人よりも日本人の方が優秀だから給与が高いのではなく、ただ日本に生まれたというだけで、 日本人であることしか取り柄がなくても、年収 200 万円なのである。 このような不労所得の形を経る富の吸い上げ構造が、人と人の間に不平等をもたらし、紛争を引き起こすのだ、 と考えるのが社会主義の基本的な立場である。 特に、この不平等を解消するために「『不労所得を生み出す財産』の私有」を禁じるべきだ、とするのが共産主義の考え方である。 ここで重要なのは、私有を禁じるべきなのは「不労所得を生み出す財産」であって、財産全般の私有を禁じる必要はない、という点である。 たとえば恋人の写真は、その人個人にとっては重要な財産であるが、この写真が何らかの富を生み出すことはない。 従って、たとえ共産主義の立場をとるとしても、そのような写真を私有することを禁じる必要はない。 また「住宅を占有して住む権利」も、それ自体は富を生まないのだから、禁止する必要はない。 従って、共産主義社会であっても「自分の家」を所有すること自体は、原理的には禁止されない。 ただし、これを他人に貸与して富を生む行為は、不労所得を忌避する共産主義の立場と矛盾するので、禁じられるべきである。 このように考えると、共産主義というのは、現在の日本でみられるような「金持ちがますます金を儲ける仕組み」を禁じている のであって、一般庶民の自由や経済活動を制限するものではない。 共産主義、という語を全体主義や計画経済と混同してなんとなく忌避する日本人が多いかもしれないが、 むしろ考え方としては、社会主義や共産主義に賛同する日本人は実は少なくないのではないか。
ホーチミン廟の西に少し歩くと、B-52 戦勝博物館がある。入場無料である。 屋外には非常に汚い外観のトイレがあるが、館内の 2 階には比較的汚くないトイレもあるので、 生理的欲求をもよおした際には、思い出されるがよい。
この博物館の庭には、かつて北ベトナム軍が撃墜した B-52 戦略爆撃機の残骸が展示されている。 ハノイを空爆した米軍機を、対空ミサイルで撃ち落としたのである。 この対空ミサイル発射装置や、Mig-21 であっただろうか、ソ連製の戦闘機、レーダー索敵装置なども展示されている。 またハノイの防空に活躍したという対空砲も何種類か展示されており、中には F111 や F4A を撃墜したという戦績を 誇っているものもあった。 建物の中には、ベトナム戦争だけでなく、11 世紀に中国の支配を跳ね返したときの武器や、 1945 年に始まる対仏戦争の記録なども展示されている。
対仏戦争とベトナム戦争について、多少の補足説明が必要であろう。 いうまでもなく、ベトナムは 1862 年頃より漸次フランスに植民地化された。 植民地時代には、独立を求めて散発的な武装闘争が行われたが、成功しなかった。 中には日本でベトナム独立を目指し活動する者もいたが、日本政府はベトナムに対する積極的支援を行わなかった。 フランスがドイツに敗北しヴィシー政権が成立したのち、フランス領インドシナ政府は日本軍のインドシナ進駐を認めた。 その後フランス本国でヴィシー政権が打倒されると、日本はいわゆる仏印処理を行い、 ベトナムに傀儡政権を樹立することで事実上の支配下においた。 その後、日本が連合国に降伏したことで、ホーチミン率いるベトナム民主共和国が実権を掌握した。 そして独立宣言が行われたのが 1945 年 9 月 2 日である。 まもなく独立 79 周年であり、記念式典に向けた準備がハノイの街では進められている。 このことからわかるように、ベトナムはフランスから独立したのではなく、日本から独立したのである。 日本人の中には、ベトナムはフランスから独立しただの、日本はベトナム独立を支援しただのと妄言を述べる者もいるが、 ベトナムが日本の支配に反発して独立したという事実は ベトナム独立宣言に明記されている。 B-52 戦勝博物館にも、少量ではあるが、日本帝国主義 (Japanese Imperialism) と戦った記録や遺物が展示されている。
