乳癌検診などで、マンモグラフィーを行うことがある。 これは乳房を平板で挟み込んで圧迫した上で X 線写真を撮影するものである。 日本医学放射線学会および日本放射線技術学会が医学書院から出している 「マンモグラフィガイドライン 第 3 版」をみると、乳房を圧迫することにより 「乳腺組織吸収線量の減少」を期待できると書いてある。 吸収線量とは、単位質量の対象が放射線から受けとったエネルギーのことであり、 グレイ (Gy) を単位として表すことが多い。 なお、 1 Gy = 1 J/kg である。 あくまで単位質量あたりの話であり、全部でどれだけのエネルギーを受け取ったかは 関係ないことに注意されたい。
よくわからない。どうして圧迫すれば吸収線量が減るのだろうか。 ひょっとすると、ここでは「乳房が放射線にから受けとる全エネルギー」のことを 吸収線量と言っているのだろうか。 そうだとしても、乳房を圧迫しても、結局、乳腺組織の量が減るわけではないのだから 乳房あるいは乳腺組織が受けとるエネルギーは減らないのではないか。 むしろ、細かいことをいえば、薄く広く伸びる分だけ自己遮蔽が減り、吸収するエネルギーの総量は増えるのではないか。
ひょっとすると、圧迫により血行が悪くなり、乳房に含まれる血液が減少する結果、 血液が放射線から受けとるエネルギーが減少することをいっているのかもしれない。
機会があれば、詳しい人に尋ねてみたい。
9 月 19 日に「性的指向と性的嗜好」について書いたところ、 ある人物から「やはり指向と嗜好は区別するべきである」との意見をいただいた。
その人がいうには、性的嗜好としての「看護師さんが好きだ」「教師と教え子の関係に憧れる」などは 専ら性行為の対象としての好みであるのに対し、 「同性が好きだ」「異性が好きだ」といった性向は、いわゆるプラトニックな恋愛まで含めた、 性行為に限らない恋愛対象を規定するものであるから、両者は質的に異なる。 これらを区別するための表現として「嗜好」と「指向」を使い分けるのは合理的だ、というのである。
この考えは理解できるし、その意味においては、確かに、「看護師が好きだ」という性的嗜好と 同性愛とを同列に議論するべきではない。
しかし、先に例示したロリータコンプレックスについて考えると、小児を専ら性行為の対象として考える人々はともかく、 小児に対して恋愛感情を抱き、あるいは小児に対してしか恋愛感情を抱かない人物については、 やはり同性愛や異性愛といった区分と同様に、「嗜好」ではなく「指向」とするべきではあるまいか。 あるいはもっとありふれた例で考えれば、背の高い人が好きだ、とか、 医学に精通している人しか恋愛感情の対象にならない、とか、そういった好みも、同様に「指向」と分類できよう。
このように、性行為の対象に限った議論か、広範な恋愛感情の議論か、で分類するなら良いと思うのだが、 私が調べた限りでは、そのような観点から分類するのはあまり一般的ではないように思われる。
麻酔の導入の早さに関する議論である。 吸入麻酔薬は、気体として口から気管を経て肺胞に送り込まれ、そこで血中に移行し、全身に送られる。 また、麻酔の導入とは、患者に麻酔をかけることをいう。 これに対して、患者を麻酔にかかった状態に保つことを維持という。
教科書的には、吸入麻酔薬の吸入気分圧 (FI)と肺胞内での分圧 (FA)が概ね等しくなる早さをもって導入の早さとするらしい。 すなわち FA/FI が 1 になった時点で麻酔が完成したとみる。 しかし理論的観点からは、この考え方にはいささかの欠陥があるように思われる。
たとえば、FA/FI は、心拍出量が多いほど低くなり、すなわち麻酔にかかるのに時間を要するとされる。 これは、次のように解釈できる。 心拍出量が増えれば肺の血流が多くなる。従って肺胞から血中に移行した麻酔薬は速やかに体の他の部位に運び去られるため、 肺の血中における麻酔薬の分圧は低い状態に保たれる。 血中の分圧と肺胞内の分圧とは概ね一致するから、結局、FA は低く保たれることになり、 FA/FI は小さく、すなわち麻酔にかかりにくくなるのである。
これは非常に逆説的である。 麻酔薬の作用標的となる部位はいまいちよくわからないが、とにかく肺以外の神経系であることは間違いあるまい。 心拍数が多いと、麻酔薬は速やかに肺から他の部位、たとえば神経系に運搬されているわけだから、 常識的に考えれば、速やかに作用を発揮するようになりそうである。
