ウクライナでは、侵攻するロシア軍と戦うため、18 歳から 60 歳までの成人男性の出国が禁止されているという。 換言すれば、子供や老人、および女性は、国外に逃げることを認める、というわけである。 このウクライナ政府の措置に憤りを感じない人は、差別主義者である。
戦争に際して、子供を疎開させることに私は賛成である。 参政権のない子供には、法的にも道義的にも、国家の現在の危難に対する責任はない。 むしろ、戦後社会の復興を担うという重大な道義的使命があるのだから、嵐が過ぎるのを国外で待つのは合理的である。
しかし、なぜ女性の出国も認めるのか。 銃をとって戦う能力について、女性が男性よりも劣るということはない。 たとえば、日頃デスクワークに従事して運動もしない男性である私などよりは、日々スポーツで体を鍛えている女性の方が、戦闘能力は高いであろう。 また、直接的な戦闘以外にも、国土防衛のためにできる仕事は、いくらでもあるのではないか。
女性は守られるべき存在である、というような決めつけがあるのだろう。 これを「女性が大事にされている」と感じる人は、男女差別について無頓着に過ぎる。
女性は守られるべき、という発想は、女が前に出てくるな、という発想と表裏一体である。 女のくせに生意気だ、女なんだからおとなしくしていろ、というわけである。 「女・子供」という表現にみられるように、女は一人前の人間ではない、男よりも下の立場である、という考えがあればこそ、女性は子供と同様に出国を許されるのである。
これはウクライナ戦争に限ったことではないが、攻撃で犠牲となった民間人について、いまだに「女性や子供を含む○人が死亡」などと報道されることがある。 子供はともかく、なぜ女性を特に強調するのか。男性が死亡するのに比べて、なぜ、女性が死亡することが重大であるかのように表現するのか。
ところで、私は、さきほど参政権のない子供には道義的責任がない、と述べた。 これは暗に、参政権のある大人には道義的責任がある、と述べている。 現在のロシア連邦は、おそらく選挙の際に不正が横行しているが、一応、形式的には国民主権の民主主義国家である。 大人のロシア人は、ごく稀な例外を除いて、参政権を有している。 プーチンを大統領に据えたのは、そうしたロシア人達である。
プーチンが大統領に就任したことを苦々しく思ったロシア人も少なくないであろう。 しかし、そのプーチンを止められなかったことについては、参政権を有する全てのロシア人に道義的責任がある。 「私はプーチンを支持していない」という人もいるだろうが、そのような言い訳は成立しない。 選挙はあくまで手続きに過ぎない。ロシア政府は、ロシア人全体を代表する政府である。 プーチンはロシア人全体を統べているのであって、プーチン支持者だけを代表しているわけではない。
なお、日本では国会議員が地元の支持者に利益誘導することが多いようである。 地元に高速道路を建設したり、支持母体たる業界団体に都合の良い制度を作ろうとするわけである。 国民全体に奉仕するのではなく、自分に票を入れてくれる人々に奉仕しているのである。 それを疑問に思わない人々は「プーチンを支持していない一般ロシア人には道義的責任はない」と考えるのかもしれぬ。
話は変わるが、昨日の記事に少し補足をしておきたい。 ウクライナを出国してイスラエルに避難した女性が、母国の情勢について関心を高めるためとして出場したエルサレムマラソンで優勝したらしい。 ロシアの侵攻を受けてイスラエルに逃げた時点で皮肉であるが、さらにエルサレムを走るというのは、いったい、いかなる了見であろうか。
2001 年に米国で、民間航空機の同時多発ハイジャックが行われ、うち一機がニューヨークの高層ビルに激突する、という事件があった。 同時多発テロ、という表現がされることもあるが、テロという言葉は定義が曖昧なので使わない方がよかろう。 たとえばパレスチナの地で、イスラエルと称する武装集団が民間施設を砲撃・爆撃し、あるいは民家をブルドーザーで破壊しても、 日本のマスコミは「テロ」という表現をしないようであるが、ニューヨークの事件とパレスチナの事件の間に本質的な違いがあるようには思われない。 イスラエルは国家だから、と主張する人もいるようだが、それは日本政府が国家承認しているというだけの話であって、たとえばイランにとってはイスラエルは国家ではない。