独立宣言後に、インドシナ再占領を目論んだフランスはベトナムに侵攻したが、ベトナム軍はこれを跳ね返した。 最終的にディエンビエンフーの戦いでフランス軍を撃破し、独立を確定させたのである。 しかしベトナムがいわゆる共産圏に取り込まれることを恐れた米国は、 共産圏の拡大を阻止することを名目に、ベトナムを分断し、南ベトナムを支援してベトナム戦争を引き起こした。 軍事力で圧倒的に劣る北ベトナムは、ゲリラ戦や外交交渉を駆使し、ついに米軍をベトナムから撤退させ、 サイゴンを攻略して南北ベトナムの統一を達成した。 このベトナム戦争では、米兵 5 万 7 千人程度が戦死したが、北ベトナムは戦闘員だけで少なくとも 100 万人が死亡した。 北ベトナムの民間人の死者数については意見が大きく分かれているが、おそらく 300 万人ほどであろうと考えられている。 南ベトナムの犠牲者はこれより少ないが、戦闘員だけでも 20 万人以上は死亡したようである。 こうした甚大な犠牲を払いつつも、ベトナムはアメリカ帝国 (American Empire) の侵略を跳ね返したのだ、と 誇る展示が、この記念館ではなされている。
むろん、これはベトナム政府あるいはベトナム共産党側の主張に沿った展示であるから、 「当時の米軍が北ベトナム軍をいかに恐れていたか」という米軍人捕虜の証言などについては、鵜吞みにはできない。 ただ、米軍が北ベトナム (特にハノイ近郊) で何をしたか、という史料としては、概ね信頼してよかろう。 なお日本では米軍が用いた枯葉剤の問題などがよく知られているが、これは地理的には南ベトナム側の問題なので、 この記念館では触れられていない。
日本では、こうした戦争関係の展示について安易に「戦争の悲惨さ」というような表現を用い 「だから戦争をしてはいけない」「平和は尊い」という方向に論を持っていく者が少なくないが、私は、そういう立場に賛同しかねる。 たとえ戦争中であっても、民間人を無差別に殺傷する都市絨毯爆撃は許されない。戦争犯罪である。 これを命令した米大統領も、現場指揮官も、B-52 を操縦した米兵も、皆、戦争犯罪者である。 戦争だから悲惨なことが起こったのではなく、米大統領や米国人がベトナム人に対する虐殺を遂行したから、悲惨な結果に至ったのである。 むろん「戦争になると、人倫を忘れて野獣と化し、戦争犯罪に手を染める外道が現れる。だから戦争をしてはいけない。」という論理なら、正しい。 しかし、そうした悪事を「戦争のせい」とすることで戦争犯罪者に対する糾弾を忘れてはならない。 米国も米大統領も、彼らが日本やベトナムで行ったことに対し、謝罪も賠償もしていないのである。
今朝は 8 時頃に起床して、ホテルで朝食を摂った。 豚肉のフォーは美味であった。 しばらくホテルで休憩し、出発したのは 12:15 頃であった。 バス 09ACT系統に乗り、ホーチミン廟の近くで降りた。 ホーチミン廟には、いうまでもなく、建国の父たるホーチミンが祀られている。 ホーチミンにはグエンアイクォックなどの別名もあり、ホーおじさんなどとも呼ばれ、現代でも多くのベトナム人に敬愛されている。 一方、共産党支配を嫌って国外に移住したベトナム系の人々、特に南ベトナム系の人々の中には、 ホーチミンを蛇蝎のごとく嫌う人も少なくないらしい。
ハノイを訪れた観光客の多くはホーチミン廟を訪れるらしい。 しかし我々は、正面入口の広場をチラリと眺めただけで、西へ向かった。 そもそもホーチミンは、自分の死後に神格化されることを嫌い、廟など建てず、 遺灰は三分割してベトナムの地に埋葬されることを望んでいたという。 しかし彼の死後にベトナム共産党は、彼の遺志に反し、荘厳な廟を建て、遺体をエンバーミングし、統治に利用した。 そうした経緯をふまえれば、ホーチミンを敬慕すればこそホーチミン廟を訪れない、という選択は自然なものと思われる。