では、どこがおかしいのか。 結局のところ、FA/FI を指標に用いることが間違いなのである。
と、思ったのだが、よくよく考えてみると、これは教科書の記述が正しく、私の考えが誤りであった。 上述のパラドックスについては、明日、説明する予定である。
吸入麻酔薬は、肺から血中に取り込まれた後、 血中からは脳や肝臓、脾臓などの Vessel Rich Group (VRG) の他、 筋肉や脂肪組織などへ移行する。 そして残った分は、ふたたび肺へと届けられることになる。
VRG は器官の大きさに比べて血管が豊富な組織である。 ここでいう大きさとは、薬理学用語でいう分布容積のことであるが、体積や質量と解釈しても、この議論ではあまり問題ない。 それに対し筋肉や脂肪組織は、大きさの割には血管に乏しい。 なお、吸入麻酔薬の標的である中枢神経系は VRG に分類されることに注意されたい。
議論を簡単にするために、血中の薬物濃度、すなわち分圧は、部位によらず一定であるとする。 VRG は血管が豊富であるから、VRG と血液の間では薬物濃度の平衡が容易に達成される。 そこで近似的に、血中の薬物分圧と VRG の組織中での薬物分圧は常に等しいとしよう。 一方、筋肉や脂肪組織は血管に乏しく、従って血中からこれらの組織への薬物の移行は緩徐であるため、 麻酔の導入時においては、これらの組織中における薬物濃度は 0 と近似してよかろう。 また、血中からこれらの組織への薬物の移行速度は、血中の薬物分圧と血流量の積と正の相関を有することに注意されたい。
以上のことから、何がいえるか。
心拍出量が増加すると血中の薬物分圧が低下するため、VRG, すなわち脳中の薬物分圧は低下する。 一方、血中の薬物分圧と血流量の積は増加することから、 筋肉や脂肪組織への薬物の移行は速くなる。 すなわち、血流量の増加により肺から全身へ運び出される薬物の量は多くなるが、 これらは専ら筋肉や脂肪組織に運び込まれるのであり、中枢神経系には到達しないのである。
このような事情により、麻酔の導入の早さは FA/FI によって評価することができるし、 心拍出量の増加が導入を遅くすることは、おかしなことではないのである。
名古屋大学医学部医学科の講義では、何度か、 公然と「先生の言うことには素直に従うものである」などと発言する教員に出会った。 私は、中学高校時代にも京都大学時代にも、一貫して「教員の言うことを素直に信じてはいけない」という教育を 受けてきたし、それが科学者として正しい姿であると確信している。
あれは高校一年生の頃であったと思う。 地学の授業で、年周視差とかパーセクとかいう天文学用語の話題を扱った時のことであっただろうか。 具体的な内容は忘れたが、何か教師の説明に納得できない箇所があった。 その時、同級生の豊岳(ほうがく)君という人物も同様の疑問を抱いたようで、授業後に、一緒に質問した。 質問はしたものの、やはり教師の説明が理解できない。 だが、その教師は確信に満ちた態度で堂々と説明してくれたので、やがて私の中では、 よくわからないが教師の言うことが正しいのだろう、という考えが浮かんできた。 そして、実際にはよくわかっていないにもかかわらず、なるほど、などと言い、わかったような顔をして引き下がったのである。 しかし豊岳君は違った。 彼は諦めずに食い下がり、教師の説明の納得できない点を指摘し続けたのである。 そしてついに、教師は自らの勘違いを悟り、誤りを認め、説明を訂正したのである。 教師が教員室に引き揚げた後、豊岳君はニヤニヤしながら私を小突き 「なんで引き下がるんだよ」などと言った。 このとき私は、わかったふりをすれば後に恥ずかしい思いをする、ということを豊岳君から教えられたのである。 蛇足ではあるが、根気良く説明を試み、また自らの誤りを躊躇なく認めた教師も、見事な教育者であったと思う。
