さて、この腺様基底細胞癌、あるいは腺様基底細胞上皮腫が、良性腫瘍であるのか悪性腫瘍であるのかを考えよう。 悪性腫瘍とは、浸潤または転移する能力を有する腫瘍のことをいう。 腺様基底細胞上皮腫の場合転移しないのであるから、問題は浸潤するかどうかである。
ここで問題なのは「浸潤とは何か」ということである。 「浸潤」という言葉は、病理学的に明確に定義されてはいない。 この点については3 月 2 日の記事で書いたので、繰り返さない。
腫瘍組織が既存の正常組織の中に入っていくだけでは、浸潤と考えるべきではない。そのような現象は、良性腫瘍どころか、非腫瘍性病変でもみられることがあるからである。 たとえば、病理診断学の名著 J. R. Goldblum et al., Rosai and Ackerman's Surgical Pathology 11th ed. (Elsevier; 2018). の 671 ページでは、 無茎性鋸歯状腺腫 sessile serrated adenoma について述べている文章の中で
Some show an inverted (pseudoinvasive) growth pattern with penetration of crypts into the submucosa, although this pattern may also be ssen in hyperplastic polyps.
一部の病変では、反転した (偽浸潤性の) 発育パターンがみられる。すなわち、陰窩が粘膜下層に陥入するのである。 ただし、このようなパターンは、過形成性ポリープにおいてもみられることがある。
と、述べられている。病理組織学に疎い人のために説明すると、これは次のような意味である。 大腸腺腫は、大腸の内腔面、つまり粘膜内にできる病変であるから、基本的には、粘膜よりも外側にある粘膜下層には進展しない。 しかし粘膜と粘膜下層の境界にある粘膜筋板が変形した場合などには、腺腫の組織が粘膜下層に入り込むことがある。 ただし、これは腺腫に特有の現象ではなく、非腫瘍性病変である過形成性ポリープでもみられることがある。 このような粘膜下層への陥入は、浸潤ではなく、従って、これを悪性腫瘍と判断してはならない。
このように、周囲の正常組織に入り込むこと自体は、浸潤とは解釈されない。 悪性腫瘍でみられる浸潤とは、周囲組織を破壊しながら入り込むことである、とする考えが広く支持されている。 この「破壊しながら」というのは、組織学的には、炎症や繊維化を伴う、ということと同義であると考えられている。 すなわち、過形成性ポリープでみられるような粘膜下層への陥入は、炎症や繊維化を伴わないがゆえに、浸潤ではない、と判断されているのである。
では、腺様基底細胞上皮腫の場合、どうか。 この腫瘍の場合、病変周囲に炎症や繊維化がみられない、という点が組織学的な特徴である。 すなわち、周囲組織を破壊するような浸潤は伴わないのである。
以上のことから、腺様基底細胞上皮腫は、転移を来さず、浸潤もしないのであるから、悪性腫瘍ではない、と考えるべきであろう。 良性腫瘍もしくは非腫瘍性病変と考えられるが、いずれであるのかは、はっきりしない。 少なくとも悪性でないならば、「癌」という呼称は避けるべきであるが、この点について WHO 分類では
Although the alternate term "adenoid basal epithelioma" has been suggested to reflect this good outcome, ABC (訳註: adenoid basal carcinoma の略) is an established term and should be retained.
このように予後が良好であることから「腺様基底細胞上皮腫」という名称を用いることも提唱されているものの、 腺様基底細胞癌というのは既に確立された語であるから、これを変更すべきではない。
と述べている。 「癌」とするのは医学的根拠がない誤った名称なのだから、より適切な「上皮腫」に変更すべきだと私は思う。 なぜ WHO 分類が「癌」を支持しているのかは、よくわからない。
WHO 分類は、一応は広く受け入れられている分類法である。この分類は、その分野のエラいセンセイが集まった委員会で決定されているのだから、 まぁ、その内容は現時点で適切であるに違いない。 と、思うのは間違いである。 WHO 分類の記載が医学的に誤っている例も、存在するのである。
子宮頸癌の多くは、組織学的には扁平上皮癌と呼ばれる腫瘍である。しかし、それ以外にも比較的頻度の低い組織型が少なからず存在する。 その一つが腺様基底細胞癌である。WHO 分類では adenoid basal carcinoma と呼ばれている。 女性生殖器の WHO 分類である WHO Classification of Tumours of Female Reproductive Organs の 2014 年版では、この腫瘍の定義を
An epithelial tumour composed of small, well differentiated, rounded nests of basaloid cells.
上皮性腫瘍であって、小型のよく分化した基底細胞様の細胞がまるい胞巣を形成するものをいう。
としている。 注意すべき点は、ここでは「腫瘍 tumour」としか述べておらず、「悪性腫瘍 malignant tumour」や「癌腫 carcinoma」といった言葉は使われていない。 つまり WHO 分類は、これが良性腫瘍なのか悪性腫瘍なのかという点には言及していないのである。 実際、腺様基底細胞癌 adenoid basal carcinoma の同義語として「腺様基底細胞上皮腫 adenoid basal epithelioma」という語が挙げられている。 世の中には、この腫瘍は良性であると考える人々もいて、そういう人は「癌 carcinoma」ではなく「上皮腫 epithelioma」と呼ぶべきだ、と主張しているのである。 後述するように、私も、この腫瘍は良性であると考えている。
さて、この WHO 分類では、腺様基底細胞癌の予後 prognosis について
Pure ABC (註: adenoid basal carcinoma の略) is a low-grade tumour with an excellent prognosis and rarely metastasize.
