私が研究室に通わなくなったのは 2010 年 6 月中旬であり、医学部へ行くことを決めたのは 7 月末頃であったと思う。 形式的には 2011 年 3 月までは京都大学大学院の学生であり、 名古屋大学医学部に編入学したのは 2012 年 4 月である。 どこで線を引くかは曖昧であるが、便宜上、医学部へ行くと決めてから実際に入学するまでの 20 ヶ月程度を、人生二度目の浪人期間ということにする。
実にタイミングの悪いことに、少なくとも 2010 年度に関していえば、医学部編入学試験の大半は夏頃に実施された。 私が受験の意思を固めた 7 月末には、既に大半の大学で出願が締め切られていたのである。 しかも、医学部編入では生物に関する筆記試験を課す大学が多いという。 私は、生物のことなど何も知らなかった。 リボソームとか、ミトコンドリアとかいう言葉は知っていたが、それが何を意味するのかはわからなかった。 DNA と RNA の違いも、よくわからない。RNA は DNA をコピーして作るらしいというような話はなんとなく覚えていたし、 ATP という物質か何かが生物にとって重要だということは学部時代に何かの講義で聴いて漠然と知っていた、という程度である。
インターネットで調べていくうちに、どうやら群馬大学が狙い目らしい、ということがわかった。 まだ出願が間に合うし、少くとも募集要項上は、生物学を出題するとは書かれていなかったのである。 出願に必要な卒業証明書等を京都大学に請求する一方で、推薦書は大学院時代の当初の指導教員に依頼した。 既に大学を退職し、東京で別の仕事に就いていらっしゃった、元教授である。
確か、群馬大学には請求すれば過去問を送付してくれる、というサービスがあり、それによって過去二年分の問題を入手したように思う。 甘かった。全然わからないのである。 科目としては「小論文」といったようなものなので、直接的に生物学的な知識を問うわけではないのだが、 生命科学に関する英語の文章(論文?)を読んで答えなければならないのである。 英語には多少の自信はあったが、なにしろ `RNA' はかろうじて知っていても `mRNA' となれば意味不明、という知識レベルなのだから、 細菌の多剤耐性獲得メカニズムに関する説明など、到底、理解できるはずがないのである。 半ば絶望し、結局、過去問も半分程度しか目を通すことができないまま、試験に臨んだ。
天は我に味方した。
2010 年の入試では、生物学とは全く関係のない、むしろ物理学や天文学の歴史が題材に取り上げられたのである。 天動説と地動説の論争とか、アレキサンドリアの井戸の底に夏至の日になると……とか、 物理系出身者なら誰もが知っているような話題の英文が出題されたのだ。 また、地球が丸いことを証明するにはどうすれば良いか、というような、いわゆる思考力を問うような出題もあったが、 これは私にとっては得意中の得意というべき分野である。合格を確信した。 一方で、後に聴いた話によれば、生物系出身者や文系出身者の間では阿鼻叫喚が湧き起こったらしい。
そういえば、私はどういう格好で群馬大学の二次試験 (面接) に臨んだのだろうか。 大学院時代の私はかなりの長髪で、後髪は腰まで届くほどであったと思う。 試験の前に髪は切ったと思うのだが、服装はどうだったか。少なくともネクタイは結んでいなかったように思う。
試験当日の様子は、もう三年前のことになるので記憶も薄れつつある。 集合時刻になる前に、近くの人に積極的に声をかけていったことは覚えている。 そのうちの一人はたまたまグループ面接で同じグループになり、 しかも後に KALS 新宿校で再会した。
二次試験については、医学部編入学試験に 書いたので、特にここで述べる必要はないだろう。 心にもない「地域医療に貢献したい」などという言葉を口にしながら、 「地域医療について、どんなことを知っている?」と問われただけで シドロモドロになるという醜態を晒したのである。
実は群馬大学医学部は重粒子線による癌治療の研究に力を入れており、 これは要するに放射線の世界であるから、私の専門中の専門といえる。 ところが私は、群馬大学がそういう方向に力を入れているという事実を、 面接の当日に他の受験生から聴くまで、知らなかったのである。 つまり群馬大学について何も調べていなかったわけである。 さすがに、これでは二次試験に合格する要素がないと言わざるを得ない。
私は大学院を退学すると決めてから、東京に移住した。 両親は横浜に住んでいたが、実家に戻るのも憚られ、無理を言って独居させてもらった。 学生時代もそうであったが、家賃、生活費など、経済的には全面的に親に依存する生活であった。 嫌な顔一つせず私を支え続けてくれた、立派な両親である。
群馬大学に繰り上げ合格する可能性が完全に消えたのは、2010 年 10 月のことであったと思う。 その後、KALS 新宿校に受講申込を行った。 総合コースという、英語、小論文、物理、化学、数学、生命科学の全科目を受講できるコースで、 学費は一年間で 70 万円程度であった。
