注意

この旅行記には、前回と同様、有名な観光地に行ってキレイだったとか感動したとか、そういうことは、書かない。 そんな記事は、どうせ、読んでもちっとも面白くないからである。 今回も「書いても書かなくてもどちらでも良いが、書かない方がいくぶんマシなことだけを書く」というスタイルで行くことにする。

また、写真も、前回同様に基本的には載せないことにする。 科学者というのは基本的には文筆業なのだから、私もその本分たる文章によって物事を表現するべきだと考えるからである。

記事は、下の方が古く、上の方が新しい。


2017/11/30 帰路

我が機は黒海上空からロシアに入り、東に向かっている。ウクライナやカザフスタン・モンゴルを避ける航路のようである。 イスタンブールから 5624 km, 東京まで 3700 km である。

サンタルチア駅前から空港へは、タクシーを利用した。むろん、水上タクシーである。 むろん、というのは、車両はローマ広場までしか入ることができず、サンタルチアには車両のタクシーは存在しないからである。 タクシー乗り場には、初乗り 15 ユーロ、1 分あたり 2 ユーロ、という料金が示されていた。 が、あまり詳しくじっくり読んだわけではないので、詳しくは知らぬ。 前の晩、タクシー乗り場で運転手から声を掛けられたので尋ねてみたところでは、空港までは 20 分程度とのことであった。

ヴェネツィアの空港は、大陸側にある。本島から橋で渡った対岸にあるのがメストレであって、そこから東に行ったところに空港は位置する。 船で本島から空港に行くには、干潟を横切ることになる。なかなか楽しい船旅であった。 所用時間は 20 ないし 30 分程度で、料金は 120 ユーロであった。 途中に制限速度の標識があり、20 km/h とか、場所によっては 7 km/h とか示されていたのだが、我がタクシーは高速で通過していった。

ヴェネツィア空港は、保安検査前には売店も少なかったが、中には多数の免税店があり、高級衣類などが多数、売られていた。 ところで私は旅行中、常に、昨年にヘルシンキで入手したトナカイの角の首飾りを身に着けていた。 このヴェネツィアの保安検査では、初めて、この首飾りについて「これは、何だね?」と尋ねられた。 私はニコリとして「トナカイの角ですよ」と返したが、内心ではヒヤリとした。 さほど鋭利ではないし、大丈夫だと思って油断していたのだが、これを危険物とみなされて没収されてはかなわぬ。 その若い女性の係官は、フーン、まぁ、いいか、というような顔をして私を解放してくれた。

イスタンブールで食事をした。 トルコ料理にも惹かれたが、私はインド派なので、インド料理を食べた。フードコートにある India express という店である。 サモサとラムビリヤーニと水で、25 ユーロであった。やや高い。 サモサというのは、ジャガイモのペーストを主体とする野菜のインド風包み揚げであり、ラムビリヤーニというのは羊肉ピラフである。 サモサが 50 リラ、10 ユーロほどであったが、日本のインド料理店であれば、だいたいサモサは 2 個で 500 円か、その程度であろう。 どんなサモサが出てくるのかと思ったら、春巻きの皮のようなものに具を包み、三角形に包んだ代物がでてきた。 普通、サモサというのは厚い生地で、正四面体に包むものである。大きさも、ここの三角形サモサは小さい。 これで 50 リラは、いくらなんでも高すぎであろう。 少し辛味がつけられており、味は悪くなかったが、他のメニューと比較しても、不釣り合いに高い。値段の設定間違いではないのか。

ラムビリヤーニの方は、たいへんおいしかった。 グリーンピースの入っているのが特徴的であった。辛さは控えめで、辛いものが苦手な私にはありがたかった。


2017/11/29-2 サンマルコ広場

12 月 1 日、イスタンブールにて出発準備中の成田行のトルコ航空機内にてこれを記す。 現在時刻は 1 時 36 分、出発予定は 2 時 10 分である。 当然であるが、乗客には日本人が多い。 私の右斜め前方の女は、座席に座ると靴下を脱ぎ、湿布のようなものを貼り、また靴下を履きなおしていた。 これは礼法を知らぬ蛮行と言わざるを得ない。そういうのはトイレ等でやるべきであろう。

ヴェネツィアの話の続きである。 リアルト橋から大運河沿いの景色を眺めた我々は、陸路でサンマルコ広場を目指した。 ヴェネツィアは小さな道や運河が縦横無尽に入り組んでおり、土地勘のない者が目的地を目指すのは、GPS 等を使うか、街路表示に頼らなければ、容易ではない。 ただ、サンマルコ広場やローマ広場に行く場合に限れば、随所に「サンマルコ広場はこちら」というような案内があるので、まぁ、陸路で行くのも難しくはない。

サンマルコ広場に向かう途中に、大きな聖堂があった。 Basilica SS. Giovanni e Paolo というらしい。 一人あたり 3.5 ユーロの拝観料を徴収された。 誤解のないよう補足するが、私は何も、金を取られたことに不満を述べているのではない。 聖堂に入る者から入場料を徴収する、という発想が、はたしてキリスト教的精神に合致しているのか、と問うているのである。

私はイタリア語をよく理解しないのだが、これは、ひょっとするとローマ教皇のジョヴァンニやパオロを称える聖堂なのだろうか。 中には教皇の写真が飾られ、また教皇の椅子と思われる物品が展示されていた。 私は、こういう教会は、好かぬ。

さて、しばらく歩いた我々の前に大運河が現れた。右をみると鐘楼がそびえ、その手前にはドージェの宮殿がみえる。 左前方には Santa Maria della Salute がみえる。我々はサンマルコ広場に南東側から進入したことになる。 観光シーズンではないためであろう、サンマルコ広場としては人影が少なかった。

私は歴史上のヴェネツィア共和国には敬意を抱いているが、現代のイタリア共和国は、正直なところ、好きではない。 サンマルコ広場では、不適切な恰好をすることや、不適切に座り込むことなどの他に、ハトに餌を与えることも禁止されている。 禁止する旨の表示も、あちらこちらに掲出されている。 しかし現実には、ハトや水鳥に餌を与え、これらの鳥と戯れている観光客が少なくない。 何より問題なのは、サンマルコ広場には Polizia Locale, つまり地元警察の係官が常駐しているのに、これらの不法行為を取り締まる様子がないのである。 不法行為が公然と行われ、ためにヴェネツィア共和国の偉大な遺産が傷つき、イタリアと人類の財産が損なわれようとしているのに、 それらを守ろうというそぶりすらみせない。まるで、それは私の職務ではない、と言わんばかりである。 これがイタリア警察の現状である。腐敗していると言わざるを得ない。

さて、我々は、サンマルコ広場の鐘楼に上った。現代ではエレベーターが整備されているので、楽である。むしろ、階段で上り下りできないことが遺憾であった。 鐘楼の上からの景色は、たいへん、素晴らしかった。しかし私は高所を苦手としているので、怖かった。 母も同様に高所が苦手ではあるのだが、彼女は足元さえ見えなければ大丈夫らしいので、この鐘楼は問題ないとのことであった。 一方で私は、高所から下をみるという行為自体がダメである。足元がみえず、遠方を見下ろしただけで、やがて、いささかの浮動性眩暈を伴う恐怖をおぼえた。

鐘楼を下りた我々は、昼食を摂った。 サンマルコ広場から少し北に行った細い道に沿った場所にある Pasta & Sugo というパスタ屋である。 パスタとソースを選んで 5 ユーロである。美味であった。所在地は San Marco 4276 であるので、ヴェネツィアに行く機会があったら、ぜひ立ち寄られると良い。

諸般の事情から、サンマルコ寺院には入らなかった。 サンマルコ広場周辺を少しばかり散策した際、あるレース屋に立ち寄った。 レース細工は、ガラス器と並び、ヴェネツィアの主力輸出品である。 両親はそれほど強い興味を示さなかったが、私はレースのハンカチを購入した。

Santa Maria della Salute に対しては、前回の旅行記に書いた通り、私は強い思い入れがある。 この聖堂は、カトリックであり精緻な彫像で飾られているものの、聖画は少なく、装飾も華美でない。 また、内部には No Flush という指示はあるものの、他には「ふさわしい振る舞いをせよ」という意味の指示があるのみで、細かいことを述べていない。 大人なのだから自分で考えて行動せよ、という態度である。 現実には、聖堂内で写真撮影をしている旅行者も多い。ヨーロッパ人と思われる連中も、さかんにカメラを向けている。 それが「クリスチャンとして適切な振る舞い」であると思っているのであろう。 聖堂の厳粛な空気の中にあって、何らの信仰心も惹起されないのであろう。

機内食をいただいた。鶏肉が美味であったが、ひよこ豆のペーストは、私は苦手である。 我が機は予定より 50 分ほど遅れてイスタンブールを離れ、現在、黒海上空にある。

サンマルコ広場を存分に眺めた我々は、大運河の水上バスに乗り、リアルトとの中間地点にある San Toma で降りた。 あたりはすでに暗くなっていた。 船着き場から細い道を抜けて北上したところに、大きな聖堂があった。 Basilica Santa Maria Gloriosa Dei Frari である。 一人 3 ユーロを払い、我々は中に入った。

聖堂内には多数の絵画や彫刻があったが、それらの示す宗教的意義は、よくわからなかった。 が、キリスト教的観点からすれば、それらをみた我々の心の内に、その種の想念が呼び起こされることが重要なのであって、 その彫像や絵画が何を表現しようとしていたかということは、本質的ではない。

今回のヴェネツィア訪問では、計 6 人ほどの乞食をみた。多すぎはしないか。 ヴェネツィアはイタリア最大の観光地であり、そこでの乞食行為は固く禁じられている、と聞いている。 実際、過去の訪問では、2 回とも 1 人の乞食をみたのみであった。 それが今回は 6 人である。 警察の取り締まりが緩くなっているのか、それとも乞食の数が増えすぎて制御しきれなくなっているのか。 いずれにせよイタリア社会の暗部を示している。