そして時は流れ、京都大学工学部四年生の時のことである。 私は量子力学に関心を持っていたが、不確定性原理というものがどうにも納得できなかった。 たとえば基底状態にある水素原子は、一個の陽子と一個の電子から成っている。 不確定性原理によれば、電子は陽子の周囲のどこか一点に存在するわけではなく、 「電子雲」と呼ばれる、陽子周囲に確率分布として存在しているという。意味がよくわからない。 これに対し、「隠れた変数理論」とか「beable の理論」とか呼ばれる学説によれば、 電子は陽子の周囲のどこか一点に存在している。 後者の理論は極少数の科学者にしか支持されていないが、私には魅力的に思われた。 そこで、この理論に関する論文を調べ、レビューとしてまとめることを卒業論文のテーマとしたのである。
卒業論文をまとめる過程で、私はたいへん面白いことを学んだ。 20 世紀の物理学者には、ニールス・ボーアとか、フォン・ノイマンとか、ヴォルフガング・パウリとか、 偉大な人物がたくさんいたが、彼らの多くは、コペンハーゲン派と呼ばれる量子力学の支持者であった。 量子力学には、物理哲学としての強力な側面がある。 ボーアらの考えによれば、不確定性原理は宇宙の真理であり、電子の位置と運動量を同時かつ正確に測定することは不可能なのである。 しかもこれは技術的制約ではなく宇宙の法則なのであるから、将来いかに科学や技術が進歩しようとも、 電子の位置と運動量の同時かつ正確な測定は永久に不可能だ、というのである。
これに対して異論を唱えたのがデイヴィッド・ボームである。 彼も初めはコペンハーゲン派の考えを持っていたが、やがてその理論に欠陥を見出し、 後に「隠れた変数理論」とか「beable の理論」とか呼ばれる主張を展開し、 「不確定性原理はあくまで近似の結果であり、宇宙の真理とはいえない」と唱えたのである。 彼の理論によれば、将来的に技術が進歩すれば、電子の位置と運動量を同時かつ正確に 測定することができるかもしれない、というのである。 厳密にはボームより先に同様の理論を展開した物理学者もおり、 その代表は、ドブロイ波などで知られるルイ・ドブロイである。 しかし彼は、コペンハーゲン派による批判に対して反論することができず、自説を取り下げてしまった。 ただし後にボームの理論に勇気付けられて、ドブロイも反量子力学派に戻ったようである。
整理すると、この「隠れた変数」あるいは「beable」を巡る議論は、 不確定性原理を宇宙の真理だと主張するコペンハーゲン派と、 それは根拠のない決めつけであると批判する beable 派の論争であるといえる。
彼らの主張をよく調べた上での私の結論は、論理としては beable 派が正しい、というものであった。 パウリやノイマンといったコペンハーゲン派の重鎮は、不確定性原理が正しいことを証明した、 と称する論文を幾度が発表していたが、その論理の不備をことごとく beable 派に指摘されたのである。
あのボーアやパウリが、論理の破綻した論文を世界に向けて発表していたのである。 私は、この事実を知って歓喜した。 少なくとも、不確定性原理を徹頭徹尾疑い、信じなかったという一点においては、 私はパウリよりも優れていたといえる。 権威というものは信用ならないということを、私は、ここで確信したのだ。
不確定性原理を巡る立場において、アルベルト・アインシュタインは慎重であった。 私が調べた限りでは、彼は理論的、実験的に証明可能な事実にしか言及せず、 宇宙の真理などの哲学的側面には踏み込まなかった。 彼は beable 派の主張が相対性理論と矛盾することは指摘したが、どちらが正しいかは判断しなかった。 物理学者としては彼の姿勢は冷静で中立的であったと言えるが、 哲学に言及し、宇宙の真理に思いを馳せたボーアやボームらの方が、私は好きである。
また、かつて米国にリチャード・ファインマンという男がいた。 彼は女性関係にだらしなく、人格的には低俗であったが、科学に対する誠実さにおいては高潔な人物であったらしい。 彼は、歴史上、私が二番目に敬愛する物理学者である。 彼の人生最大の過ちはノーベル物理学賞を受賞したことであり、彼自身、受賞したことを後悔したという。 リチャードが書いた物理学の教科書は、数式を多用することを避け、物理学の本質を端的に捉えた名著である。 しかし、彼の鋭い洞察も不確定性原理を巡る問題については鈍さをみせ、 過去の実験事実から考えて不確定性原理は宇宙の真理であるらしい、というような説明をしてしまった。 これは、彼の人生で二番目に大きな過ちであったと思う。
