2019/12/17 やり方を教える

小学校の頃、授業中に、たとえば算数の計算問題を解くことがあった。 各々の生徒の理解の程度には差があるので、当然、スラスラと解ける生徒もいえば、よくわからずに止まってしまう生徒もいた。 そこで教諭は、早くできた者に対し、そうでない者に教えさせる、ということを行った。 物事を他人に教えるというのは、自分自身の勉強にもなる行為であるから、この「教えさせる」ということ自体は良い教育方法であったと思う。 しかし教える側も小学生であるから、必ずしもうまく教えられるわけではない。 そこで教諭は、教える側の生徒に対し「答えを教えるのではなく、やり方を教えなさい」と指導していた。

小学校における初等教育としては、それで良かったのかもしれぬが、 大学や大学院における高等教育、あるいは医師に対する臨床教育としては「やり方を教える」教育は不適切である。 しかし、学生や研修医などに向けたアンチョコ本には「○○のやり方」とか「△△の考え方」とかいうものが多い。 これらの本を参考にして、やり方を覚えれば、臨床はとりあえず回せるのだろう。 「考え方」というのも同様で、本当に医学的に自分の頭で考えるという意味ではなく、フローチャートにあてはめて判断する、というような意味に過ぎない。 この「やり方を教える」という教育が行われた結果、たとえば、次のようなことが起こる。

臨床試験の結果を報告する論文には、定型的な構成がある。 患者を二群にわけてランダム化比較対照試験やコホート研究を行う場合、性別や年齢、人種などの要素について、二群間で比較し、 たとえば t 検定を行って p 値を計算した表が書かれることが多い。 大抵、有意差は生じないので、それ以上は議論されない。 しかし統計学の立場からすれば、有意差がある場合には「重大な交絡因子となっている恐れがある」と考えられるが、有意差がない場合には、判断が難しい。 有意差なし、というのは、差があるのかないのかわかない、という意味に過ぎず、「両群に重大な偏りがない」ということを意味しないからである。 従って、本来であれば、性別や年齢などの偏りの許容範囲を予め設定し、両群の差が、その許容範囲に収まっているかどうかを検定しなければならない。 ところが、そういう解析を行っている論文は極めて稀であるか、あるいは存在しない。 なぜ、彼らは、統計学的に意味のない p 値を書くだけで満足しているのか。 おそらく、彼らは統計学を理解していないから、自分の主張を裏付けるためにいかなる解析が必要なのか判断できず、 先例に倣って、同じような「解析」をすれば良いと考えているのだろう。

また、当初設定した判定基準では有意な差が出なかった場合に、解析条件を変えて、どのような場合に有意差が生じるかを検討することがある。 その試行錯誤の結果、ある条件の下では有意差が生じる、という結果が得られることがある。 むろん、試行錯誤を繰り返せば、単なる偶然の偏りによって「望ましい」結果が生じることもあるのだから、それが本当に意味のある結果なのかどうかは疑わしい。 というより、これは不適切な多重検定の結果に過ぎず、本当に統計学的に有意な差ではない。 しかし無知な研究者連中は、それが自分の期待した結果と一致しているならば、意味のあるものと判断して発表するのである。 そして業界誌 (あるいは業界紙) や、一般のマスコミは、そういう無意味な結果を、あたかも医学的に重大な発見であるかのように報道するのである。

世の中には、こうした不正で無意味な「解析」を行った論文が多い。 おそらく、査読者も統計の素人であることが多いから、こうした論文が公然と、有名な論文誌に掲載されるのであろう。 そして、統計の素人である研究者連中は、こういう解析でも掲載されるのだから、それで良いのだ、と判断する。 それが正しい医学研究のあり方だと、勘違いする。 彼らの目的は雑誌に自分の論文が掲載されることであって、学術の探究ではないのである。 結果として、不正な解析を行った論文が、安定して生産され続ける。

そして、そういう不正な解析であったとしても、多くの論文を有名な論文誌に掲載させた者が、優れた研究者として評価される。


2019/12/11 言葉遣いと測定誤差 (2)

「誤差」というものを理解するために、「血糖の濃度」と「血糖の濃度の測定値」の違いについて考えよう。 「血糖」というのは、「血液中のブドウ糖」のことであった。 しかし一概に「血液中」といっても、動脈なのか静脈なのか、あるいは上肢の静脈なのか頭部の静脈なのか、あるいは腸間膜静脈なのかで、ブドウ糖濃度は異なる。 つまり「血糖の濃度」というのは部位に依存するから、「血糖の濃度は ○○ mg/dL である」というような簡単な形では表現できない。 一方、臨床的には、血糖は静脈採血あるいは指先の末梢血管からの採血で測定することが多い。 臨床的な「血糖の濃度の測定値」というのは、こうした部位での測定値をいうのであって、これは「血糖の濃度の測定値は ○○ mg/dL である」と、簡単な形で表現できる。