他の組織型を伴わない純粋な腺様基底細胞癌は低異型度の腫瘍であって、予後は極めて良好であり、滅多に転移しない。
と、述べている。ここで問題なのが「滅多に転移しない (rarely metastasize)」という表現である。 科学的な文脈においては、「滅多にしない」ということは、「稀にする」ということを意味する。 すなわち、この WHO 分類の記載によれば、腺様基底細胞癌が転移した事例が過去に存在する、ということになる。
WHO 分類がこの記述の箇所で引用しているのは、米国の J. A. Brainard らによる症例報告 (Am. J. SUrg. Pathol. 22, 965-975 (1998).) である。 この報告では 12 名の腺様基底細胞癌患者について述べられているが、その中には一例も転移や再発した症例はなかったらしい。 この報告では過去の症例報告も調べられており、その中で転移したとされる症例は一例のみであったという。 その一例も、組織像が他の腺様基底細胞癌とは異なっており、別の種類の腫瘍と考えるべきである、と、著者は主張している。 私も文献検索してみたが、腺様基底細胞癌が転移した症例の報告はみあたらなかった。
すなわち、過去に腺様基底細胞癌が転移した事例は存在せず、「滅多に転移しない」とした WHO 分類の記載は誤りである。 もしかすると私が知らないだけで転移した症例が存在するのかもしれないが、それならば、その事例を引用していない WHO 分類の記載が不適切であることには変わりがない。
長くなってきたので、続きは次回にしよう。
しばらく間があいたが、再開する。 ここ最近は、医学の社会的側面に関する記事が続いたので、今度は高度に学術的で専門的な話をしよう。
World Health Organization というのは国際連合の機関の一つであって、日本語では世界保健機関と訳されるが、英語の略称である WHO の方がよく知られているかもしれぬ。 その業務は多岐にわたるが、おおまかにいえば、世界の人々が可能な限り高い水準の健康を得られるようにすることを目的として活動している。 本部はスイスのジュネーヴにおかれている。
その WHO の刊行物に World Health Organization Classification of Tumours というシリーズがある。 標題の表記が米国式の tumors ではなく英国式の tumours となっているのは、本部がスイスにおかれていることと関係しているのであろう。 このシリーズは青い表紙のペーパーバックであり、たぶん、どこの病院の病理部に行っても、このシリーズが本棚に並んでいる。 タイトルが示す通り、腫瘍について WHO が分類して整理したマニュアル本である。「教科書」というほど学術的な内容ではない。 様々な腫瘍について概念や組織学的特徴、予後などを簡潔にまとめたものであって、分野毎に一冊にまとめられている。 たとえば婦人科で扱うような腫瘍は、WHO Classification of Tumours of Female Reproductive Organs として一冊にまとめられており、 これの最新版は 2014 年に出版されている。 腫瘍の分類について、世界的に最も広く普及しているのが、この WHO 分類である。
さて、我々は、なぜ、疾患を分類するのだろうか。
この種の問いに関連して思い出されるのは、私が名古屋大学医学科の三年生であった時、細菌学の荒川教授が、講義終了時に出題したクイズである。 荒川教授は「細菌を分類する意義は何か」という問いを発し、これに対し学生は好きなように回答をメモ用紙に記載して提出することで、講義に出席したとみなされるのである。 むろん、このような問いに正解などというものはないのだから、各々が好きなように書いて提出すれば良いのだが、ある学生は「わかりません」とだけ書いて提出していた。 私は、名古屋大学の医学科は、この程度か、と呆れた。
話を戻そう。疾患を分類する意義についてである。 たとえば悪性腫瘍の場合、様々な遺伝子異常が蓄積した結果として悪性腫瘍になる、というのが現代医学の考え方である。 しかしある患者の悪性腫瘍と別の患者の悪性腫瘍では、遺伝子異常の起こり方が完全に一致するということはない。 ある程度の共通点はあるかもしれないが、細かな遺伝子異常は人それぞれ異なるのである。 その意味では、全く同じ悪性腫瘍、などというものは世の中に二つと存在しないのだから、 ある人の悪性腫瘍と別の人の悪性腫瘍を「同じもの」として分類するのは、おかしい、といえなくもない。
そうした問題があるにもかかわらず、WHO などが腫瘍の分類を敢えて行っているのは、医学者や医療者あるいは患者その他一般大衆との間で 正確なコミュニケーションをとるために必要だからである。 全く同じ悪性腫瘍、というのは二つと存在しないであろうが、他の人の悪性腫瘍とは全く異なる悪性腫瘍、というのもまた、滅多に存在しないのである。 頻度の高低はともかく、似たような性質を有する悪性腫瘍の患者というのは、どこかに存在する。 似たような腫瘍であるならば、同じ治療に似たような反応を示すことが期待されるし、あるいは患者の予後もある程度似たようなことになると推定できる。 こうした「似たような病態」をまとめて表現するのが「疾患」という概念である。
ただし、何をもって「似たような性質」と判断するかは曖昧である。 つまり、疾患概念というものは、分類者の主観によって決められるのであって、自然の摂理や天の声で客観的に決まるものではない。 だから分類に「正しい」とか「誤っている」とかいうことは、ない。