この 2001 年の事件などに対する措置として、米軍はアフガニスタンに侵攻した。 米国は、2001 年のニューヨークの事件はアルカイダというテロ集団によって引き起こされ、 それをアフガニスタンのタリバーンが支援していたかのように主張したが、証拠は示されていない。 当時のアフガニスタン政府は、米国に対し最後まで対話を求めていたが、それを拒絶して軍事行動を開始したのは米国側である。 米軍はアフガニスタンの政府を崩壊させ、親米政権を樹立させた。 アフガニスタンに駐留した米軍は、結婚式場を爆撃して参列者を殺害し、水を詰めたタンクを爆弾と誤認して民間人を殺害したが、 日本や欧米のマスコミは、それほど大きく騒がなかった。 アフガニスタン侵攻から 20 年が経って米軍が撤退するや否や、タリバーンが速やかにアフガニスタンの実権を握った。
いったい、アフガニスタンの米軍と、ウクライナのロシア軍との間に、いかなる違いがあるというのか。
第二次世界大戦の後、英国が主導してパレスチナの地にユダヤ人国家イスラエルの建国が宣言された。 いうまでもなく、パレスチナには昔からアラブ人などが住んでおり、英国はこれを一時的に占領して植民地としていたに過ぎない。 英国が本土の一部、たとえば南イングランドをユダヤ人に割譲してユダヤ国家を成立させるのであれば、それは英国人の自由であるが、 そもそも英国人の土地ではないパレスチナに、どうしてユダヤ人国家が作られるのか。 このイスラエル建国は国連決議に基づくものであるが、国連には国家の樹立や領土分割を決定する権限はないので、そもそも決議自体が不正であり道義にもとる。
イスラエルと称する人々は、米国などからの支援を受けて軍事力を増強し、周囲のアラブ諸国との間で四次にわたる中東戦争を戦った。 その結果、当初の国連決議で認められた範囲を大幅に越える土地を占領したのである。 これらの占領地にイスラエルは自国民を入植させ自国領としての既成事実を作り続けている。 エルサレムも、戦争の結果としてイスラエルが占領しているだけの土地であって、国際的に承認されたイスラエル領ではないのだが、 米国などはエルサレムをイスラエル領と認定している。 イスラエルはもともと無人の地に国家を建設したわけではなく、そこにいた非ユダヤ人を排除することによって成立したユダヤ国家である。 非ユダヤのパレスチナ人の犠牲の上に、イスラエルは存在するのである。
イスラエルが軍事力を背景に領土拡大を試みていることについて、米国は非難するどころか積極的に支持している。 それならば、どうして、クリミア半島を占領したロシアが非難されなければならないのか。 アラブ人の土地は奪っても構わないが、ヨーロッパ人の土地を占領することは許されないのか。
私は、ロシアを擁護しているわけではない。プーチンやロシアが邪悪であることに疑いの余地はない。 しかしながら、イスラエルやアメリカもロシアと同様に非道である。 パレスチナやアフガニスタンに無関心な人々が、ウクライナにだけは同情を向ける、その精神のありさまを問題にしているのである。
インドネシアでは、パレスチナ出身のフットボール選手が、ロシアによるウクライナ侵攻への抗議に加わることを 拒否したという。
4 箇月近くも間隔があいてしまったが、ここ何年か続いていた生活上の重大な問題が、ようやく片づきつつある。このあたりの問題については、5 月以降に少しずつ述べる予定である。
さて、近頃はウクライナ情勢が世界中で注目されている。この記事を書いている時点では、 ロシア軍がウクライナに侵攻しキーウ近郊に迫っているものの、ウクライナ軍が善戦し、ロシア軍に重大な損害が出ているらしい。 一方、ウクライナ各地で民間施設に対する攻撃が展開され、非戦闘員の犠牲者が多数でているようである。