名古屋大学医学部医学科四年生では、PBL と呼ばれる形式の学習が行われる。 これは、実際の、あるいは架空の症例を教員側が提示し、 それに基づいて学生が自主的、主体的に調べ、学ぶというものである。 具体的な学習目標は教員側からは明示されず、それも学生側が自主的に設定するのであるが、 基本的には臨床の場における考え方を修得する、ということに主眼があると考えられている。 PBL は学生 9 人程度のグループで行われ、各グループに一人の教員が「チューター」としてつく。 チューターの役割は、学生の評価や、議論が極端に逸脱しかけた場合に修正することであり、 特にチューターが学生に講義するわけではない。 こうした形式の学習を取り入れるのは良いと思うが、残念ながら、 名古屋大学医学部医学科においては、理想と現実の間に大きな乖離があるように思われる。
第一に、明らかに熱意を欠くチューターが少なくない。 チューターのほぼ全員は臨床医であり、多忙であるため、チューター業務に時間を割きたくないと 考えている人が少なくないようである。 そのために、PBL は 90 分が規定の時間であるにもかかわらず、 それよりも短い時間で終了とするケースが多い。 また、一つの症例を二日ないし三日に分割して扱い、 学生が自主的に調べ物をする時間を確保することになっているにもかかわらず、 一日だけで終わらせてしまい、二日目を自習時間としてしまうことがある。 結果的に、「学生が自主的に調べ、学ぶ」という PBL の目的が達されない例も少なくない。
最大の問題は、臨床医学教育のあり方について、教員の間で、あるいは教員と学生の間で、 十分な議論がなされておらず、合意も形成されていないことであると思われる。 「こういう症例では、このような検査と治療を行う」というパターンを たくさん覚えさせることが臨床医学教育である、というような認識を持っている学生や教員が、多いのではないか。 それも一つの考え方であるかもしれないが、はたして、それで立派な医師が育つだろうか。
勤務医も含めて、医師が高い給料を得ていることは事実である。 その分だけ労働が厳しいなどという人もいるが、医師よりはるかに厳しい環境で、 はるかに安い賃金で働いている人など、今の日本にはごまんといる。 医師の高給を正当化するとすれば、その重大な責任に対する報酬であると考えるしかない。
高い報酬を受け取る以上、無思慮にルーチンワークとして検査をすることは許されぬ。 「ガイドラインにそう書いてあるから」とか「検査部がそう言っているから」とかいう責任転嫁は認められない。 患者に対する責任は、全て、我々が背負うのである。 「教えられた通りにやりました」という言い訳は通らないし、 「まぁ、いいんじゃいないの」では患者は納得しない。
あと三年後には、我々は医師として、そういう立場に立っているのである。 そのことに対する不安や恐怖を、他の学生諸兄姉は、どれだけ感じているのだろうか。
PBL は、あくまで机上の症例であり、実際の患者ではないから、比較的、気楽なものである。 それでも診断を下すということに、いかなる勇気が必要であるか、その片鱗を味わうことはできる。 専門的な話になって恐縮だが、次のような例を考える。
乳癌の家族歴と肥満がある 47 歳の女性が、乳房のしこりを主訴に来院した。 マンモグラフィーの所見は「カテゴリー 5 (悪性 highly suggestive of malignancy)」であった。 診断を確定するために超音波ガイド下で穿刺吸引細胞診を行ったところ、所見は「悪性 (malignant)」であった。 (簡略化のため、マンモグラフィーも細胞診も、詳細な所見は割愛した。) さて、この女性が有する腫瘤は悪性腫瘍であると断定できるか。
たぶん、この条件であればほとんど誰でも、悪性腫瘍だと判断するのではないか。 私も、そう判断する。 では、次の場合はどうか。
乳癌の家族歴と肥満がある 47 歳の女性が、乳房のしこりを主訴に来院した。 マンモグラフィーの所見は「カテゴリー 3 (良性, しかし悪性を否定できず benign, but malignancy can't be ruled out)」であった。 通常はカテゴリー 3 以上を「要精査」とするため、超音波ガイド下に穿刺吸引細胞診を行ったところ、所見は「悪性 (malignant)」であった。 さて、この女性が有する腫瘤は悪性腫瘍であると断定できるか。