従って、諸君が諸君の好きなように新しい分類法を唱えても構わないし、むしろ合理的で便利な新しい分類法を提唱することは医学の発展のためにたいへん重要なことである。 一方で、分類法が乱立して、世界中の人々が各々異なる分類法を採用してしまったら、疾患概念を共有できず、コミュニケーションに不便を生じる。 そこで、正しいか誤っているかはともかく、世界中の多くの人が一応は受け入れられるであろう分類法を、WHO が提唱しているのである。 諸君が医学や医療を論じる際に、この WHO 分類を採用するか否かは諸君の裁量であるが、しかし、WHO がどう分類しているかはある程度認識しておかないと、 他の医学者との対話に支障を生じることになる。
さて、安楽死の合法化については賛否が分かれるようだが、私自身は、合法化に賛成である。 自身の人生の終わり方を自分で決める自由を制限すべき理由がみあたらないからである。
安楽死の実施にあたっては、本人の意志に基づく決断であることを厳重に確認する必要があるし、この確認は容易ではない。 たとえば癌患者が、癌の随伴症状としての抑鬱状態に陥り、その抑鬱ゆえに希死念慮を抱いて安楽死を希望した場合には、安楽死を認めるべきではない。 というのも、その希死念慮は疾患の症状に過ぎず、本人の自由な意志に基づく決断ではないからである。 そういう場合は、適切な医療介入によって抑鬱状態が改善されれば、生きたい、と思うようになる可能性がある。 その一方で、自身の病状を正しく理解し、抑鬱状態ではない自由な精神状態において、冷静な判断に基づいて安楽死を希望する場合には、その実施を拒むべき理由がない。 むろん、臨床的にはこの両者の鑑別は容易ではないから、少なくとも精神科医による診察は必要であろうし、厳格な制度を構築する必要がある。
なお、誤解があるといけないので明記しておくが、私は今回の事案を擁護しているわけではない。 安楽死の合法化を強く希望する医師が、確信犯として安楽死を実施したのであれば、私は道義的観点からその医師を擁護する。 しかし今回の事例では、犯行に及んだ医師は法外な報酬を患者から受け取っていたらしい。これでは営利目的の嘱託殺人に過ぎない。 今回の嘱託殺人事件も、以前の相模原における殺人事件も、我々が議論しているような安楽死には該当しない、単なる犯罪である。
安楽死の合法化に反対の姿勢を示している人の多くは、障害者等の生きる権利が阻害される、ということを問題視しているようである。 しかし、それは論点がおかしい。 前々回に紹介した安藤准教授などは、 現在の日本に存在する「患者の将来を本人ではなく家族や医師が決める」という人権軽視の野蛮な慣行を前提に考えている点が、おかしい。 また前回に紹介した岡部氏などは、 価値観は多様であって、人生の終え方を巡る判断は人それぞれであって構わない、という観点が欠けているようにみえる。 ある人が安楽死したからといって、同じような境遇にある別の人は、あたりまえのことであるが、安楽死しなくても構わないのである。
昨今の日本の風潮なのか、それとも昔からの日本の悪しき伝統なのかは知らないが、他人と同じでなければならない、という思い込みが、強すぎるのではないか。 生き方や死に方は、人それぞれ、違って良いのである。自分で決めれば良いのである。 それを、政府が推奨しているだの、あの人がそうしただの、どうして他人の判断を参考にするのか。自分で好きなようにすれば良いのである。
このように判断を安易に他人に委ねる風潮は、昨今の COVID-19 の騒ぎでも感じられる。 たとえば「今年のお盆は、コロナのせいで帰省できなかった」などと言う人もいるが、それは「帰省しなかった」の間違いであろう。 諸君が帰省するか否かを決める権利は、他人にはなく、むろん、政府に決められるいわれもない。 企業等の中には、従業員の他県への移動を禁止したところもあるらしいが、仕事での出張禁止ならともかく、私的な旅行まで禁止するのは違法であり人権侵害である。 雇用主から違法で人権を無視した命令を受けた場合、従う必要はない。黙って帰省すれば良く、むろん、報告の必要もない。 また政府が移動自粛を要請したとしても、最終的な決定権は諸君自身にある。 それなのに「自粛要請されたから」などと、判断の責任を政府に転嫁するような発言をするのは、一人の自由で独立した人間として、恥ずかしいことではないのか。
8 月 20 日付の時事通信の記事によれば、 フランス政府が公共の場所におけるマスク着用を義務化したところ、反発した市民がデモを行ったという。 マスクを着用するか否かは個人の自由であって、政府には義務化する権限がない、というのである。 同様のデモは、ドイツや英国でも行われたらしい。
一方、日本では、政府による自粛要請に従わなかった者が周囲の人々から非難される例が少なくないようである。
今回の事例を巡って、「当事者」である筋委縮性側索硬化症患者の意見も大きく取り上げられている。 7 月 23 日付の朝日新聞の記事では、「特定非営利活動法人 境を越えて」の岡部宏生理事長や、 舩後靖彦参議院議員の主張が紹介されている。二人とも筋萎縮性側索硬化症の患者である。 なお、この境を越えてという団体は、ウェブサイト上の紹介によれば 「重度に障害を持ち在宅で生活する当事者のほとんどが、様々な理由から既存の制度の活用が難しく、かつ慢性的な介護者不足によって日々の生活もままならない現状がある中、 この法人は広く一般市民を対象として、誰もが当事者やその家族になったとしても、自分らしく生きられる社会、安全に安心して生活できる社会に寄与することを目的とする。」 として重度障害者に対する様々な支援を提供する団体らしい。