この戦争を巡っては、日本においてたいへん偏った報道がなされ、また一般大衆の間でも無知と偏見にもとづく言説が広まっている。 そこで本日から何回かにわけて、いくつか問題点を指摘しておこう。
今回のウクライナ戦争について、ロシアが悪い、ウクライナは被害者だ、というような言説が広くみられる。 私自身は、そのような見方に賛成である。北大西洋条約機構 (North Atlantic Treaty Organization; NATO) の東方拡大を巡り、 過去に米国をはじめとする NATO 加盟国が不誠実で、ロシアに対して過度に挑発的な態度をとり続けてきたことは事実である。 それに対してロシアが「自衛」のために軍事行動を展開することには一定の正当性があるように思われるが、 キーウをはじめとするウクライナ全土へ侵攻し、一般住宅や病院、また原子力発電所など民間施設へ広汎な攻撃を行っていることについては、人道上も国際法上も、擁護の余地がない。
しかしながら、今回ロシアを非難している人々は、かつて 2003 年に始まったイラク戦争、 あるいは 2001 年に始まったアフガニスタン紛争について、どのような態度を示したのか。 また第二次世界大戦後に生じ現在まで継続しているパレスチナにおける問題について、どのように考えているのか。
ロシアが自国の権益を守るためにウクライナに侵攻し、自国に従属する傀儡政権の樹立を図ることや、その過程で誤射・誤爆によって民間施設に被害が及ぶことについて、 米国や英国が非難するのは厚顔無恥というべきである。 また、湾岸戦争やイラク戦争で米国を支持しサダムを非難した人々が、今回のウクライナ情勢についてプーチンを謗りゼレンスキーを支持するのは、無節操である。 過去何十年にも及ぶパレスチナ情勢に無関心な人々が、ウクライナの問題で途端に人道に目覚めたふりをするのは、あまりに偽善的である。
1990 年 8 月にイラク軍がクウェートに侵攻したことを受けて、 アメリカ軍をはじめとする多国籍軍が 1991 年 1 月にイラクに対する攻撃を開始した。これが今日では湾岸戦争と呼ばれている戦争である。 戦闘自体は多国籍軍の圧勝であり、1991 年 2 月 28 日に停戦したことになっている。 この戦争は、国際連合安全保障理事会 (安保理) の決議に基づいて行われた。
湾岸戦争の停戦後も、アメリカ軍やイギリス軍はイラク上空に「飛行禁止区域」を設定し、その空域をイラクの航空機が飛行することを禁止した。 イラクの領空であるのに、外国軍が一方的に「飛行禁止」を決定したのである。 さらに英米は、この飛行禁止区域内に軍用機を派遣し、イラクの金属加工工場などに対する攻撃を継続した。停戦後であるのにも関わらず、攻撃を 10 年以上も続けたのである。 なお、この飛行禁止区域の設定については、安保理決議に基づいてすらいない。 安保理といえども加盟国の主権を正当な理由なく制限することはできないので、安保理決議さえあれば良いというものではないが、 安保理決議すらないのであれば純然たる領空侵犯、主権の侵害である。 なお、今回のウクライナ戦争においても「飛行禁止区域」という語が登場したが、これはウクライナ政府の要請に基づいて NATO がロシア軍の飛行を禁ずる、というものであるから、 イラクにおける飛行禁止区域とは性質が異なり、道義的にも国際法的にも何の問題もない。
21 世紀に入ってから、イラクが大量破壊兵器を保有しているのではないか、とする米国などの主張に基づき、国連がイラクにおいて査察を開始した。 当時の日本の内閣総理大臣は、米国から示された非公開の「証拠」をみて、イラクに大量破壊兵器が存在することを確信した旨を表明した。 結局のところイラクで大量破壊兵器は全くみつからなかったのだから、あの総理大臣は、一体、何をみて何を確信したのか、よくわからない。 査察の過程で、国連側は偵察機を飛ばす許可をイラク政府に求めたが、 イラク側は事前に詳細な飛行計画を提出するか、そうでなければ米英軍に空爆をやめさせるよう、国連に要求した。 イラクにおいては、湾岸戦争以降も米英との戦闘は続いていたのである。空爆に対して対空砲火で応戦する、という日が続いていた。 そこを国連の偵察機が事前の届出もなく飛行すれば、米英軍機と誤認して撃墜してしまう恐れがある。 イラク政府の要求は至極妥当であると思われるが、日本のマスコミは背景事情を説明せずにイラク側の要求のみを紹介し、 まるでイラク政府が査察に非協力的であるかのような偏った報道を行った。 査察が継続される中、米国はイラク侵攻を決定し、実際の軍事行動を開始した。それを受けて国連は査察を中止し、査察団は撤退した。 査察を妨害したのは、イラクではなくアメリカなのである。
