京都大学大学院時代の前半について、差し障りのない範囲で記す。
私は、京都大学大学院で原子炉物理学の研究を行っていた。 博士課程を中途退学したのは、2011年3月末であり、例の福島の事故の直後である。 しかし私が原子力業界を離れることを決意したのは、2010年7月のことである。 年度末まで籍を残したのは、ある教授から、履歴書上の空白期間を作ることが 将来に及ぼす悪影響について、真摯なアドバイスを受けていたからに過ぎない。 だから、私の進路変更と福島の事故は、何の関係もない。
私は、大学に入った時から、将来は研究者になろうと決めていた。 だから大学院に入り博士課程まで進むことについて、何らの逡巡もなかった。 当初は、京都大学大学院工学研究科原子核工学専攻の、I 教授の研究室に入ろうと思っていた。 しかし大学院入試の当日朝、たまたま中央食堂で、I 研究室に配属されている同級生に会い、 「I 教授は優れた人物だが、I 研究室の所属学生は質が低い。君にはふさわしくないのではないか。」との助言を受けた。 彼の言うこと真実であったのかどうかは分からない。 ひょっとすると、入試における競争相手である私を排除するための策略であったのかもしれない。 しかし私は、それまで I 研究室に限らず原子核工学専攻における学生について、質、あるいは学問に対する意欲が低すぎるのではないかと感じていた。 そうした背景もあり、私は、彼の助言に蓋然性を認めたのである。
そのようにして、私は入試当日になって、原子核工学専攻へ進むことを考え直すことにした。 しかし、大半の大学院では既に出願の締め切りを過ぎていた。 そこで思い出したのが、学部 3 年生のときに学生実験で訪れた、熊取の原子炉実験所のことである。 エネルギー科学研究科には原子炉実験所の協力講座がある。 わかりやすくいえば、所属は京都のエネルギー科学研究科であるが、実際の研究指導は熊取で受ける、というコースである。 エネルギー科学研究科では大学院入試の二次募集があり、その出願は大半の大学院入試が終わった後でも間に合う、と聞いていたので、 そこなら、まだ間にあうのではないかと思ったのである。
正直にいえば、原子炉の研究というものには殆ど魅力を感じていなかった。いまさら、原子炉の何を研究するというのだ。 しかし、学生実験の際の印象として、教員の方々は学問に対し真摯で、研究指導を受けるには良い環境であると思えた。 また、いかなる学問分野であろうとも、やってみれば面白いことがたくさんあるだろうし、 それにエネルギー問題は今後の世界情勢を左右する、重大な事案でもあり、私の研究が将来は世界を革命するほどの影響力を持つかもしれない。 そうしたことを考えて、私は、エネルギー科学研究科に進むことにした。
私が所属した研究室は、大阪府南部の熊取町にある京都大学原子炉実験所にあった。 京都大学の吉田キャンパス、いわゆる「本部」からは、二時間半ほどかかる距離である。 私の所属したエネルギー科学研究科では、修了までに10コマ程度の授業を受ける必要があったが、 本部と実験所を往来するのは非常に大変である。 そこで、修士課程一年目の前半は京都に住んで授業に専念し、 一年目後半から熊取の近くに住んで研究に専念する、というのが通例であった。 もっとも私の場合、前半だけでは単位を取りきれず、一年目の後半にも少しだけ、本部に通って授業を受けた。
一年目の夏休みに入った八月頃に、私は熊取に引っ越した。研究室まで徒歩15分程度の距離である。 私はどのような研究をしたいのか、特に強い希望を持ってはいなかったので、 加速器駆動未臨界炉のための新しい未臨界度測定法の開発、というテーマを与えられた。 現在の原子力発電所などで使われている原子炉は、通常は臨界状態で運転されている。 臨界状態というのは、原子炉の中で、核分裂により新たに生成される中性子の数と、 外に漏れ出したり原子核に吸収されたりして失われる中性子の数とが、ちょうど釣り合っている状態をいう。 生成される中性子の数よりも失われる中性子の数の方が多い状態を未臨界といい、 生成される中性子の方が多ければ超過臨界である。 加速器駆動未臨界炉というのは、原子炉を常に未臨界に保ちつつ運転するという、新しいコンセプトのシステムである。
未臨界なのだから、ほうっておけば原子炉内の中性子はどんどん減っていき、つまり原子炉は勝手に停止する。 そこで、原子炉の隣に加速器を設置し、ここから中性子を原子炉に供給しつづけることで、核分裂を持続させる。 もし不測の事態が起こっても、加速器さえ停止すれば原子炉も停止するのだから、チェルノブイリのようないわゆる暴走事故は起こりにくい、とされる。 加速器駆動未臨界炉を制御するには、原子炉がどのくらい臨界状態から遠いのか、という「余裕」の大きさを把握しておく必要があるとされる。 この「余裕」を未臨界度と呼ぶ。 なお、ここで「される」という無責任な表現をしているのは、これらが真実であるかどうかは甚だ疑問だからであり、 このことは私が大学院を辞めた理由とも深く関係しているので後述する。 加速器駆動未臨界炉において未臨界度を精度良く測定する手法は未だ確立されていないので、 どうすれば巧く未臨界度を測定できるのか、主に理論的な面から検討するというのが、私のテーマであった。
