私が京都大学大学院を中退するに至ったまでを、差し障りのない範囲で記す。 博士課程における重要なできごとの大半は、私と教員の衝突であった。 従って、それらを率直に記そうと思えば、どうしても、教員に対する誹謗になってしまう。 なるべく中立的な観点から書きたいとは思うが、いささか偏った視点や曖昧な記述が増えてしまう点は、ご了承いただきたい。
なお、時系列については、事実に反する箇所が存在するかもしれない。 当時のメールなどの記録を調べれば明らかになるとは思うが、とても見返したい代物ではないため、 曖昧な記憶に基づいて書いている。その点はご容赦願いたい。
ひととおり書き終えたが、いま、こうして振り返ってみても、どうして中退したのか、自分でもよくわからない。 よくわからないままに人間関係が悪化して、追い詰められていった、としか表現のしようがない。 他の人がどういった事情で中退しているのかよく知らないが、もしかすると、世の中の中退というものには 理由らしい理由など本当は存在しない、というのが真相なのかもしれない。
2 ちゃんねるで、2016 年 6 月頃に、アカハラ事例として、このサイトが紹介されているようである。 私と某准教授 (当時) とのトラブルがアカハラに該当するかどうかについては、私の立場からは、言及を控える。 ただし、当時、京大原子炉実験所所長で教授であった S さんは、間違いなく、アカハラに加わっていない。
S さんは、所長業務のため極めて多忙で、研究室内のことにあまり時間を割けず、実質的に准教授が研究室を主宰していた。 もちろん、教授という立場上、S さんが無関係である、とはいえない。しかし、S さん自身が私に不利益をもたらすようなことは、一切、なかった。 たとえば私の修士論文にしても、准教授に提出してからコメントが返ってくるまでには数ヶ月かかった。もちろん、その間に私は何度も催促した。 とうとう痺れをきらした私は、准教授からのコメントを待たずに、教授である S さんに提出した。 すると S さんは、数日で細かなコメントを返してくれたのである。
私が医学部学士編入試験を受ける際にも、S さんは、快く推薦状を書いてくれた。 記載された内容については私は知らぬが、私を実際以上に持ち上げるでもなく、もちろん貶めるでもない、科学者として誠実な内容であったものと思われる。 後から思えば、私が中退やむなしと決めた時にも、S さんは、医学部編入の道をほのめかしてくれていた。 私は、S さんに対しては心から感謝している。
私が所属していた研究室は、基本的には不人気なものであった。 私が修士課程一年生になった時点では、修士課程二年生に二名、 博士課程一年生が一名、私の他に修士課程一年生の同級生が一名の、 計五名の日本人学生がいた。 他に欧州から来た留学生が博士課程にいたが、 彼が何年生であったかは、よく覚えていない。
私が修士課程二年生になったとき、修士課程を修了した学生の一人は 民間企業に就職し、一人は博士課程に進学した。 この進学した学生も、博士課程を一年終えた時点で 中退して民間企業に就職した。
修士課程一年生であった年の10月には東南アジアから、 翌年の10月には北アフリカから、 さらに翌年の10月には東アジアから、それぞれ一名の留学生が博士課程にやってきた。 この東アジアからの留学生は、学年でいえば、初めての私より低学年の学生という ことになるが、彼はもともと本国で原子力の研究者をやっていた人物であり、 原子力研究の経歴に関していえば私より上であり、年齢も上であったと思うから、 実質的には私より先輩にあたる。 新しい日本人学生が入ったのは、私が博士課程二年生になった4月のことである。 この年は三名の学生が修士課程に入学した。 彼らは私にとって初めての後輩にあたる学生であるといえるが、 彼らが熊取にやってきたのは夏頃であり、私が研究室に通わなくなったのが 翌年六月であるから、彼らと一緒に過ごした期間は一年にも満たない。
私は、幼い頃より、他人との協調性が乏しかったように思う。 今では少しだけマシになったかもしれないが、 博士課程にいた頃は、かなりひどかったし、そのために他の学生とはかなり衝突した。
研究上の問題を巡っては、他の学生に対してかなりの批判を加えたが、 これはあまり適切ではなかったと、今では反省している。
互いの研究内容について情報交換し、議論を行うことは、 基本的には良いことだと思う。 他人に自分の研究を説明することも、他人の研究に対し質問や批判を行うことも、 それに対し適切に回答することも、全て互いの利益になる。
しかし学生の研究においては、しばしば、学生自身が 自分の研究内容をよく理解していない、という事態がみられる。 私の周囲にも、そういう学生がいたように思う。 そういう学生に対しては、あまり全力で批判を加えず、 さりげない指摘や、示唆に富む指導的質問のみを行うのが、 教育的配慮というものであろう。 しかし、当時の私には、そういう姿勢が完全に欠如していた。 不適切であると感じた内容については徹底的に批判を加えたし、 相手を指導し教育するという意図は全くなかった。
私がそのような態度であったのは、一つには私の社会性の欠如が原因であるが、 もう一つには、私が学問というものに対してあまりに過激で急進的であった ことが原因であるように思う。 当時の私は、大学院生たるものは須く研究者としての崇高な精神を持ち、 学問に対しては常に誠実でなければならぬ、と信じていた。 科学的、論理的な観点から不適切だと思われることは、 たとえ指導教員の指示であっても行ってはならず、認めてはならないと考えていた。
この考えは大筋では正しいと、今でも思っている。 指導教員の指示に盲目的に従うのでは単なる労働者であり、研究者ではなく、 真の学生とは呼べない、と思う。 しかし現実には、そのような姿勢を保つことができる学生は多くない。 指導教員が不適切な指示をした時、それに反論し、反抗することができるだけの 学識と精神を持っている学生は、ほんの一握りであろう。 そのことは当時の私も認識していたが、私は、その一握りの学生以外は 学生たる資格がない、と考えていた。 従って、他の学生と接する際には、 自分はもちろん相手もそのような学識と精神の持ち主である、 という前提で接して良い、と考えていたのである。 さらに、最後の一年間を除いては、周囲の学生は全員、 私よりも経歴上は先輩か同輩であり、格別な教育的配慮は不要であると考えていた。 それ故に、他人の研究に対しても、納得できない点があれば 全力で攻撃したし、それが礼儀であり、科学に対する忠誠心というものであると信じていた。