よく知らないのだが、一部の人々はベトナムを「安くてオシャレでカワイイ観光地」とみなし、 インスタグラムなどに「映える」写真を掲載しているらしい。 また同行者に教えられたところによると、在越駐在員の妻、略して「駐妻」のコミュニティもあるらしく、 安くてかわいいスイーツの写真などを誇らしげに掲げる者も少なくないらしい。
ハノイに来て思うのは、この街のどこに、オシャレでカワイイ要素があるのか、わからない、ということである。 街は喫煙者と吸い殻で溢れ、歩道には上から雨水だか汚水だかわからないような水が降り注ぎ、 バイクや自動車は交通信号を無視し、亜硝酸ガスに包まれたこの都市の、どこがカワイイのか。 石垣島や奄美大島、あるいは釧路湿原や富山湾の方が、よほど安くてオシャレでカワイイのではないか。
私は、ハノイを馬鹿にしているのではない。 この国、この街が問題を抱えていることは、ベトナムに住む誰もが知っている。 そして、それを何とかしようと、誰もが奮闘している。 実際、独立以来この国は、一日として足踏みすることなく、より明るい未来へ、より幸福な社会へと、模索を続けてきた。 現在は理想的とはいえない街であっても、5 年後、10 年後には今よりも美しい社会が実現しているであろう。 そうした将来を築こうと努める若い人々がハノイにはあふれているし、私も遠くない将来、彼らの仕事を手伝いたいと思う
ただ、現状の交通渋滞と大気汚染は、少しばかり、私の呼吸器にとって苦しい。 恐れ入るが、あと 10 年のうちに、もう少しだけ、大気状態を改善していただければ幸いである。 なお、ハノイではメトロの整備計画が進んでいるらしいので、実際に、10 年後には都市環境はかなり改善されていると期待する。
ハノイ旧市街では、毎週末にナイトマーケットが開催されているらしい、という噂をきいた我々は、17:40 頃にホテルを出発した。 我々のホテルはホアンキエム湖の南側に位置しているが、ナイトマーケットが開かれる旧市街は湖の北側である。 我々は湖の西側を北上した。
ナイトマーケットとはいうが、観光客をターゲットにした土産物屋が大半であり、あまり面白くなかった。 バーバリーだのシャネルだののロゴをつけた異常に安い「ブランド品」や、 ライセンスの有無が不明な Pikachu の帽子なども多数売られていた。 共産党の「鎌と槌」のマークが入った T シャツに少し惹かれたが、私はベトナム共産党を嫌いなので、買わなかった。
ラム肉の串焼き一本 25k ドン (150 円)、鶏肉の串焼きと豚肉の串焼き一本 15k ドン (90 円) は、美味であった。 ココナッツジュース 15k ドンもよい。
串焼きだけでは腹が満ち足りなかったので、街角の料理屋に入った。 我々が入った店の隣は、なにやらインスタグラムか何かで評判の店らしく、長蛇の列ができていたが、旨いのかどうかは知らぬ。 私はフォー・ボー、つまり牛肉のフォー 60k ドン (420 円)を、同行者はフォー・トム、つまり海老のフォー 70 k ドン (490 円) を食べた。 ベトナムで広く売られている Lavie の水 500 mL は 10k ドン (60 円) であった。
帰路はベトナム大聖堂の前を通った。 これはフランス植民地時代に建てられたカトリックの聖堂である。 よく知らないのだが、ここはインスタグラファーに人気の場所であるらしく、多くの人々が撮影に勤しんでいた。 聖堂前のカフェは満席でごった返していたが、同行者によると、ここもインスタグラファーに人気の店らしい。 我々は、これらの店を素通りした。 近くのコンビニエンスストア「Circle K」で、同行者がヨーグルト飲料 12k ドンを購入した。
これを書いているのは 8/23 21:30、ホテルにおいてである。 先ほどから雷鳴が轟き、豪雨が地面を打っている。
ハノイで幅の広い道路を横断するのは、たいへん神経を使う。 信号機が設置されていたとしても、歩行者優先のルールが (法令上はどうだか知らぬが、実態としては) 存在しないため、 バイクの流れが途切れる隙間を縫って速やかに渡る必要がある。 かといって、急に走って渡ろうとすると、かえってバイク側が我々の動きを察知できずに事故を起こす恐れがある。 慌てず騒がず、自動車やバイクの動きを見極め、冷静に安全を確認しつつ渡らねばならない。 道路を横断するのはたいへん疲れるのである。