これも、多くの人は悪性腫瘍だと判断するのではないか。 マンモグラフィーの所見が「要精査」であり、実際に精査したら悪性との所見だったのだから、 それを受けて悪性だと結論するのは合理的である。 では、次はどうか。
乳癌の家族歴と肥満がある 47 歳の女性が、乳房のしこりを主訴に来院した。 マンモグラフィーの所見は「カテゴリー 2 (良性 benign)」であった。 通常であれば精査は不要と判断するが、患者本人の強い希望があり、 超音波ガイド下に穿刺吸引細胞診を行ったところ、所見は「悪性 (malignant)」であった。 さて、どのように判断するか。
これは見解が分かれるかもしれないが、おそらく、多いのは 「マンモグラフィーと細胞診で所見が矛盾したのだから、詳しく調べる必要がある。」 というような意見ではないか。 問題は、「では、具体的にはどのような方法で詳しく調べるか。」ということである。
おそらく、「CT や MRI, あるいは針生検を行う」というような意見があるのではないか。 しかし、これは非常にまずいと思う。 なぜならば、細胞診の所見はマンモグラフィーや超音波検査などの臨床所見を併せて総合的に記すものだからである。 すなわち、細胞診を担当した病理医は、マンモグラフィーに異常所見がなかったことを考慮しても、 なお悪性と断定できるだけの明瞭な根拠があったから「悪性の疑い suspicious for malignancy」ではなく 「悪性 malignancy」との所見を述べたわけである。 もし、その病理医の所見に疑義があるならば、その病理医に問い合わせるべきであり、 所見を無視して生検を行うことは医師間の信頼を失うばかりでなく、患者の利益をも損ねる恐れがある。
従って、この場合は、細胞診の詳細な所見に目を通した上で、 疑義があれば問い合わせを行い、疑義がなければ悪性腫瘍と判断する、が正解であると思う。 診断とは、「悪性と書いてあるから悪性だ」とか「わからないから次の検査をする」とか、 そのような単純なものでは、あるまい。
以上、臨床経験が皆無である一介の学生による考察であるが、いかがであろうか。
日本乳癌学会による『乳癌診療ガイドライン 2 疫学・診断編』の 210 ページによれば、 日本における細胞診の偽陽性率について 0.25 % との報告があるらしい。 すなわち、高い技術を持つ医師が検査した場合、細胞診で悪性と診断された例のうち 99 % 以上は本当に悪性であった、ということである。 しかし、逆に 0.25 % は間違うわけであるから、追加で針生検などによる組織診を行うことにも 一定の合理性があるといえる。
近藤誠といえば『患者よ、がんと闘うな』などの著書で有名な医師である。 近藤氏は、現代の癌治療などに対して批判的な意見を述べる急進派の医師であり、 基本的には、医学界からは嫌われている。 これは何も医学界が既得権益を保護したいが故というわけではなく、 近藤氏の主張には、科学的観点からいって、いささか不合理な点がみられるためである。
先日、近藤氏の『医者に殺されない 47 の心得』という本を書店でみかけた。 これは癌に限らず、医療全般にわたって不適切な医療行為を例示し、解説したものであるらしいが、 中に気になる記述があったので、買ってみた。 なお、私が近藤氏の本を買ったのは、これが初めてである。
さて、私は近藤氏のことが嫌いではない。 むしろ、現在の医療業界を批判し、改革を起こそうとしている点については、立派な医師であると思う。 しかしながら氏の言説をみるに、医療のあり方を変えたいがために、 批判すること自体が目的と化し、事実を歪曲し、あるいは故意に読者の誤解を招いている面が、 残念ながら存在するように思われる。 私は基本的には近藤氏と志を同じくするものであるとは思うが、 かかる不適切な言説は我々に対する信頼を損ね、かえって改革を妨げるものであると考えられるので、 ここで氏の主張に対する批判を展開しようと思う。 なお、氏が実名で論じているのに対し、私がこのように匿名で批判することについては、 熟練の医師と一介の学生、という立場の非対称性から、ご容赦願いたい。 (もっとも、私の素性や本名など、調べようと思えば簡単にわかるだろうが……)