誤差という観点からいえば、血糖が部位依存的な量である以上、その全容を、代表的な一点での採血によって知ることは不可能である。 つまり、血液検査で測定できる血糖の濃度 (一点における測定値) と、真の血糖濃度 (部位依存的な値) との間には、 ある程度の相違があるはずであり、これは一種の系統誤差といえる。 むろん、測定の方法自体にも多少の誤差要因はあるのだから、測定値は、その場所における真の血糖濃度とも少しばかりズレているはずであり、これは主に偶然誤差である。 こうした誤差があるのだから、「血糖の濃度」と「血糖の濃度の測定値」とは少しばかり違う量なのであって、両者は区別して考えなければならない。

臨床検査として得られるのは、あくまで「血糖の濃度の測定値」であり、これが「血糖値」と呼ばれる量なのだと思うが、 医学的に重要なのは「血糖の濃度」の方である。 血糖の濃度が高ければ、それによって advanced glycation end products (AGE) が産生され血管傷害を来すかもしれないし、腎などの臓器障害を来すかもしれぬ。 「血糖の濃度が高いから」障害を来すのであって、「測定値が高いから」障害を来すのではない。 つまり、これに対する治療の標的は「血糖の濃度を下げる」ことであって「血糖の濃度の測定値を下げる」ことではない。 測定値そのものには生理的本質がないのだから、測定値は治療効果の目安にはなっても、治療標的そのものにはなり得ないのである。

何を言いたいのかというと、「血糖値を下げる薬」という表現はおかしい、ということである。 血糖値は測定値に過ぎず、病態の本質ではないのだから、せめて「血糖を減らす薬」と言わなければならない。


2019/12/10 言葉遣いと測定誤差 (1)

また、間隔があいてしまった。近頃、少しばかり心のゆとりがでてきたので、そろそろ日記の更新間隔を元に戻したいと思っている。

言葉を正しく使うことは、情報を正しく伝えるために重要である。しかし世の中には、曖昧で不適切な表現が多い。国語教育が適切に行われていないためであろう。 私の医学科学生時代の同級生である某君は、ある時、私が旺文社の英和辞典を机上においているのをみて、 「どういう辞書を使っているかをみれば、その人の知性がわかる」と、せせら嗤った。 私は憤慨し、自宅から Oxford Dictionary of English を持ってきて、どうだ、と言った。 確かに彼の言う通りであって、キチンとした英語を使おうと思うのであれば、旺文社の英和辞典では不足なのである。

近年ときどき耳にする言葉に「真逆」というものがある。 元来、日本語にはそのような単語は存在しないのだが、どうも「正反対」という意味で使われるようである。 では「真逆」と「正反対」は、全くの同義語なのか、それとも僅かに意味が異なる類義語なのか。あるいは「真逆」と「逆」は、何か違うのか。 「真逆」という語を用いている人々は、そのあたりのことをよく認識せずに、なんとなく、その言葉を使っているのではないか。 他に気になる単語としては「空気感」がある。この単語の意味はよくわからないのだが、どうも「場の雰囲気」というような意味で使われることが多いように感じられる。 「雰囲気」を意味するであろう単語には、他に「オーラ」というものがあるが、これは、「人物が発する雰囲気」に限って使われているように思われる。

新しい単語を創造すること自体は、問題ない。 言語は時代と共に変化するものであって、私が使っている日本語も、江戸時代や平安時代の人々からすれば、トンチンカンで意味不明な、乱れた言語に聞こえるであろう。 よろしくないのは、そういう「新語」を、特に意味を考えずに、なんとなく、曖昧に使うことである。 言葉を曖昧に使うということは、つまり、物事をキチンと考えない、ということである。 「真逆の方向に」と言った時、あなたは、180 度の正反対の方向に、という意味で言っているのか、それとも 150 度から 210 度ぐらいの概ね反対の方向に、という意味なのか、 あるいは 90 度から 270 度まで広く意味しているのか。

私が京都大学工学部を卒業する時、卒業研究の結果発表会がポスター形式で行われた。 私は、beable の理論とか隠れた変数理論とか呼ばれる、量子力学を否定する立場の理論についてのレビューと、これらの理論をデモンストレーションする数値計算とを行った。 そのポスターにおいて、私は、どういう文脈であったかは忘れたが、「自己矛盾が生じる」という表現を用いた。 これに対し、当時大学院修士課程の学生であった某氏は「『自己矛盾』とは、どういう意味であるか」と質問した。 「『矛盾』ではなく敢えて『自己矛盾』としたことには、どういう意味があるのか」というのである。 私は、無意味に「自己」という表現を加えた浅慮を恥じ、記載を訂正した。