岡部氏は「『安楽死』には明確に反対だ。『安楽死』と同じように社会で使われている言葉に『尊厳死』があるが、自分でご飯を食べることや排泄(はいせつ)ができなくなるのは尊厳を失うことなどとされる。そうなのか。もしそうなら私は尊厳を失って生きている。」 「尊厳死を選ぶということは、自分はこういう状態なら生きていたくないということ、つまり自殺そのものだ。これから社会の中で安楽死が議論されるなら、自殺をどう考えるのかを明確にしてほしい。」 と述べている。
舩後参議院議員は少なくとも記事に掲載されている範囲では、安楽死の合法化に対する賛否を明確に述べずに ただ「『死ぬ権利』よりも、『生きる権利』を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。」とするに留めている。
これら「当事者」の意見について考える際に注意すべき点がある。 昨日の記事で紹介した竹田医師もそうであるが、これらの「当事者」はいずれも他人とのコミュニケーションや社会的活動が可能な患者である。 これに対して今回の事例の患者は、前々回の記事で述べたように、コミュニケーション能力が失われつつある、閉じ込め症候群に近い、特に重症の患者であったらしい。 同一疾患ではあるが、状況は全然違うということを忘れてはならない。
岡部氏は「尊厳」を述べているが、そもそも尊厳や死生観というのは、個人の主観であって、万人に共通するものではない。 自力での食事や排泄ができない状況について、岡部氏が「尊厳を保っている」と考えるからといって、他の人も同様に考えるとは限らず、どちらが正しいというわけでもない。 岡部氏が「私は安楽死したくない」と主張するのは自由であるが、氏の主張は、他人が安楽死することを止める理由にはなっていない。
舩後参議院議員は、立場が立場であるだけに、この時点で明確な意見を表明することを避けたのであろうが、どちらかといえば安楽死の合法化に反対であるような言い方にみえる。 しかし、そもそも「死ぬ権利」と「生きる権利」とは相反するものではない。「死ぬ権利」を認めるよう求めている人々も、「生きる権利」を否定しているわけではない。 それなのに両者を対比してコメントした舩後参議院議員の意見は、意味がよくわからない。
現在、日本では安楽死は違法である、とするのが通説である。ただし、安楽死を明確に罪として規定する法律は存在せず、具体的には殺人罪、嘱託殺人罪、あるいは自殺幇助罪として扱われる。 法律で明確には規定されていない、という点は問題であって、法学理論上は安楽死を合法と考える余地がある。 というのも、疾病の治療を目的として患者の同意のもとに手術を行うことを合法とする一方、患者の意思に基づく安楽死を違法とすることを、矛盾なく理論的に説明することは困難だからである。 とはいえ、現在の日本で安楽死を合法と主張する人は極めて少数なので、この日記においても、とりあえず現状では違法であるものとして議論を進める。
今回の事件に関連して、安楽死を巡って様々な意見が表明されている。 7 月 29 日付の朝日新聞の記事によれば、日本医師会の中川俊男会長は 「患者さんから『死なせてほしい』と要請があったとしても、生命を終わらせる行為は医療ではない」として、「これを(議論の)契機にすべきではない。」と述べたらしい。 なぜ日本医師会が安楽死の合法化に消極的であるのかは、知らぬ。 なお、誤解があるといけないので強調しておくが、日本医師会は、日本の一部の医師によって組織されている業界団体であって、関連する政治団体「日本医師連盟」を介する政治献金などを通じて政治への影響力を発揮している。 入会していない医師も珍しくはなく、私も加入していない。医師会は公的団体でもなければ、医師全体を代表するわけでもなく、むろん、医師を統制する権限はない。 従って、日本医師会がどう主張しようが大した意味はない。
8 月 1 日付の朝日新聞の記事では、筋萎縮性側索硬化症患者である竹田主子医師、鳥取大学の安藤泰至准教授、京都大学の児玉聡准教授の意見が紹介されている。 有料会員記事なのが遺憾であるが、各々の主張の要点は、おおよそ次のようなものである。
竹田医師は「今の時代、ALS患者でも無限に活動的になれます。国会議員として活躍している人、国内外を飛び回って活動する人、自ら介護事業所を立ち上げた人、子育てや孫育てする人もいます。」と述べ、 「『厳格な基準を定めたら、死にたい人に医者が致死量の薬物を入れて殺してもいいのでは?』という意見が一部で出ています。でも、「厳格な基準」とは一体何でしょう。命を救うはずの医師に、人を殺す権限を与えることは正しいでしょうか。」 として安楽死の合法化に反対の立場を示している。
安藤准教授は、今回の事件について「『生きる価値のある命』と『ない命』を勝手に選別した点で、2016年に障害者施設で入所者19人が殺害された相模原事件との共通点を感じる。」 「安楽死を合法化したのは個人主義の強い欧米などの一部の国だ。組織や集団を優先する日本で合法化すれば、表向きは本人の希望でも、現実には『家族や社会への遠慮』から死に追い込まれる人が相次ぐだろう。」として、同じく安楽死の合法化に反対している。
これに対し児玉准教授は、「緩和ケアや介護などを充実し、生きたいと思える環境を作ることはとても重要だ。 ただ、どれだけ充実しても、自分の死に方は自分で決めたい、という人はいる可能性がある。そういった人にまで『死ぬことは絶対に許さない』と個人の自由を制限することは許されるのか。」と述べ、 安楽死の合法化について検討するべきとの立場を示している。