だが、それは、やはり良くなかった。 現実に学識と精神が乏しい学生に対して、 理想を掲げて全力で批判を加えたとして、それで何か状況が良くなるだろうか。 それで、はたして相手の学生は、科学への誠実さに目覚めるだろうか。 私の姿勢は、科学の発展に何か貢献しただろうか。 最終的に学生の間で私が孤立して、退学せざるを得なかった原因の一つは、 こうした私の態度にあったと思う。
こういう社会が、私は嫌いである。
私の研究テーマが「新しい未臨界度測定法の開発」であり、修士課程の段階で既に 新しい理論が概ね確立されたことは既に述べた。 博士課程で取り組んだ主要な課題の一つは、 この理論や手法の妥当性をいかにして実験的に検証するか、ということであった。 繰り返しになるが、真の未臨界度というものは実験的に知ることができないので、 私の手法による未臨界度の推定値が実験値と一致するかどうかを直接調べることはできなかったのである。
私は、少し方針を転換することにした。 そもそも未臨界度を測定することの目的は、未臨界度を通じて原子炉内の状態、 たとえば核燃料の量だとか、中性子吸収剤(制御棒や硼素など)の量だとかを推定することである。 核燃料の量などを推定できれば、加速器駆動未臨界炉において目標の出力を得るために、あとどれだけ 制御棒を動かせば良いか、燃料はあとどれだけの期間使えるか、などを知ることができる。 すなわち、未臨界度を知ることはあくまで手段であって目的ではなく、 原子炉内の状況(専門用語でいえば巨視的反応断面積)を正しく推定できれば、それで十分なのである。
私は、原子炉内の核燃料の量を変化させた時に、中性子検出器の指示値から、 核燃料の増減量を推定する、というような実験を行った。 結果としては、実験誤差が大きすぎ、あまり納得のできる成果は得られなかった。 しかし、モンテカルロ法によるシミュレーションの結果から、私の手法の妥当性を実験的に確認することが 可能であると予想されていたので、実験上の工夫次第で何とでもなるだろう、と思われた。
だが残念なことに、その後教員との関係が悪化し、結局は大学院を中退してしまったために、 私の研究はそこで打ち切りとなった。 後を引き継げるような人もいなかったので、今後、二度と表に現れることはないと思う。残念である。
私は大学院在学中に全部で三回、海外での国際学会で発表を行った。 一回目はロシアのオブニンスクで行われたもので、修士課程二年生の時であったように思う。 別に記す機会があるかもしれないが、この時は現地で言葉が通じず、大変ではあったが楽しかった。 二回目は 2008 年にスイスのインターラーケンで行われた Physor'08 で、私は博士課程一年生であった。 この Physor には、我々の研究室からは私と、同学年の日本人学生と、准教授が参加した。 学生は二人とも口頭発表を、准教授はポスター発表を行った。
この時の准教授の発表内容は、彼が 1990 年頃に考案した方法の拡張であり、 理論の前提条件を緩めるものである、と事前に助教から聴いていた。 専門的な言葉でいえば、「一様でない摂動に対応する」というものであった。
以前にも述べたが、私の研究は准教授の手法と同じ方針を持ちながら 理論的には全く違うアプローチを採ったものであった。 私の研究においても、一様でない摂動にどう対応するかという点は重大な問題であったが、 私は無理のない仮定を導入することで解決する方法を既に発見していた。ただし、この時点では未発表であった。 この解決法が、Physor における私の発表に含まれていたかどうかはよく覚えていない。 まだ妥当性の検証が十分ではないとして、発表しなかったかもしれない。(今はまだ確認する気にならない。) そのような状況であったから、准教授がいかなる手段を用いて一様でない摂動に対応したのかには、大いに興味があった。
各発表の概要(予稿)は、事前に CD-ROM だったか DVD-ROM だったかに収められ、受付時に参加者に配布されていた。 そこで私は受付を済ませるや否や宿に戻って准教授の予稿を宿で読み、落胆した。 結局、准教授が用いた方法というのは、私が提案した「無理のない仮定」を用いるというものであった。 この仮定は合理的で無理がないと思われるものの、原子炉物理学の世界で広く使われているわけではなく、あくまで私の発案であった。 それ故に、研究室内でも、その仮定の妥当性を巡って議論があり、准教授からは、かなりの批判も受けていた。 だが、この仮定がもし妥当であるならば、それに基づいて准教授や私の理論を拡張して 一様でない摂動に対応することは容易である、ということは自明であった。
Physor における准教授の発表は、倫理的に問題があったと思う。 准教授は私のアイデアを参考にはしただろうが、私のアイデアそのものを発表したのではなく、 あくまで自身の理論の改良に用いただけであるから、これは剽窃とまではいえないかもしれない。 だが、今回の彼の発表において最も重要な部分の発案者が私であるならば、 私との共同研究という形にするか、謝辞としてそのことを明言するか、あるいは最低限、事前に私に話を通すべきではなかったか。 しかし実際の発表では、そのいずれも為されなかった。 私は、私の発案した仮定が彼の発表で使われるということを、スイスに行くまで知らなかったのだ。
この時には、まだあまり強く意識していなかったが、こういう准教授の不誠実な行為によって 私は次第に追い詰められていった、という側面があるように思われる。
私が大学院時代に行った、加速器駆動未臨界炉と呼ばれる新型原子炉の実用化に向けた基礎的な研究であった。 「加速器駆動未臨界炉」というものを始めて耳にしたのは学部 3 年生の頃で、 同級生の K 氏から聞いたものであるが、K 氏自身、あまり詳しくは知らなかったようなので、 私も「名前を聞いた」という程度であった。
学部 3 年生の時、学生実験のために熊取を訪れたが、そのとき助教から 加速器駆動未臨界炉のすばらしさを説明された。 私には、そのすばらしさがよく理解できなかった。 しかし当時から熊取の原子炉実験所で建設が進んでいた加速器駆動未臨界炉実験装置について 助教が「世界で初めてである」などと強調していたため、 当時は純真であった私は、なんとなく、加速器駆動未臨界炉がすばらしいものであるかのように感じた。