遺憾なことに、医学・医療の分野では、曖昧で不適切な表現が非常に多い。 たとえば血液検査の結果をみて「白血球が上がっている」と述べる者がいるが、白血球は「上がる」ものではなく「増える」ものである。 「上がる」では「白血球数が基準範囲より多い」という意味なのか、「白血球数が昨日より多い」という意味なのか、わからない。

一方、表現としては正しいが、医学的見地から問題があるのは「血糖値が高い」というような表現である。 「血糖」とは、血液中のブドウ糖のことをいう。 しかし「血糖値」の定義は曖昧で、「血糖の濃度」を意味しているのか、「血糖の濃度の測定値」を意味しているのか、不明確である。 科学を修めていない人には、「濃度」と「濃度の測定値」の違いがわからない、あるいは些末な問題に感じられるかもしれないが、そうではない。 測定というものは、常に誤差を含んでいる。 臨床検査で使われる検査では、大抵、誤差はかなり小さくなるように制御されているが、これは臨床検査技師や臨床検査医らが日夜、精度管理に注力しているからであって、 素人が下手な手技で検査した場合や、非定型的な状態にある患者の場合は、誤差は必ずしも小さくない。

次回、この誤差について書くことにしよう。


2019/11/25 炭酸水素ナトリウム

だいぶ間隔があいてしまった。日常業務に追われ、ゆっくりと日記を書く心のゆとりがなかったためである。 たいへん、よろしくない。

日記再開に際して取り挙げるのは、過日、某名門国立大学附属病院で起こった患者死亡事故についてである。 これは、同病院において炭酸水素ナトリウム製剤を誤って過量投与し、結果として患者が死亡したものである。 2019 年 11 月 19 日付で同病院からプレスリリースがなされているので、 事故の内容については、そちらを参照されたい。

この事故に対し、医療関係者、特に医師諸兄姉が、どのように考えているのかは知らぬ。 ただ、私が懇意にしている某助産師から聞いた話では、twitter などにおいては、「明日は我が身」などとする意見が散見されるという。 なお、私自身は twitter の類はやっていないので、詳しくは知らぬ。

私としては、本件について理解しかねる部分がいくつかあるので、ここに記しておこう。 なお、そもそも造影剤の使用に際し、いわゆる「腎保護作用」が炭酸水素ナトリウムにあるのかどうかも医学的には疑問であるが、 それは医療事故とは別の問題なので、ここでは議論しない。

まず当局の文書では「本件に関して重大と捉えた問題点」として、 1. 「安全への配慮が不足して」いた、 2. 「看護師や医師は造影剤によるアレルギー反応の有無に気をとられて (中略) 患者さんの訴えについて医師の診察は行われないまま投与が継続され」た、 3. 「患者さんが服用されている内服薬の中に抗凝固薬が含まれていることに気づくのが遅れ」た、 4. 「マニュアルはあったものの、その内容が十分に定着していなかった」、 ことを挙げている。

当局の文書の記載によれば、炭酸水素ナトリウムを「誤処方」した医師は、投与量について自分で確認していない。 薬剤を処方する際には、その濃度や含有量が目的とするものであるのかどうか、逐一確認するのが常識である、と我々は学生時代に教わったが、この医師は、それを怠ったのである。

また、看護師が「投与速度がいつもより速いこと、全量点滴するのか」などを医師に確認したのに対し、 当局の文書によれば、医師は「指示通り投与してください」と回答した、らしい。 私は、この病院の診療現場をみたわけではないが、この「指示通り投与してください」という回答には、たいへん、違和感がある。 丁寧な医師であれば、いつもと違う投与方法を行う理由を看護師に説明するはずである。 というより、そもそも、電子カルテ上で指示を入力する際に、理由も書くのが本来の姿である。 看護師の質問に対し「指示通り投与せよ」と回答するのは、あまり丁寧ではない医師なのである。 そういう医師が「指示通り投与してください」などと丁寧に言うとは、容易には信じ難い。 もっと面倒くさそうに、あるいは「指示通りやって」などと、突き離すように言ったのではないか。 ひどい医師になると、「指示通りやれ」と命令口調で言う場合も、あるかもしれぬ。

そして投与開始後に患者が血管痛を訴えた際や、看護師が造影剤アレルギーを疑った際にも、報告を受けた医師は患者を診察しなかったようである。 理由は、知らぬ。無論、「忙しかったから」は、理由にならない。