私にとって、そして他の多くの受験生にとっても、特に重要なのは生命科学である。 KALS の生命科学講座は、基礎、完成、実戦、の 3 つのコースから成っていた。 基礎コースは概ね高等学校で扱うような範囲を中心としつつも 医学部編入であまり出題されないような分野を除外し、適宜、発展的な内容も含めたものであるらしい。 完成ではそれ以外の、出題され得る範囲全体をカバーし、実戦は主に問題演習と考えてよかろう。
私が受講したのは 2011 年度に実施される編入学試験をめざすものであるが、 基礎コースの講義は既に終了していたため、専ら講義を録画した DVD をみて自習することになった。 完成コースの講義が 12 月であったか 1 月であったかに始まるため、 それまでに基礎コースを終えておきたかった。
平日はほとんど毎日 KALS に通い、予習をしてから DVD を閲覧し、復習をした。自宅では全く勉強しなかった。 教科書を何度も何度も繰り返し読むという勉強スタイルの人もいるそうだが、私は一度しか読まない。 もちろん、後から「あれは何だったっけ……」と、忘れた箇所を調べ直すことはあるが、通して読むのは一度きりである。 その代わり、読むときには、一言一句をしっかりと時間をかけて読む。 内容的なことに限らず、たとえ細かな日本語の誤りや誤植であっても、納得のいかない箇所や 誤りだと思われる点があれば、表紙の裏などの余白にページ番号と共に書き留めておく。 このスタイルを確立したのは、基礎コースを勉強している頃であったと思う。
KALS 生命科学の教材は、非常によくできていたと思う。 誤りは少なからずあったようにも思うが、自分で少し調べれば、すぐにわかるような程度のものであった。 このころ用いた参考書は『シンプル生化学』と、俗に「Cell」と呼ばれる赤い表紙の『細胞の分子生物学』、 そして東京化学同人の『生化学辞典』であった。 『細胞の分子生物学』は、どちらかといえば辞書的な使い方をした。 「最初は簡単な本で勉強して……」というようなことを言う人もいるが、 私は、最初こそ、表面的なことだけでなく深い所までしっかり説明している本で勉強した方が良いと思う。
残念なことに、完成コースが始まるまでに基礎コースの全てを終えることはできなかった。 だが、ようやく教室で他の受講生と一緒に講義を受けることができるわけであり、 私は完成コースの開始を心待ちにしていた。 やはり、独りで DVD をみながら勉強するのでは、味気ない。
完成コースの初回講義の前であったか後であったか、それとも休み時間であったか、 よく覚えていないが、私のすぐ後ろの席に座っていた男性に声をかけた。 彼は私よりやや年上であり、いくらかの職歴があるという。仮に O 氏としよう。 O 氏とは、最後まで勉強会仲間としてつきあったのだが、 残念ながら彼は筆記試験で苦戦し、結局、合格を得られなかった。
完成コースが始まって少しした頃、O 氏から K 氏を紹介された。 K 氏は私より一歳、上であったと思う。 私と同じく京都大学の出身で、いくらかの職歴を経て、 医学部編入に至った人物である。 彼は 2011 年実施の入試では面接に苦しんだものの、二年目となる 2012 年実施の入試で滋賀医科大学に合格した。 医学部における学年は、私よりも一つ下になる。 私が初めて彼の存在を認識したのは、基礎コースを DVD で自習していた頃、 その DVD 閲覧室でのことであった。 彼は背広を来て、JAXAのロゴが入った 布製の手提げ袋を持っていた。 私はてっきり JAXA 職員が医師へ転向しようとしているのかと思ったが、 どうやら、単に JAXA が好きなだけであったらしい。
当初は、私と O 氏と K 氏の三人で週一回の勉強会を始めた。 K 氏は交友関係の広い人物であり、後には彼を介して参加者が増え、 途中で抜けた人もいるが、多い時期には 6 人にもなった。
勉強会仲間の大半は、前述の K 氏を介した知り合いであった。 玉川大学の I 氏は現役大学生であり、 卒業と同時に医学部へ編入学することを狙っている人物であった。 勉強会メンバーの中では最若手である。 生物学関係を現役でやっている唯一の人物でもあり、 チラホラと最先端の話をしてくれたので、たいへん勉強になった。
同じく勉強会仲間のうち、 上智大学卒で、大手外資系金融企業に勤めていた S 氏は文系学部出身であった。 姓は異なるが私と同名であり、歳は私より少し上であったと思う。 彼とは、鹿児島大学の一次試験の際に、 帰りの飛行機で席が隣になったことがきっかけで知り合った。 もともと物理や化学にはあまり詳しくなかったそうであるが、 短期間で、基礎的な範囲をしっかりと修得されたようである。 文理の両刀が使える英才である。