大学院に入ってからも、やはり、私には加速器駆動未臨界炉のすばらしさがよくわからなかった。 一応、業界でしばしばいわれる加速器駆動未臨界炉の利点は 3 つか 4 つあり、 やや専門的な表現であるが、次のようなものである。 第一に、使用済み核燃料などに含まれる長半減期放射性核種の消滅処理に有用とされる。 第二に、加速器駆動未臨界炉は、チェルノブイリ原発事故のようないわゆる暴走事故を起こしにくいため 安全性が高いとされる。 第三に、遅発中性子に依存しない出力制御が可能なので、トリウム232などの 遅発中性子割合が少ない核燃料を安全に扱うことができるとされる。 第四に、加速器駆動未臨界炉はエネルギー増幅系として用いることができる、とされる。
あまり専門的な話を書くのもどうかとは思うが、この加速器駆動未臨界炉の利点を巡る問題は、 私が退学した理由と極めて密接に関係しているため、省くことができない。 以下、順番に説明するが、興味がない方は読み飛ばされよ。
加速器駆動未臨界炉の第一の利点は、いわゆる核廃棄物の処理に関するものであるとされる。 通常の原子力発電所はウランやプルトニウムを核分裂させてエネルギーを取り出すが、 副産物として質量数が239以上の放射性物質が生じる。 これらの放射性物質は、しばしば、半減期が一万年以上にも及ぶものである。 半減期が長いということは、放射性壊変しにくいということであり、 放出する放射線が少ないということであるから、考え方によっては安全だともいえる。 しかし、もし、このような長半減期の放射性物質が極めて大量に存在し、触ることができないほどの 放射線を放出しているならば、放射線量が減るまでには何万年も待たねばならないということでもある。 実際、原子炉では触ることができないほどの放射線を放出するだけの、 大量の長半減期放射性物質が廃棄物として生産される。 こうした放射性物質を安全に処理する技術は、未だ確立されておらず、様々な手法が検討、研究されている。
こうした厄介な放射性物質を、もう一度原子炉に入れることで、 半減期の短い、別の放射性物質に変換する、というのが、いわゆる「核変換処理」の基本的な考え方である。 半減期が数万年の放射性物質であっても、原子炉の中で中性子と反応すれば 半減期が一年程度の放射性物質に変化することがある。 これならば数年待つだけで放射線量が十分に低くなるだろう。 このような処理方法は、長半減期の放射性物質を放射性物質でなくすることから、「消滅処理」とも呼ばれる。
消滅処理の考え自体は何十年も昔に提案されたものである。 当初は、現在の日本で使われているような、軽水炉と呼ばれる「普通の」原子炉で消滅処理することも検討された。 しかし、やがて福井県の敦賀にある「もんじゅ」のような高速炉を用いた方が 効率的に消滅処理できることがわかった。 これは、長半減期放射性物質の多くは、低速で運動する中性子と反応しても単に吸収する確率が高く、 半減期はあまり変わらないか、時にはより長くなってしまうのに対し、 高速で運動する中性子と反応すれば核分裂を起こす確率が高く、 半減期がとても短くなることが期待される、という事実に基づく。 すなわち、低速中性子を多く発生させる軽水炉よりも、 高速中性子を多く発生させる高速炉の方が、消滅処理には適しているのである。
細かいことをいえば、中性子の速さは単に速ければ速いほど良い、というものでもない。 だが、概ね、速い方が遅いよりも高い確率で核分裂を起こすという傾向がある。
さて、加速器駆動未臨界炉は、加速器でイオンか陽子を加速して重金属などと衝突させ、 それにより生じた中性子を原子炉に供給する、というシステムである。 加速する粒子の種類や、加速するエネルギー、それらを衝突させる標的、といった 様々な要素を変更することで、発生する中性子の速さをある程度コントロールすることができる。 そこで加速器駆動未臨界炉を用いることで、 長半減期放射性物質に核分裂を起こさせるために最も適したエネルギーの中性子を作り出せば、 従来の原子炉を用いるよりも効率的に消滅処理を行うことができる、とされる。
上述の、加速器駆動未臨界炉による消滅処理の理屈には、重大な欠点があるように思われる。 仮に加速器により思い通りの速さの中性子を発生させることができたとしても、 それを原子炉の中に入れてしまえば、ただちに中性子は減速する。 加速器で作られた中性子は原子炉内の核燃料と反応し、核分裂を引き起こす。 核分裂は複数の中性子を発生させるが、その速さは元の中性子よりも格段に遅い。 こうして生じた中性子は別の核燃料と反応して、また核分裂を起こす。 こうして核分裂を繰り返すたびに、加速器駆動未臨界炉の中における中性子の速さは、 普通の原子炉で得られるような中性子と同じ程度の速さに急速に近づいていく。
加速器駆動未臨界炉を用いた消滅処理の利点は、その中性子の速さが 普通の原子炉とは異なる、という点にある。 従って、上述のように中性子が普通の原子炉の中におけるものと同程度の速さになってしまっては意味がない。 これを避けるには、原子炉内の核燃料を減らさざるを得ない。 究極的には、核燃料を一切使わずに、加速器で直接、長半減期放射性物質に中性子をぶつけるのが良い、ということになる。
だが、加速器を動かすには莫大な電力を消費する。 原子炉内の核燃料を大きく減らした加速器駆動未臨界炉では、 発電量よりも加速器を動かすための消費電力の方が大きくなってしまう。 場合によっては、1 ワットの電力を得るために生じた長半減期放射性物質を消滅処理するために 1 ワット以上の電力を消費する、などという事態さえ生じかねない。
このように、加速器駆動未臨界炉は極めて不経済なシステムである。 では、その不経済性を補って効率的な消滅処理ができるかもしれないという考えは、 一体、どのような根拠に基づいているのだろうか。
加速器駆動未臨界炉は、未臨界の原子炉と加速器とを組み合わせたシステムである。 このシステムでは、加速器からの中性子の供給が途絶えれば、 原子炉内の中性子数は指数函数的に減少し、やがて原子炉は自動的に停止する。 すなわち、何か不慮の事態が生じても、加速器の電源が切れれば原子炉は自動的に停止する。 このため、チェルノブイリ原子力発電所事故のような、原子炉の出力が上昇して制御できなくなるような いわゆる暴走事故が起こりにくいから、従来型の原子炉よりも安全であるとされる。 しかし、この説には、一つのごまかしと、一つの重大な誤りがある。