これらを、諸君は「明日は我が身」と感じるのだろうか。

また、この当局の文書において最も気になるのは、「看護師や医師」という表現である。 つまり、患者に最も近い位置におり実際の薬剤投与や異状発見を行った看護師と、処方した医師の、両方に問題があった、と暗に述べているようにみえる。 しかし本件において、看護師に重大な過失があったようには思われない。 この文書によれば、看護師は、医師の指示に従って、医師が指示した通りの処置を行ったのであって、異状を発見した際にも遅滞なく報告・相談したのである。 報告の際に、炭酸水素ナトリウム投与中であることは述べなかった、と敢えて記載されているが、 それが重大な過失であるとは思われず、むしろ医師の側が「何の薬を投与しているのか」と問わなかったことの方が問題である。

むろん、薬剤の処方がおかしいことに気づき、それを指摘し、誤投与を防ぐことができれば、看護師としては非常に優秀であるといえる。 しかし、それは看護師の責務の範疇ではない。 誤って医師の指示とは異なる薬剤を投与したのならともかく、本件は医師の指示が誤っていたのだから、責任は、専ら医師にある。 それなのに、看護師も悪い、と言いたいように、この文書は、みえる。


2019/10/15 表現の自由

医学とは直結しないが、無関係ではない問題として、表現の自由について書こう。 日本国においては、表現の自由は憲法第 21 条で保障されており、その条文は

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

というものである。

法学上、憲法は国家や法を規制するものであって、個々の国民の言動を制約するものではない、とされている。 ただし、これは「個々の国民は他者の表現の自由を尊重しなくて構わない」という意味ではない。 たとえば会社の上司が、部下のプライベートにおける創作活動が気に食わない、という理由で当該部下を左遷や解雇した場合、 正当な理由なく処分したことになり、不法である。 実際に左遷や解雇しなくても、職務上の上下関係を背景に、その創作活動を止めるよう圧力をかけるのも不法である。 一方で、部下が会社の悪口を随筆に書いて公開していた場合などは、それを止めるように求めるのは正当である。 以前、インターネット上で際どい内容の執筆活動を行っていた医師が上司からの命令を受けてサイト閉鎖した、という事例があった。 この事例も、遺憾ではあるが、明らかに不当とまではいえない。

さて、世間で「表現の自由」を巡って議論が盛り上がっているのは、「あいちトリエンナーレ 2019」、とりわけ企画展の「表現の不自由展・その後」である。 この企画展に出典された、大韓民国のいわゆる「慰安婦像」や、昭和天皇を題材にした作品などが批判の的となり、中止要求や脅迫が相次いだらしい。 主催者側の判断で企画展は中止されたが、その後、再開された。 これを巡り、名古屋市長が企画展を批判したり、補助金交付が取り消されたりと、問題が続いている。

これらの問題について適切に批評した文書はないものかと思っていたのだが、朝日新聞の 憲法学者が考える不自由展中止 自由を制約したのは誰かという記事が、公正である。 どうせ朝日新聞は韓国寄りの内容だろう、と思う人もいるであろうが、驚くべきことに、この記事は中立的で法学的な観点から論じられている。 ただし、これは有料会員限定記事である。なぜ朝日は、こういう記事を無料公開しないのか。

この記事の骨子を述べると、概ね次のような内容である。 「表現の自由」というのは、表現をしたことで社会的に迫害されるようなことは、あってはならぬ、という意味であって、表現の場が保障されるという意味ではない。 だから、企画展が中止されること自体は、表現の自由の侵害にはあたらない。 むしろ問題は、表現の場を守るべき立場にある主催者が、自主的に、中止を決めてしまったことである。 「安全確保のため」で中止されるのならば、事実上、反対派が開催拒否権を握ることになってしまう。 また、政治家は具体的な展示内容にまでは口を出すべきではない、というのが、世界的にも日本においても基本である。 ただし展示会の趣旨については、ある程度知らされた上で助成を決めるのは合理的である。 従って、芸術的な意義を基準に出展作品を選ぶかのように装いつつ、実際には政治的メッセージを考慮して偏った作品を展示するのは不当である。

いわゆる慰安婦像や昭和天皇を巡って問題視された大浦信行氏の作品について、表現の自由の侵害といえる事例が過去にあったのかどうかは、私は知らぬ。 展示拒否されたことはあるようだが、これは「表現の不自由」というようなものではない。 たとえば、私は肝臓や肺など各種臓器の組織像をスケッチした絵画集を学生時代に作成した。 これは人体の神秘を表現したゲージュツ作品であるが、この作品の展示を美術館に断られたとしても、私の表現の自由が侵害されたことにはならない。 「その作品を世に公開するな」などと政府当局から脅されたなら別だが、幸い、そういう経験はない。 いわゆる慰安婦像や大浦氏の事例と、私のゲージュツの事例との間に、何か本質的な違いがあるようには思われない。 特に、いわゆる慰安婦像は、大韓民国のプロパガンダとして作成・設置されているものである。 そのプロパガンダを巡る論争はあるが、表現の自由が問題になる事案ではあるまい。