未臨界度を推定する手法については昔からいくつかの方法が提案されていたが、それらの大半は 「一点炉近似」と呼ばれる粗い近似を用いているために、精度が良くないという問題があった。 つまり、実験的に中性子検出器を用いて未臨界度を推定すると、検出器を置く位置によって 推定の結果が大きく異なってしまう、という問題が知られていたのである。 この問題を解決するための研究が、一部の研究者によって継続的に行われてきた。 私の指導教員は某教授であったが、実際に直接指導にあたったのは某准教授と某助教である。 准教授は 1990 年に、新しい未臨界度測定法の論文を発表していた。 理論としては、この手法により検出器位置に依存することなく未臨界度を推定できるとされていたが、 実験では、この手法を用いても検出器位置依存性が存在することが知られていた。 私と入れ違いで修士課程を修了した学生は、この検出器位置依存性を解決する研究を行っていたが、結果は思わしくなかった。 私は、これらの研究を引き継ぐ形で、准教授の手法の改良に着手したのである。
私は、准教授の理論の論理を検証することから始めた。 9 月のうちであったか 10 月に入ってからであったかよく覚えていないが、 研究を始めて初期のうちに、私は准教授の理論の最初の仮定が誤りであることに気がついた。 少し専門的な話になるが、准教授の理論は原子炉内の中性子数の分布関数が、その固有関数で展開できる、 という仮定から出発しているのだが、そのような展開は一般には不可能なのである。 このような無理な仮定を用いたために、検出器位置依存性を示す「おつり」の項が数式から消えてしまい、 理論の上ではあたかも位置依存性がないかのように見えてしまっていたのである。 弁護しておくが、これは准教授が特別に迂闊であったわけではない。 博士過程に入ってから多くの研究者と話してわかったことであるが、 原子炉物理学を専門とする研究者であっても、大半の人が、准教授が用いた仮定が常に正しいと誤解していたのである。
後にわかったことであるが、このような誤った認識が広まったことには次のような歴史的背景がある。 原子炉物理学の黎明期に「『穏やかな』分布をする中性子数分布関数は、固有関数で展開できる」という事実と 「臨界状態の原子炉における中性子数分布関数は、穏やかな分布を示す」という事実が知られた。 従って、実用上は中性子数分布関数は殆どいつも固有関数で展開できる、と認識されるようになった。 しかし時が経つにつれて、教科書に記されている「穏やかな分布をする」という一言が重視されなくなり、 いつのまにか忘れられ、多くの研究者が 「中性子数分布関数は『いつも』固有関数で展開できる」と思い込むようになったのである。 ところが我々が研究していた加速器駆動未臨界炉では、強力な中性子源が原子炉内に存在するために 中性子数分布関数が「穏やかでない」のだ。 この場合は中性子数分布関数を固有関数で展開するための条件が満足されないのだが、 上述の思い込みにより、展開可能だと勘違いする人が多かったのである。
論理展開に隙があったとしても、その不適切な仮定を用いることによる誤差が 十分に小さいのならば、准教授の理論に多少の補正を加える程度で済んだであろう。 しかし数値計算の結果からわかったことは、残念なことに、この不適切な仮定を用いたことによる誤差は 非常に深刻な規模のものだということであった。 既に知られていた実験上の問題、つまり未臨界度の推定結果が検出器位置に依存するということについて、 私は数値計算による検証から次のような結論を得たのである。 すなわち、原因の一つは従来の数値計算は精度が不十分であったことであり、 もう一つはこの理論上の不適切な仮定による誤差であった。 前者は計算精度を上げれば済むことであり、特に重要とは思われなかったが、 後者は容易には解決できない問題であった。
固有関数による展開が不可能だという理論上の問題は発見したが、 これを周囲の人に認めてもらうのには苦労した。 というよりも、私が退学するまでの間に話した研究者の中で、 これが非常に深刻な問題点だと理解してくれた人は、ほとんどいなかったように思う。 このことは定着してしまった常識を打破することが困難であることを示しているのか、 それとも私の説明能力が貧弱であることを示しているのかは、わからない。 私が独りでとんでもない勘違いをしているだけだ、ということは、ないと思う。