2017/11/29-1 三度目のヴェネツィア

我が機はイスタンブールに近づいている。 高度を下げているようで、耳が少し痛い。

私がヴェネツィアを訪れるのは、今回が 3 回目である。 初回は夏の暑い日差しの下を、船に乗らず、ひたすら歩いた。 二回目は 2 月末であったか 3 月初めであったか、雨の中を船に乗り、Santa Maria della Salute を訪れた。 今回は小雨が降ったりやんだりする 11 月末の訪問である。

ヴェネツィアの大運河は ACTV 社の水上バスが往来しており、観光客の移動手段として重要である。 我々は 1 人 20 ユーロの 1 日パスを購入した。 私はイタリア語の心得がなく、今は手元に資料もないので、大運河のイタリア語表記が何であったか、自信がない。Canal Grande だろうか? 間違った表記を連呼すると恥ずかしいので、ここでは日本語訳して「大運河」の呼称を用いることにする。

我々は大運河をサンマルコ広場方面に行く船に乗り、Rialto で降りた。 ここには大運河を渡る橋があり、観光名所にもなっている。 幸い、今の時期は観光シーズンから外れているため、人もあまり多くない。 我々は橋にのぼり、景色を眺めた。


2017/11/28 アルプスを越えて

11 月 30 日、ヴェネツィアを発しイスタンブールに向かうトルコ航空機内にて記す。 アップロードするのは東京に着いてからになるだろう。 詳しい事情は知らぬが、我が機の離陸は 40 ないし 50 分、予定より遅れたようである。 離陸直後にはアドリア海がみえたが、現在、眼下には雲海が広がっている。 関係ないが、アドリア海にちなんで命名された薬剤として有名なのが、アントラサイクリン系抗癌剤のアドリアマイシンである。 開発したのはイタリア人であったと思う。 イタリアに面する海のうち、あえてアドリア海を選んだということは、ひょっとすると命名者はヴェネツィア人であったのかもしれぬ。

さて、11 月 28 日のアルプス越えの話である。 我々は EC 87 号、11:34 ミュンヘン発ヴェネツィア行きの列車を Raileurope で予約していた。 チケットは駅で入手されたし、ということであったが、どうすれば良いのかわからなかったので、駅の国鉄インフォメーションで尋ねた。 このインフォメーションは、昨年の旅行で私が偶然に暴漢を目撃した場所でもある。 係員が言うには、後ろにあるチケットセンターで発券されたし、とのことであった。 このチケットセンターは、整理券を発行機で受け取り、ディスプレイの表示に従ってカウンターに行く方式であった。

中央駅をブラブラするうちに列車がやってきた。 我々の座席は最後尾の 263 号車である。列車番号をどういう基準でつけているのかは、知らぬ。 母は、車内で食べるためのおやつのタルトを駅の売店で買っていた。

列車に乗ってからアルプスを抜けるまでのことは、既に書いた。

列車は絶壁に挟まれたアルプスの隘路を抜け、平地に出た。ヴェローナである。 この頃にはすっかり日が沈み、あたりは暗くなっていた。 ヴェローナを出ると、ヴィツェンツァ、パドヴァ、ヴェネツィア メストレを経て、終点のヴェネツィア サンタルチアである。 隣の老夫婦はパドヴァで降りた。

サンタルチア駅を降りると、一人の男が声をかけてきた。要するにホテルまでポーターであるらしい。 政府公認の正式なサービスであるようだが、我々は特に彼を必要としていない。 我々は、無事にホテルについた。

我々が宿泊したのは、サンタルチア駅のすぐ近くの Principe というホテルである。 ヴェネツィア本島のホテルにしては安い。 安いということは、むろん、サービスも相応ということである。 まず気になったのは、レセプションのスタッフの言葉遣いである。発音は明瞭で聞き取りやすかったが、粗野な英語を話す男であった。

このホテルにはポーターがいた。レセプションから部屋まで荷物を運んでくれるサービスである。 事実上、強制である。このポーターのサービスが、極めて粗悪であった。 我々は三人組であり、それぞれにキャリーバッグを引いていたが、彼は一つのキャリーバッグのみをエレベーターまで運んだ。 残り二つは、我々が自分でエレベーターまで運んだのである。 その後、彼は我々を順番に、それぞれの部屋まで案内した。 部屋の前に着き、ドアの鍵を開けた。 そして彼は掌を上に向け、手を私の方に差し出した。チップをよこせ、という意味である。

言葉遣いが未熟である上、荷物を一部しか運ばず、しかもまだ部屋にも入っていない状態で、ここまで露骨にチップを要求するポーターは、初めてみた。 普通、チップを要求するには、意味もなくブラインドを開け閉めするとか、そういう、さりげない方法をとるものではないのか。

不快に感じた私は、かなり少ない額のチップを渡した。彼は不満げな顔をして去っていった。

で、私は油断した。 このホテルは、部屋の中に鍵のタグを差し込むと電灯がつく方式である。 私は、電灯をつけ、ドアを開けた状態でポーターにチップを渡したのだが、その直後に、ドアを閉めてしまったのである。自分は部屋の中に入らずに。

私はレセプションに行き、Excuse me, sir. I took a mistake that I closed the door while... と言いかけた。 すると係員は全てを察し、私の言葉を受けて the key is inside? という。 私はニヤリとして Yeeees. と大きくうなずいた。 近くにいた別のスタッフが、私の部屋まで来て鍵をあけてくれた。彼はポーターではないので、チップを求めるそぶりもなかった。


2017/11/27-2 待降節

食堂車で遅い昼食をいただいた。インド風野菜カレーであるが、かなりの欧州アレンジが加えられており、たいへん、よろしい。 我々が食堂車に着いてすぐ、列車は国境の街 Brenner に停まり、イタリアに入った。 現在、アルプスを抜けつつある。

さて、我々は Tourist information の係員の指示に従って歩き、〇〇ストラッセを 2 区画過ぎたが、それらしいホテルはない。 周囲を少し探索したが、わからない。我々は中央駅にまで引き返した。 先ほどと同じ係員の所に行き、ニコリと笑い、Hello. I tried to go to my hotel, but I couldn't find it. などと言った。 すると係員はフフフと笑って、簡単ではなかったようだね、と言いメモ用紙に簡単な地図を描きつつ、教えてくれた。 我々はここにいて、これが、あそこにみえている C & A のビルディング、で、この道をいくと信号機があって、そのまま行くと 2 つめの信号機、 そこを右に曲がると、あるよ、とのことである。

Thank you very much. と述べ、我々は、その道を歩いた。 「2 つめの信号機」までは先ほど到達したのだが、そこで我々は迷い、左折してしまったのである。 今度は、係員の教えてくれた通りに右折した。が、やはりホテルはみつからない。 困った。付近の住人に尋ねることにする。

私は、床屋の前で煙草を吸っていた紳士に声をかけた。Excuse me, sir. Could you tell me... ah, I am looking for this hotel, but... という具合である。 紳士は、中にいる同僚に声をかけてくれたが、わからないようである。 ヌーメはあるか、と訊かれたが、何のことかわからない。彼は私が持っていたホテルの予約票をみて、コレだ、コレ、と行った。 たぶんヌーメとは、Number, つまり住所のことであろう。 彼は中の同僚と少し話して、私の所に戻ってきた。 住所をみるに、あっちだ。ホテルは 59 番地らしいが、ここが 40 番地だから、あっちのはずだ、という。 Thank you verrrry much. と言い、我々は、その方向に進んだ。すると、目指すホテルがあった。

列車は長いトンネルの中を走っている。かなりの角度で下っている。

ホテルにチェックインして荷物を置いた時、既に日は沈もうとしていた。 我々は、中央駅に戻り、駅構内を見学した。 飲食店をはじめとした多数の商店があり、列車待ちの時間を過ごすには、たいへん、よろしかろう。

中央駅から東の方に、有名な教会などがある。我々は、そちらに向かって歩いた。 中央駅の近くに、厳めしい大きな建物があった。 ドイツ語の表示には、バイエルン州政府庁舎、という意味のことが書かれているようであった。

さらに進むと、大通りに、屋台が並んでいた。 ドイツ語はよく分からないが、ミュンヘン・クリスマスマーケット、と書かれた電飾の横断幕が掲げられていた。

列車は Bolzano の街に到着した。郊外にブドウ畑の広がる静かな町であるが、壁に落書きが目立つ。 アルプスのこちら側は、ミュンヘンと同様に荒んでいるようである。

ここでミュンヘンの街の名誉に対する弁護と、汚点の暴露を述べておこう。 昨年の欧州旅行において、私はミュンヘン中央駅の有料トイレが汚く、かつ故障していることに憤慨した。 しかも中央駅の正面に無料の男性用小便器が設置されておいたものの、詰まり、溢れ、不潔なること甚だしかった。 これらのために私は、この国と街に悪感情を抱いたのである。 しかし、これはミュンヘン人の衛生観念が崩壊しているが故ではなかったようである。 今回は、その故障して不潔極まりないトイレは撤去されていたのである。

ただし、ミュンヘンの街の汚いことは否定できない。 路上に散乱するゴミや吸殻の数は、ストックホルムを大きく上回る。 みかけた乞食の数も、ストックホルム市内では 6 人であったが、ミュンヘン中央駅付近では 8 人を数えた。 ストックホルムの時に書き忘れたが、なぜか、ストックホルムの乞食は女性が多かった。これは前回の旅行の時と同様である。 おそらく、スウェーデンの社会福祉制度には、何か重要な欠陥がある。