竹田医師と安藤准教授の主張は、根本的な部分に錯誤がある。 相模原の事件は、障害者の生命の価値について、他人である犯人が一方的に価値判断を下し、殺害に及んでいる。これは前回紹介した Harrison における分類でいえば「同意に基づかない能動的安楽死 (involuntary active euthanasia)」であり、 これを合法とすべき理由はなく、純然たる殺人事件である。 これに対し今回の事例は、患者自身が、自身の生命の終え方を判断し、自身の意志によって安楽死を遂行しており、誰が死を決めたのかという点において決定的な差異がある。
竹田医師と安藤准教授は、この重要な差異を無視し、二つの事例を混同して論じており、不適切である。 具体的にいえば、安楽死を合法化しても、竹田医師のいうような「命を救うはずの医師に、人を殺す権限を与える」ということにはならない。決定権は、あくまで患者本人に与えられるからである。 なお、細かいことをいえば、医師の仕事は命を救うことである、というのも理解に苦しむ。 法医が行う司法解剖や、病理医が行う病理解剖を、医師の仕事ではないというのだろうか。 また安藤准教授は、「組織や集団を優先する」という日本の歪んだ因習を前提として論じており、不適切である。 現在の日本では、アンサングシンデレラでみられたように、治療方針を本人ではなく家族が決めてしまう事例が、おそらく、存在している。 しかし、これは患者の人権を蹂躙する違法で不道徳な慣行であって、是正すべきものである。それとも安藤准教授は、こうした因習を「美しい日本の文化」とでも言うのだろうか。
児玉医師の主張は、妥当であって、特に批判すべき点がない。
日付が変わったが、便宜上、7 月 31 日付として記載する。 過日、二人の医師が嘱託殺人の疑いで逮捕された件について、何回かに分けて書こう。 初回は、安楽死の現状についての概略を述べる。
日本においては安楽死を認める法律がないため、死を希望する患者を医師が故意に死なせた場合、嘱託殺人の罪にあたることは、報道などで述べられている通りである。 私は、この事件の報道を最初にみたとき、安楽死を認めない現在の日本の法律に反発した医師が、確信犯として安楽死を行ったものかと思った。 が、どうも報道によれば、この事件の容疑者は患者から法外な報酬を受け取っていたようである。 それが事実であるならば、彼らは法より道義を優先した確信犯ではなく、単なる金儲けのための嘱託殺人犯に過ぎず、私は擁護しない。
「安楽死」は英語で euthanasia であるが、これと似た言葉に「尊厳死」death with dignity がある。 両者の異同について論じている者もいるが、実際のところ、この区別は曖昧である。 内科学の名著 J. L. Jameson et al., Harrison's principles of internal medicine, 20th ed (McGraw Hill; 2018) では第 9 章で euthanasia について論じているが、death with dignity については言及していない。 Death with dignity という語が曖昧であるがゆえに、使用を避けたものと思われる。 この日記でも、「尊厳死」という曖昧な言葉は避けることにしよう。
さて、今回の事件の報道について、気になる点がいくつかある。 7 月 23 日付の産経新聞の記事 では、この事件の被害者である筋委縮性側索硬化症患者の状態について
女性は死亡当時、すでに自力でのまばたきも難しくなっていたといい、「安楽死」を希望したとみられている。
と記載しており、この患者の病状が非常に進行していたことを報じている。 生存はしており、外部からの情報も知覚はできるが、自分の意思を他人に伝える手段がない、という恐ろしい状態が近づいていたわけである。 このことは、生を諦め死を望むことと大いに関係があったであろうが、不思議なことに、産経以外の大半の報道機関は、この事実を大きく報じていない。 なお、産経は 7 月 29 日付の記事でも、この点を改めて強調して
女性は数年前からマイトビーと呼ばれる視線入力装置を使い、意思疎通を図ったり、SNSに自身の思いを投稿したりしていた。 しかし、昨年1月ごろからまばたきが難しくなり、TLS (註: 完全閉じ込め症候群のこと) の傾向が見られ始め、症状が進行すればコミュニケーションの手段もなくなる状況だったという。
と、書いている。 もし本当にそういう状態であったならば、私であれば、安楽死を希望する。 安楽死はけしからん、と主張している人々は、人工呼吸と胃瘻で生命を維持し、自分の意思を表明することすらできず、回復の見込みもない「生」を、本当に望むのか。
朝日新聞などは、安楽死は認めるべきではない、という明確な方向で記事を書いており、議論の余地すらない、と言わんばかりである。 朝日新聞をはじめとして日本の報道機関は、「無知蒙昧な一般国民に対し、正しいことを教えてやる」という姿勢が基本であり、 客観的事実を提供して各々の国民に思案や議論を促す、という態度ではない。 私は、そういう報道姿勢が嫌いである。