私は「表現の不自由展」をみてはいないが、報道をみる限りでは、表現の自由ではなく政治的メッセージが前面に出された展示会であるように思われる。


2019/10/09 レボフロキサシンの投与方法 (2)

レボフロキサシン錠の投与量は、通常、成人に対しては一日一回 500 mg である。 では、レボフロキサシンを点滴で経静脈投与する場合、どうするのが適切であるか。

薬理学を修めた学生であれば、一日一回投与、量は経口投与の生物学的利用能を 500 mg に乗じたもの、と答えるであろう。 生物学的利用能というのは、投与された薬物のうち、どれだけの割合が体循環に入るか、という割合のことである。 経口投与の場合、薬剤の一部は腸管内で代謝されたり、あるいは消化管から吸収された後に肝臓で代謝されたりして、体循環に入る前に消失する。 これに対し経静脈投与であれば、投与した薬物の全量が体循環に入る。従って、経口投与の生物学的利用能は、通常は 100% よりも低い。 たとえば経口投与の生物学的利用能が 80% の薬物の場合、500 mg を経口投与するのと 400 mg を経静脈投与するのは同等であると考える。

レボフロキサシンの添付文書によれば、経静脈投与であっても、経口投与と同様に一日一回 500 mg が基本とのことである。 これは生物学的利用能が 100% であることを暗に意味しているが、本当に、そうなのだろうか。 経口投与と経静脈投与で同量を用いることに違和感をおぼえない者は、薬理学の勉強が足らぬ。

レボフロキサシン錠の生物学的利用能は、はたして、どの程度であるのか。 インタビューフォームの記載によれば、国内におけるレボフロキサシン 500 mg 単回投与試験において、 経口投与では AUC 50.86 +- 1.02 μg hr/mL, 経静脈投与では AUC 51.96 +- 1.75 μg hr/mL であった (+- の値は標準誤差; インタビューフォームには標準偏差が記載されているので、そこから私が計算した。)。 これを用いて生物学的利用能を計算すると 97.88% +- 3.84% となる。 この値をみて、素人であれば「生物学的利用能は概ね 100% だから、経口投与と同量を経静脈投与しよう」と考えるかもしれぬ。 しかし生物学的利用能が 98% と推定されているのならば、経静脈投与における投与量は経口投与の 98% の量, つまり 490 mg とするのが妥当であろう。 なぜ、10 mg も余計に投与するのか。500 mg の経静脈投与は合理的根拠を欠いているように思われる。

諸君は患者から上述のような内容を質問された場合、責任を持って答えられるだろうか。 「製薬会社が、そう言っているから」などという、無責任な回答を、していないだろうか。 薬剤投与の最終的な判断責任、つまり処方権は医師にあり、製薬会社にはないということを、忘れてはいないだろうか。

ここから先は完全に想像で書くのだが、上述のような不可解な用法が添付文書に記載されているのは、厚生労働省による認可の過程に問題がある。 「既存薬と同等であった」と主張する場合には認可がおりやすいのに対し、 「既存薬と少しだけ違う」と主張する場合には、判断が厳しくなるのではないか。 上述の例であれば、統計誤差が 4% もあるのだから、生物学的利用能を 98% と評価して 10 mg を減らす根拠としては不充分だ、となるのかもしれぬ。 無論、この理屈はおかしい。統計誤差の 4% を問題視するのであれば、 経口投与と経静脈投与が同等であると主張するのも難しく、500 mg 経静脈投与を行うべきではない、と主張するのが筋である。

実際のところ、500 mg 経静脈投与が採用された経緯を、私は知らぬ。 しかし、少なくとも公開されている情報からは、科学的根拠が乏しいままに薬剤の投与量が決められたものと考えられる。


2019/10/08 レボフロキサシンの投与方法 (1)

昨日の記事で、エドキサバンの用法が薬理学的に不合理であることを述べた。 しかし権威に逆らうことを嫌う医師の中には、私が述べたことに対して次のように反論する者がいるであろう。 すなわち、用法を簡単にすることで、飲み忘れや、用量間違いのリスクを減らすことができるから、患者の利益になる。 だから、糸球体瀘過量に応じて複雑に投与量を変えるような複雑なことはするべきではない、という具合である。 無論、これは話にならない。 全ての患者に画一的な投与方法を適用する必要はない。 複雑な用法に対応できる患者には複雑な用法を適用し、それが難しい患者には、簡単な代わりに効果不充分や有害事象のリスクが少し高い用法を適用すれば済むだけのことである。