ハノイ医科大学を出た我々は、もう一度 Vincom Center に寄り、活性炭マスクを買い足した。 13:40 のことである。 同行者はヤクルトを欲していたが、この暑い中をホテルまで持ち運んだ場合の品質に不安があったため、購入を断念した。
帰りはバス 35A 系統に乗った。これも一人 7k ドン (42 円) であった。
話が前後するが、バスを降りてから大学に向かう途中で Vincom Center に立ち寄った。 事情は知らぬが、Center の綴りは英国式の Centre ではなく米国式の Center であるらしい。 これは資本主義の権化とでもいうべきショッピングモールである。 ここの地下にスーパーマーケットがあり、我々は活性炭入りマスク (商品名 Dr Mask) 3 個入り 48k ドン (290 円) を 2 個、 ポカリスエット 500 mL 15k ドン (90 円) を 3 本、購入した。 レシートによると、これは 11:31 のことである。
この活性炭入りマスクについては説明が必要だろう。 ハノイの街は交通量が多く、おそらくは排気ガスを主原因として深刻な大気汚染が住民を苦しめている。 歩行者やバイク乗りのうち少なからぬ者はマスクを着用しているし、全身を覆うベールを着用し汚染物質から身を守っている人もいる。 我々はハノイについてからこれまでマスクを使用していなかったのだが、昨日は外を歩いているうちに頭痛を来し、 今日もバスを降りてからいささか具合が悪くなった。 おそらく、二輪車や四輪車から排出される亜硫酸ガスが我々の身体を蝕んでいるのであろう。 特に同行者は喘息持ちであるため、病状の悪化を恐れた我々は、活性炭マスクを購入したのである。 このマスクを着用することで、我々の健康状態は改善されたように思う。
この Vincom Center にはユニクロが入っている。 また地下一階には、比較的清潔なトイレがあるので、諸君が生理現象をもよおした際には、ぜひ思い出されよ。
昨晩から始まった雷雨は、未明まで続いたようである。 8:10 頃に起床して、ホテルのビュッフェで朝食を摂った。 昨日はフォー・ガー、つまり鶏肉のフォーであったが、今日は魚のフォーであった。 揚げ春巻きや焼きそば、炒飯のようなものを食べた。 部屋に戻ってテレビをつけると、ベトナム戦争の頃を舞台とする映画が放送されていた。 あいにく私は言語を理解しないのでストーリーがよくわからなかったが、 若い夫婦が登場し、女の方の父が戦死したという報せを受けていたように思う。 夫婦がベッドで睦まじくするような場面もあったが、濃厚な接吻をする描写がなされた後、 何事か重要な行為がなされたであろう部分は省かれていた。 たぶん、そういう場面は放送してはいけないのだろう。
10:00 頃にホテルを出発し、ハノイ医科大学の見学に向かった。 ホテルからバス 08B 系統、21A 系統と乗り継いで大学の近くで降りた。 運賃はいずれも 7k ドン (42 円) 均一、二系統合わせて一人 14k ドンであった。 バスは停留所で減速してドアを開けるが、必ずしも完全に停車はしない。 我々は、ドアが開いたら躊躇なく飛び乗らねばならぬ。停車を待っていては、ドアが閉まりバスは去ってしまうからである。 乗車すると、車内のどこかに車掌がいるので、運賃を払う。 車掌は運転手の傍に立っていることもあれば、まるで乗客のような態度で席に座っていることもある。 車掌はどこかな、と周囲を窺えば大抵目が合うので、運賃を支払えばよい。 降りるときは、停留所が近づいたら出口付近で待機しなければならぬ。 日本では「バスが完全に停車してから席を立たれよ」などと注意されることもあるが、 ハノイではバスが減速して扉が開いたら躊躇なく直ちに飛び降りねばならぬ。 なお、バスのすぐ傍をバイクが走り抜けていくこともあるので、周囲の警戒を怠ってはならぬ。 また、このような飛び乗り、飛び降り方式であるならば足腰の弱い老人や病人はどうするのか、と不安になるかもしれないが、 そのような乗客がいる場合には運転手も配慮して、しっかり停車し扉を長い時間、開放してくれる。 ハノイの社会は、協調性が乏しいようにみえる面もあるが、合理的配慮と優しさにはあふれている。