さて、前述のように日本では安楽死を認める法律がないが、世界的には、安楽死が合法な国は存在する。 上で紹介した Harrison では、生命の終わりを故意に迎える医療行為を 4 つに分類している。 1) 「同意に基づく能動的安楽死 (voluntary active euthanasia)」は 「故意の薬物投与その他の手段によって、インフォームドコンセントの下に、患者を死に至らしめる行為」と定義され、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ、コロンビアにおいて合法である。 2) 「同意に基づかない能動的安楽死 (involuntary active euthanasia)」は、同様の行為を、患者に同意能力があるにもかかわらず、患者の同意なしに行うことをいい、これが合法である国は存在しない。 3) 「受動的安楽死」は、「生命維持のための医療的処置を中止することによって、患者を死亡させる行為」であって、これは多くの国で合法とされている。 4) 「医師による自殺幇助 (physician-assisted suicide)」は、「医師が薬物その他の医療的介入を提供し、患者が十分に理解した上でそれらを使用して自殺を行うこと」であって、 オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ、コロンビア、スイス、オレゴン、ワシントン、モンタナ、ヴァーモント、カリフォルニアで合法である。
日本の場合、上述の 1) から 4) のいずれについても法律で明確に規定されていない。従って、受動的安楽死の場合であっても、これを行った医師が罪に問われる恐れがある。
さて、次回は、これらを前提として、安楽死を巡る議論について考えよう。
前回の続きである。 アンサングシンデレラ第 4 巻の症例における 2 つの問題についてである。
患者の病状について、医療従事者から説明を受ける権利を有しているのは、患者本人のみである。 患者の家族は、患者本人が許可した場合を除き、病状説明に同席する権利はない。 現実には、病状説明には患者本人だけでなく家族も同席することが多いが、これはあくまで本人が許可したからである。 病院側としては、退院後の生活のことなどを考えれば家族にも病状を知っておいて欲しいと思うかもしれないが、 家族に知らせるかどうかは専ら患者本人が決めることである。
患者本人を抜きにして家族に対して病状説明を行うのも、基本的には患者本人が許可した場合に限られる。 患者本人との意思疎通が困難な場合には、本人の意思を推定することができる立場の者として家族が参考意見を述べるために病状説明を受けることがあるが、 この場合も、家族には説明を受けたり治療方針を決定する権利があるわけではないことを忘れてはならない。
むろん、世の中には「自分が癌だ」ということを知りたくない人もいる。 そういう人の場合、自分には知らせずに家族にだけ告知してくれ、と病院側に要望するのは自然なことである。 とはいえ、検査結果が出てから「告知を希望しますか?」などと尋ねるわけにはいかないので、検査を行う前や、あるいは入院時にルーチンの問診項目として、告知に関する希望を訊いておくべきである。
さて、このアンサングシンデレラ第 4 巻の症例の場合、患者の認知能力には全く問題なく、本人も自分の状態を知りたがっているのに、本人ではなく家族にのみ告知が行われた。 経緯については明確に描かれていないものの、本人の希望とは無関係に、息子に対してのみ告知したのであろう。 これは、医師の守秘義務違反である。具体的には刑法第百三十四条
医師、薬剤師、医薬品販売業者、助産師、弁護士、弁護人、公証人又はこららの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは、 六月以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
に違反している。 いうまでもなく、こうした違法行為は医療現場において「やむを得ない」とされているわけではなく、不正である。 私が名古屋大学医学科の学生であったときも、本人の許可なく家族に病状説明を行えば守秘義務違反になるから、告知の方法について患者本人と事前に話し合っておく必要がある、と教えられた。 現実には、おそらく少なくない病院で、こうした守秘義務違反が少なからず行われているために、アンサングシンデレラでも深く考えずに描いてしまったのであろう。 しかし、これでは、こうした告知が正常な医療行為であるかのように読者に誤解を与えかねず、よろしくない。
もう一つの問題は、患者本人の同意なし抗癌剤による治療を開始しようとした点である。 これは、上述の告知の問題と似ているようで異なる問題である。 抗癌剤投与は、正常組織にも重大な障害を及ぼす行為であって、形式的には刑法第二百四条
人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
に違反している、法学用語でいえば犯罪構成要件を満足している、と考えるのが通説である。 ただし、医療行為は傷害罪の犯罪構成要件を満足しない、という主張も一部にはあり、このあたりの事情については 田坂晶の論文「刑法における治療行為の正当化」(同志社法学 五八巻七号 二六三-四〇〇; 2007) が読みやすいのだが、詳しくはまた別の機会に書こう。 なお、医師の中には「治療行為なんだから構わないだろ」とシンプルに考える者もいるようだが、治療行為であっても違法である例はたくさんあるので、注意を要する。 上述の田坂の論文でも、二七七ページで
癌患者への不告知による手術などがすべて傷害罪を構成するとの判断は、刑法上妥当な評価とはいい難いであろう。