列車は、アルプスを抜けつつある。まだ山岳地帯の中ではあるが、比較的広い盆地を走っており、周囲にはブドウ畑が広がっている。 実は私は、この列車はミラノ経由ヴェネツィア行きだと思っていたが、どうもミラノは通らないようである。 チューリッヒを通って西側でアルプスを抜ける路線はミラノ経由であるが、我々が乗ったのはミュンヘンから Innsbruck を通ってヴェローナに至る東側の路線である。

母が、紳士に「これらの畑は、ブドウですか?」と尋ねた。うむ、ブドウもあるし、他の果物もある。このあたりはワインの産地だね。 山間の地域で、ブドウを育てるには気候が良い。 あの山の向こうには、大きな湖が広がっている。イタリアで一番大きな湖だ。 湖の周辺では、レモンがよく育てられている。南側に山がなく、陽がよくさして、レモン栽培に適しているのだ。 そういえば、このあたりは第一次世界大戦の頃までオーストリア領だった。 戦争の後も領有権争いは続いていたが、結局はイタリア領として決着した。 今でも老人たちはドイツ語を話す。若者はイタリア語ばかりだ。 この列車のアナウンスも、ドイツ語は上手くない。まずイタリア語、次に英語、ドイツ語は三番目だ。

ミュンヘンのクリスマスマーケットには、Maroni, つまり栗の屋台が多かった。ミュンヘンと栗の関係は、知らぬ。 他にもクリスマスらしい飾りの店などが並んでいた。

さらに進むと、何やら大きな建物のバルコニー部分で、ちょっとしたコンサートをやっているようであった。 後で知ったところによると、これはミュンヘン市庁舎であったらしい。 市庁舎前のクリスマスツリーの点灯式のようなものをやっていたようである。 よく考えると、11 月 27 日は、クリスマスのちょうど 28 日前にあたる。待降節、アドヴェントであろう、と思った。 実際、翌日にミュンヘン中央駅のチケット売り場ではドイツの待降節を紹介する映像が流されていた。 我々は、期せずして、ミュンヘンの待降節の始まりに遭遇したのである。

列車はトレントの街に到着した。落書きは多いが、ゴミはそれほど散乱していない。 駅名などの表示は、これまではイタリア語とドイツ語の併記であったが、このあたりからはイタリア語と英語の併記になっている。

市庁舎のすぐ隣に教会があった。Sankt Peter とある。我々は、中に入った。 カトリック式の、きらびやかな祭壇があり、聖画と聖像が並べられた豪華な教会であった。 しかし熱心に礼拝する人が多く、教会としての本来のあり方を全く損ねておらず、見事であった。 外では賑やかなコンサートが行われている一方、扉の内側は静かな礼拝の場になっている。この切り替えのためにあるのが、教会という建築物なのである。 私は気づかなかったのだが、両親によると、我々に続いて入った日本人らしき男女の二人組が、この教会内部をカメラで盛んに撮影していたらしい。 分別のつかぬ野蛮人であると言わざるを得ない。

聖ペーター教会を出て中央駅の方に戻る途中、右手に大きな建物がみえた。鐘を鳴らしている。Frauenkirche、フラウエン教会であった。

私はここで、ミュンヘン市民に対し謝罪しなければならない。 我々はフラウエン教会に入った。入ってすぐの所にあった案内表示に、気づかなかったのである。 教会では、今まさに、ミサが始まらんとしているところであった。 我々は後方で神妙にしていたが、やがて、「静粛にされたし、観光は遠慮されたし」の立札の出ていることに気が付いた。 我々は、静粛に退出した。

中央駅のレストランで、ジャガイモのスープと、ヴァイスブルストを食べた。美味であった。


2017/11/27-1 ミュンヘンへ

列車はオーストリアに入った。Kufstein に停車した時、隣の老紳士が、ここはもうオーストリアだ、と教えてくれた。 道路標識も、まっすぐ行けば Innsbruck、などと書かれている。雪を冠した山々の間を、列車は往く。

ストックホルム中央駅から空港までは、直通で 20 分の Arlanda express を利用した。 日本でオンライン予約すると番号が発行され、乗るときに係員にみせろ、とのことであった。 中央駅のチケット売り場で係員に問うてみると、チケットに引き換えるのではなく、そのまま乗車すれば良いとのことである。

プラットフォームに停まっていた列車に乗ると、優先席の多いのが目についた。 まぁ、それらしい人が来たら譲れば良かろう、と思い、そこに座った。 やがて車掌が車内改札に来た。番号の印刷された紙片をみせると、車掌は端末を操作し、我々の名前を確認して、OK、と去っていった。

オーストリア・アルプスの間、盆地を列車は走る。周囲には田園や、小さな町の間を川に沿って走る。 老紳士が言うには、この川はミュンヘンの方に流れるが、あとしばらくすれば、イタリアの方に流れるようになる、とのことである。 沿線の小さな町にも、必ず、教会はある。

ストックホルムの空港では、特筆すべきことはなかった。 乗って、飛んで、降りた。

ミュンヘンには、予定通り 13 時に着いた。 到着口から、表示に従って Baggage claim を目指して歩いた。遠い。途中で、transport shuttle に乗った。 イヴァロからヘルシンキに飛んだ時の不祥事を思い出し、少しばかり不安になったが、無事に預け入れ荷物を受け取ることができた。 空港を出る時に初めて気づいたのだが、私はミュンヘン空港に来るのは今回が初めてであった。 前回は陸路で来て、陸路で去ったので、空港には寄らなかったのである。

アルプスの中、オーストリアを列車は走り続ける。 落書きの多少多いのが気にはなるが、全体的には落ち着いた街並みである。 列車は Innsbruck 中央駅に到着した。オーストリアの交通の要衝であり、大きな駅である。

案内に従って、地下鉄駅に行った。 自動券売機には、むろん、英語表示モードがあるので操作に困ることはない。 ただし「中央駅」を意味する略語が Hbf で合っているのかどうか、少しだけ気になったが、たぶん良かろう、と判断した。 複数枚の同時購入の方法に少し迷ったが、つまり「何枚買うか?」ということではなく「追加チケットを、同じ目的地まで」という買い方をすれば良いのであった。 間違えて子供用のチケットを一枚買って 1 ユーロと少しを無駄にした。

空港からミュンヘン中央駅までのメトロは、右回りと左回り、どちらでも 40 分程度である。 空港から一駅か二駅進んだところで、若い男二人組が座席を詰め、四人座席が空いた。他に座る人のいない様子であったので、我々が座った。 少しして、席を詰めた男が、近くに立っていた老婦人に「座りますか?」と英語で尋ねた。夫人は、いえ、荷物が多いので、と断った。 実は彼は、その婦人に譲るつもりで、しかし直接声は掛けずに席を空けたのだが、そこに我々が座ってしまったらしい。 少しばかり気まずい雰囲気であるが、敢えて気にしない。

山間に小さな集落が点在し、高速道路や渓流と並走して、列車は往く。 この鉄道の良いところは、トンネルなどという無粋なものが少ない点である。

この男、なかなかの世話焼きである。向かいに座っていた外国人らしき夫婦に対し Can I help you? と声をかけ、いや、大丈夫、などと言われている。 その後、夫婦は目的地への行き方を少し彼に尋ねたのだが、彼が簡単に答えた時点で夫婦は「わかった、大丈夫」と言っているのに、 さらに彼は路線図の所まで行って、この駅だ、今我々はここにいる、などと懇切丁寧に教えている。 いささか、やりすぎのようでもあるが、それだけ親切にされて悪い気のする者はいない。

ミュンヘン中央駅に着いた。ホテルへの行き方は、わからない。 我々は Tourist information を探し、道を尋ねた。 係員の婦人は、ここを右に行って〇〇ストラッセを 2 区画行ったところだ、と言う。 〇〇ストラッセをきちんと聞き取れなかったが、まぁ、あの道だろう、とは分かった。 私は I see, I try it. Thank you. と言い、そちらに向かって歩いた。

そろそろ、遅い昼食に良い時間かもしれぬ。


2017/11/26-3 ストックホルム散策

11 月 28 日、ミュンヘン中央駅にて発車を待つヴェネツィア行き Eurocity 87 号の車内にて記す。 個室式の 1 等客車であるが、6 名 1 室で、やや狭い。 パドヴァに向かう上品な老夫婦と同室である。 私の隣の席の客は、途中で乗車するらしく、現在は空席である。

さて、11 月 26 日、ストックホルム中央駅から東に向かう路上の案内表示で、南に Royal palace, つまり王宮があるらしいことを知った我々は、その方向に足を向けた。 海沿いに出ると、正面に壮大な宮殿と、その右方に議会の建物がみえる。 王宮に入っていく一般人の姿もあり、部分的には一般公開されているようである。

列車は静かにミュンヘン中央駅を出発した。発車のアナウンスなどは、無論、ない。

我々は王宮を外から眺めて、そのまま海沿いを東に歩いた。本土と小さな島とを結ぶ橋がみえた。島には、教会のような建物がみえた。 我々は橋を渡った。東方博物館、と漢字で書かれたのぼりが立てられていた。

ミュンヘン東駅に着いた。このあたりは街中に落書きが多く、中央駅付近に比してさらに人心の荒みの激しいことがわかる。

当初の予定では、我々は科学技術博物館や北方博物館のあたりを訪れるつもりであった。 が、せっかくなので、予定を変更して、この教会や東方博物館を見学することにした。 なお、本当は、これらの博物館名はスウェーデン語で表記したいのだが、現在、手元に資料がないので、日本語で記す。