1991 年の湾岸戦争はともかく、2003 年のイラク戦争は、米国が一方的にイラクに侵攻した戦争である。 実際にサダム政権を妥当してイラクを「解放」し、親米政府を樹立した。 これは、現在まさにプーチンがウクライナで行おうとしていることではないか。 どうして、イラクのサダム政権を軍事的に打倒することが正義で、ウクライナのゼレンスキー政権を打倒することが悪なのか。 ロシアやプーチンの蛮行は容認できぬが、アメリカがロシアよりマシだということもない。
おぞましい話であるが、彼らは、無意識のうちに、次のように考えているのではないか。 アジアの未開国であるイラクに侵攻することはやむをえないが、ヨーロッパの文明国であるウクライナに侵攻することは許されない。
COVID-19 の話は中断して、今日は性別の話をしよう。
性別という概念は人類の歴史において古くから存在するであろうが、医学的定義は曖昧である。 定型的な分化・発生を遂げた人に限れば、精巣や陰茎を有するか、あるいは卵巣や子宮を有するかのいずれかである。前者は男性、後者は女性と呼ばれることが多い。 性愛に関していえば、男性は女性を、女性は男性を、それぞれ対象とする例が多いであろう。 しかし人の発生様式は非常に多様であって、非定型的な経過をたどる人も少なくない。 言うまでもなく、多数派が正常なわけではないし、少数派が病気だというわけでもない。 たとえば赤血球の D 抗原が陰性の人は稀であるが、それは異常でも疾患でもなく、その人が稀な形質を有しているというだけのことである。 また、かつてのヨーロッパでは、ある特定の民族が劣等とみなされ、多数派の人々がその民族を迫害したことがあった。 この時、この多数派の人々は、正常な感性と判断力を失った、一種の精神異常の状態にあったといえよう。多数派が病気だったのである。
非定型的な性分化・性成熟を遂げることは稀ではない。結果として、定型的な男性でもなく、定型的な女性でもない人は、少なくない。 すなわち、性別というのは、定型的な男性と定型的な女性を両端とする一連のスペクトラムを形成するのである。 便宜上、これを男性と女性の二群、あるいは中間的な性を含めた三群に区分することは不可能ではないが、あくまで、それは便宜上の分類に過ぎない。 これは、病理診断学において腫瘍を良性と悪性に便宜上分類しようとする試みと同様であるように思われるが、その話は別の機会にしよう。
臨床医療において性別が最も問題になるのは、人の出生においてである。 日本においては、医師や助産師が発行する出生証明書には性別の記載欄があり、その記載内容に基づいて戸籍が作成される。 基本的には、性別の診断は外性器の形状、すなわち陰茎や陰唇を視診することによって行われる。 だから、何らかの事情で外性器の形状が曖昧であり、性別の判断に苦慮する場合には、敢えて性別診断を行わず、性別未確定として出生証明書を作成するのが普通である。 こうした性別判定を巡る法律上の諸問題については、家永登『性別未確定で出生した子の性別決定』(専修法学論集 131, 1-54 (2017-11-30).) が読みやすい。 この家永氏は法学者であって、医師でも医学者でもないが、この論文に書かれている医学的内容に重大な誤りはない。 敢えて挙げるならば、男性がヒトパピローマウイルスワクチンを接種することの意義について考察が甘いように思われるが、論の本筋には無関係である。