と述べているが、この箇所では 2001 年に出版された文献を引用していることに注意されたい。 すなわち、かつて、これらの論文が書かれた時代には癌患者に告知することなく手術することも稀でなかったらしいが、今日では、よほど特殊な事情がない限り、告知なしでの手術は行われない。 基本的には、告知なしでの手術は傷害罪を構成すると考えるべきである。
このように、形式的には傷害罪にあたる (恐れがある) 医療行為が容認されるのは、これが違法ではない、法学用語でいえば違法性が阻却されている、からである。 なぜ違法でないのか、という理論については議論があり、これも別の機会に紹介したい。 少なくとも、違法性が阻却されるためには原則として患者の同意が必要である、という点については、異論はなかろう。 ただし「同意とは何か」という問題も重大であり、患者が何もわかっていない状態で同意書に署名しただけでは、通常、同意したとはみなされない。
ともあれ、このアンサングシンデレラのような場合、本人への説明や同意がない以上は違法であるが、その点については作中で指摘がない。 患者の治療方針を、本人の意思に関係なく、医師や患者家族だけで決定できるかのような誤解を与える恐れがあるのではないか。
体調不良などがあって、また間隔があいてしまった。既に日付が変わっているが、便宜上、24 日付として書く。 「アンサングシンデレラ」という医療漫画についてである。 この漫画は、病院薬剤師の「葵みどり」が主人公である。 病院薬剤師は、一般の人々からすると何をしているのかわかりにくく、目立たない仕事であるので、これを取り上げて漫画家するというのは面白い。 この漫画の医療原案を担当した富野浩充氏は、現役の病院薬剤師らしい。 この漫画はテレビドラマ化されて放映されているらしいが、私はテレビをみる習慣がないので、テレビドラマ版については知らぬ。原作漫画は以前に書店でみかけて 4 巻まで買って読んだので、その感想を書く。
総括としては、私は、この漫画は、たいへん良くないと思う。医療者や医療行為について、誤った認識を世間に広めかねないからである。 以下、具体的に問題と感じた点を挙げる。
まず細かな問題であるが、第 3 話は、アナフィラキシーショックによる自発呼吸停止状態で救急搬送された患者の話である。ここでは葵も救急外来に行き、初期対応にあたる。 この事例では、救急車の到着までに十分な時間的余裕があるのに、救急医と思われるスタッフがマスクをしていないなど、基本的な部分がおろそかにされている。 葵も、心肺蘇生中に意味もなく手袋を外し、マスクを下げて鼻や口を露わにしている。感染予防の基本的な態度がなっていない。 それを悪い例として示すのではなく、ごく自然な行為であるかのように描かれているのは問題である。 もっとも、現実にそうした感染予防の意識や態度が乏しい医療従事者は少なくないようなので、リアリティを出すために、敢えてそう描いたのかもしれない。 しかし、それならそのような註釈を加えるべきである。 また、第 3 話に限らず一部の薬剤は一般名ではなく商品名で登場している。これも、現実に商品名を連呼する医療従事者が多いことからリアリティを重視したのかもしれないが、果たして素人の読者が、どこまで正確に理解できるだろうか。
第 4 話は HELLP 症候群の患者の話である。HELLP 症候群の病理学的本態はよくわからないのだが、しばしば妊娠高血圧症候群を背景に発症し、 溶血 (Hemolysis), 肝逸脱酵素高値 (Elevated Liver enzyme), 血小板減少 (Low Platelets) を特徴とする症候群である。 かなり無理矢理な命名であるし、なぜ HELP ではなく HELLP と命名されたのかはよくわからない。今度暇なときに元文献を探ってみようと思う。 ともあれ、HELLP 症候群は産科領域で非常に有名な症候群なので、よほど不勉強でない限り、若手医師や助産師でこれを知らないものはいないであろう。
この第 4 話の何が問題かというと、作者にその意図はなかったであろうが、結果的に助産師を侮辱しているのである。 この話では、倉本というベテラン助産師が登場する。 この倉本が、典型的な HELLP 症候群の患者をみて、「片頭痛だろう」という研修医の診断に対して何の疑問も抱いていないのである。 患者が腹痛や「気持ち悪い」「目がチカチカする」と訴えても気づかず、薬剤師に「これヘルプじゃないか?」と言われて、はじめて「!!」と反応している。 その後も、帝王切開の準備に動くでもなく、ただ患者のそばで「しっかり!」と言葉をかけている。 一年目の助産師ならともかく、ベテラン助産師で HELLP 症候群の典型例に対してこの対応は、たいへん程度が低いといわざるをえない。 なお、ここで登場する産婦人科医の林は、話にならないほど水準の低い医師であるが、まぁ、そういう医師は世の中に実在するので、構わない。
最も重大な問題は、第 12 話から第 15 話までの胃癌患者の話である。 この患者は、診断時点で既に遠隔転移のある Stage IV の胃癌であり、根治的手術が不可能であった。なお、この診断時点で本人の認知機能に問題はなく、日常生活や飲食店の業務に問題は生じていない。 しかし第 4 巻 48 ページでは、カルテの記載として 「息子に上記病状を説明。息子の希望で患者には未告知のまま治療開始予定。」とある。 実際には紆余曲折の末、本人への告知に息子が同意し、本人も納得した上で化学療法が開始されたのだが、それでも、この事例には 2 つの問題がある。
その 2 つの問題について書こうと思ったが、少し長くなってきたので、続きは次回にしよう。