群馬大学の二次試験で出会い、KALS で再会した彼の姓は K であるが、 前述の K 氏と区別するために C 氏としよう。 彼とは勉強会仲間ではなかったが、しばしば校舎内で遭遇し、言葉を交わした。 彼は自分の経歴についてあまり話したがらなかったので詳しいことは知らないのだが、 某大学の物理系出身で、卒業後に SE として働いた経験がある、 ということであったように思う。 彼とは、物理系出身者なればこその話もできた。 今はこうして浪人中の身であるが、高卒で医学部に直行しなくて良かった、 という点において、我々は見解の一致をみたことがある。 まわり道をしたからこそみえるものがあり、 医学や生物学に対する我々ならではの視点というものが、あるのだ。
同じく勉強会仲間ではないが、 K 氏の紹介で知りあった W 氏という女性は有職者であった。 働きながら編入試験のために勉強をして、 既に三年目だか四年目だかという話であったと思う。 結局、鹿児島大学に繰り上げ合格されたと記憶している。 二次試験の際、ただ一人とはいえ、受験生集団の中に知り合いがいるということで なんとなく安心した。
J 氏は、東京大学の学生であった。 知り合ったのは、生命科学の完成コースか実戦コースの講義の時であり、 たまたま近くの席に座っていたので声をかけたのである。 当時、彼は保健系の学部四年生であり、その後 修士課程に進学する一方で、編入に向けた勉強をしているとのことであったと思う。 しかし研究室が忙しいとかで、なかなか KALS に通う時間がないとのことであった。 その後の連絡は途絶えてしまったので、彼が結局どうしたのかは、知らない。
KALS では、営業日は常に自習室および休憩室として教室が開放されていた。 平日は講義が少ないので、大教室が一つ自習室として、小教室が一つ休憩室として、割り当てられていた。 土日は講義が多いために、自習室も小教室であることが多かった。 無職の私は、勉強するときはいつも、その自習室に通っていた。 換言すれば、KALS 定休日の月曜日には、一切、勉強しなかったということである。 自習室メンバーの大半は、いつも同じ顔ぶれであったし、平日は座席位置も概ね定まっていた。
自習室は飲食厳禁、私語も禁止であるが、休憩室は飲食可、歓談などにどうぞ、ということになっていた。 しかし、なぜか自習室でペットボトルの飲料などを飲んでいる人が多かったため、私は一度、 どういうことなのか事務に問い合わせてみたことがある。 すると、食事は遠慮してもらっているが、ペットボトル程度なら構わない、との回答であった。 それなら「飲食厳禁」ではなく「食事禁止」ぐらいにするべきではないか、と思ったが、 争っても仕方がないので黙っていた。
一方、なぜか休憩室で自習している人も多かった。飲食しながら勉強したい、という人々であったのかもしれない。 私は一度、O 氏と生命科学の問題について、休憩室で討論したことがある。 休憩室は歓談などのための部屋なのだから、当然、学術上の議論も可であると判断したのである。 すると、なぜか、休憩室で自習していた人物から苦情を受けた。 勉強しているのだから、静かにしてくれ、というのである。 ここは休憩室であって自習室ではない、と思ったが、その場で争っても無益であると判断し、 とりあえずは事務室に向かった。 事務が言うには、休憩室を議論等のために使うのは構わない、ということであった。 しかし現に苦情を受けた旨を伝えると、階段の踊り場にあるテーブルや椅子を使っても良い、とのことであった。 どうやら、休憩室で自習をしている人々に対する注意喚起は、してくれないようである。
私が京都大学に退学願を提出したのは、地震の前日の 3 月 10 日であった。 翌日の 3 月 11 日、あの時、私はいつものように自習室にいた。大教室に、10 人程度の受講生がいたように思う。 最初は、少し揺れているな、という程度に感じたが、やがて揺れは大きくなった。 近くにいる者同士で顔をみあわせ、誰からともなく、机の下に潜った。 揺れは大きく、長く、いかにも尋常ではない印象を与えた。 あの日、自習室に割り当てられていたのは 8 階の教室であった。 それほど古いビルではないし、冷静に考えれば、あの程度の地震で建物に異常が生じるとは思われないのだが、 当時は、なんとなく、万が一のことがあるかもしれないように思われた。
揺れが収まってから、ぞろぞろと、隣接する公園への避難が行われた。 周囲のビルからも人が集まってきたし、なにしろ新宿である。狭い公園には人があふれかえった。 会社員風の人が多かったが、児童を連れて避難してきた保育園の職員もいた。 その保育園職員はラジオを携帯していたため、ニュースが続々と入ってきた。 震源は東北らしい、仙台あたりでは 10 m 級の津波が襲ってきたらしい、 九段会館では天井が崩落したらしい、などというのである。
とりあえず周囲では大きな被害が生じなかったようなので、我々は余震が続く中、自習室に戻った。 KALS では廊下のロッカーの一部から内容物が通路に散乱していたが、それ以外には異状はみられなかった。 念のため、避難の便を考え、自習室は 8 階から 3 階に変更された。