まず第一に、いわゆる暴走事故が起こりにくいのは事実であるが、 加速器の電源を切っても原子炉が自動的に停止するとは保証されていない点をごまかしている。 もし原子炉が正常で、きちんと未臨界を保っているならば、確かに原子炉は自動停止するだろう。 しかし制御棒が抜けるなどの不慮の事故により超過臨界となってしまった場合、 加速器からの中性子供給がなくても、原子炉出力はどんどん上がり、いわゆる暴走事故となる。 予め臨界に到達し得ない量の核燃料しか装荷しないならば、理論上、暴走事故は完全に防げるが、 その場合は経済性が極端に低下する。
このように書くと、一部の専門家からは「そもそも加速器駆動未臨界炉に制御棒は存在しない」 などとの批判があるかもしれないので、予め反論しておく。 現在の研究レベルの加速器駆動未臨界炉では制御棒がないケースもあるが、 将来の商業ベースの加速器駆動未臨界炉ではどうなるかわからない。 いずれにせよ、制御棒が存在しないことは加速器駆動未臨界炉の要件ではなく、本質的な議論ではない。
第二に、これは福島の事故が起こるまで私も認識していなかったが、 加速器駆動未臨界炉は従来の原子炉よりも安全性が低い疑いがある。 というのも、いわゆる暴走事故などは、現代の原子炉ではまず起こり得ない。 そう考えれば、原子炉の安全性を議論するとき、現代において重要なのは、いわゆる暴走事故の可能性ではない。
加速器駆動未臨界炉は中性子源付近における核分裂の頻度が極端に高く、 中性子源から遠い位置での核分裂の頻度が極端に低いという特性を持っている。 そのため、中性子源近傍での発熱量が大きいため、十分に冷却することが難しいという問題がある。 ここで福島の事故を思い返していただきたい。 あれはチェルノブイリのようないわゆる暴走事故ではなく、冷却に失敗したことによる爆発事故であった。 加速器駆動未臨界炉は、その局所的な発熱量の多さ故に、 冷却失敗による事故発生の可能性は従来の原子炉よりも高いと考えられる。 そう考えると、加速器駆動未臨界炉は、本当に安全なのだろうか。
少し後の話になるが、医学部編入試験において富山大学や名古屋大学では過去の研究内容を発表したが、 その時「加速器駆動未臨界炉を用いれば福島のような事故は起こらないのか」と問われた。 そこで私は、原子力学界における共通見解ではなく個人的な認識であると前置きした上で 「残念ながら、むしろ福島のような冷却失敗による事故は、かえって起こりやすいと考えられる」と 率直に述べた。
核分裂が起こると中性子が放出されるが、この中性子には「即発中性子」と「遅発中性子」とがある。 即発中性子とは、核分裂の直接の産物である中性子のことである。 つまり、核分裂では重い一つの原子核と一つの中性子から、 ふつうは二つの軽い原子核と、何個かの中性子、そして何個かのニュートリノが生じる。 この中性子が即発中性子である。 一方、核分裂で生じた軽い原子核は、その後、何回かの放射性壊変を繰り返す。 その際に中性子を放出する壊変を行うことがある。こうして放出される中性子が遅発中性子である。 名前の通り、即発中性子は核分裂と同時に発生し、概ね 1 ミリ秒もしないうちに 他の原子核に吸収されるなどして失われる。 これに対して遅発中性子は、遅いものでは核分裂が生じてから 1 分以上も経ってから発生する。
さて普通の原子炉では、臨界状態を保って運転がなされる。 臨界状態とは、核分裂で生じる中性子の数と、原子炉から失われる中性子の数が等しい状態のことである。 また、原子炉の出力を上昇させるときには、一過性に超過臨界の状態を作る。 超過臨界とは、核分裂で生じる中性子の数が、原子炉から失われる中性子の数よりも多い状態のことである。 ここで注意すべきは、「核分裂で生じる中性子」とは、即発中性子と遅発中性子の合計のことだという点である。
もし仮に、核分裂で生じる即発中性子の数が、原子炉から失われる中性子の数よりも多くなったら、大変である。 この状態を「即発臨界」と呼ぶのだが、どのように大変か、計算してみよう。 たとえば、発生する即発中性子の数が、失われる中性子の数より 0.1 % だけ多くなったとする。 また、即発中性子は平均 500 μs で他の原子核に吸収されるものとする。 もし、この状態が続いたとすると、0.1 秒後には原子炉の出力は 7.3 倍になり、0.5 秒後には 21000 倍になる。 これは原子爆弾の中で起こる現象であり、決して、原子炉の中で起こしてはならない。 だから、即発臨界を防ぐために、何重もの安全対策が講じられている。 余談ではあるが、いつぞやの日本の原子力発電所において、複数の制御棒が引き抜けた臨界事故があった。 このとき、実は短時間ではあるが即発臨界が起こっていたのではないかとの話を、学会だかどこかで耳にした覚えがある。 一時的に即発臨界が起こってもすぐに収束するということは、それだけ原子炉の安定性、安全性が高いということでもある。
さて、原子炉の出力を上げるときには、即発臨界を避けつつ、 「発生する即発中性子 < 失われる中性子 < 発生する即発中性子 + 発生する遅発中性子」 という関係の超過臨界を保たねばならない。 将来的にトリウム232 を核燃料として使う際には、この点が問題となる。 トリウムやプルトニウムの場合、ウランに比べて遅発中性子が少なく、即発中性子が多いのである。 そのため、出力を上げるために「失われる中性子 < 発生する即発中性子 + 発生する遅発中性子」 という関係を作ろうとすると、誤って 「失われる中性子 < 発生する即発中性子」という関係、つまり即発臨界を達成してしまう危険がある。
そこで加速器駆動未臨界炉の出番だ、という人がある。 加速器駆動未臨界炉では、そもそも原子炉が未臨界状態に保たれるのだから、 遅発中性子が多かろうと少なかろうと、問題なく制御できる、というのである。
この意見は、私は眉唾ものであると考える。 トリウムやプルトニウムでは遅発中性子の割合が低いとはいえ、 それでもウランの場合にくらべて 4 割程度の比率ではあるが、遅発中性子は生じるのである。 これは、原子炉の出力制御に支障を来すほど少ないのだろうか。 十分に安全に配慮した設計をすれば、即発臨界を防ぎつつ出力を上げることは可能なのではないか。
加速器駆動未臨界炉の概念は、カルロ・ルビアなる物理学者が提唱したらしい。 彼は素粒子物理学の分野でノーベル賞を受賞した人物である。
加速器駆動未臨界炉を説明する際には、しばしばルビアの名と 「エネルギー増幅系」という表現が用いられるが、これが実に胡散臭い。 彼の論文はあまりに長大で、途中で嫌になって読むのをやめてしまったので、 彼が本当のところ何を主張したかったのかは、私は把握していない。 だが、原子炉業界で彼の名が出される際には、 「ノーベル賞物理学者が提唱したのだからキチンとしたものなのだ。すごいのだ。」とでも いわんばかりの説明がなされる。