積極的な賛同者を得られぬままに、結局私は准教授の理論を完全に放棄し、 「数値計算と実験の組み合わせで未臨界度を推定する」という理念だけはそのままに、 一から理論を組み立てなおすことにした。
私の原子力学会初参加は修士課程一年が終わりつつある 2007 年 3 月であった。 原子力学会は、開催より半年近くも前に発表の受付を終えてしまうので、その半年間の研究の進捗により、 当初の申請内容と実際の発表内容が乖離することもしばしばある。 私の場合も、当初は M 准教授の理論の改良について発表する予定であったが、 結局、理論面を抜本的に改め全く新しい方法で未臨界度を推定するための、基礎的な数値計算結果を発表した。 後に「仮想中性子源増倍法」と称する手法の準備段階であるが、この頃は「負の中性子源増倍法」と称していた。
私が初参加した原子力学会の会場は、名古屋大学であった。 私の父は名古屋大学教育学部出身であり、私も後に名古屋大学医学部に編入学することを思えば、 名古屋大学には何かと縁があるといえる。 私はレーザーポインターが嫌いなので、この時も指示棒を持って発表した。 ところが、この時の会場は広い講堂であり、スクリーンも大型のものであったから、 映し出された画面の端の方を示すために、私は指示棒を持ってチョコマカと歩き回らねばならなかった。 そのような想定外の事態はあったものの、初めての学会にしては、そこそこの出来であったと思う。
私が所属していた研究室は、原子炉を持っていた。 出力 1 W 以下で、原子力発電所に比べれば殆ど熱も放射線も出さない小さなものだが、それ故に研究や教育には便利な原子炉である。 この原子炉は、京都大学の研究者が研究に使うだけでなく、京都大学やその他の大学の学生に対する教育目的でも使われている。 近年では韓国やスウェーデンの学生も、ここで学生実験を行っている。 これは非常に恵まれている環境のようにも思われるが、実は必ずしもそうではない。 なにしろ、原子炉の管理や操作をする人員が十分ではないので、准教授や助教も運転要員に含まれているのである。 (なお教授は、私が在籍していた当時は原子炉実験所の所長で多忙あったため、運転には関わっていなかった。) 原子炉は、基本的には週に四日は運転して何らかの実験が行われており、運転担当者は、原則的に朝から夕方まで運転に専念することになる。 運転とは、核燃料の出し入れや制御棒の操作、原子炉の起動や停止ならびに点検、および事務的な書類作成など、様々な作業を含む。 これは非常に忙しいことである。 こうした仕事が多いために、教員は、研究や教育にあまり十分な時間を割けないのだ。 そうした問題点はあるものの、学生としては、自分の研究のためだけに実験する時間を作ってもらえるという点は、 ありがたいことであった。
私は在籍中に何度か実験する機会があったが、最初の時がいつであったのあ、よく覚えていない。 記録を調べればわかると思うが、今はまだ調べる気にならない。 何しろ大学院時代の記憶というのは、あまり愉快でないものが多いのだ。 とにかく、修士課程を修了するまでに、少なくとも一回は実験をしたように思う。 しかしながら、この実験は、時間をもらえるからやってみた、というものであり、 率直な所としては、特に研究上の有意義な結果を得ることができなかった。
原子炉物理学の研究の常道としては、理論、数値計算、実験、の三つを順に行うものとされているらしい。 だから私の研究についても、まず理論を定め、数値計算による検証を経て、 最後に実験による検証により完結するのが筋である、と、准教授や助教から何度も言われた。 教授から言われたことがあるかどうかは、よく覚えていない。 しかし考えてみれば、これは困難なことである。 そもそも私の研究は未臨界度の推定手法の開発なのであるが、手法の妥当性を実験で検証しようと思えば、 私の手法による推定値と真の未臨界度を比較し、両者が一致するかどうかを検討するということになる。 ところが、真の未臨界度などというものは、いくら実験してもわからないのだ。 わからないから、研究しているのである。 そこで他の手法による未臨界度の推定値と比較することになるが、その「他の手法」というのは、例外なく精度が悪い。 既存の方法では精度が悪いから、研究しているのである。 つまり、他の手法による推定値と一致しようがしなかろうが、私の手法による推定値が正しいかどうかは、全くわからないのである。 従って、実験を行っても、未臨界度の推定に関しては、特に有意義な結果が出るはずがないのである。
この問題点に関しては、私は後に工夫を凝らし、奇策を用いて実験的検証を可能たらしめたのであるが、それは博士課程に進学した後のことであるので、今は述べない。 ともあれ、この時点では、私は明確な目的を定めることができないままに、とりあえず実験をしてみたのである。 その結果を一応は修士論文に載せたような気がするが、よく覚えていない。今は調べる気にもならない。