さて、エドキサバンのような不自然な用法が添付文書に記載されている例は少なくない。 たとえば抗菌薬のレボフロキサシンである。 レボフロキサシンは DNA ジャイレース阻害薬であるが、これの殺菌効果が何によって規定されるかは、難しい。 インタビューフォームでは「キノロン系抗菌薬の治療効果には血中 24 時間 AUC と MIC の比が相関し」と書かれているが、実際にはそれほど単純ではない。

薬理学や細菌学に疎い人のために AUC や MIC について説明しておこう。 AUC というのは Area Under the Curve のことである。ここでいう the Curve とは、横軸に時間、縦軸に薬物血中濃度をとったグラフのことである。 「このグラフの曲線より下の部分の面積」が AUC であって、数学的にいえば薬物血中濃度の時間積分にあたる。 同一薬物について投与方法の差異が患者に及ぼす影響について議論する場合、AUC は患者血中に投与された薬物総量を反映する、と説明されることが多い。 「患者血中に」というのは、生物学的利用能が考慮されている、という意味である。 ただし AUC が投与量を反映するのは、薬物動態が一次速度論に従う場合、つまりクリアランスが一定である場合に限られるのであって、実際の患者においては厳密には正しくない。 一方、MIC というのは Minimum Inhibitory Concentration のことであって、その抗菌薬が、その細菌の、増殖を抑制するために必要な最低濃度のことである。 日本語では最小発育阻止濃度などと呼ばれる。

つまりレボフロキサシンのインタビューフォームによれば、治療効果は総投与量だけで概ね決まるのであって、 分割投与しようが一日一回投与しようが、大して違いはない、というのである。 これは、最高血中濃度の高低や、血中濃度が MIC を超えている時間の長短は、治療効果にほとんど影響しないことを意味している。 ただし、この記載の根拠となっている Drusano らの報告 (Antimicrob. Agents Chemother. 40, 1208-1213 (1996).; インタビューフォームでは直接引用されておらず、Antimicrob. Agents Chemother. 43, 672-677 (1999). を介した孫引きになっている。) によれば、 治療効果が AUC で決まるのは最高血中濃度があまり高くない場合に限られる。 これは、最高血中濃度が高い場合には、感染した細菌中に少量存在するレボフロキサシン耐性株にも効果が期待できるからである、と考えられている。 また、Drusano らは「血中濃度が MIC を超えている時間の長短」は治療効果との相関が乏しい、と主張しているが、 彼らのデータはサンプル数が少ないために統計誤差が大きく、そのように結論するには不充分であるように思われる。 実際、論文中で彼らは誤差評価をしておらず、信憑性が乏しい。 ともあれ、現状ではレボフロキサシンの場合、総投与量が同じであれば分割投与する利点がないと信じられているため、臨床的には一日一回投与が基本とされている。

さて、レボフロキサシンは当初錠剤として販売されたが、後に点滴用製剤も販売された。 問題は、点滴用製剤の投与量である。 が、そろそろ長くなってきたので、続きは次回にしよう。

2019.10.09 語句修正

2019/10/07 活性化第 X 因子阻害薬における統計の魔術

だいぶ間隔があいており、よろしくない。 私は医師であり、医学者であり、科学者であり、教育者の卵であるが、さらに文筆家でもある。 医業に従事するのと同様に、この執筆活動にも注力しなければ、私の存在意義が疑われてしまう。

8 月 16 日から8 月 23 日にかけて、 医科の連中が統計学をわかっていないことを批判した。今日は、その続きを書くことにしよう。

8 月の記事ではワルファリンについて書いたが、近年多用されている抗凝固薬としては、ワルファリンとは作用機序が異なる活性化第 X 因子阻害薬がある。 たとえばエドキサバンである。 ワルファリンはビタミン K の活性化阻害薬であるから、たとえばビタミン K が豊富な食物を摂取すると凝固能が大きく変動してしまう、という問題がある。 そのためトロンビン時間 (PT) を定期的にモニタリングし、ワルファリンの投与量を調節する必要がある、とされている。 これに対しエドキサバンは、添付文書によれば 「体重 60 kg 以下であれば 1 日 1 回 30 mg, 体重 60 kg を超える場合は 1 日 1 回 60 mg (ただし腎障害がある場合などは 1 日 1 回 30 mg)」 という投与量であり、たいへんシンプルである。定期的な血液検査で凝固能のモニタリングを行う必要もないのである。 この簡便さゆえに、近年では、活性化第 X 因子阻害薬による抗凝固療法が広く行われている。 製薬会社も、投与量の調整がシンプルである点を、これらの薬の長所として強調しているのである。