あの日はたまたま、定例勉強会の日であった。 誰だったか、電車が止まっているため参加できなかった人がいたが、一応、勉強会は開催された。
夜になっても、電車は動いていなかった。 遠方から通っていて帰宅できない人のために、KALS では毛布等を貸し出したそうである。 私はその頃、文京区に住んでおり、徒歩で帰れる距離であったことから、帰ることにした。 方向が同じ K 氏と、途中で合流した他の数名の受講生と共に、新宿三丁目駅の方へ歩き始めた。 路上は車と人であふれ返っていた。
一駅か二駅ほど歩いた時点で、地下鉄が動き始めたらしい、との情報が入った。 そこで最寄りの都営地下鉄新宿線に乗ったのだが、駅構内も人であふれ、殺気立っていた。 「通してやれよ!」などといった怒声も飛びかい、 一歩間違えば暴力沙汰でも発生しかねない雰囲気であった。
もちろん、列車内も大混雑である。 途中駅で、気分が悪くなったらしい高齢の婦人が降りようとしたが、人に阻まれて思うように出口へ移動できない。 K 氏はすかさず「降ります!」と声を上げ、道を作って婦人を通した。 私もそれを手伝ったが、あの咄嗟の行動力は、K 氏を見習わねばならぬ。
私が住んでいたワンルームマンションでは、ほとんど被害はなかった。 ただし、以前アントウェルペンのノートルダム聖堂で買ってきたマリア像は倒れていた。
地下鉄に乗っている時、大学院時代の後輩からメールで、福島の原発で水位が下がっているらしい、との情報が届いた。 私は、何らかの事情で水が漏れ、緊急炉心冷却装置 (ECCS) が作動しそうだ、という意味に解釈した。 ところが後で確認すると、非常用電源も喪失し、ECCS が機能しなかった、という意味であったらしい。
我々は日頃より 「現実には ECCS が必要となる状況など考えられない。万が一の場合のための、過剰ともいえる備えである。」と 教わってきたし、もし ECCS を作動させるような状況が生じれば、それは大事件であると認識していた。 ところが現実はそれどころではなく、ECCS による炉心冷却に失敗した、ということなのである。 原子炉工学の常識的な考えでは、もはや、どうにもならない状況である。 あまり世間では喧伝されなかったが、地震の当日に、事態はそこまで発展していたらしい。
この頃、私は東京の文京区で独居していた。 原発が爆発したという話を知ったのは、KALS で自習していた時、横浜に住んでいる母からの電話によってであった。 建屋が爆発しただけで燃料は一応、無事であるらしかった。 そこで、今は特に何もしなくて良いが、もし燃料まで爆発するようなことがあれば、 可能ならば静岡にでも避難した方が良いと思う、と述べた。 静岡には、父が単身赴任していたからである。
原子炉には、五重の防壁がある。燃料ペレット、被覆管、圧力容器、格納容器、建屋、である。 私は、建屋が吹き飛んだとはいえ、防壁の全てが失われたわけではあるまい、と判断した。 だが、もし燃料が爆発して飛散するようなことになれば、 チェルノブイリと同程度か、あるいはそれ以上の範囲が放射性物質で汚染される可能性がある、と考えた。 Wikipedia によれば、チェルノブイリでは最大で 200 km 程度離れた場所でも、立入禁止となっているらしい。 地図をみると、福島第一原発から文京区までで、だいたい 200 km である。
この頃、炉心溶融などということが言われ始めていたように思う。 そうなれば、何が起こるかわからない、場合によっては東京で交通規制が行われ、避難しようにも避難できなくなるかもしれない。 そう考えた私は、一旦、横浜の実家へ移動することにした。 KALS の友人にも、一時的に実家へ避難する旨を伝えた。 もちろん場合によっては、さらに遠くへ逃げるつもりであった。
大学院生とはいえ、元専門家である私が、このように早急に避難したことについては、 特に業界関係者からは批判があるかもしれない。 しかし、私としてはギリギリまで粘ったつもりであるし、 むしろ専門家の皆様に、なぜ本当のことを言わなかったのかと苦情を申し上げたい。
事故の後、プルトニウムが飛散云々と、世間は一時、騒然となった。 原子炉の研究者諸氏がテレビ等で解説などをしたようだが、その中にはもちろん、私が知っている人もいた。 彼らは公の場では「それほど危険ではない」という趣旨の説明をしていたが、もちろん、釈然としなかった。 某教授が「致死量で考えれば、プルトニウムは食塩より安全である。」などとテレビで言ったという記事を読んだことがあるが、 本当にそんな馬鹿げた発言があったのかどうかは、私は直接には確認していない。 事故の前には、プルトニウムは放射線源としても問題であるが、 それ以上に化学的な毒性が強く微量でも危険だから実験の際には気をつけろ、 と、あれほど厳重に注意喚起していたではないか。 パニックを抑えなければならない、社会への影響を考えねばならない、という事情はわかる。 しかし科学者として、研究者としての立場で発言するならば、あくまで普遍的事実に基づき、 中立の立場から解説をするべきではなかったか。 社会への影響を云々するのは政治家の仕事であり、科学者の仕事ではないと思う。