本日から、小売店における会計時に配布するプラスチック製の袋、いわゆるレジ袋の原則有料化が義務付けられた。 具体的には「容器包装に係る分別収集及び再商品化の促進等に関する法律 (平成七年法律第百十二号) 第七条の四第一項に基づき、 小売業に属する事業を行う者の容器包装の使用の合理化による容器包装廃棄物の排出の抑制の促進に関する判断の基準となるべき事項を定める省令の一部を改正する省令 (令和元年財務・厚生労働・農林水産・経済産業省令第 1 号)」が施行された。 これは、いわゆる容器包装リサイクル法 (容器包装に係る分別収集及び再商品化の促進等に関する法律) の関連省令の一つを改正する省令である。 今回の改正の目的は省令の条文には明記されていないが、 経済産業省の広報サイトによれば 「廃棄物・資源制約、海洋プラスチックごみ問題、地球温暖化などの課題」をふまえて 「プラスチックの過剰な使用を抑制し、賢く利用していく必要があります」との観点から 「普段何気なくもらっているレジ袋を有料化することで、それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとすることを目的としています」 とのことである。 この広報サイトを読んだ時、私は、おや、と思った。 「レジ袋の消費量を減らすこと」を目的とは明記していないのである。 この経済産業省の書き方は、たいへん気にいった。 今回の有料化は偽善的な政策であるが、広報担当者には一片の良心が残っており、苦しんで文言を選び抜いたように感じられた。
いわゆる海洋プラスチックの点についていえば、そもそも海洋へのプラスチックの流出が実際にどれだけ有害なのかわからないのに、 それが非常に重大な問題であるかのような印象を広めて危機感を煽る風潮は問題である。 「些末な問題なのか、重大な問題なのか、よくわからないけれども、もしかすると重大な問題かもしれないので、念のため、対策しましょう」というならば良い。 しかし、科学的根拠もなしに、それが重大で有害だと決めつけてしまうのは、よろしくない。 また、我々がプラスチックを使用しても、適切に処理する限り、それが海洋に流出するとは思われない。 プラスチック製品を不適切に路上や海上あるいは河川に投棄するから、それが海洋に流出するのである。 つまり「海洋汚染を防ぐために、私はプラスチックを使いません」と宣言する人は、 「私はゴミを不正に投棄します」と言っているに等しい。
資源制約の観点からいえば、レジ袋有料化は全く意味がわからない。 資源、特に石油のことをいうのであれば、まず自動車を規制すべきではないのか。 私が住んでいるような日本海沿岸の地方都市では、一家に一台どころか、一人一台に近いぐらい、自家用車が普及している。 だから私が、自家用車どころか運転免許も持っていない、と言うと、多くの人は「生活に困らないか」などと心配してくれるし、 あるいは内心、私が重大な疾患を抱えていて運転免許を取得できないのではないかと疑っているかもしれぬ。 しかし、こうした地方都市でも、住む場所を選び、公共交通機関を適切に利用すれば、自家用車は不要である。 自家用車で買い物に出かけておきながら、「環境のため」とレジ袋を断るのは、実に偽善的である。
また今回の省令改正では、レジ袋の価格設定は事業者に任されているため、1 円でも構わないことになっている。 たとえば私の勤務先の病院にあるコンビニエンスストアでは、一枚 3 円である。 全く、痛くも痒くもない値段である。 もし、有料化によってレジ袋の消費量を減らすつもりであるならば、この値段設定は、おかしい。 一枚 50 円とか、100 円とかにするべきであろう。
結局、この有料化は、我々の生活の利便をほとんど損なわないようにするという前提で、何か環境のために行動しているかのように感じさせるだけのものに過ぎない。 ほんとうに環境をどうこうしようという動きでは、ないのである。
こうした「形だけの取り組み」は、COVID-19 に対する感染予防策にもみられる。
街中や病院の中では、マスクを着用している人が多いが、口だけを覆って鼻孔を露出しているような、 感染予防としては効果が非常に乏しい着用法をしている者は、医療従事者にも少なくない。 何のためのマスクかを考えず、「マスクを着ければそれで良い」という発想なのであろう。
店舗等の入口にアルコールを主成分とする手指消毒用の薬剤が置かれていることも多い。 入店時に消毒せよ、とのことであろうが、これも、どれだけ意味があるかは怪しい。 一度手を消毒しても、すぐに、その手で髪や顔やマスクを触るのだから、すぐに汚なくなる。 「やって損はないでしょう」というかもしれないが、全国でみればかなりの経済的負担になるのだから、無意味であるならば、やらない方が良い。 また、アルコールアレルギーの者に対する配慮がないことも問題である。 アルコールアレルギーであっても、「手指消毒をしてください」などと言われれば断われないような、気の弱い者は少なくない。 そういう人々に対し配慮せず、効果の怪しいアルコールを設置して良いことをした気分になるのは、はなはだ偽善的である。
次亜塩素酸の噴霧については、あまりにくだらないので、書かない。
病院の中には、職員に対し、県をまたぐ移動を禁止したり、あるいは事前に届け出るよう義務づけたところもあるらしい。 むろん、何の法的根拠もなく、個人の自由を不適切に束縛する不法な要求であり、人権侵害である。 医師であろうが何であろうが、我々には移動の自由がある。 自粛を要求するだけなら問題ないが、強制はできないのである。むろん、自粛は自粛に過ぎず、自粛要請に従う義務はない。 そういう人権意識が、日本には乏しい。