『医者に殺されない 47 の心得』に述べられている心得には、医学的観点からいって、正しいものもある。 たとえば「軽い風邪で抗生物質を出す医者を信用するな」とか、 「コラーゲンでお肌はぷるぷるしない」あるいは 「一度に 3 種類以上の薬を出す医者を信用するな」などは常識である。 しかし癌の話になると、なぜか氏は頑に、強引に、治療行為を否定するのである。
まず第一に、氏は言葉の定義がデタラメである。 氏は「がんもどき」なる言葉を造り、 「命を奪わないがんは、がんのようなもの……『がんもどき』にすぎず、 本物のがんに育つことはありません。」 としているが、これは言葉の定義を無視した暴論である。 「がん」の定義は「浸潤性の腫瘍」であり、転移能の有無は関係ないし、命を奪う可能性の有無も関係ない。 この定義は世界共通のものであるが、近藤氏は独自の定義を用いることで、議論を攪乱しているわけである。 命を奪うかどうかを問題にしたいなら「致死性のがん」「非致死性のがん」とでも言えばよく、 言葉の定義を無視して「がんではない」などと言うようでは、そもそも話にならない。 いったい、氏のいう「本物のがん」とは何なのか。
第二に、氏は「癌治療は有効か、無効か」という極端な二元論に持ち込んでいる。 すなわち「癌治療自体は有効であるが、過去に行われてきた治療法は不適切であった」という可能性を 暗黙のうちに除外することで「癌治療は無効」との結論に誘導しているのだ。 たとえば 53 ページで、「胃癌の検診をやめたら胃癌の死亡率が下がった」という例を紹介している。 この調査の信頼性にも疑問はあるが、それを別にしても、 「適切な検診と適切な治療を行えば、死亡率はもっと下がる」という可能性があるにもかかわらず、 無理に「検診は役に立たない」という結論に持ち込んでいることは不適切である。
第三に、氏は科学的事実を無視している。 たとえば 108 ページで「マンモグラフィの大規模なくじ引き試験でも、やはり検診と死亡率は無関係です」と 述べている。 もし氏が 40 歳代の女性に限った議論をしているのならば正しいが、そのような記述はない。 50 歳以上の女性に関するマンモグラフィ検診の有効性は、複数のランダム化比較試験 (近藤氏のいう「くじ引き試験」)で確認されており、 日本乳癌学会による『乳癌診療ガイドライン 2 疫学・診断編』の 154 ページに記載されている。 近藤氏はこうした報告を無視し、自らの主張にとって都合の良い報告だけを紹介しているのではないか。
第四して最大の問題は、氏が良心的な医師や医学研究者を侮辱していることである。 医師の中には、不勉強で、患者のことを省みず、漫然と治療を施す藪医者が 少なからず存在するのは事実であろう。 しかし、常に新しい医療、患者の利益を守れる医療のあり方を模索している医学者も、 少なからず存在するのだ。 風邪に抗生物質、などのデタラメな医療は、まともな医者ならやらないし、 癌治療にしても、患者の生活、いわゆる QoL を重視した治療が現代では当然である。 そうした事実を無視し、あたかも医学界全体が腐っているかのような言説をしているのだから、 医師がこぞって憤慨し、近藤氏を非難するのは当然である。
最後に近藤氏を擁護するならば、氏の学生時代や若手時代には、 『白い巨塔』に描かれているように、医学界はひどいものであったと聞く。 氏のように正義感の強い人であれば、そうした腐った環境の中で、 医学界に対し拭いきれない不信感を持つのは当然であろう。 だからこそ、比較的にしても清潔な環境で教育を受けている我々のような若い世代が、 これからの医療を改革し、担っていかなければならない。
昨今の科学技術の発展により、技術的には、医療行為として手を出すことができる範囲は格段に広くなった。 顕著なのは再生医療や移植技術、生殖補助医療、そしていわゆる延命治療である。 しかし医学の目的が人類の福祉、幸福にあるとする立場からは、 技術的に可能であっても手を出すべきでない領域が存在すると思われる。