さて、ここで問題にしたいのは性同一性障害である。 性別違和、という表現を用いる人もいるが、「障害」という語を敢えて忌避することが適切であるとは思われない。 性同一性障害を厳格に定義することは困難であるが、「身体的な表現型としての性が、本人の自認する性と一致していない状態」とするのが簡便であろう。 「身体的な表現型」や「本人の自認」という語が曖昧であるため実務に用いる定義としては不足であるが、総論を述べるには充分である。
性同一性障害の病理学的本質が何であるかは、わかっていない。 しかし、胎生期のアンドロゲンないしテストステロンへの曝露が脳の性分化に影響するらしい、ということが近年では指摘されている。 すなわち、この脳の性分化が非定型的な過程を辿った場合に、身体的な表現型とは異なる性に脳が分化することがあり、性同一性障害を来すものと推定される。 このように考えると、性同一性障害は性分化障害の一種である。 性分化障害というのは、詳細は割愛するが、ホルモン代謝の異常などによって性分化に異常を来す疾患の総称であって、 たとえば、陰茎が病的に小さく生まれた男性とか、陰核が腫大し陰茎様になって生まれた女性などが存在する。
現代の医学では、出生時点において性同一性障害を診断することは不可能である。 しかし、もし将来、新生児の血液検査によって「性同一性障害疑い」の診断が可能になったとしたら、どうであろう。 多くの医師や助産師は、性同一性障害疑いの新生児について性別診断を保留し、性別未確定として出生証明書を交付するのではないか。
そのように考えると、現在、性同一性障害の人々が身体的表現型の性で戸籍を作成されているのは、医師や助産師の誤診に基づくものであるといえる。 むろん、これは現代医学の限界なのだから、医師や助産師に過失はない。それでも、誤診は誤診である。 医学的には「身体的表現型が女性である性同一性障害患者について、戸籍上の性を男性に変更すること」は 「高度の矮小陰茎ゆえに医師が誤診し女性として戸籍を作成されてしまった人について、戸籍上の性を男性に訂正すること」と本質的には同一である。 いずれも、出生時点での誤診により不正に記載されてしまった戸籍上の性別を、正しい性別に訂正しているに過ぎない。 家永登『性別未確定で出生した子の性別決定』(専修法学論集 131, 1-54 (2017-11-30).) によれば、 身体的表現型が曖昧であるがゆえに出生時に性を誤診された事例については、以前から、柔軟に戸籍の訂正が行われてきたらしい。 一方で現行法の下では、性同一性障害については、いわゆる性別適合手術などが行われない限り戸籍上の性の変更が認められておらず、医学的合理性を欠いている。
COVID-19 治療薬についても書いておこう。
現在のところ、SARS-COV-2 が有する蛋白質分解酵素などを標的とした治療薬の開発が行われているらしい。 いうまでもなく、そうした薬は、標的蛋白質に変異が生じれば有効性が低下する。 コロナウイルスは変異が早いのだから、普通に考えれば、そうした治療薬が臨床的に用いられるようになれば、すぐに薬剤耐性株が出現するであろう。
ヒト免疫不全ウイルス (human immunodeficiency virus; HIV) 治療薬の例を考えると、わかりやすい。 HIV の存在が知られるようになった後、抗 HIV 薬として様々な薬剤が開発された。 しかし、やがて治療薬に耐性を有する株が出現し、アフリカの一部地域などでは多剤耐性株も多数確認されている。 「現在では HIV 感染症治療薬が開発されているので、もう AIDS は怖くない」などと言う者も一部にいるが、上述のような耐性株の蔓延を考えれば、楽観的に過ぎるといえよう。
SARS-COV-2 においても同様に耐性株が蔓延すると考えるのが自然である。 ワクチンについても、ワクチンが対象とする蛋白質に変異を来し、ワクチンによる免疫効果から逃れる株が蔓延すると考えるのが自然である。 ワクチンや治療薬によって COVID-19 を制圧できる、などと楽観論を述べる人も一部にいるようだが、いったい、どのような医学的・生物学的根拠があるのだろうか。