東京においても放射線量が多かったのは、事実である。 直ちに避難を要するわけではないが、無理なく可能であるならば疎開されたし、ぐらいのことは、言うべきではなかったか。 本当のことを言わないから、御用学者だの何だのと言われ、信用を失ったのではないか。
2011 年度実施の入試で、最初に行われたのは福井大学であった。 新幹線で東京から米原へ、そこから特急で福井へと、向かった。2011 年 5 月 20 日のことである。 どうやら福井は恐竜の化石がたくさん出ることを売りにしているらしく、駅にも恐竜のモニュメントや看板があったと記憶している。 福井大学医学部へは、福井駅からさらに鉄道で何駅か移動し、そこからバスが出ているということであったが、 私はバスに乗らずに徒歩で大学に向かった。
福井大学医学部は、みごとに田圃の中に立っていた。 世間の喧騒に惑わされず、学問に専念するには、良い環境であろう。
私は試験当日の朝、余裕を持って早めに大学に到着した。 後から続々とやってくる受験生の中には、KALS でみたことのある顔も多かった。 前年度に群馬大学で会い、KALS でも言葉を交わした C 氏も、その中にいた。 私は、暇なので廊下をぶらぶらするついでに、 知っている人であるとないとに関わらず、おはようございます、と挨拶をしていた。 すると、私を案内係と勘違いしたのであろう、幾人かの受験生は、自分の行くべき教室がどこであるかを、 近くに立っている係員ではなく私に尋ねた。 私は既に教室の配置などを理解していたから、適切な指示をすることができたと思う。
係員のふりをするのに飽きると、廊下に貼られている掲示物をながめた。 特にどうという情報もなかったが、どうやら福井大学には、 初期臨床研修と並行して大学院に通うことができる制度があるらしい、ということがわかった。 実は同様の制度は多くの大学にあるのだが、この時点では私はそのことを知らなかった。
福井大学の学科試験は非常に易しく、私は合格を確信していたし、実際、無事に合格した。
7 月 2 日の二次試験、すなわち面接には、背広を着て、ネクタイを結んで臨んだ。 将来、どのような医師になりたいか、と問われ、基礎医学研究者になりたい、と答えた。 しかし、これでは満足いただけなかったようで、あくまで臨床医としての理想像が問われていたようである。 医学は人を相手にする学問であり、その点が物理などとは違う、 患者相手には専門用語をあまり使わず、わかりやすく説明することが必要である、 たとえば大学の卒業論文に書いた内容を我々にわかりやすく説明できるか、などと問われた。 私の卒業論文は、量子力学の不確定性原理に疑いを持つ学派の主張をまとめたレビューである。 私は、この問題を手元にあったペンの長さにたとえて説明した。 すなわち、ペンの長さを測定すると、測定するたびに多少のばらつきが生じる。 量子力学では、これを「ペンの長さは決まっておらず、測定のたびに長さ自体が変動する」と考える。 一方、我々の考えでは「ペンの長さは決まっているが、測定方法が不正確だから測定結果がばらつく」と考えるのだ。 どちらも論理的には矛盾がないのだが、世間では、なぜか量子力学が支持されている。
福井大学には、結局、不合格であった。 繰り上げ合格も、なかった。 福井大学などは繰り上げ合格が多発する関係上、二次試験の正味の倍率はあまり高くないと噂されているが、 たぶん、私は最下位付近だったのであろう。
一次試験のときも二次試験のときも、私は福井駅前の「ホテルフジタ福井」に宿泊した。 一泊 3500 円と 3900 円であった。 駅とホテルの間に、名前は忘れたがカレー屋があり、いわゆる金沢カレーを出していた。 ガネーシャカレーだったか、そんな風な名前であり、味も良かった。
弘前へは、ひたすら新幹線の旅であった。福島や仙台のあたりでは、 いまだに屋根にブルーシートのかかった家屋が多数みられた。
6 月 4 日、試験前日に、私は弘前駅の近くのホテルに宿泊した。 大学までは徒歩 30 分程度とのことであったから、 私はやはりバスではなく徒歩で移動することにした。 歩くというのは、人間にとって最も基本的な動作である、などという、 意味はわかるが趣旨がよくわからない題目を頭の中で唱えながら、である。
前日に試験会場までの道程を歩いて確認した。 弘前大学までは容易に到達できたが、試験会場となる建物を探すには、多少、難儀した。 帰り道では、壮年の男性に道路越しに声をかけられたが、方言のためであろうか、 意味を理解できず、会釈してごまかした。
弘前大学では、KALS 勉強会仲間の K 氏らと会った。 前日に旭川医科大学の試験を受けて、それから弘前へ来たという猛者も何人かいたようである。