たとえば、現代では「死」の定義が曖昧になってきた。 以前であれば、脳、心臓、呼吸器の健全性は互いに密接に関係しており、 一者が機能停止すればやがて他者も機能を停止することは不可避であった。 従って、死の定義としては「これらの三者が機能停止した状態」というようなもので十分であった。 しかし近年では、脳が機能停止しても人工呼吸により当分の期間は心臓や呼吸器を動かすことはできるようになった。 これを死とみなすかどうかについては、いわゆる臓器移植の問題と絡んで長年の議論になっているものの、 国民的な合意は得られていない。
現代の医学では、心臓が機能停止しても、呼吸器が機能停止しても、それをもって死とは認定しないし、 もちろん、臓器移植のためのドナーになることはない。 大脳が機能停止し、意識を取り戻す期待が全く持てない患者についても、同様である。 では、どうして脳全体が機能停止した患者からは、臓器を取り出すことが許されるのか。 大脳が機能停止して脳幹は動いている、いわゆる植物状態と、脳幹も停止した状態とで、いったい、何が違うのか。
脳幹には、呼吸中枢などの生命維持に不可欠な機能がある。 では、呼吸中枢が、そんなに重要なのか。 現行基準では、脳幹が全滅して呼吸中枢が失われても、大脳や小脳の一部が活動していれば、脳死とは判定しないではないか。 いったい、どういう論理なのか。 これに対して、Wikipedia 日本語版によれば、英国では脳幹の機能低下をもって脳死とみなすらしい。 これならば、合理性はある程度は保たれる。 ただし、脳幹が失われても人工呼吸器を用いれば心肺機能を維持できるという事実を考えると、 英国方式であっても、完全に合理的であるとはいえない。
結局のところ、脳死患者からの移植を認める日本の現行基準には、何らの合理的根拠もない。 移植を行いたいという医学界からの要請と、とにかく命をつなぎたいという患者や家族の希望、 そして論理的、科学的妥当性に対する大半の国民の無関心の産物が、脳死患者からの臓器移植ではないか。
私は、思想上の理由から、臓器移植自体に反対であり、臓器を提供する意思も、移植を受ける意思もないし、特に脳死患者からの移植には強く反対する。 思想上というよりは、信仰上、と言いたいのであるが、私は特定の宗教団体に帰属していないので、思想上、とした方が世間での通りは良いであろう。 また、臓器移植と同様に、私は ES 細胞や iPS 細胞を使った再生医療にも反対である。 この日記は、あくまで医学的な内容を中心とし、宗教問題はあまり扱いたくないので、要旨のみを記す。
私は、人工授精を認めない一方で臓器移植を認める一部宗教団体の姿勢に疑問を感じている。 生命の誕生は神が司る聖らかなものであり、それは正しい結婚と正しい性行為の結果としてのみ生じ得る、というのが彼らの考え方であろう。 誕生が神聖であるならば、どうして、死が神聖でなかろうか。 心臓に不可逆な異常が生じ、いずれ死を免れ得ぬ事態に陥ったとすれば、それは神が死を命じたということではなかろうか。 技術的に可能だからといって、それを移植によって当面回避することが、はたして神の命に従う行為なのか。人類の幸福につながる行為なのか。 人工的に受精卵を作る行為と、いったい、何が違うのか。 神が死を命じるならば、黙って従うべきではないか。 「神」という語に違和感があるならば、「自然の定め」とでも言い換えても良い。
10 月 1 日にマンモグラフィーの際に乳房を圧迫すると吸収線量は減るのか、という疑問を述べた。 本件について、ある同級生から、薄い方が少しの X 線で明瞭なコントラストを得られる、というだけの意味ではないか、と指摘された。
言いたいことはわかるし、フィルムを使ってアナログで X 線写真を扱うなら、その通りであるが、 デジタル化し、必要があればデータ処理が可能な状況においては、はたして、どうだろうか。
コントラスト自体は、デジタル処理によって、好きに修正することができる。 従って、放射線計測の統計誤差を無視して考えるならば、理論上、 X 線の強さは無限小でよく、吸収線量は 0 にすることが可能である。
もちろん、現実には、無限小の強度の X 線で写真は撮影できない。 なぜならば、統計誤差が存在するからである。 たとえば、何もない正常な領域 A を通過した X 線の光子数が 100 ± 10 であるのに対し、 腫瘤である領域 B を通過した X 線の光子数が 50 ± 7 であれば、 B は A よりも X 線を通しにくいといえる。 なお、ここで単位は何らかの方法で無次元化したものであるとする。 ここで X 線の強度を下げて、透過した X 線の光子数が A で 4 ± 2, B で 2 ± 1, になったとすると、 A と B の間で差があるのかないのか、よくわからなくなってしまう。