ハノイの街中では路上喫煙が非常に多い。 遺憾ながら 2024 年現在は、受動喫煙に対する配慮は乏しいようである。 吸い殻を路上投棄するのも、ありふれた光景である。 ただし、理由は知らぬが、バスの車内や飲食店内は大抵が禁煙のようである。 30 年ほど前の日本であれば、車内や飲食店での喫煙はごくありふれた光景であったように思うのだが、 この点に関してはハノイの方が先進的なようである。
ハノイ医科大学は、たぶん、部外者でも構内に入ってよい、のだと思う。 建物の案内表示の他、講義棟では授業のスケジュールと思われる掲示もあったが、いずれもベトナム語のみであった。 諸君の中には教員としてハノイ医科大学に就職することを狙っている者もいるであろうが、 英語だけで通用するとは思わない方がよいであろう。ベトナム語の習得は必須である。
大学構内に Alexandre Yersin の像が立っていた。 Yersin といえば Yersinia pestis の、あの細菌学者であろう。 私はハノイが Yersin 縁の地であるとは知らなかったのだが、後で調べたところによると、 ハノイ医科大学の初代学長が Yersin であったらしい。 この大学は 1902 年、フランス植民地時代に開学しており、インドシナ総督から任命された、とのことである。
学内のカフェで昼食を摂った。 店内に入ると、まず座れ、と指示され、着席すると店員がメニューを持ってきてくれた。 メニューはベトナム語のみであったが、学生アルバイトであろう店員の青年が英語で簡単に説明してくれた。 私は鶏肉料理 65k ドン (390 円)、同行者は豚肉料理 55k ドン (330 円)、その他にオレンジジュースが一人 55k ドンであった。 オレンジジュースは、しぼりたて 100% である。 これらの肉料理はレタスのような葉の上に載って供された。 周囲の他の客の様子を窺うと、なぜか、このレタスは食べずに残している者が多かった。 我々は、このレタスが衛生的な意味で生食に適しているのかどうか判断できなかったため、恐縮しつつ、残した。 窓の外をみると、駐車している自動車の下を、二匹のネズミが駆け巡っていた。
ベトナムに来る前から不思議に思っていた。 外務省によると、ベトナムの一人当たり GDP は 2023 年で 4285 米ドル、日本円にして 63 万円程度である。 都市部と農村部で大きな経済格差があるにせよ、日本に比べれば庶民の収入は少ない、はずである。 ところが日本の医師がベトナムで働くことを考える場合、日本人患者専門のクリニック等であれば 年収 1000 万円以上を期待できる、らしい。 つまり、日本人向けクリニックはそのぐらい儲かっているわけであり、さらにいえば、 そういう料金設定でも多数の患者が訪れる、ということである。 一般ベトナム人と在越日本人では、経済水準が大きく異なるというわけである。
ユニクロのウェブサイトによれば、 大卒フルタイム (週 40 時間) の営業担当者で、給与は 8 M ドン (5 万円) から、とある。 たぶん月給なのであろう。 これが典型的な大卒ベトナム人の収入であるとすれば、日本の 1/3 から 1/4 程度、と思ってよかろう。
これに対しホアンキエム湖畔などの洒落たカフェでは、紅茶やコーヒーが 50k ドン (300 円) 程度で提供されている。 日本の感覚からすればいささか安いようにも思われるが、 上述のようなベトナム一般市民の経済水準を考えれば、かなり高い、と思われる。 おそらくは、外国人観光客を対象とする高価格帯の店舗・サービスと、現地人を対象とする低価格帯の店舗・サービスとの 二重構造から成る経済が成立しているのであろう。 ただし私はまだハノイ中心部の表面しかみていないので、ベトナムの経済構造をキチンとは理解していない。 なお近年は日本でも、花火大会の非常に高価格な有料観覧席などに代表されるように、そうした経済の層分化が進んでいるように思われる。