私の試験会場は、監督体制に問題があった。 一部の受験生は、試験開始直前まで参考書類を机の上に広げていたのだが、 もちろん、試験問題を配布する前に、それらを片付けるように指示があるのが普通である。 しかし私の教室では、受験生がそれらを片付ける前に問題が配布されてしまったために、 一部の受験生は、不正行為を行うことが可能であった。
よく覚えていないが、例年通りヒト以外の生物に関する出題もあったように思うが、 ヒトに関する知識から類推できるような問題であったために、何とかなったように思う。 しかし、得点源であるはずの物理において、一部の問題がわからない、という失態を犯した。 これは無理かもしれぬ、と思ったのだが、幸いにして一次試験は合格となった。
二次試験は、福井大学の二次試験と日程が重複したため、弘前大学を放棄した。 私としては福井大学よりも弘前大学の方に魅力を感じていたのだが、 「とりあえず確実に合格しそうな大学を確保しておきたい」などという、 甚だ失礼な理由で福井大学を選び、前述のように不合格となったのである。 申し訳ございませんでした。
弘前では、ホテルルートイン弘前駅前に 5000 円で宿泊した。 オンライン決済であったのに、現地でも現金で払ってしまい、後日、返金された。 なお、弘前駅前のインド料理店に魅かれていたのだが、結局、行きそびれてしまった。
滋賀医科大学は、京都から JR で幾駅か移動し、さらにバスで山に上った所にある。 試験前日の 6 月 8 日に私は駅前の「瀬田アーバンホテル」に泊ったのだが、ホテルが大学までのバスを出してくれた。 KALS 勉強会仲間の O 氏も、同じホテルに泊ったそうである。
滋賀医科大学の入試はマークシート方式のため、何とかなりそうな気がするのであろう、 物理や化学も出題されるにもかかわらず、志願者が非常に多い。 試験会場では、たまたま、K 氏を介して知り合った女性が隣の机であったのだが、 彼女は試験開始前にマニキュアでマークシートを汚してしまい、慌てていた。
物理学の一部に、よくわからない、ややこしい問題があったし、 英語の細かな文法の問題はわからなかったが、一次試験は、まぁ、合格しただろうと思った。 余談であるが、蛋白質への糖鎖の付加について、N 付加と O 付加とあるのだが、 そのうち N 付加を巡るやたらマニアックな出題があった。 しかし私はたまたま、数日前に『細胞の分子生物学』という教科書で その話を読んでいたため、これは正答率が低いだろうな、と、ほくそえみつつ、自信を持って解答した。
二次試験は 7 月 7 日であり、前日はスマイルホテル大津瀬田に泊まった。4550 円であった。 面接では、基礎医学に進むなら何も医学部に来なくても良いではないか、 と言われ、キチンと答えることができなかった。
面接では、私が京都大学出身であるということで、かつて京都大学医学部の有名な某教授の研究室では 365 日 24 時間、誰かがいて研究が行われていたらしいが、そういう話について、どう思うかと訊かれた。 私は、研究というものは、よく計画し、深い洞察に基づいて行うべきであり、 何でもガムシャラにやれば良いというものではないから、活動時間が長いこと自体は それほど自慢にならないと思う、と、いいたかった。 しかし、なぜか私は「とにかく長くやれば良いというものではないと思う」とだけ述べてしまい、 真意が全く伝わらなかっただろうな、と後悔した。
二次試験終了後、隣の面接室から出てきた男性受験生と一緒にバスで駅に向かったのだが、 彼も KALS 生であったらしい。 どういう話の流れであったか、KALS の鹿児島大学過去問解説講座で 講師が怒り出した時のことが話題になり、 すみません、あの時、怒られた受講生は私です、と告白した。 すると彼は、あぁ、やっぱりか、そんな気がしたのだ、と言った。 なんとなく、私のことを憶えていたらしい。
結局、滋賀医科大学も不合格である。
山口大学の一次試験は、滋賀医科大学の一次試験の二日後にあたる 6 月 11 日であった。 私は 9 日に現地入りし、宇部駅前の「スーパーホテル City 宇部」に宿泊した。 禁煙室だったかどうかは覚えていないが、廊下がえらく煙草臭かったことは覚えている。 宇部駅の近くにインド料理店があり、二晩とも、そこで夕食をとった。
試験前日は暇でやることがなかったので、下関へ観光に行った。 下関といえば中国地方屈指の観光地であるかと思っていたのだが、 観光客の姿はまばらであった。たまたま、その日は雨天であったことも関係あるかもしれない。 下関名物といえばフグであるが、私はフグを好きではないし、万が一、食中毒を起こしたら大変なので、鯨を食べた。 別段、鯨がおいしいとは思わないが、日本の文化、あるいは将来有望な蛋白源として重視する立場から、 私は鯨を食べることが好きである。
さて、試験当日は晴れていたが、結果は散々であった。 山口大学はヒト以外の生物学を出題するのだが、私はヒトしか勉強していないので、当然、できない。 ただし例年は物理学の出題があるため、そこで稼げば勝負になるだろう、と思っていた。 ところが私が受験した年は、なぜか物理の出題がなかった。 不合格であった。