質素なルター派の教会であった。 スウェーデン語はよくわからないが、未来の音楽家を育成するための演奏会のようなものが開催されているようであった。

東方博物館というのは、主に南アジアから東アジアにかけての品々を展示する博物館であった。 1 階にはかつて英国などが南インドを植民地化し、北のムガール帝国と併存していた時代のインドから持ち帰られた絵画などが展示されていた。 ここにはカフェが併設されており、我々はフォーを食べた。

車掌が車内改札に訪れた。 ミュンヘン中央駅でチケットを受け取った際、二枚の紙片を渡され、一枚がチケット、もう一枚は領収書であると説明された。 チケットとされた方の紙片を車掌にみせると、これは予約票である、と言われ、もう一枚の方を、と促された。 領収書であるとされた方を渡すと、そちらに刻印を打ち、車掌は去っていった。 フゥム、と思って券面をよく眺めていると、隣の老紳士が Shall I help you? と声をかけてくれた。 私はシャイボーイなので、ニコリと笑って No, problem. と返した。ここで Thank you. と加えられなかった点から、私が著しく動揺していたことがうかがえる。

東方博物館の 2 階には、現在でいう中国から持ち帰られた物品が展示されていた。 古いものは紀元前 3000 年程度、あるいはそれ以前と推定される古代の土器などである。美しい塗装が施されている。 どうやら、有史以前の中国の遺物を最初に発掘したのがスウェーデンの Andersen 隊であるらしく、それで、こうした展示に力が入っているらしい。

次の部屋には、有史時代の中国の遺物が展示されていた。発掘された商の時代の遺物や、唐の時代の中国から持ち帰られた物などが、時代順に展示されていた。 ただし、その解説内容にはいささかの疑問があった。 たとえば前漢王朝について、その支配領域としてチベット北部などを含めて示されていた。 要するに、敦煌や、それ以西の地域を前漢王朝の版図と考えるかどうか、という問題である。 また、唐の滅亡を 906 年、宋の成立を 970 年とし、907 年から 100 年以上にわたり遼の時代と示されていた。 このあたりは混乱が続いた時代であるし、王朝の支配領域など明確に線引きできない部分も多いが、どうやら我々とスウェーデン人では、歴史認識が大きく異なるようである。 さらにいえば、1 階のカフェに示されていた説明文においても、日本の江戸時代の始まりを 1615 年としていた。日本においては、あまり一般的な考え方ではないように思われる。

有史時代の中国の遺物が陳列された部屋から、もう一つ奥の部屋に進むと、そこには中国から持ち帰られた大量の書物の一部が展示されていた。

列車は Rosenheim に到着した。停車中の貨物車などへの落書きは多いが、ミュンヘン東部ほどではない。 アルプスが近づき、付近には田園が広がっている。

3 階には日本の部屋や朝鮮の部屋があるのだが、朝鮮の部屋は準備中とのことであり、日本の展示のみが示されていた。 日本人を模したと思われる童女の絵が解説役として登場していたが、どうも日本人というより中国顔に思われた。

私は仏教については詳しくない。が、どうも、ここの仏教の説明は、少し違うのではないかと思われた。 弥勒菩薩像について Miroku Bosatsu Buddha と記載されていたが、私の認識では、弥勒とブッダは別である。仏像のことを Buddha と総称しているのだろうか。 とはいえ、私とスウェーデン人の、どちらが正しいのかは、知らぬ。

東方博物館を出るころには、あたりはすっかり暗くなっていた。 我々は少し東に歩き、北方博物館の前まで行った。 この博物館の建物自体も、かなりの年代物であり、見事な文化遺産である。

北方博物館前からは、トラムで中央駅まで戻った。 乗車すると、車掌がチケットを確認・スキャンしに来るスタイルであった。

夕食は、ホテル近くの日本風レストランで Sushi と Yakiniku を食べた。これは、もはや立派なスウェーデン料理と呼んでよかろう。

列車はアルプスに入った。 同室の老夫婦は、昨晩、我々と同じホテルに宿泊していたらしい。先方に言われるまで、気づかなかった。


2017/11/26-2 ストックホルム

11 月 28 日朝、ミュンヘンのホテルにて記す。 昨日はミュンヘンの街中を少しばかり散策したが、それについては後程述べることにする。

11 月 26 日、ストックホルムの話である。 地下鉄で中央駅に着いた我々は、地上に出て駅構内を一巡りした。 この中央駅は -1 階、0 階、1 階の三層構造になっており、0 階と 1 階のそれぞれに地上への出口があるので、やや紛らわしい。 0 階からの出口が本当の地上への出口であって、1 階からの出口は高架になっている道路への出口なのだと思われる。

ストックホルム中央駅には、飲食店をはじめとして多数の店舗があり、きらびやかであり、ヘルシンキ中央駅とはだいぶ異なる。 これは街全体についてもいえることで、ストックホルムは大都会、ヘルシンキは小都会といえよう。 私は、落ち着いた雰囲気のヘルシンキの方が好きである。

さて、我々は 0 階から地上に出た。 地図上では、東に少し歩いてから広場を北上し、教会の角を東に曲がったところにホテルがある。 問題は、どちらが東か、ということである。 あいにくの曇天で、太陽はみえない。 我々は、しばしの時間をかけて地図と地形を見比べて方位を定め、東に向かって歩き出そうとした。 その時、足元の石畳に、東西南北の方位が記されていることに気が付いた。それによれば、我々が東と思っていた方角は、本当に東であるらしい。 自信を持って、歩き始めた。

教会の角までは、何事もなく行くことができた。 問題は、そこを東に折れてからの 100 m ないし 150 m の区間である。 薄暗く、人通りも少ない。普段であれば、あまり入りたくはない路地である。 が、そこを通らなければ、ホテルには行けない。

ちょうど我々の前を、同じホテルに向かうのであろう、キャリーバッグを引いて進む一人の旅行者が歩いていた。 我々は、彼に続くことにした。 路地を進んでみると、両側にはまっとうな店が一応は並んでいるし、路上に散乱しているゴミも、大通りと比べて特にひどいということはない。 入るべからざる地区、というわけではあるまい。 我々は、つつがなくホテルに到着した。

ここで路上のゴミについて書いておこう。 ヨーロッパでは路上にゴミが散乱し、煙草の吸殻も多いことは昨年の旅行記に書いた通りであって、それは現在でも変わりない。 ただ、その程度については地域差が大きい。 フィンランドでも多少のゴミはみかけたが、ストックホルムに比べれば、かなりましである。 ストックホルムでは歩き煙草をしている者が極めて多く、路上には無数の吸殻が散乱している。 街中でふと足元に視線を落とせば、そこには必ず吸殻がある、と考えてよい。 壁の落書きも多い。 街がこのように不潔で汚いのは、ストックホルムの人心が乱れている証左である。

ホテルに着いたのは 12 時頃であったと思う。 レセプションに尋ねてみたが、まだ部屋の準備はできていないという。 そこで荷物を預けて、我々は街に繰り出した。 中央駅の東方には、多数の博物館などがある。 こうした博物館について、日本のガイドブックはあまり詳しく記載しないようである。スウェーデン人とは異なり、日本の出版社は学術に興味がないのであろう。

ここで建物の階数の数え方について確認しておきたい。 日本は米国式、つまり地面と同じ高さの階を 1 階と呼び、一つ上の階を 2 階と呼ぶ。 これに対し英国式では、日本でいう 1 階を ground floor と呼び、その一つ上を 1 階と呼ぶ。 しかし、これは新大陸とヨーロッパの違い、というわけではなく、フィンランドやスウェーデンは日本と同様の呼び方をするらしい。

さて、中央駅の Tourist information で地図を確認した我々は、東方から帰ってくるのにはトラム、つまり路面電車が便利であるらしいことを知った。 私はストックホルムのトラムに乗ったことはなかったが、まぁ、行けば乗り方はわかるだろう、と思った。 実際、後でトラム乗り場に行ってみると、そこには乗車券販売機が置かれていた。 ただ、この時点ではそういった事情を知らなかったから、念のため、料金の払い方を Tourist information のスタッフに尋ねてみた。 すると、下に降りて左側の SL centre でチケットを買うと良い、と教えられた。 この SL centre が少しわかりにくく、やや迷走したが、最終的にはたどり着くことができた。 係員に尋ねてみると、乗るたびに料金をクレジットカードから引く方式と、24 時間乗り放題の方式とがあるという。 乗るたびに引き落とす方が経済的ではあるのだろうが、諸般の事情から、乗り放題の方を選んだ。 両親の年齢を訊かれ、二人ともシルバー料金が適用され 80 クローナであった。私は普通料金の 120 クローナである。 ところが、後で気がついたのだが、私は母の年齢を誤って 65 歳と申告したが、本当は 64 歳であった。 40 クローナをごまかしたことになる。スウェーデン市民の皆様に、お詫び申し上げる。


2017/11/26-1 スウェーデンへ

11 月 27 日、ストックホルムを発してミュンヘンに向かうスカンディナヴィア航空機中にて記す。 欧州の格安航空会社を利用するのは今回が初めてであり、いささか戸惑う所もあったが、特に問題はない。 機内でインターネットには接続できないので、アップロードするのは今晩あたりになるだろう。

バルト海の話の続きである。 Symphony 号の中には、ギャンブルマシーンが設置されていた。 これは、一見、ゲームセンターなどに設置されているような無垢なゲーム機のようにみえるが、実際はゲームの成績に応じて報酬が還元されるギャンブルである。 日本でいうパチンコのようなものと思えば良い。 一応、表向きは「パチンコは現金に還元することができず、ギャンブルではない」ということになっているが、むろん、そんな主張は誰も信じていない。

このフィンランドのギャンブルマシーンは、いたるところに設置されている。 ホテルのロビーでも、スーパーマーケットの入り口でも、みかける。サーリセルカのような田舎でさえ、あった。 今回は確認しなかったが、たぶん、ヘルシンキ中央駅の構内にも設置されている。 それと同様のものが Symphony 号にも設置されているのである。 もちろん、これで遊ぶ者は少なくない。