その一方で、高速増殖炉やいわゆる第四世代原子炉などの有効性が主張される際には、 加速器駆動未臨界炉の場合のような権威付けはなされず、純粋に技術的な観点から有用性が説明される。 このことは、ノーベル賞のような権威に頼らねばならないほど、 加速器駆動未臨界炉の有用性は疑わしい、という証拠でもある。
先に述べたように、私は、加速器駆動未臨界炉については当初より若干の疑問を抱いていたし、 研究と学習を進めていく中で、その疑問は徐々に膨んでいった。
修士課程への進学を検討しているという学部学生が、研究室の見学に訪れることがある。 そうした際には、我々大学院生が研究内容などを説明する機会もあるのだが、 加速器駆動未臨界炉については私が話すことが多かったように思う。 そうした場合の説明は、その時点での私の加速器駆動未臨界炉に対する疑問の程度により、大きく左右された。 「加速器駆動未臨界炉は非常に素晴らしい、将来が期待される技術である。」というような説明をしたこともあるし、 「加速器駆動未臨界炉は胡散臭い。この研究室に来ても、加速器駆動未臨界炉の研究は避けた方が良い。」などと言ったこともある。
そのように、加速器駆動未臨界炉に対する考えは揺れ動いていたのだが、 博士課程に進学してから、加速器駆動未臨界炉はインチキだ、との確信が徐々に強まっていった。 これは、一つには私が原子炉というものをより深く理解できるようになってきたために正しい判断が可能のなったがためであろう。 だが、もっと大きいのは、原子炉業界で数年間を過ごし第一線の研究者の皆様と話す機会も経験する中で、 時には本音に近い腹の内を聴くこともできるようになったことである。 すなわち、加速器駆動未臨界炉が実は胡散臭いということは、ほとんど全ての研究者が内心では思っているらしい、ということが 薄々ではあるが理解できてきたのである。 とある欧州の研究者などは、個人的なメールで 「加速器駆動未臨界炉自体は、ほとんど役に立たないと思われる」という趣旨のことを、はっきりと書いてくださった。
結局、加速器駆動未臨界炉は、研究予算を獲得しやすいから研究しているに過ぎないのではないか。 いわゆる「加速器駆動未臨界炉の利点」は、無理矢理ひねりだした、誰も信じていない、後付けの説明ではないか。
私が大学院で原子炉の分野に進むことを決めたとき、ある教授は 「今さら、原子炉の何を研究するのだ」と言ってくださった。 後から思えば、この言葉は、正しかった。 研究のための研究、予算のための研究としか、思われない。 私は研究者になりたかったが、しかし、世間を欺く研究などには従事したくない。
だが、もしかすると、私が無知蒙昧であるために加速器駆動未臨界炉の真の価値を理解できていないだけかもしれない。 私はもとより謙虚で慎重な性格であるから、そのような可能性は常に頭の片隅で考えていた。 私の所属していた研究室で当時盛んに行われていた実験についても、私には到底、意義が理解できなかったが、 実は深淵な学術的価値があり、私だけが理解していないのかもしれない、とも思っていた。 そうした疑問が完全に晴れたのは、博士課程三年生の時、2010 年に米国 Pittsburgh で開催された国際会議 「Physor 2010」でのことであった。
私の研究室の助教は、Physor 2010 で、我々が保有している小型原子炉と加速器を組み合わせて行った実験について報告した。 これは、核燃料としてトリウムのみを用い、ウランなどは全く使わない原子炉に対して 加速器から中性子を供給し、様々な測定を行ったものである。
これは、加速器駆動未臨界炉としてはかなり異色である。 ふつう、トリウムを用いた原子炉においては、核燃料としてはトリウムとウラン 233 の混合物を用いる。 なぜならばトリウム自体はほとんど核分裂を起こさず、中性子を吸収してウラン 233 に変化し、 そのウラン 233 が中性子と反応して核分裂を引き起こすからである。
助教が発表を終えると、会場からは「炉心にはウランは入っていないのか」との質問が出た。 これは当然、「トリウムだけを入れて、何の意味があるのか」という意味の質問であろう。 しかし助教は「ウランは入っていない。トリウムだけである」とのみ答え、その目的については言及しなかった。
実際、あの実験は無意味であったと思う。トリウムだけから成る原子炉は非現実的であるし、 トリウム自体の物性を測定するには、誤差が大きすぎる。 実験のための実験に過ぎず、論文のための論文であり、科学的価値がない。 井の中の蛙、自己満足のための研究である。
もちろん私は、その実験の責任者である准教授 (後に教授) に何度が質問をし、 そうした実験は無意味ではないかと述べた。 だが、彼は、私のような蒙昧な学生の意見に貸す耳を持っていなかったようである。 助教には何度も意見を述べたが、彼は私の意見に同調する様子をみせながらも、准教授には何も言わなかったようである。
私が博士課程二年生の時、JAEA (日本原子力研究開発機構) の原子炉物理学部門が、研究者の求人の公募を出した。 2011 年 3 月修士課程修了見込もしくは博士課程修了見込の者、が対象となっている。まさに私が該当した。 JAEA は公的な原子力研究機関であり、日本の原子力研究の中心であるといえる。 そこの研究者は、日本で原子力を研究するならば、理想的な役職であるといえる。 しかも昨今の日本では原子炉物理学を専攻する学生が乏しいために、競争倍率は非常に低いことが予想された。
だが上述のように、私は既に原子力研究に対する絶大な不信を抱いていたために、応募する気が全く生じなかった。 JAEA の研究者の方からも、個人的に「応募したまえ」との言葉をいただいたが、その気にはなれなかった。
後から思えば、JAEA に応募しなかった時点で、私には原子力の世界で生きていく道は断たれていたといえる。 JAEA がダメなら、三菱や東芝といった会社は論外であろう。 大学のポストが仮にあったとしても、JAEA より良い環境だとは考えにくい。 もはや、就職先など存在しないのだ。しかし、当時はそのような認識を持っていなかった。 我ながら、あまりにも考えなしである。
私が博士課程二年生の時に、修士課程に新入生が三人、入ってきた。 二人は高等専門学校出身者であり、もう一人は京都大学工学部物理工学科原子核工学サブコース出身、 すなわち私と同じ経歴の、女性である。