鹿児島へは、6 月 17 日、羽田空港から飛行機で向かった。 宿泊したのは B&B パークホテル鹿児島、4500 円である。 募集要項によれば、鹿児島中央駅から路線バスがあるとのことであった。 ところが、いざ当日の朝にバスターミナルへ行ってみると、大学病院行きのバスは休日運休とのことである。 そして、試験が行われたのは日曜日である。 これは一体、どういうことなのか。 私は、たまたま遭遇した KALS 勉強会仲間の O 氏と一緒に、タクシーで大学に向かうことにした。
一次試験の日は、雨天であった。 試験会場に入る際に係員が受験票を確認していたのだが、 定刻ギリギリになってようやく開場されたために、入場は長蛇の列となり、イライラしたことを覚えている。
筆記試験は、よくわからない問題が多かった。 与えられた条件の下で「染色体地図を描け」というような問題があったが、私は「染色体地図」というものを よく知らないので、デタラメな絵を描いた。 また、糖尿病の末期症状について説明せよ、というような問題もあったが、 私はそのような臨床的な事柄は知らないので、インスリンの作用が減弱するという糖尿病の仕組みから 想像力を働かせて解答した。後で調べてみたら、概ね正解であったので驚いた。 英語の試験では、腸内細菌叢を整えるために、腸の内容物を移植する、という衝撃的な内容の文章が出題されて感嘆した。
不合格かもしれぬと思ったが、結局、一次試験は合格した。 二次試験は 7 月 23 日であり、ホテルクレスティア鹿児島に宿泊した。4380 円なり。
私は将来は基礎医学研究者になりたい、と言ったのだが、これに対し面接官は、 現状では医学部は臨床医の育成が主目的となっており、 基礎研究はむしろ理学部や農学部などで盛んであるから、 あなたの希望には添えないかもしれない、 などと言った。 また面接官は、 編入生の中には留年したり、国家試験に受からなかったり、結局辞めてしまう人も多い、と述べ、 私に、二年次後期への編入学であるが、他の学生に追いつけるか、と問うた。 私は、一年か二年のうちには追いつける、と述べたが、 面接官は、それでは留年してしまう、半年のうちに追いつかねばならぬ、と言った。
結局、鹿児島大学も不合格であった。
私は当時、地下鉄丸の内線茗荷谷駅と新大塚駅の中間あたりに住んでいた。 東京医科歯科大学へは地下鉄で 10 分も要しない距離であったが、 念には念を入れて、前日の 6 月 19 日には大学近くのホテル「お茶の水イン」に宿泊した。 5800 円であった。
東京医科歯科大学は、英語数学物理化学生物と、まんべんなく出題する。 私は、全科目ともそれなりにできる自信があったので、一次試験は通過できるだろうと踏んでいた。 当日、私の近くの席に着席した、とある受験生は、 試験開始前のわずかな時間に、『細胞の分子生物学』という分厚い有名な教科書を開いていた。 彼は、それを眺めることで心を落ち着けていたのか、それとも 周囲の受験生にプレッシャーを与えるつもりであったのか、わからない。 しかし、私は同書を既に一度、通読とまではいわないが概ね眼を通していたから、 内心「今さら、そんな本を開いているとは、よほど自信がないとみえるな、フフン」と思っていた。 案の定、彼は一次試験で不合格になったようである。
二次試験の面接は、一次試験の合格者を二組に分け、午前と午後に分かれて実施された。 私は午後組であったが、KALS の K 氏は午前組であったらしく、会えなかった。
受験生は控室で待たされ、呼ばれた者から順に一人ずつ面接室へ行く、というものであった。 私は受験番号が後から二番目ぐらいであったため、かなりの時間、待つ必要があった。 他の受験生とお喋りでもしたかったのだが、大学の係員が待機しており、 どうも私語厳禁であるかのような雰囲気であったため、黙ってボンヤリと過ごしていた。 隣の席に座っていた男は、想定質問集と解答のようなものを必死に眺めていた。 私は何の準備も対策もせずに会場に来ていたため、 面接ごときに、このような対策を講じるのか、まるで茶番ではないか、などと思っていた。
面接は、受験生一人に対し面接官が五人、というものを二回連続で行った。 一回目の面接は、比較的穏かに終わったが、 二回目の面接は、はなはだ失礼なものであった。 その件は編入試験のページで述べたので、敢えて繰り返さない。
とにかく、不合格であった。
富山大学の一次試験は書類選考であり、私は問題なく通過することができた。 二次試験が筆記試験であり、これは 7 月 5 日であった。 福井大学の二次試験が 7 月 2 日であり、 滋賀医科大学の二次試験が 7 月 7 日であったから、 私は 2 日と 3 日の晩は金沢に泊まり、4 日に富山入りすることにした。 なお、このとき福井大学に向かう途中で名古屋大学に寄り、過去問の閲覧をした。 名古屋大学では過去問を配布しておらず、コピーも認めていないが、 現場で閲覧することはできたのである。