このように、ギャンブルはフィンランド国民の生活に深く浸透しているようである。 フィンランド社会の汚点、恥部であると言わざるを得ない。

これらのギャンブルマシーンには「18+」つまり「18 歳以下禁止」の表示がなされている。 一方、Symphony 号には日本でいうクレーンゲームのような遊戯機も設置されており、こちらはギャンブルではないようで、「18+」の表示もない。 ただし「フィンランド域内でのみ使用可能」の表示がなされており、たぶん、スウェーデンの法律には抵触するのだと思われる。

さて、11 月 26 日の朝食ビュッフェは現地時間 7 時からである。 現地時間というのは、この場合、スウェーデン時間のことであって、フィンランド時間よりも 1 時間、遅い。 前回の旅行の時、私は、この「現地時間」のことをよく理解しておらず、1 時間早く朝食会場に着いてしまった。 それと同じ過ちを、今回も、した。 時計をフィンランド時間に合わせたまま、7 時前に起床したのである。つまり現地時間でいえば 6 時前である。

そこで我々は甲板に上がって景色を眺めることにした。 この時期の 6 時は、まだ真っ暗である。僅かに島々の灯がみえる。 空はよく晴れており、右舷からは高い位置の北極星の周りに、変わらずカシオペアと北斗がみえる。 北斗は、ちょうど天頂のあたりに来ていた。

甲板を一回りして右舷に戻ると、北極星がみえない。カシオペアも北斗も姿を消している。どうやら雲が出てきたようである。 我々は客室に戻った。

朝食ビュッフェは、夕食ビュッフェに劣らず立派な料理が供されるが、だいぶ割安である。 ヨーロッパに来て不思議に思うのだが、なぜか、朝食に肉をムシャムシャと食べる者が少ない。 パンだのサラダだのを主に食べるようである。 一方私は肉食人種であって、できれば朝からステーキやトンカツを食べたいと思っているぐらいである。 なので、この種の朝食ビュッフェにおいては、私はミートボールだのソーセージだのを貪食することが多いのだが、この時はサーモンをたらふく食べた。 たぶん、ノルウェー産であろう。わざわざ日本に運んでから食べるより、ヘルシンキやストックホルムで食べた方が美味しいように感じる。

ストックホルム入港は 9 時 45 分であった。 我々は甲板上から接岸の様子を眺め、その後、悠然と下船した。 昨年にストックホルム港を訪れた時には改装中であったが、現在は新しい到着ロビーが運用されている。 トイレも、入り口の外観はキレイであり、中も、さぞかしスタイリッシュなのだと想像されるが、確認するのを失念してしまったことが悔やまれる。

ロビーから出たところには、きれいな遊歩道が設けられていた。 そこを少し歩くと、プレハブ様の、たぶん仮設の遊歩道に合流した。 しばらく歩くと、見覚えのある景色に出た。

今は手元に資料がなく、インターネット環境もないので確認できないが、スウェーデン語で地下鉄のことは tunnelbana などと言ったように思う。 トンネル鉄道、の意味である。 で、港のロビーには、この tunnelbana というスウェーデン語表示と共に Metro という英語表示があるので、我々のような言語を解さぬ東夷であっても、道に迷うことはない。 ところが遊歩道を歩き終えて街中に出ると、もはや英語表示はない。 Tunnelbana という標識があるのみである。 しかも港の最寄の地下鉄駅は、かなりわかりにくい場所にある。 私は前回の記憶と周囲の人の流れから、自信を持って駅の方向に歩くことができたが、初心者は迷うであろう。 実際、我々のすぐ後ろを歩いていた北欧人らしき男は、道行く人に「Tunnelbana の駅はこちらで良いのですか?」と尋ねている様子であった。

港に降りてから地下鉄駅に向かう途上で一人、さらに駅構内で一人の乞食をみた。

この地下鉄駅には、英語表記などというものはない。が、駅員は英語をよく理解するので、何ら問題はない。 我々はストックホルム中央駅まで、地下鉄で移動した。 地下鉄は 10 分おきに運航されている。 プラットフォームの電光表示には、発車時刻ではなく到着までの時間が表示されている。 欧州の鉄道駅では、こうした方式が標準的である。 日本のように現在時刻と照らし合わせる必要はない、という点では便利なのだが、あまり知的でない感じがするので、私は好きではない。

さて、以前にも書いたが、この地下鉄は、なかなか硬派である。 プラットフォームに列車が進入する時に何のアナウンスもないのはもちろん、扉が閉まります、とか、発車します、とかいう案内もない。 黙って来て、黙って客を乗せ、黙って出発するのである。 スウェーデン語の車内放送は少しあるが、英語はない。 スウェーデンに来るなら、スウェーデン語を話せ、英語など知らぬ、という態度である。 あるいは、ひょっとすると「困ったら近くの人に尋ねると良い」という、人道的な暖かみのある態度なのかもしれぬ。 とにかく、こういう世相に媚びない態度は、私は嫌いではない。

まもなく、我が機はミュンヘンに到着する。


2017/11/25-2 バルト海

11 月 27 日未明、ストックホルムのホテルにて記す。 サーリセルカほどではないにせよ、当地も昼は短い。15 時 30 分頃には日が沈むようである。 我々のホテルは、大通りから少しだけ、暗い道を脇に入った場所にある。出入りには多少の注意が必要であろう。

11 月 25 日、我々はバルト海を横断する Symphony 号に乗船した。 乗船時にはムーミンの出迎えがあった。 部屋に荷物を置いて甲板に上がると、船尾方向にはヘルシンキの夜景が美しかった。 ヘルシンキ大聖堂やウスペンスキー寺院もライトアップしている。 遠方には空港に発着する飛行機の往来もみえた。 後部甲板では、日本人男子大学生と思われる四人組が、はしゃいでいた。 こうした場所で日本人学生をみかけることは珍しくないが、男子大学生というのは、やや珍しいように思う。 17 時になると、船は静かに岸壁を離れた。

我々の夕食は 19 時半からである。この船のビュッフェは世界的に有名であるらしい。 今回は季節柄、クリスマスビュッフェとして、肉類などが豊富であった。むろん、サーモンをはじめとする魚類も美味であった。 この船の乗客には小さな子連れ家族も多いが、そうした子連れと我々とは、席が離れるよう配慮されているようである。

夕食後に、また甲板に上がった。空には星が広がっていた。北極星の位置が高い。カシオペアも北斗も、明瞭にみえた。日本では、なかなかみられない光景である。


2017/11/25-1 ヘルシンキ散策

11 月 26 日未明、バルト海上にてこれを記す。 我が船は、さきほどより、軽度の揺れを来している。この巨船であっても、バルトの荒波が相手では多少の動揺を禁じ得ないものと思われる。 サーリセルカ滞在中より、我が口唇と口角にはひび割れが生じ、軽度の鼻出血を来している。 おそらく、極端な低温に暴露したために、表皮や鼻腔粘膜の損傷を来したのであろう。

さて、11 月 25 日の朝食をホテルで済ませた我々は、10 時にチェックアウトし、バスで空港に戻った。 空港からは鉄道でヘルシンキ中央駅まで 30 分程度である。車内は、空いていた。

私は、フィンランドが大好きである。ヨーロッパ諸国の中では一番である。 将来、北欧で働く機会があるならばフィンランドかスウェーデンが良い、と思っているほどである。 だからこそ、我が愛するフィンランド人の恥部も、隠すことなく指摘しなければならない。 現実を誠実にみつめることによって、初めて未来を拓くことができるからである。

一つには、ゴミの問題である。 ヘルシンキ中央駅で線路の行き止まり部分をプラットフォームから見下ろすと、そこは、ゴミ溜めと化していた。 おそらく、旅行者が、何気なくゴミを線路上に投げ捨て、そして駅側も、それを清掃することなく蓄積し続けてきたのであろう。 実に、醜い。

さて、我々の予定では、ヘルシンキ中央駅から徒歩で東に向かい、ヘルシンキ大聖堂、ウスペンスキー寺院を経て、フェリー乗り場である Olympia terminal に向かうことになっていた。 中央駅を出て最初の問題は、どちらが東か、という点である。 晴天ならば太陽をみれば一目瞭然なのであるが、あいにくの曇天であり、それどころか、パラパラと雨が降り始めている。 そこで我々は線路をみた。 ヘルシンキ中央駅からは、線路は北にしか伸びていない。 これをみて我々は東の方角を見定め、歩き始めたのである。

東北東ないし北東に向かう道に沿って少し歩いたところで、右方に学術的な雰囲気を呈する建物がみえた。ヘルシンキ大学であろう。 近づいてみると、確かにフィンランド語で「ヘルシンキ大学」と表示されている。 我々はホゥホウと感心しながら、大学の建物の間を通る道を歩いた。

大学の建物の向こうに、白いドーム状の屋根を持つ建築物がみえた。ヘルシンキ大聖堂であろう。そちらにむかって、我々は歩を進めた。 大聖堂の手前、道路の左側に、正教式の十字架を掲げる小さな教会があった。 入り口には説明文が掲示されており、フィンランド正教であるとのことであった。

大聖堂は、ルーテルの所属である。 我々は大きな荷物を抱えていたので、外で荷物番をする者と中の見学に行く者に分かれ、二交代で聖堂に入った。 ルーテルらしく簡素な内装の大聖堂の中には、それでも聖画が安置され、シャンデリアが飾られていた。 この聖堂内を写真や動画で撮影している来訪者は少なくなかった。 誤解のないよう書けば、こうした来訪者の大半はヨーロッパ系と思われる風貌であった。 言うまでもなく、こうした場で写真や動画の撮影をすることは、キリスト教的精神に反するものであり、不敬である。 真のキリスト教徒ならば、荘厳な大聖堂の中にあって、あの聖画を前にして、 信仰心が呼び起こされないはずがなく、写真撮影にウツツを抜かす気分になど、到底、なるはずがない。