ワクチンにせよ治療薬にせよ、コロナウイルスのように変異が速いウイルスに対する薬剤の開発は困難である。 だから、従来、感冒に対するワクチンや治療薬は作れない、と考えられてきたのである。 念のために書いておくが、市販されている「感冒薬」は解熱鎮痛薬の類であって、感冒そのものを治療しているわけではない。
特別な技術革新があったわけでもないのに、急に、コロナウイルスに対して本当に有効なワクチンや治療薬を作れるようになったと考える方が、おかしいのではないか。
3 箇月以上の間隔があいた。おそらく今年度中は、このような不定期更新になるであろう。 このように日記の記載頻度が低下している事情について現在は書くことができないが、来年度には説明できると思う。
さて、COVID-19 に関連する話を何回かにわけて書く。
SARS-COV-2, いわゆる新型コロナウイルスに対するワクチンの有効性について、様々な情報が錯綜している。 現在使用されているワクチンについては、臨床試験で有効性や安全性が確認されている、ということになっている。 しかし、ほとんどの人は、その有効性や安全性について自分で理解したわけではなく、 政府や専門家のエラい人がそういっているから、と盲信しているのではないか。
我々は独立した自由な人間であり、自分の生命身体社会生活について自分で決定する権利を有しているのだから、 医療についても専門家から充分な情報提供を受けた上で各自が判断・決定すべきである。 むろん、医学というのは高度に専門的な学問であるから素人がほんとうに医学的な意味で理解・納得したうえで医療を受けることは非現実的である。 従って、専門家は素人にもわかるように平易な説明を行う必要があるし、大衆の側も、そうした説明を理解するために一定程度の基礎的な科学的素養を備えておくべきである。
ワクチンが SARS-COV-2 感染を減らす、というのは、たぶん事実である。 しかし、それが COVID-19 の患者や重症者、あるいは死者をどれだけ減らすかは、評価が難しい。 SARS-COV-2 は無症候性感染者が多いらしい、ということをふまえれば、現在臨床的に COVID-19 と判断されている患者のうち少なからぬ人は、 別の原因による肺炎などに偶発的に SARS-COV-2 感染を合併したものであると推定される。 すなわち、誤嚥性肺炎などによる死亡が、たまたま SARS-COV-2 感染を伴ったが故に COVID-19 による死亡と誤診されているのである。 いうまでもなく、ワクチンには、こうした誤嚥性肺炎による死亡を防ぐ効果はない。 従って、仮にワクチンが SARS-COV-2 への感染を大幅に減らすとしても、それによって真の COVID-19 患者や死者が年間何人程度減るのかは、よくわからないのである。 このあたりの問題については 8 月 7 日の記事で述べているので、詳しいことは繰り返さない。 キチンとした疫学調査を実施してこなかった国などの怠慢により、真相がわからなくなっているのが現状である。
ワクチンが実際にどれだけ感染を減らすか、という点についても、臨床試験のデータを鵜呑みにするわけにはいかない。 我々が欲しているのは、現に流行している SARS-COV-2 に対して広く有効なワクチンであって、SARS-COV-2 の特定の株に対して有効なワクチンではない。 たとえばウイルスのスパイク蛋白質を標的とする mRNA ワクチンであれば、そのスパイク蛋白質に変異が生じた株に対しては有効性が著しく低下する。 換言すれば、これらのワクチンは、スパイク蛋白質に変異がない株に限定して有効なワクチンだということになる。 そうした変異による有効性の低下は理論的に明らかなのだから、スパイク蛋白質が変異した株に対する有効性を臨床試験で調べることに意義はない。 それにも関わらず臨床試験を行い、もし結果として変異株に対しても有効性が認められたならば、何かがおかしい。 臨床試験のデータが偶然に都合が良い方向に偏ったのか、あるいは研究者の悪意または無知によりバイアスが加えられたかの、いずれかであろう。 そうでなければ、免疫学の常識を覆す大発見をしたことになる。