薬理学を修めた人であれば、この「投与量の調節がシンプル」という点に疑問を持つであろう。 エドキサバンの場合、添付文書によると、主として腎から排泄されるらしい。 それならば、腎機能、正確にいえば糸球体瀘過量によって投与量を調節すべきであって、体重 60 kg で簡易に分けるだけでは、 血中濃度が高くなりすぎたり低くなりすぎたりするのではないか。 どうして、このような単純な投与方法で「良い」とされているのだろうか。

薬剤の添付文書には、その薬剤の使用にあたって必要な最低限度の情報しか記載されていないので、投与方法の医学的根拠などは、通常、述べられていない。 そうした学術的情報は、大抵、インタビューフォームに記載されている。 なお、添付文書もインタビューフォームも 医薬品医療機器総合機構 で正式に公開されているので、 医療従事者でなくても誰でも自由に読むことができる。

エドキサバンのインタビューフォームによると、この投与量の設定根拠は 2 つの臨床試験、 具体的には「ENGAGE AF-TIMI 48 試験」と「Hokusai-VTE 試験」であるらしい。 つまり、これらの臨床試験で上述のような投与方法を行ったところ、特に問題がなかった、というのである。

薬理学的に考えれば、エドキサバン投与により血栓症のリスクを極力抑えつつ、かつ出血などの有害事象のリスクを回避するためには、 腎糸球体瀘過量に基づく用量調節を行うべきである。 しかるに ENGAGE AF-TIMI 48 試験の結果を報告した論文 (N. Engl. J. Med. 369, 2093-2104 (2013).) では、 投与量を体重 60 kg を基準に分けただけの用法でもワルファリンよりマシだった、と述べているだけである。 糸球体瀘過量に基づく用量調節を行った方が良いか、行わなくても良いか、については議論されていない。

薬剤として認可を得るだけならば、既存薬と比較すれば充分であるから、こうした ENGAGE AF-TIMI 48 の設計でも問題はない。 しかし患者の利益を考えるならば、より適した投与方法の模索を行うべきである。 ENGAGE AF-TIMI 48 を根拠に「糸球体瀘過量による投与量調節は行わなくて良い」などとは、言えないのである。

おそらく製薬会社としては、最適な投与方法の模索は資金と人手と時間を要する割に、会社としての利益につながらないから、こうした研究には消極的なのであろう。 製薬会社も営利企業である以上、それは、やむを得ない。だから最適な投与方法の検討は、製薬会社ではなく、公的機関が出資して行うべきである。 そして、その薬を投与する立場にある医師が、製薬会社の宣伝を安易に鵜呑みにして「糸球体瀘過量による投与量調節は不要」などと考えているならば、不勉強に過ぎる。

なお、エドキサバンのインタビューフォームでは、ENGAGE AF-TIMI 48 や Hokusai-VTE の参考文献として社内資料のみが記載されている。 上述の The New England Journal of Medicine に掲載された公開の論文は、参考文献として挙げられていないのである。 社内資料であっても、請求すれば文献を取り寄せることはできるはずだが、非公開資料であるため、こうした日記などの公の場で議論の材料にすることはできない。 実に不誠実な態度である。

2019.10.08 誤字修正、語句修正
2019.10.09 語句修正

2019/09/17 物理学

近頃、日記の更新が滞っている。 これは、別途公開予定の物理学テキストを書くのに時間を費しているからである。

現在、多くの大学の医学科では入試に生物学が必須ではなく、理科は、たとえば物理学と化学のみで受験できる大学が多いのではないかと思う。 結果として、新入生の多くは生物学の素人である一方、物理学の初歩は修めた状態であることが多い。 これ自体は、良いことだと思う。 入学後に、生物学は否応なしに勉強することになるのだから、何も、入学時点で既に生物学に詳しくなっている必要はない。 むしろ、物理学を全く知らぬ状態で医師になる方が問題である。 しかし現在、多くの高等学校では、本当にキチンとした物理学は教えていないのではないか。 大学入試に出てくるような問題を解くための方法は教えても、学問としての物理学は、修めていないように思われる。

名古屋大学医学科を卒業した某君から聴いた話である。 彼が 4 年生として臨床検査医学の講義を受けた時のことである。 講義の終わり際に、某病理学教授は「何か質問はないか」と学生に問うた。 誰も挙手をしなかったので、教授は続けて 「学ぶということは、問いを発するということである。何も質問がないということは、はたして、諸君は何かを学んだといえるのだろうか。」 と、学生達を優しく叱った。 すると、このまま黙っていては名古屋大学の名誉が傷つく、とばかりに一人の学生が挙手し、教授の見識に挑むような質問を発したという。