大聖堂の前からは、街並みの向こうの港に停泊する白い客船がみえた。あれが、我々の乗る Symphony 号であろう。 大聖堂前の広場には、仮設店舗のようなものが設置されていた。 フィンランド独立 100 周年記念祭が 2017 年 12 月 6 日から開催される旨の横断幕があったことを考えると、その関係であろう。

大聖堂から東に歩くと、正教様式のキリスト教建築物がみえた。ウスペンスキー寺院であろう。 重い荷物を持って階段を上ろうとする我々に対し、通りすがりの婦人が迂回するスロープがある旨を教えてくれた。

我々は、大聖堂の時と同様に、二交代制でウスペンスキー寺院に入った。 寺院の入り口には、一人の女の乞食がいた。今回の旅行中、フィンランドでみた乞食は、この一人のみである。 我々が寺院を出るとき、入れ違いに、多数の観光客が入ってきた。 その中に、母親と息子・娘と思われる日本人三人組がいた。 先方も我々に気づいたようで、軽く会釈をした。 この三人組とは、サーリセルカのホテルからイヴァロの空港に行くバスで一緒になった仲である。 ついでにいえば、イヴァロからヘルシンキへの飛行機でも、この三人組の座席は私の目の前であった。

ウスペンスキー寺院から olympia terminal に向かって少し移動した海岸には、テントで土産物などを売っている場所がある。 私は前回ここで、トナカイの角の首飾りと、毛皮の帽子を購入した。 トナカイの角は、サーミの伝説か何かで、魔除けになるという話であったと思う。今回も日本からずっと身につけている。 毛皮の帽子も、今回も持参してサーリセルカで大活躍した。 私は知らなかったのだが、母が言うには、この場所が有名なヘルシンキのマーケットであろう、とのことである。 なぜ有名なのかは、知らぬ。 我々は、ここでフィンランド風のサーモンスープを食べた。

ストックホルム行きの船が出発する olympia terminal に到着したのは 14 時 30 分頃であった。 チェックインは済ませたが、乗船開始は 15 時まで時間がある。 我々は、さらに南方まで海岸沿いを散歩した。 ちょうど、夕陽がバルト海に沈むところであった。


2017/11/24-2 ヘルシンキ空港

この記事は、11 月 25 日夜、バルト海上を往く客船 Symphony 号の中で書いている。 ただし船内からはインターネットへの接続状態が悪いようなので、アップロードするのは明日になるだろう。 この時期のヘルシンキに雪はなく、バルト海でも降雪の気配はない。 出港時には晴れていて、ヘルシンキの夜景と共に、頭上に輝く北極星と、それを囲むカシオペアや北斗の美しい星々を、母と共に眺めた。 日本人男子大学生と思われる四人組が、はしゃいでいた。 現在は曇天のようであり、甲板から空を見上げても、星はみえない。 例の有名な夕食ビュッフェも食べた。たいへん美味である。 近くのテーブルには日本人女子大学生と思われる三人組がいた。 そのうち一人は、酒が回ったのか、一時、テーブル上にうつぶせていた。こうした振る舞いはたいへん行儀が悪いので、慎むべきである。

さて、話を 11 月 24 日に戻す。 ラップランドからヘルシンキに帰着したのは、予定より 1 時間程度遅く、22 時過ぎであった。 精神的に疲弊していた私は、普段ならしないような失敗を、した。

ヘルシンキ空港には、第一ターミナルと第二ターミナルがある。 フィンランド航空は基本的には第二ターミナルに発着する。 当然、フィンランド航空の預け入れ荷物の受け取り場所 (Baggage claim) は第二ターミナルにある。 ところが私が乗ったイヴァロからの便は、第一ターミナルに到着した。 つまり乗客は、第一ターミナルから、第二ターミナルの baggage claim に移動して各自の荷物を回収しなければならないのである。

ご想像の通りである。我々は、うっかり、よく確認しないままに第一ターミナルの baggage claim に降りてしまったのである。 気づいた時には、既に遅かった。 戻ろうにも no entry の表示があって、戻れない。 やむなく我々は、荷物を回収しないまま第一ターミナルの到着ゲートを出た。 この時点で私は、先にヘルシンキ空港で行ったのと同様に、インターフォンで係員に連絡せねばなるまい、と考えていた。

ところが第二ターミナルに向かって移動しながら、おかしなことに気がついた。 この時刻に第一ターミナルに到着する便は存在しないはずなのに、我々と同様に第一ターミナルから第二ターミナルの方に向かって移動する者が、少なからず存在するのである。 ハハァ、と思った。おそらく彼らは、我々と同じ失敗をしたのであろう。 案の定、フィンランド航空を管轄する部署のインターフォン前には、既に、なんとなく見覚えのある者がいて、やってきたフィンランド航空の係員と話をしている。 私は、これは手間が省けた、と思い、その係員に向かって 'Hello. We are in the same situation.' と述べた。 本当のことをいえば、先にいた人々が我々と同じ状況なのかどうか確信はなかったのだが、まぁ大丈夫だろう、と考え、勢いで話したのである。

後は簡単であった。荷物預け入れの半券を確認された後、我々は第二ターミナルの baggage claim へと通されたのである。 そして荷物がベルトコンベアーに乗って運ばれてくるのを待ち、無事に回収することができた。

ホテルには、空港から送迎バスが出ているらしい、という情報は事前に把握していたが、正確な乗り場の位置は、知らぬ。 そこでバスを探すべく、それらしい方向に向かって空港の建物を出た。 すると偶然、我がホテルの名を表示したバスが、目の前を通過し、近くの停留所に停車した。 実にスムーズに事が運んだ。


2017/11/24-1 サーリセルカ最終日

朝の気温は -6 度であった。だいぶ温かい。 -20 度の世界では、カーディガンにジャケット、コートを着て、頭に毛皮の帽子を被り、ミトンの手袋を装備しても、顔面に刺すような冷たさ、痛みがあった。 外を出歩くのは、連続 1 時間が限度である。 しかし、この日は風も弱く、この装備なら外出するのに何ら問題はなかった。

前日の晩に降雪があったらしく、粉状の雪が地面に積もっている。風も強かったようで、樹々が被っていた雪も、かなり振り落とされている。 前日は森は真っ白であったのだが、この日は、樹々の緑が顔を出しており、大きく様変わりしていた。

朝食ビュッフェでは、ミートボールやソーセージではなくベーコンが供された。 私はベーコンが大好物なので、ムシャムシャと食べた。

12 時前にホテルをチェックアウトし、荷物は預けて散歩に出た。 とりたてて、ここに書くようなことはない。

なお、ホテルの入り口の掲示によれば、本日の日の出は 10 時 14 分、日の入は 13 時 36 分とのことである。 一か月後の冬至の頃には日が昇らなくなることを思えば、昼が 3 時間以上もあるのは、意外と長い。

16 時 50 分にホテル前を出たバスでイヴァロの空港に移動した。 イヴァロ発、キッティラ経由ヘルシンキ行きの便は、18 時 45 分発の予定であったが、前の便が遅れたとのことで 19 時 30 分発に変更された。


2017/11/23 サーリセルカ第三日

朝の気温は -17 度であった。 ビュッフェ形式のホテルの朝食では、前日にあったミートボールが、ソーセージに入れ替わっていた他は、特に変化はなかった。

日中に少し村を散歩した。気温は -15 度と、少し高くなってはいたが、風がやや強く、寒かった。 細氷はみられず、視界良かった。樹々の白さが、前日よりも増していたように思う。

昼食は、結局、前日と同じレストランのビュッフェを食べた。 内容は一部日替わりであり、トナカイのソーセジではなく、たぶん豚肉のソーセージ・ソースであった。 スープはワカメと豆腐の miso soup であった。私は飲まなかったが、両親が言うには、インスタントの味噌汁と同程度には美味とのことである。

夕食は別のレストランに行った。 メニューには品数があまり多くなく、一方でハンバーガーやピザも供する店であった。 後で気づいたのだが、これはレストランというより飲み屋に近い店であって、料理は前菜と主菜、というような形ではなく、一皿だけ注文すれば良いスタイルである。 店員も、たとえば椅子を移動させると時にズリズリと音を立てて引き摺るなど、上品とは言えなかった。 詳しくは書かぬが、まぁ、要するに我々は失敗したのである。 肉や魚料理を一人一品注文すれば十分なのであって、それに加えてサラダを注文するべきではなかったのである。

ホテルに戻る途中、前日の晩にも空を見上げた駐車場に行った。 よくみると、星空が広がっている。 さらにじっとみると、北西の空にオーロラが現れた。 かなりの長さにわたって延びる帯が一本と、その西側にもう 2, 3 本、みえた。 天頂付近にも、ぼんやりと白く輝いているものがある。 時刻は 8 時過ぎであったと思う。

一旦、ホテルに戻り、10 時過ぎに再び駐車場に行った。 この時は曇天であり、星もオーロラも見えなかった。 気温は -10 度と高くなっていたが、風があり、寒かった。


2017/11/22-2 日中のサーリセルカ

サーリセルカの村は、雪に包まれている。 概ね -17 度から -20 度の冷気の中、雪上を散歩するのは、なかなか楽しい。

昼食は、ホテル近くのレストランで食べた。 通常のメニューの他に、11 時から 17 時 30 分まではビュッフェもやっているらしい。 アジア料理と地元料理、との表示であったが、アジアといっても具体的には中華風である。 正確にいえば、中華料理をフィンランド風にややアレンジした料理であろう。 また地元料理というのは、トナカイのソーセージとマッシュポテトの二品であった。 正直に言えば、トナカイのソーセージは、私は、また食べたいとは思わない。