一方、ワクチンの安全性についても、一部の自称専門家が「安全性が確認されている」などと主張している。 彼らが言っているのは、接種直後や数ヶ月ないし一年程度の範囲においては重大な有害事象は稀である、というだけのことである。 長期的な有害事象については不明なのに「安全である」などと述べるのは無責任である。 実際、ワクチン接種による有害事象としての心筋炎が、稀ながら存在するらしい、ということは指摘されている。 「ワクチンは安全」と主張している人々は、この心筋炎を、どう考えているのか。機序を何も考えずに「稀な現象だから問題ない」と言うのだろうか。 おそらく、この心筋炎は 2 月 16 日の記事に書いたような機序によるものであろう。 もしそうであるならば、長期的には、慢性心不全や慢性腎不全のリスクも上昇させる恐れがある。 そうした可能性については基礎医学を修めた者であれば容易に想像できるはずであり、多くの生物学者や免疫学者が懸念しているであろう。 一方、医師の多くは基礎医学を修めていない素人なので、そうした問題に想像が及ばないのは仕方のないことである。
それはさておき、専門家を称する人々は、本当に正確な情報を伝えて個々の国民に判断を委ねるつもりは、ないのではないか。 「ワクチンは接種すべき」というのが、彼らの信じる「正しい情報」であって、そのために都合の良い情報を選択的に流しているのではないか。
「ワクチン接種の長期的な安全性は、現時点では誰にもわからない」というのが本当に正しい情報であろう。 COVID-19 による死者数も、本当のところはよくわからない。 従って、ワクチンを接種することの利益もリスクも、どちらも曖昧であるから、接種した方が良いのかしない方が良いのか、よくわからない、というのが現状であろう。 その上で、接種するのか、接種しないのか、個々の国民が判断すべきものである。
3 カ月ぶりになってしまったが、日記を再開する。
SARS-COV-2 と呼ばれる、いわゆる新型コロナウイルスの感染が世界中で広まっている。 これは感染力が強く、COVID-19 と呼ばれる感染症の原因である。 COVID-19 では、無症候ないし軽症の患者も多いが、重症化することもあり、既に世界中で数百万人が死亡している。 この恐ろしい感染症の蔓延を防ぐためにはワクチン接種が有効であることは、既に多くの研究論文によって示されている。 また、SARS-COV-2 ワクチンとしては、世界で初めて mRNA ワクチンが実用化されており、その安全性も十分に確認されている。 これらのことは既に医学的にも社会的にもよく知られている。 従って、まっとうな知性と判断力の持ち主であればワクチンを接種すべきである。 また、感染拡大を抑えるために不要不急の外出は控えるべきであって、今後の状況次第では、いわゆるロックダウンを行うことも必要なのではないか。
と、いうような主張を耳にすることがある。 しかし、これに対し特に疑問を抱かず反発もしない者は、医学や科学に疎いといわざるをえない。 医師や医学科高学年生であれば、上述の主張がどう間違っているのか的確に指摘できるはずである。 とはいえ、この日記の読者には医学の素人も多いであろうから、敢えて、どこがおかしいのか、何回かにわけて議論することにしよう。 今回は、はたして SARS-COV-2 が COVID-19 と呼ばれる肺炎などの原因であるといえるのか、という点を考える。
多くの人は、SARS-COV-2 が肺炎などを引き起こすと信じているようであるが、はたして、そのような因果関係を示す科学的根拠は存在するのだろうか。 一般に、病原体と感染症の因果関係をキチンと示すことは困難である。 患者から微生物が検出されたからといって、それが病気の原因であるとは限らないからである。