高等学校で物理を学んだ諸君であれば、万有引力の法則だとか、加速度と力の関係だとか、振り子の運動だとか、そういった知識は持っているであろう。 しかし諸君は、はたして、それらの知識に対し充分に批判的吟味を加えた上で、我がものとしたのだろうか。問いを発しつつ、物理学を修めたのだろうか。 万有引力が距離の 2 乗に反比例するという事実を、本当に心の底から納得して受け入れたのだろうか。 教科書に書いてあるから、センセイがそう言っていたから、と、安易に「それが正しいのだ」と認めてはいないだろうか。 その結果、物理学は無味乾燥でつまらないものに感じられ、ただ受験競争を突破するための道具として認識されてはいないだろうか。

物理学を知らないということは、物事を論理的に考え現象を合理的に理解することができないということである。 だから、物理学を知らない学生は、アンチョコ本に書いてあるインチキ説明をインチキと看破することができない。 実際、医学科の学生の中に、流体の運動と圧力の関係についてキチンと説明できる者は、ほとんどいない。 アンチョコ本の怪しげな説明を受け売りすることしか、できないのである。

そこで私は、医学科の学生や若い医師を想定読者として、新しい物理学の教科書を著すことにした。 なるべく速く書こうとは思うが、完成までに何ヶ月かかるか、あるいは何年かかるか、わからぬ。

私は一応は物理学を修めた身であるが、それでも、書くとなると、わからないことがたくさん、でてくる。 古い文献を確認しなければならないことも多い。 なかなか、日記にまで手がまわっていないのだが、なるべく、この日記も続けようとは思っている。


2019/09/10 医療者の安全について

少し間があいてしまった。 統計の話を続けたいのだが、その前に、今日は臨床医療における安全確保の話をしよう。

医療者の中には、安全、特に感染防護について、意識の低い者がいる。 たとえば患者体液の付着したものを触る場合や、触る可能性がある場合には、手袋を着用するのが常識である。 具体的には患者の尿が入った容器を運ぶだとか、ガーゼを交換するだとか、あるいは注射針を刺すだとか、そういった場合のことである。 また、患者血液が飛びはねる恐れがあるような処置や手術を行う場合には、フェイスガードやゴーグルを使用して自分の顔面を守るのは当然である。 ところが、それが充分に実施されていないのである。

医療者の中には、手袋などの保護具を使用しない理由について「時間がないから」「急いでいたから」などと言い訳する者がいる。 患者が急変し、それに咄嗟に対応したために、手袋やゴーグルを着用する余裕がなかった、などというのである。 しかし、それは、理由にならない。

そもそも、本当に時間がなかったのか。 手袋をつけるのは、5 秒でできる。ゴーグルも、事前に準備さえしてあれば 3 秒でつけられる。本当に、その 8 秒を確保することができなかったのか。 その 8 秒が患者の生死を分けるなどという事態が、それほど頻繁に、あるものだろうか。

あるいは、患者が多すぎて 8 秒の時間も惜しい、と弁明する者もいるかもしれぬ。 しかし、手袋を着ける時間すらないというのであれば、勤務体系がおかしいのであって、やはり、安全確保を疎かにする理由にならない。

そもそも、医師にも看護師にも、自分の身の安全を犠牲にしてまで患者を救命する義務はない。 安全のために手袋を着用し、そのために処置の開始が 5 秒遅れ、結果として患者が死亡したとしても、それは医師の責任ではない。 一方、手袋をせずに処置を行い、結果として自分がヒト免疫不全ウイルス (human immunodeficiency virus; HIV) に感染したとすれば、 それは仕方のない事故ではなく、単に自身の不注意と怠慢による自傷行為に過ぎない。 さらに、そのまま他の患者に HIV を感染させたとすれば、業務上過失致死傷であって、犯罪である。

患者が多すぎるというのなら、受け入れ患者を減らせば良い。病床の数を減らし、外来の枠を減らすのである。 医師には応召義務があるが、医師や看護師の数が足りないなどの正当な理由がある場合には、診療を拒否することは違法ではない。 むろん、諸君が善意や使命感から全ての患者を受け入れ、休日や余暇を削って診療に邁進するのは自由である。 しかし、多くの患者を受け入れるために安全確保を怠り、結果として自身と周囲の人々を危険に曝すことは許されない。

そうは言っても、雇われ医師、雇われ看護師の身分では、どうしようもないではないか、と弁明する者もいるだろう。 恥を知るべきである。 医師として、看護師としての誇りを、どこに置いてきたのか。 あるいは、危険を冒して患者のために尽くす自分に酔っているのか。


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