本日我々が訪れたブン屋も、一食 50k ドンというのは、 ハノイ在住の高所得労働者にとっては適切な価格設定かもしれないが、 平均的なベトナム人にとっては、決して安いものではない。
18:30 頃に、夕食を摂りに街へ繰り出した。 まだ我々はハノイに不慣れであるから、日没後は、明らかに安全と判断できるホテル周辺のみしか出歩くつもりはない。 街にはバインミーを売る店もあったが、我々は地元民が出入りしているようなヌードル屋に入った。 店員は中に入れ、というが、空いている席はない。 一番奥のテーブルは空席にみえたが、足元に多量の貨物が置かれていたので、私と同行者は「ここに座るのか?」と目をみあわせた。 すると店員は、あそこに座れ、と、別の卓を示した。 そこでは既に大学生風の若い女性が食事をしており、我々はそこに相席した。 我々がメニューをみてアレコレと論じていると、相席の女性が「Japanese?」と問うてきた。 同行者が yes と言うと、彼女はメニューを示して、コレとコレが安くてウマいぞ、と教えてくれた。 我々は彼女の勧めに従って、その豚肉が入ったブンなる麺料理を食べた。 このブンはウマいのだが、つけ合わせとして供された野菜のうち、あまりみたことのない草は、苦く、私には食べにくかった。 この店には、老若男女問わず様々な客が訪れるようであり、親子連れも、中年男二人連れもおり、たいへん賑わっていた。 豚肉のブンは、つけ合わせ込みで 50k ドン (300 円) であった。 店内を蠅が飛んでいた。
甘いデザートを欲した我々は、街角のジュース屋でグァバジュース 35k ドン (210 円) と バナナヨーグルトスムージー 40k ドン (240 円) を求めた。 これらをゆっくり飲んでいると、空が光った。 雷である。まだ雨は降っていなかったが、時間の問題であろう。 稲妻も頻回に走った。 日本では、稲妻というと上下に走ることが多いように思われるが、 今日我々がみたのは、弧を描くように水平方向に走る稲妻であった。 我々は、ホテルに急いだ。
朝食は 7:30 頃にホテルのビュッフェで摂った。 ソーセージや目玉焼き、ベトナム風野菜炒めなどの他、フォーを食べた。
朝食後は、ハノイの鉄道駅に行ってみた。 ハノイの鉄道は現在整備が進められているところであり、現時点ではごく一部のみが開業しているらしい。 駅にはスーパーマーケットがあるかのような表示があったが、 未だ開業していないのか、それとも既に廃業したのかわからないが、とにかく営業している様子がなかった。 自動販売機で、500 mL 程度の水を 5k ドン (30 円) で購入した。 通りがかったパン屋のような店で、500 mL 程度の水を 8k ドン (50 円) で 4 本購入した。 ここは韓国からの輸入品であろうか、ハングルの書かれた菓子類などを販売していた。
あまりの暑さに、一旦ホテルに戻って休憩・着替えをした。この時点で 9:40 頃であった。 部屋でくつろいでいると、清掃スタッフがやってきた。 もっと遅い時間帯に来ると思って油断していた私は、慌てて着替えて部屋を出た。
昼前にホアンキエム湖畔を散歩した。 この湖は、どうやら人気の観光スポットらしいが、何が魅力なのかは、よくわからなかった。 散歩中に、扇子や笠、飲料などを売る人々が声をかけてきた。 私は、笠売りに押し負けて、2 個 300k ドン (1800 円) で購入した。 市中価格に比して、いささか高いようにも思われるが、異常な高値というほどではない。
ホアンキエム湖には島があり、橋で渡ることができる。 入場料は 50k ドン (300 円) 程度と、高くはないのだが、 わざわざ眺めにいくほどの魅力を感じなかったので、入り口までしか行かなかった。