ある微生物がある感染症の原因であると確定するための原則として、コッホの 4 原則が知られている。 これは、吉田眞一他編『戸田新細菌学 改訂 34 版』(南山堂; 2013) の記載によれば、 1) 一定の伝染病には一定の微生物が証明されること. 2) その微生物を取り出せること. 3) その取り出した微生物で実験的に感染させられること. 4) 実験的に感染させた動物から同じ微生物が分離される. の 4 つである。 この原則の問題点については昨年 4 月 21 日と 22 日の記事で書いたので、ここでは繰り返さない。 重要なのは、コッホの 4 原則は、ある微生物がある感染症の原因であると確定するための「十分条件」ではあるが「必要条件」ではない、という点である。
現在の微生物学や感染症学において、コッホの 4 原則に代わる適切な「必要十分条件」として広く認められている原則は存在しない。 だからといって理論的考察を怠り、微生物と感染症の因果関係を曖昧にしておくわけにはいかない。 そこでコッホの 4 原則を修正して次のような 3 原則を考えると、これは、ある微生物がある感染症の原因であると確定するための「必要条件」として妥当であるように思われる。 この日記においては便宜上、これをフランチェスコの 3 原則と呼ぶことにしよう。 1) 一定の伝染病には一定の微生物が証明されること. 2) その微生物を取り出せること. 3) 「その伝染病と類似の症候を呈する病人全体のうち、その微生物に感染している者の割合」が「健常者のうち、その微生物に感染している者 (無症候性キャリア) の割合」に比して低いこと.
コッホの 4 原則では、感染することで病気になる、という単純な因果関係が暗に想定されていた。 しかし実際には、発病には感染だけでなく、病原体と宿主の複雑な相互作用が関与しているので、病原微生物に感染したからといって必ずしも発症するわけではない。 そのためコッホの 4 原則のうち 3) 4) は、満足することが困難な例が少なくない。 一方、1) 2) を満足するだけでは、疾患に無関係な病原体がたまたま感染しているだけである、という可能性を否定できない。 たとえば心筋梗塞の患者について口腔内ぬぐい液の培養検査を行えば、高い頻度で Streptococcus 属細菌が検出されるであろう。 というのも、Streptococcus 属には典型的な口腔内常在菌が含まれているので、健常者であろうが心筋梗塞患者であろうが関係なしに、口腔内に Streptococcus 属細菌は存在しているのである。 だから、心筋梗塞患者から Streptococcus 属細菌が高頻度に検出されるからといって、これらの細菌が心筋梗塞を引き起こす、と考えるのは不適切である。
そこで重要なのがフランチェスコの 3 原則の 3) である。 上述の例でいえば、健常者であろうと心筋梗塞患者であろうと同様の頻度で Streptococcus 属細菌が検出されるのだから、この 3) を満足しない。 従って、口腔内の Streptococcus 属細菌と心筋梗塞に因果関係は認められない、と判断することができる。
さて、COVID-19 の話である。 最新のデータは把握していないのだが、一年ほど前の時点では、無症候の一般大衆のうち 5% 程度が SARS-COV-2 について PCR 陽性のようである、という複数の報告がみられた。 はたして、肺炎患者のうち SARS-COV-2 が PCR 陽性となる患者の割合は、5% よりも高いのだろうか。 そうした点をキチンと調べた研究や文献を、私は知らぬ。
そのように考えると、SARS-COV-2 が引き起こす感染症は実はただの感冒である、という可能性も否定できない。 いわゆる「重症化」は、誤嚥性肺炎などで重症肺炎を来した患者が、たまたま SARS-COV-2 に感染していただけである、という可能性もあるのではないか。 本来であれば、そうした可能性について検証するための大規模疫学調査を行うべきであったのだが、政府はそれを怠り、専門家を称する人々も、その必要性を十分に唱えてこなかった。 キチンとした科学的根拠もなしに「COVID-19 の恐ろしさ」を主張する自称専門家や医者が多いのである。 この国には、感染症学や疫学を修めた医師が少なすぎるのではないか。
なお、本日記載した内容は、本質的には 2 月 17 日 の記事の内容と同一である。