この女性は非常に優秀で勤勉な人物であったが、准教授との関係構築に失敗したようである。 なお、教授は実験所の所長で忙しく、退職も近かったことから、研究室を実質的に主宰していたのは准教授である。 もしかすると、私と准教授との確執に彼女を巻き込んでしまったという側面も、あるかもしれない。そうであれば、申し訳なかった。
彼女は非常に激しい人物であり、私に対しても、かなり忌憚のない批判を加えてくれた。 どうして、そんなに周囲の顔色ばかりうかがっているのか、などと言われたこともある。 彼女には、生きていく上での対人関係の技術をいろいろと教わったし、 それまでの学生生活の中で、私が最も深く信頼した人物でもあった。
しかし、彼女は結局、准教授との関係がこじれ、彼女が修士課程二年生で、私が博士課程三年生の 5 月頃に、 退学を決めてしまった。書類上の退学は 9 月末であったと思う。
あまり論理的なつながりはないのだが、彼女の退学に引きずられるような格好で、 私も 6 月に、届は提出しない事実上の休学を決めてしまった。先述の Physor 2010 から帰ってきた直後である。 もう、あの准教授が率いる、あの研究室で続けるのは嫌だ、無理だ、と、思ったのである。
結局のところ、准教授と私とその女性の三者は、折り合いが悪かったということである。 とはいえ、そうした人間関係をまとめていくことこそが、組織の上に立つ者の職務ではないだろうか。 あるいは、私の協調性が極度に不足していたのだろうか。 協調性の足りない学生が二人、たまたま揃ってしまったことが悪かったのだろうか。
後に別の教授から指摘されて気がついたのだが、研究室を実質的に主宰しているのが准教授であっても、 形式的には教授が責任者なのであるから、遠慮せずに教授に相談すれば良かったのである。 だが、それをしてはいけないような雰囲気が、あの時の研究室内にはあった。 なんとか我々を救ってくれようとした先輩も、我々に、教授の所に相談に行けとは言わなかった。言えなかったのだと思う。
あの孤立した空間、有刺鉄線に囲まれた研究室で、扉を開けるには ID カードが必要となるような、あの環境、 同じ実験所内にある他の研究室との交流がほぼ途絶し、閉鎖された20名にも満たない村社会、あれは教育環境としては破綻していると思う。
休学とはいっても、復学の見通しがあるわけではない。 今後の身の振り方を考える間、形式的に籍は残しておくというだけのことである。 私は当初、国内の別の大学院で、原子炉物理学の研究を行っている所に移ろうかと考えていた。 制度上は「転学」というものがあり、在籍さえしていれば、規則上は他大学へ転籍することが可能となっていた。 もっとも、実際に転学が行われた例は少ないようで、通常の入試を受けることになるだろうとは予想していた。 そのような思惑の元、私は京都大学に籍を残したまま、 あちこちの研究室に対し「博士課程学生として受け入れてもらえないか」とのメールを送った。
返事は一様に残念なものであった。既に博士課程の学生を抱えていて、これ以上は面倒をみられない、 というような説明が大半であったように思う。 しかし一人だけ、別のことをはっきりと述べた教授がいた。 その教授にとっても、私の元指導教員である准教授との関係があるから、簡単には受け入れられない、というのである。 その教授は、私のメールの文面から考えるに、あくまで私の側に非がある、と指摘し、 きちんと謝って元の研究室に戻るべきである、と、おっしゃった。
この頃、私は先に退学を決めた後輩の女性と密に連絡を取っており、この教授の意見についても相談したのだが、 彼女は私のために憤慨してくれた。何も知らないくせに、何を偉そうなことを言っているのだ、と。
ともあれ、他の大学に移るという選択はないようである。 もはや、退学するしかないのだ。
自殺を覚悟したのは、この頃であったと思うが、あるいは、もう少し後であったかもしれない。 とにかく、退学が不可避となり、一方で医学部に行くことを決めていなかった時期のことである。 私は大学に入学する時点で、博士課程にまで進学し、研究者になるつもりであった。 もし能力が至らず研究者になれなければ、自殺すれば良い、と考えていた。 一般企業に就職するつもりは、毛頭、なかった。 そして現に研究者になれなかった以上、それを決行せざるを得ない、と考えた。
自殺において最も恐ろしいのは、未遂である。 自殺の手段としては縊頸が多いとされるが、同時に、縊頸は未遂率も高いとの話も聴いていた。 特に、脊髄の重要な箇所を損傷し、半身不随などの重篤な後遺症を伴う未遂がしばしばみられる、との話もあった。 単なる未遂であれば、やり直すことができるが、半身不随では、それも不可能である。 それが一番、怖かった。
当時みたウェブサイトの中で、一番、印象に残っているのは http://tyuutai.blog96.fc2.com/ である。 博士課程中退者のブログで、自殺未遂した報告が最終更新である。 その後、遂げたのかどうかは不明であったが、2013 年になってから某所で、 このブログの主と思われる人物の書き込みをみかけた。 もし同一人物であるならば、結局は思い留まって、なんとか生きていらっしゃるようである。
さて、未遂を避けることを最優先にするならば、多少苦しくとも、決行すれば必ず遂げられる方法を選ばねばならない。 いわゆる名所としては富士の樹海や東尋坊があるが、樹海における自殺は結局は縊頸であり、未遂率が高いという。 東尋坊も、なんとなく死にそうな感じはあるが、意外と死なないという話を読んだ。 そもそも、きれいに飛び降りるのは、実際はなかなか難しいともいう。
確実に、あちら側にいける場所は、伊豆大島の三原山ではないかと思う。 昔、女学生が決行したとかで有名ではあるらしい。 楽には逝けないものの、落ちればまず助からないと考えられ、確実性がある。 もちろん観光地である以上、地元の皆様には迷惑がかかるだろうが、正直なところ、そんなことはどうでもいい。 私の知ったことではない。
火口付近は現在立入禁止、という情報もあったように思うが、 その気になれば入れないことはないだろう、と考えた。 伊豆大島へのアクセスとしては、熱海から高速船が出ているらしいから、それで良かろう。 現地入りした当日に決行するのは、地理に不案内な状況では難しいかもしれない。 火口に至る途中で負傷して満足に動けなくなり、他人に発見されでもしたら厄介である。 一泊か二泊の予定で島に入り、十分に手順を確認してから往くべきであろう。 あまり安いビジネスホテルのようなものはないらしい。 ユースホステルのようなものはあるようだが、あまり他人とは接触したくない。 ちょっと高級感のある旅館にしようか。 従業員に怪しまれそうな気もするが、ぶらり一人旅、ということで押し切れば大丈夫だろう。 等々と考えた。