途中、スーパーマーケットにも寄った。 ヨーロッパでは一般的なスタイルである。 つまり一度に大量購入するのが一般的であり、客は買い物かごから商品をレジのベルトコンベアーに自分で乗せる。 前の客が乗せた商品と自分が乗せた商品の間には、仕切りを置いてわかるようにする。 といった具合である。

村外れには、インフォメーションセンターがあった。 ここでは、サーリセルカや近隣地域の歴史や、ラップランドの先住民であるサーミの民族衣装の紹介などが展示されていた。 一階には、サーミであるという女性が土産物店を開いており、その父親が作っているという木製カップをお勧めしてくれた。 このカップには名入れサービスも行っているとのことで私も 1 個、購入した。

日没後に、オーロラを眺めに出た。 空には多少の雲が広がっているようであり、細氷も著しい。気温は -20 度である。 日中に歩いた際には、村の教会付近が空を見上げるには良いかと思われたが、街灯が多く、明るすぎる。 かといって、村の中心部から離れた丘の方は人気が少なく、あまり夜間に出歩きたくはない。 結局、ホテル裏手の駐車場が、悪くない観察スポットであるとの結論に至った。

時刻は 21 時頃であったと思う。 昨日とは異なり、天頂部を中心として、放射状に広がるオーロラの多数の帯がみられた。 ゆらゆらと、強度を変えながら、輝いていた。

しばらく眺めた後、一度ホテルに戻り、23 時頃に再びオーロラを眺めに出た。 空は晴れており、また放射状に広がる帯が、明るいものだけでも 5, 6 本はみられた。

なお、この日の夕食はホテルのレストランで食べた。 私の注文の仕方も悪かったのであろうが、「トナカイのスープを一皿とサーモンのスープを二皿」注文したつもりが、 トナカイが二皿とサーモンが一皿、運ばれてきた。 まぁ、そこで文句を言っても仕方ないないので、サーモンではなくトナカイのスープをいただいた。 ソーセージに比べると、スープなら、まぁ、トナカイも悪くない。


2017/11/22-1 陽光

北極圏にあるサーリセルカは、この時期、日の出が極端に遅い。 11 月 22 日の朝、9 時にホテルの食堂でビュッフェ形式の朝食をいただいた。 フィンランドでは、ライ麦パンや、ミートボールなどが食べられることが多いらしい。 この時、まだ日の出前である。

昼までホテルで休憩し、村の散策に出た。 辺り一面に雪景色が広がり、木々は樹氷に覆われ、正午過ぎなのに太陽の高度は 10 度ほどである。 気温は -17 度、夜と大して変わりがない。細氷も舞っている。

ところで私は、文学者ではなく、科学者である。 美しい景色のことだけではなく、醜いものについても、書かなければならない。 一つは、雪に覆われた道の上に遺棄された煙草の吸殻である。 数はそれほど多くないものの、発見するのが難しくはない程度には路上に散乱している。 この汚物の主がフィンランド人であるのか、外国人であるのかは、知らぬ。

もう一つの汚物は、路傍の積雪に散見される黄色の染みである。 おそらく、放尿痕である。 その主がヒトであるのか、飼い犬であるのかは知らぬが、野生動物ではあるまい。 あるいは、路傍にかかる醜い痕跡を残している点では野獣と変わらぬ、と言えなくもない。 いずれにせよ、美しくない。


2017/11/21-3 サーリセルカへ

ヘルシンキでは、前日に雪が降ったらしく、空港でも数 cm 程度の積雪がみられていた。 空港内のビストロで、私はサーモンスープを、両親はパスタを食べた。味は、たいへん、よろしい。 そのヘルシンキを 16:50 に出発したフィンランド航空の国内線は、キッティラを経由してイヴァロに向かった。 キッティラというのは、スウェーデンとの国境に近い街であって、ウィンタースポーツなどのために訪れる人が多いらしい。 飛行機がキッティラで乗客を降ろす間、我々は機内で待機した。 キッティラからイヴァロまでは東北東へ 25 分の飛行であった。

イヴァロの空港は、気温 -18 度であった。 日本でも使っている黒のロングコートを着て、頭には昨年にヘルシンキの港で購入した毛皮の帽子を被り、手には同じく昨年にストックホルムで入手したミトンを着けて、機外に出た。 滑走路は除雪されているが、それ以外の部分には 10 cm 程度であろうか、積雪がみられる。 ヘルシンキよりも深いが、まだ冬季に入って日が浅いためか、雪の量は大したことがない。 大気中には細氷がみられ、空港の照明を反射してキラキラと美しく光る。 飛行機を降りてから建物の中に移動するだけでも、なかなかに寒かった。

荷物を受け取り空港の外に出ると、サーリセルカ行きのバスが待っていた。 運転手にホテル名を告げ、乗り込む。 バスには、我々の他にも 20 名程度の乗客がいた。 出発前に一人 10 ユーロの料金を支払った。

バスは、樹氷に覆われた森の間の道路を走った。 サーリセルカはイヴァロの南方 27 km 程度の所にある、北極圏の村である。 フィンランド北方はラップランドと呼ばれるが、その入り口にあたるロヴァニエミの街は、ぎりぎり北極圏の外にある。 サーリセルカは、そのロヴァニエミからみると 200 km 程度、北方に位置する。 オーロラや、ウィンタースポーツのために訪れる客が多いらしい。

サーリセルカのホテルにチェックインし、部屋に荷物を置いた。 両親の部屋は、私の部屋とは別の棟にあるので、往来には 5 分程度、外を歩かなければならない。 我々は互いの部屋の場所を確認した後、レストランに行こうとした。

ホテルの受付のある棟の近くまで来た時、北の空にボゥと輝く光がみえた。 上下に帯のように短く広がり、ユラユラと僅かに動く。オーロラである。 よくみると、周囲に 2, 3 の同様の帯がみえ、さらに天頂近くにも発光が認められた。 ホゥ、と思いながら眺めていると、後方から人の声が聞こえた。日本語である。 まず数名の日本人がやってきて、数分後には、団体客であろう、20 名ほどの日本語を話す人々が集まってきた。 しばらく空を眺めた後、その集団は「オーロラ小屋に行きます」という先導者の声に従って、いずこかへ去っていった。 たぶん、丘の上に、そういう観測場所が設けられているのだろう。

ひとしきり空を見上げて、オーロラの輝きがやや薄れる頃には、ホテル併設のレストランも閉まっていた。 我々は部屋に戻り、ヘルシンキの空港で買っておいたライ麦パンのサンドイッチを食べた。


2017/11/21-2 ヘルシンキ

我が機がヘルシンキに着陸したのは、11 月 21 日の昼頃である。 入国審査の列で、私と両親の前には中華人民共和国のパスポートを持つ 20 代ぐらいの男女二人組が並んでいた。 まず男の方が、入国審査官の尋問を受けた。 いつまで滞在するのか、ホテルは取ってあるのか、など、執拗に、詳細に質問されているようで、男は、ホテルの予約票のようなものを見せ、説明している。 不逞外国人の侵入を防ぎ、国家と EU の安寧を守るためには、必要なことであろう。

二人の中国人は無事に入国し、私の番になった。 行先はどこか、と問われ、サーリセルカへ観光だ、と答えた。 その後、某国と某国と某国を巡って、12 月 1 日に日本に帰る、と述べれば、一人か?と問われるので後ろの両親を示して三人だ、と答える。 どうやって帰るのか?との問いにはイスタンブール経由だ、と返す。 そこまでは良かったのだが、何日に欧州を出発するのか、と問われて、窮した。 欧州を出るのが 11 月 30 日であったか、12 月 1 日であったか、とっさにはわからなかったのである。 私は December 1st, or November 30th... sorry, I don't remember. と述べ、書類を鞄から出そうとした。 すると係官は OK, I believe you. と述べ、私のパスポートに入国のスタンプを押した。 私は Thank you very much! と述べ、入国ゲートを通過した。 私に続いた両親は、特に何も質問されずに入国できた。

これが、日本国のパスポートの威力である。 私は、出国するのは何日だったかな・・・などとアヤシイことを言ったのに、係官は、よろしい、君を信じよう、と言ってくれたのである。 むろん、これは過去の日本人諸兄姉が積み重ねてきた誠実な言行の賜物なのであって、我々は、それを汚してはならぬ。

預け入れた荷物を受け取って、到着ゲートを出た我々は、イヴァロ行きフィンランド航空国内線の出発時刻を確認しようとした。 なお、フィンランド航空も、公式の日本語名はフィンエアーであるが、トルコ航空と同じ理由で、私はフィンランド航空と呼ぶことにする。 航空券は E-ticket であるが、その控えを鞄から取り出そうとして、私は、慌てた。 鞄が、ないのである。

私は、成田で購入した大きなトートバッグの中に普段から使っている手提げ鞄を入れ、その手提げ鞄の中に重要な物品を納めている。 機内では、手提げ鞄は足元に、トートバッグは頭上の収納に入れておいたのだが、降りる際、トートバッグだけを持って、手提げ鞄は機内に忘れてきたものと思われた。

狼狽した私は、まず、空港インフォメーションを探した。が、みあたらない。 やむなく、両替商の職員に Lost & Found の場所を尋ねたところ、下の階に行け、とのことであった。 その忘れ物サービスのカウンターで、先ほど機内に荷物を忘れたようなのだが・・・と言うと、今度は、到着ゲートの出口付近にインターフォンがあるから、そこで話すと良い、と言われた。 到着ゲートに戻り、インターフォンのボタンを押したが、反応がない。何度押しても、反応がない。Hello と言ってみても応えない。 私は、トルコ航空の職員を探そうと出発ロビーに行ってみたが、トルコ航空のカウンターがみあたらない。 再度、到着ゲートのインターフォンの所に戻り、ボタンを長押ししてみた。すると、呼び出し音が鳴り始めた。