金沢では金沢駅直結の「ヴィアイン金沢」に泊まり、二泊で 8400 円であった。 7 月 3 日は特に用事もないので、駅周辺を一日中ブラブラして過ごした。 私はあまり観光名所というものが好きでなく、海外旅行に行ったときも名所には行かず 街中をブラブラして過ごすことが多いのだが、このときも、そうであった。 金沢駅の近くには、市場であったか倉庫街であったか、とにかく一般人の往来が多くない場所があり、 その近くのカレー屋には二度、足を運んだ。 金沢駅構内にあった傘屋で、折りたたみ式の晴雨兼用の傘を購入したのだが、 これは今でも日傘として重宝している。
富山では「コンフォートホテル富山駅前」に 5000 円で前泊し 「名鉄トヤマホテル」に 5800 円で後泊した。 駅前から大学まで路線バスが走っており、距離もかなりあるとのことなので、 私はおとなしくバスを使うことにした。 バスの時刻より少し前に停留所に行くと、若い男性で、手に募集要項のような冊子を持った人物が何人か待機していた。 もしや受験生ではないか、と思い声をかけてみると、案の定であった。
筆記試験を受けて、私は富山大学が大好きになった。 英語の長文を読んで設問に答える形式の小論文試験で、題材の文章が、すばらしかったのである。 「思い込みは危険である」というような趣旨の文章で、科学研究についても 皆が研究している分野が必ずしも科学的に重要とは限らない、とか、 たくさん引用される論文が良い論文だとは限らない、などと、 ソウダソウダと頷きたくなることがたくさん書かれていた。 富山大学はこういう大学なのか、と、改めて感心したものである。
無事に二次試験に合格すると、面接が 8 月 21 日に行われた。 前日の 20 日は千葉大学の一次試験であり、それが終わるとそのまま新幹線で富山に向かい、 富山駅前のアパヴィラホテルに 5800 円で宿泊した。
富山大学の三次試験は一泊二日の合宿形式であり、宿泊料一万円を要した。 まずは大学に集合し、バスで近くの温泉旅館に移動して試験が行われた。 大学には私が一番乗りをした。 大学側の配慮なのかどうか知らないが、控え室には大学職員は誰もおらず、 受験生同士の和やかな雰囲気で所定の時刻を迎えることができた。
初日には、受験生が順番に、これまで学んできたことをどのように医学に活かすか、というような内容の プレゼンテーションや質疑応答を行った。 はじめに責任者からの挨拶があったのだが、このとき、我々には将来、 単なる臨床医ではなく、医師の中でも指導的、あるいは教育的な立場に立ち、 あるいは研究の面で、地域の医療のリーダーとして活躍することを期待する、との言葉があった。 ここで「研究」という言葉が入っていたことで、私は嬉しくなった。 福井大学とは違い、富山大学では、私のような研究寄りの人間も歓迎されているようだ、と思ったのである。
参加者 14 名のうち、生物学の出身者は 3, 4 人と比較的少なく、 保険会社の経理だとか、少年院の職員だとか、様々な経歴の持ち主が集まっていた。 原子炉のプレゼンテーションを行った私も、他の人の目には異色に映ったかもしれない。 このプレゼンテーションは、聴衆は全員素人だという前提で、極力専門用語を控え、 その一方で学問的な正確さを失わないように、細心の注意を払って行った。
昼食会場は旅館の大食堂であったが、試験官の席と受験生の席は遠く離されていた。 KALS では、食事マナーなどもみられているのではないか、などという恐ろしい噂もあったが、 そのあたりはキチンと配慮されていたのである。
初日の午後には個人面接が行われた。 このとき、ありがたい言葉を頂戴したのだが、それは既に書いた。 受験生によっては、かなり辛辣な、しかし率直なコメントを受けた人もいたらしい。 どうやら富山大学は、入試を単なる受験生の選抜ではなく、 ひとつの教育機会とも捉えているようだと、私には感じられた。
二日目にはグループディスカッションと、その後にフリートークが行われた。 グループディスカッションの際、もし自分が日本の政策を自由に決められるとしたらどうするか、 というような題目について、私は次のようなことを述べた。 「現在の日本では、安定した人生を送ろうと思えば、なるべく良い大学に入り、なるべく良い会社に入り、 そのままずっと会社の中で働くというような決められたレールがあり、 このレールから外れるには、多大な勇気と覚悟がいります。 しかし、そういう社会は実に息苦しい。 ですから私は、そうしたレールから外れても大丈夫なように、 あるいはそれで一度失敗してもまたやり直せるように、起業を、 新たにビジネスを始めることを、支援したい。」
三次試験の受験者については全員の受験番号がわかっていたから、誰が合格したかも、よくわかった。 私は、いかにも合格しそうな 5 人について事前に予想してみたのだが、 私を含め、そのうち 4 人は的中した。
名古屋大学に合格したために富山大学への入学は辞退したのだが、実に心苦しかった。 いずれ、私は富山大学で働きたいと考えている。