自殺企図者に対しては、社会的に様々な働きかけがなされている。 いのちの電話、などもある。 たぶん、それらで救われている人もいるのだろうし、良いことだとは思う。 だが、私としては、そういった所に連絡する気にはならなかった。
別に、苦しいから死にたかったわけではない。 誰かに助けて欲しかったわけでもない。 理解して欲しかったわけでもない。 他人に、何を相談することがあろう。 単に、生きていくことに意義が感じられなかっただけである。 だから「生きていれば良いこともある」というような言葉には、腹が立つ。無責任なことを言うな、と。
死は、全ての人に等しく与えられた、最後の権利であると思う。 だから「親や周囲の人が悲しむ」とかいう言葉にも腹が立つ。 他の人は関係ない。私の権利なのだ。 私から、社会で能力を活かす機会を奪っただけでなく、さらに、最後の人権までも束縛するのか、と。
どうして、生きていく必要があろう。 誰かが自殺せねばならない社会は悪であるが、自殺することそれ自体は悪いことではないと、私は今でも思っている。
往きたくないという気持ちは、確かにあった。悔しかったのである。 私が落ちこぼれたのは、私自身の能力不足のせいではない。 周囲が、環境が、指導教員が悪かったのだと、思う。 私自身が無能であったがための退学ならば仕方ないが、私の責任ではないのだ。 どうして、彼らが社会的地位を確保して、私があちら側に行かねばならないのだ。 納得ができなかった。
納得はできなくても、もう行くしか選択肢はないと覚悟を決めた後、泣きながら、例の後輩の女性に対して愚痴を述べた。 「確かに私は(博士の)学位を取らなかった。取れなかった。しかし、それは私が無能だからではない。」と。 彼女は言った。「あたりまえだ。あなたを無能だと思っている人などいない。それは准教授だって同じのはずだ。」と。 私は「私のような人間を叩き潰していくから、いつまでたっても、世の中が良くならないんじゃないか。」と続けた。 それに対する彼女の言葉で、私は救われた。 「あなたは、まだ潰れていない。」
私は、身の振り方を考えねばならなくなった。 形式的にはまだ退学も休学もせずに完全に在籍していたが、 実際には退学が不可避である以上、もはや原子炉物理学の世界に残ることは考えにくい。 そこで私が考えたのは、他分野への転向である。 なお、このあたりの行動については時系列の記憶が非常にあやふやである。
私は京都大学大学院工学研究科原子核工学専攻、 すなわち私の出身学部の附属大学院の、某教授の所を訪ねた。 当初、私が進学を予定しており、試験当日になって考えを改めた研究室である。
事情を説明はしつつも、その教授の研究室に移りたい旨は、 さすがに、なかなか切り出すことができずにご迷惑をおかけした。 話を聴いた教授は「そんな、人生を棒に振るような真似はやめろ」とおっしゃった。 今また大学院に入りなおすなどすれば、まともな就職はできなくなる、というのである。
既に一報の論文は公表されていることを告げると、教授は、それならば学位も取れるだろう、とおっしゃった。 昔は学位取得には三報の論文が必要であったが、今は一報で良いことになっている、というのである。
その教授を訪問したのと時間的な前後関係をよく覚えていないが、 私は京都大学大学院工学研究科原子核工学専攻の修士課程入試説明会にも顔を出した。 もちろん「なんでお前がここにいるのだ」というような顔をされた。 このとき、件の後輩の女性も退学後の進路が未定であったため、一緒に行った。
専攻内の化学系の研究室の教授および准教授と面談し、 事情を説明し、化学への転向を検討していることを述べた。
教授も准教授も、はっきりと、私の考えを否定された。 今からまた大学院生をやり治すとなれば、修了は 30 歳を越える。 そうなれば、まともな就職は期待できない。 もし実家が裕福であり、学問だけやっていれば良いような環境ならともかく、 今からまた学生に戻るなどというのは非現実的である、というのである。
さらに教授は私の論文執筆状況を尋ねられた。 私は既に一報は論文誌に掲載されており、二報目も準備中であること、 二報目の内容は若干品質が低いが、少なくとも一報目については 内容にも自信があることなどを告げた。 すると教授は、まだ退学願を出していないなら、 そのまま研究室に残り、学位を取得することを強く勧められた。
また、教授であったか准教授であったか忘れたが、とにかく 休学も避けた方が良い、とも言ってくださった。 大学院生は既に研究キャリアの一部であり、 「休学」の経歴は将来、不利益に働く恐れがある、というのである。
弱気になっていた私は、その教授の指摘にも一理あると考え、原子炉実験所の所長に相談した。 なお、私の当初の指導教授は既に退職し、所長も別の教授に代わっていた。 幸い、この新しい所長とは面識があり、工学部時代にも、とある問題でお世話になった方であった。 所長から時間を頂戴して面談し、泣きそうにながら、仲裁をお願いしたのである。 確か、このときであったと思うが、どうして元の指導教員である教授に相談しなかったのかと問われ、 初めて、そのような選択肢があったことに思い至ったのである。 所長には「喧嘩の仕方が下手だな」と言われた。
しかし、その後、どういう経緯であったか忘れたが、やはり元に戻ることは不可能であるとの結論に至り、 所長に対しても、仲裁の件の取り消しをお願いした。
あるいは、件の女性に泣きついて励まされたのは、この頃であったような気もする。
傍からみると突拍子もない発想のようだが、私は、法曹へ転向することにした。 私は高校生の頃、法学部に行きたかった。裁判官になりたかったのである。 裁判官は、社会の正義を司るという崇高な職務を担っている。 検察官も似たようなものではあるが、どうしても、 検察には邪悪な、不正な、忌まわしい印象があった。 弁護士は、依頼人を勝たせることが任務であり、正義とはいえぬ。
裁判官になるためには司法試験に合格せねばならず、 そのためには法学部に進学するのが妥当と考えられた。 しかし残念なことに、私は試験の成績に関していえば完全に理系であり、 法学部の入試に合格することははなはだ困難であるように思われた。
そういった経緯もあり、今こそ、法曹に転じる機会ではないかと思ったのである。