後は、簡単であった。インターフォンに出た職員に対し、機内に忘れ物をした旨を述べると、彼は私を到着ゲートの中に入れてくれた。 なお、入れるのは一人だけとのことで、両親は外で待った。 ここ待っていれば誰かが持ってきてくれるよ、とのことであったので、私は、ベルトコンベアーの傍で待った。 すると、先ほどの機内で見覚えのある客室乗務員が、Is this yours? と、私の鞄を持ってきてくれた。座席の下にあったのをみつけたんだけど、とのことである。 Oooooh, yes, thank you veeery much! と述べた私は、受取証にサインして、揚々と両親の元に戻ったのである。

私は、トルコとトルコ航空がますます好きになった。


2017/11/21-1 飛んでイスタンブール

イスタンブールまでの機中では、鶏肉を主体とする夕食と、オムレツを主菜とする朝食が供された。 朝食ではチーズも出されたのだが、正直なところ、私は、チーズはあまり好きではない。

さて、イスタンブールに着いたのは 11 月 21 日 4 時過ぎである。 ヘルシンキ行きの便は 9 時ちょうど出発なので、なかなか時間がある。 せっかくトルコに来たのだから、と、フードコートで Baklava を食べた。 Baklava にしては甘さはやや控えめであるように思ったが、美味である。 個人的には、実は Baklava はバターを多めにしてシロップを省いた方がおいしいように思う。 京都大学時代に自宅で何度か作った際には、そうしたレシピ改変を行っていたのだが、たぶん、それは邪道なのだろう。

こうした菓子類の値段は kg あたりの表示であるということは昨年、学んでいたので迷わなかった。 しかし前回イスタンブールに来た時には、空港内の値札にはトルコリラとユーロが併記されていたように思うのだが、今回はリラ表記のみである。 ユーロの取り扱いはやめたのかと思い、我々は少しの日本円をリラに替えた。 ところが支払いの際には、リラか?ユーロか?ドルか?などと尋ねられた。どうやらユーロ払いもできたらしい。

空港には、展望テラスも 2 箇所、あった。 しかし、ここは事実上の喫煙所と化しており、モウモウと煙が立ち込め、到底、非喫煙者が風景を眺められるような状況ではなかった。

ヘルシンキ行きの飛行機は、予定通り、9 時にイスタンブールを出発した。 機中では、キッシュのようなものを主菜として食事が供された。トルコ料理なのかもしれぬが、詳しくは知らぬ。


2017/11/20-3 エルトゥールル号

ホテルでビュッフェ形式の朝食をいただいた。 フィンランドでよく食べられるミートボールやライ麦パンなど、たいへん美味であった。

さて、我がトルコ航空 53 便は、出発予定が 10 分繰り上がって 21 時 15 分に成田を発ち、つつがなくイスタンブールに到着した。 機中で映画「Ertugrul 1890」をみた。これは史実を元にした日本とトルコの合作映画で、監督は日本人、邦題は「海難 1890」である。 1890 年というのは、のオスマン帝国軍艦が日本近海で遭難した際、沿岸の寒村民が数十名を救命した、エルトゥールル号遭難事件の年である。 そして 95 年後の 1985 年、イラン・イラク戦争に際し、イラクのサダム大統領がイラン上空の飛行禁止を通達した際、 諸外国が自国民救援のためにチャーター機を派遣する中、日本航空の労働組合は救援機の派遣を拒否した。 その際に、無関係なはずのトルコ航空が救援機を増派し、しかも日本人を優先して搭乗させた。 少なくともここまでは、事実である。 そこから先は史実かどうか知らぬが、日本人を乗せたことで、より多くのトルコ人がイランに取り残され陸路での脱出を余儀なくされたにもかかわらず、 この判断についてトルコ政府やトルコ航空を非難する者は少なく、むしろ、それを「名誉に思う」と称賛する声が上がったという。

たいへん、素晴らしい映画である。 ただし誤解を招くといけないので、一応、書いておこう。 この映画では、サダム大統領は完全に悪役として描かれている。 イラクの大統領が、イラン上空を「飛行禁止」と一方的に定め、「軍用機・民間機を問わずに全て撃墜する」と宣言することは、確かに、不法であり野蛮である。 しかし、1990 年の湾岸戦争以降、米国や英国は、国連決議すらなしにイラク上空に飛行禁止空域を定め、そこを飛行するイラクの航空機を撃墜するという蛮行に及んだ。 我が日本政府も、それを支持する立場を示した。その我々に、サダム大統領を非難する資格はない。

また、私は、幼いころ両親に連れられて旅行した時を除き、日本航空を利用したことはない。 海外旅行に際しては、今後も、できる限りトルコ航空を利用しようと思う。


2017/11/20-2 成田空港

この記事は、11 月 22 日 8 時 30 分、サーリセルカの村のホテルで書いている。 外はまだ薄暗く、雪も積もっているが、天気は晴れである。

今回の出国は 20 日 21:25 成田発のトルコ航空 53 便であった。 細かいことをいえば、同航空の日本語での正式名称はターキッシュエアラインズである。 しかし、英語で Turkish Airlines と呼ぶのは良いが、それをカタカナ表記するのは、いささか間抜けな印象を受ける。 なので私は、敢えて旧称のトルコ航空という名前を使いたい。

11 月 19 日の夜は東京・蒲田の両親宅に泊まった。 20 日の夕方に、両親と三人で、京急線の直行便で成田空港に移動した。 両親は空港で外貨への両替を行ったが、私は昨年の旅行の際に余らせた 1000 ユーロ以上の現金を自宅で発掘していたので、両替の必要はなかった。 ただ、パスポートを入れるポーチと、機内持ち込み用の大型で丈夫なトートバッグを購入した。

トルコ航空のチェックインカウンターにはいささか長い列ができていたが、係員の対応は迅速で、それほど長く待たずに済んだ。 荷物を預け入れ、つつがなく保安検査を受け、何の問題もなく我々は出国できた。

問題は、搭乗ゲートで起こった。 急病人が出たらしく、係員などが集まっていたのである。 行くべきかどうか迷ったが、既に一人のキチンとした医師が来ていたので、私は遠巻きに見守るに留めた。 医師たる身分を示すものを何一つ持っていないこと、救急に関してはヘッポコな研修医に過ぎぬこと、心肺停止などの人手を要する状況にはみえないこと、 患者の周囲にスペースがないことから、私が行っても邪魔にしかならぬと判断したからである。 ただ、その時点で心肺蘇生は行っていなかったものの、医師は AED を持ってくるよう職員に指示していたため、「そういう状況」になればすぐに交代要員として入れるよう、 様子は見守っていた。 やがて救急隊も到着し、搭乗手続きも始まったため、私は一礼して搭乗口に向かった。 むろん、自分の勉強、という意味では行ったほうが良かったのだろうが、患者の利益という意味では、どうするべきであったのか、よくわからない。

朝食の時間が迫っているので、続きは後刻、書くことにしよう。


2017/11/20 旅の予定

一年半ぶりのヨーロッパである。 今回は両親を伴ってフィンランド他 3 か国を巡る。 帰国予定は 12 月 1 日の夜である。

本日の夜に成田から出国し、トルコのイスタンブールを経由してヘルシンキに至る。 本当はイスタンブールもブラブラしたかったのだが、日程の都合もあり、今回は乗り継ぎだけである。 空港で Baklava などを食べて、トルコ気分だけ味わうことになるだろう。 フィンランドに入国するのは、2016 年の旅行に続いて二回目である。

参考のために前回の旅行記を見返したところ、いくつか書き忘れたことがあるようなので、ここに簡単に追記しておく。 ひょっとすると前回既に書いた内容と重複する部分があるかもしれないが、その場合はご容赦いただきたい。

イスタンブールでは、現地人に声をかけられてカフェで朝食をご馳走になったことは書いた。 彼からは夕食にも招かれたのだが、丁重にお断りした。 もしかすると本当に彼の厚意による招待なのかもしれないが、正直にいって、うさん臭かったからである。 そもそも、朝早くからイスタンブール空港の地下鉄駅でブラブラして、外国人旅行客に声をかけている時点で、怪しい。 そして何より、彼は私につまらない嘘をついた。 私が「イスタンブールに、よく日本人旅行客は来るのかね」と聞くと、彼は「いや、あまり来ないよ」と答えた。 明らかに、嘘である。 トルコというのは、日本の大学生や若い女性などがしばしば遊びに行く場所である。 イスタンブールの商店街などは、日本人客を狙って日本語の表示を示している店まである。 それなのに、なぜ、そんなつまらない嘘をつくのか。到底、信用できない。

イスタンブールといえば、私が番犬に追いかけられて転倒し、恐怖を感じたことも書いた。 たぶん、この時だと思うのだが、私は日本の自宅の鍵を紛失した。 鍵自体の紛失も痛手であったが、キーケースを失ったことが悲しかった。 その革製のキーケースは、以前ある人からもらって、大事にしていた品だったのである。

他にも、スイスのチューリッヒでは、路上の吸殻を広い集める男がおり、おそらく、清掃員ではなく「別の目的」なのであろうと思われた。 欧州の貧富格差問題は、かなり深刻なのである。

今回は両親を伴っての旅行であるから、単身の時ほど激しく歩き回らないであろうし、たぶん、それほど面白い事件も起きないであろう。 日記を読んでくれる方にとっては、いささか物足りないと思われる。 予め、ご了承いただきたい。


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