ホアンキエム湖から少し離れた場所にある店で、ストロベリーシェイクを購入した。 30k ドン (180 円) であった。 店員は若い女性にみえた。10 代のようにも、20 代のようにもみえ、実際のところは、よくわからない。
少し歩くと、マッサージ店が多い一角に出た。 たぶん、まっとうなマッサージ店であるのだとは思うが、よくわからない。 ホテルの約款に「外国人宿泊客は、婚姻関係にある場合を除き、地元女性ゲストを部屋の中に入れてはならぬ」という記載が あることから想像するに、「そういう商売」をする女性も少なくないのだろう。 しかし、私のような外来者には、健全な店と不健全な店の区別が難しい。
近頃のハノイはたいへん暑く、一日に 2 回か 3 回の着替えを要するために、持参した着替えが足りなくなった。 そこで現地のユニクロで服を買い足すことにした。 ハノイのユニクロは、安くはない。T シャツが 300k ドン (1800 円) とか、半袖シャツが 500k ドン (3000 円) とか、 少し高めのシャツであれば 800k ドン (4800 円) とかであるので、日本のユニクロと概ね同程度であろう。
ホテルに戻る途中でバインミーを買った。40k ドン (240 円) であった。 この店でも、店主らしき中年男性を、若い女性が手伝っていた。 娘なのか、アルバイトなのか、あるいは妻なのか、よくわからない。
空港の外にはタクシーの客引きがたくさんいたが、私は City Centre 行きのバスに乗った。 バス乗り場で職員に「City Centre」と告げると、これに乗れ、と案内された。 なお、荷物は車内の一角に乱雑に山積みするスタイルであった。 料金は一人 45k ドンであったので、だいたい 300 円弱である。 City centre と一口に言っても、具体的な停留所はたくさんある。 私は、どこで降りれば良いのかよくわからなかったが、同行者がスマートフォンの地図で確認して 「このあたりで降りればよいのではないか」と教えてくれたので、おとなしくそれに従った。
気温は摂氏 31 度程度とのことであったが、湿度も高いため、たいへん暑く感じられた。 ホテルに着くころには、私は多量の発汗をしていた。
ホテルに向かう途中、アルゼンチン風のステーキ店を発見した。
ホテルのスタッフは、たいへん明瞭な英語を話してくれたので、手続きはスムーズであった。 部屋の金庫がロックされており使えない、というトラブルはあったが、これもレセプションに連絡すると迅速に対応してくれた。
夕食は、ホテルに向かう途中でみかけたステーキ店に入った。 メニューを確認せずに入ってしまったのだが、なかなか高級店である。 ステーキは 100 グラム 1.5 M ドン程度、1 万円ほどするのだから、まぁ、高い。 我々はハンバーガーとジュースで、2 人で 1 M ドン程度を支払った。 味は良かったが、値段ほどの価値があるかというと、いささか疑問である。
ところで交通量の多いハノイの街中を歩くには、少しばかり注意点がある。 まず青信号は「安全が確認できるならば進んでも良い」という程度の意味であり、 歩行者信号が青であってもバイクや自動車は遠慮なく突っ込んで来るので、周囲の警戒を怠ってはならない。 また信号が青に変わった直後にはバイクが交差点に突入するので、我々歩行者は、このバイク第一波をやり過ごした後に 横断歩道を渡らなければならない。 熟練した現地人は、たとえ赤信号であっても構わずに自動車やバイクの隙間を縫って道路を横断しているが、 これは不慣れな旅行者が真似をするべきではない。
昨晩は東京に住んでいる両親のところで一泊し、本日は 6:05 品川発の成田エクスプレスで成田空港に向かった。 空港に着いたのは 7:16 である。 この時間帯の成田空港は旅行客も少なく、外貨両替や荷物預け入れにも大した時間を要さなかった。 空港で、10 万 3 千円をベトナムドンに両替した。 1 ドン 0.0071 円のレートであった。東京外国為替市場でだいたい 1 円が 160 ドンらしいので、まぁ、空港における両替レートとしては妥当な線であろう、と思われた。