もちろん、三十路に達してから司法試験に合格するようでは 裁判官や検察官になどなることは、制度上は可能であっても 現実的には至難であろうことはわかっていた。 弁護士が余っていて仕事がない、などというニュースも知っていた。 だから、心中では、自殺する前に法科大学院に行って、司法試験ぐらい受けておくか、 というぐらいのつもりであった。
原子力から離れることを決意したため、お世話になった所長に挨拶に伺い、 司法試験を目指す旨を伝えた。 このとき、医学部に行った学生は知っているが、司法試験は聴いたことがない、 というようなことを言われたような気がする。
この頃、一度、京都で父と面談した。 何を話したかよく覚えていないが、後半は、ほとんど泣きながら話していたように思う。 父はしきりに就職するよう勧めていたが、私は断固として拒絶した。 私には、何としても生きていこうという意思がないのだ、と言ったことを覚えている。 生きることは手段であって目的ではない、という考えは、今でもやはり変わっていない。
たぶん父としては、現実を見据え、実現可能な範囲で豊かな生活を送れるよう、 妥協点を探ることを勧めたかったのだと思う。 だが、生きるということに関する考え方が根本的に違う以上、特に何の合意も得られなかった。
私は内心、父も老いたな、と思った。 昔から特に仲の良い父子ではなかったと思うが、それでも、今の私の生き方は少なからず父の影響を受けている。 正しいものは正しい、間違っているものは間違っている、自分の信じる道を曲げてはならぬ、と 私に教えたのは、他ならぬ父であった。 その父が、いま私に、現実と妥協しろ、と言っている。 この人と話すことは、もう何もない、と、私は思った。
この頃、私は母にもかなりの心配をかけていたようである。 何度か母から、とりとめもない、悩みをなんとなく綴ったようなメールをもらった。 あの母が、こんな心配を露にしたメールを子に送るのか、と、申し訳なく思ったことを覚えている。
私の父は名古屋大学教育学部の、母は三重大学教育学部の出身である。 父は教職の経験を持たないが、母は結婚するまで中学校の教員であった。 母は、優れた教育者であったと思うが、残念ながら、父は母ほど良い教育者ではなかった。
たぶん私は高校を卒業してから自宅浪人と称して勉強もせずにダラダラと過ごしていた時期にも、 多大な心配を両親にかけていたのだと思う。しかし母は、そのようなそぶりを一切、私にはみせなかった。 たぶん、私が京都大学に合格するなどとは、ほとんど期待していなかったのだろうが、 そのような気配を、私には微塵も感じさせなかったのである。
私は高校三年生の時に東京大学理科 I 類の前期試験と京都大学工学部物理工学科の後期試験に出願し、 前者は不合格となった。これで意気消沈した私は、後期の試験を放棄し、受験しなかった。 二年目は、京都大学工学部物理工学科の前期と後期を受験したが、前期試験は不合格となった。
父は、私の能力を全く信用していなかったのだろう。 二浪は許さぬ、というようなことを言った。 売り言葉に買い言葉のようなものであるが、私は、そこら辺の大学に行くぐらいなら、 フリーターをやりながら京大を目指す方が良い、などと言った。 父も引き下がれなくなったのであろう、無理に笑顔を作りながら、どんなバイトが良いかね、などと言った。
このときは、まだ京都大学の後期試験が行われていない段階であった。 後期試験に全ての望みをかけている息子に対して、不合格を前提とした話をするのか。 あの時の怒り、恨みは、生涯、忘れることができないと思う。
結局、私は父の圧力に屈し、立命館大学理工学部と京都産業大学理学部にも出願することにした。 いずれも出願時期が遅い、いわゆる二次募集の類であった。 実は合格発表をみるまで知らなかったのだが、こうした二次募集は定員が少ないため、競争率が高く、 いわゆる合格偏差値は高いらしい。 結果として立命館大学は不合格となったが、京都産業大学には合格した。
私としては京都産業大学にまともに通う意思はなく、 京都大学が不合格となった場合は、いわゆる仮面浪人をやるつもりであった。 たぶん、そのことは母も理解していたと思うが、父はどうであっただろうか。 我々は一生、理解しあえないのではないか。
後から聴いた話では、どうやら父は、私が名古屋大学医学部を受験すると決めた時にも、 受かるわけがないと思っていたらしい。ずいぶんと、馬鹿にされたものである。
ここまで、原子炉実験所の所長などから「医学部」というキーワードを 聴いていたにもかかわらず、 私には医学部へ逃げるという発想が全く湧かなかった。 私は、医者は人の生命をダシにして金を儲ける死の商人である、と考えていたし、 優秀な頭脳を持ちながら医学などに進む学生連中を軽蔑していた。 そんなに金と名誉が欲しいのか、というのが、医学部学生に対する印象であった。
そんな私を医学部に送り込んだのは、何度か登場している、 大学院時代の後輩の女性である。 彼女は滋賀県出身なのだが、あるとき、 滋賀医科大学の編入学試験を受けようかと思っている、と言った。 同大学は伝統ある名門医科大学であり、学士の学位を有する者を 編入学させる制度があり、それを受ける、というのである。 私は、フーン、そうか、という程度に聞き流した。
ところが後に、この思い出話を彼女にしたところ 「私は、そんなことは言っていない」などと言う。 状況を総合すると、どうやら彼女自身は医者になどなる気は毛頭なく、 滋賀医科大学に入る気も全くなかったのだが、 私が司法試験に進んで自滅しようとしているのをみかねて、 医学に進むことを勧めようとしたものと思われる。 しかし直接に医学部編入を勧めれば私が頑なに拒絶することは明白であったから、 そのような婉曲な方法で、医学部編入の可能性を示唆したのであろう。
もう少し後になって、彼女は、河合塾などがやっている、 公務員試験対策講座やら何やらのパンフレットを集めて、私にみせてくれた。 もちろん、その中には医学部編入対策講座も入っていた。 彼女は何気なく、それらのパンフレットを私に渡した。 「持ってくれ」という意味に解釈し、私はそれらを預かった。 別れ際に、それらのパンフレットを返そうとすると、彼女は 「いや、それはあなたのでしょう」などと言った。 私は「もう不要だから捨てておいてくれ」という意味に理解した。
結局、彼女は私の操り方を完全に心得ていたといえる。 私自身は、自分の自由意志で医学部編入に路線変更したつもりであったが、 実際には、彼女の勧めるままに行動していたに過ぎないのだ。 彼女は内心、私の単純さに呆れかえっていたに違いない。