私が乗ったのは、10:00 成田発ハノイ行きのベトナム航空 311 便である。 遺憾なことに、私の後の座席を占めたのは蛮族の男女であった。 飛行中、マスクもせずに、ひっきりなしに不快な咳をしていただけでなく、汚い足を前の座席、 すなわち私が座っている座席の脇にニュッと突き出してくつろいでいた。
我が航空機は、東シナ海を経由して長江の下流域あたりで中国上空に至り、現地時刻 13 時頃にベトナムに着陸した。 日本との時差は 2 時間である。
入国審査は、迅速ではあったが不愛想であった。 係官は終始、一言も発することなく、淡々と私の旅券を確認し、入国許可のスタンプを押した。 いつ帰るのか、ベトナムのどこを訪れるのか、など一切問われなかった。
ハノイの空港では、日本円とベトナムドンの交換レートは 1 円 -> 163 ドン、また 185 ドン -> 1 円程度であった。 円からドンへの交換は、ベトナムに来てから行った方が有利なようである。 おそらく、ベトナムとしては外貨が欲しい、というような事情が関係しているのだろうが、詳しいことはわからぬ。
夏季休暇を利用して、本日から 8 月 30 日までの間、ベトナム旅行に行く。 私にとっては初めてのベトナムであり、ハノイとサイゴンを巡る。 元々はトルコ・フランス方面に行く案もあったが、諸般の事情で今夏はベトナムにした。
ベトナム社会主義共和国は、国名に「社会主義」が含まれていることからも、社会主義国である、と認識している人が多いであろう。 しかし「社会主義とは、いかなる主義のことか」を自分の言葉で述べられる人は、日本には少ないのではないか。 社会主義とか共産主義とかいう語には、完全に定まった定義が存在しない。 社会主義と共産主義を区別する流儀もあれば、両者を同義とする人々もいる。 マルクスやレーニンの流れを汲む人々と、毛沢東の流れを汲む人でも、意見は分かれるであろう。 そうした違いを包含するように「社会主義」という語を広く定義するならば 「社会全体の利益・幸福を最大とすることを目指す考え方」とするのがよかろう。 「共産主義」という語は適切に定義することが難しいように思われるが、私は 「社会主義のうち、特にマルクスやレーニンの考え方を中心に据える考え方」というように解釈している。 社会主義と時に混同される語に「全体主義」や「計画経済」がある。 全体主義というのは「社会全体の利益を追求するために、個人の自由や利益を著しく制限する考え方」としてよかろう。 また計画経済は「社会全体として効率的な経済活動を実現するために、国家や社会が定めた計画に沿って、個々人が経済活動を行う体制」のことである。 かつてのソビエト社会主義共和国連邦、いわゆるソ連は、社会主義を標榜し、かつ計画経済によって社会を運営し、 さらに全体主義的な傾向があったことから、日本では社会主義を全体主義や計画経済と同一視する者が少なくないように思われる。 しかし本来、社会主義は必ずしも計画経済を必要とせず、また社会主義は個人の自由を否定するものではない。 そもそも、ソ連や中華人民共和国は社会主義国家といえるのかどうか、疑問である。 国家として社会主義を標榜しているとしても、実態として一部の特権階級が私欲を貪っているならば、それは社会主義的とはいえない。
ベトナムが社会主義国であるか否かも、慎重に考える必要があるだろう。 ベトナムでは共産党が実権を握っており、また社会主義を標榜してはいるものの、はたして本当に社会主義的といえるだろうか。 そもそもベトナムで共産党が勢力を伸ばしたのは、第二次大戦後の独立闘争からベトナム戦争の頃にかけて、 共産主義を旗印に掲げて活動することでソ連や中国からの支援を得た、という歴史的経緯による。 これはベトナムの民衆が共産主義社会の実現を求めて戦った、というわけではなく、フランスや米国といった眼前の脅威に対抗するために、共産主義の旗印が必要であった、というのが実情であろう。
念のために書いておくが、私は社会主義者である。