ここで、何らかの方法で誤差を小さくできたとしよう。すなわち 透過した光子の数が A で 4.0 ± 0.2, B で 2.0 ± 0.1 になったとすれば、 これは A の方が B よりも透過性が高いといえる。 4.0 と 2.0 の違いは、もしかすると肉眼的にはわかりにくいかもしれない。 それならばデジタル処理で信号を 25 倍に増幅すれば、A では 100 ± 5, B では 50 ± 3, となる。 これならば、くっきりとコントラストがついてみえよう。
さて、統計誤差を小さくするには、乳房内で散乱、吸収された光子の数を増やせばよい。 そのためには乳房は厚くした方が良いのではないだろうか。 換言すれば、圧迫により乳房を薄くすると、かえって統計誤差が大きくなり、 デジタル処理後のコントラストは悪化するのではないか。
とはいえ、圧迫には画像を鮮明にする等の利点があるので、 吸収線量云々に関係なく、マンモグラフィは圧迫下で撮影するべきである。
本日の講義でチラリと、山崎豊子の『白い巨塔』の話が出た。 私はテレビドラマの方はみたことがないのだが、原作小説は新潮文庫の全五巻を持っている。
『白い巨塔』は、浪速大学という架空の有名大学の医学部において、財前五郎という外科の助教授が 医療過誤により患者を死なせながらも、権謀術数を用いて教授選や訴訟を闘う物語である、とするのが一般的であろう。 基本的には、医学界の闇の部分、ドロドロした不潔な部分を露にした作品であるが、 さすがに昨今の医学界は、この作品の舞台になった時代よりは、だいぶマシになったと言われている。
さて、『白い巨塔』の中心的な登場人物といえば、外科の財前や内科の里見であるが、 ぜひ病理の大河内教授や都留博士にも注目していただきたい。 彼ら病理医は、常に患者の側に立ち、医学に対する誠実で中立的な立場を保って描かれている。 以下に、大河内教授の言葉の一部を紹介しよう。
「医学というものは、病理から出て病理に帰すものだよ」という言葉は、作中の文脈からは 病理診断や病理解剖の重要性を強調した発言であるようにも思われるが、もう少し広い意味に解釈してもよかろう。 すなわち、症状や検査結果をみて治療方法を決定する過程は、いたずらに経験に依るべきではなく、 そこには必ず病理学的な考察が必要なのである。 ただし、ここでいう病理学とは病理診断の意味ではなく、 疾患の本態を究明し理論を構築するという病理学の本来の有様をいう。
教員による講義中のセクハラ発言がひどい。 二年生や三年生に対する講義でも何度か問題発言は耳にしたが、 四年生になってから、不適切な発言を聞く頻度が増えたように思う。
敢えてセクハラ発言をここに掲載する意義も薄いと思うから、あまり具体的な例は挙げないことにする。 しかし京都大学時代に聞いた、語学を担当していた女性の准教授の発言が象徴的なので紹介しよう。
この教科書の例文では、「男」という単語の前には「賢い」とか「勇敢」とか多様な形容詞が使われているのに、 「女」という単語の前には決まって「美しい」という形容詞が用いられている。 どうして、こういう枕詞が用いられるのか、理解できない。
また、単語の使い方が不適切な例も多い。 たとえば、「陰茎」とか「乳房」とか「便」とかいう専門用語があるにもかかわらず、それらを 「おちんちん」「おっぱい」「うんち」などと表現する人がいる。 「性交」や「性行為」ではなく「セックス」と言っている人もいた。 三歳児を相手にしているならともかく、二十歳を過ぎた大学生を相手に、どうしてそのような 表現を用いなければならないのか、理解できない。
私はしばしば名古屋大学や学生に対する批判的な内容を日記に書いているので、 中には、私が名古屋大学や学生を嫌い、あるいは軽蔑していると誤解している人がいるらしい。
改めて断言しておくが、私は名古屋大学医学部医学科が大好きである。 大好きであるが故に、そこで正しくない行いが為されようとしているのを目撃した時、腹が立つのである。
また、今の名古屋大学医学部医学科四年生は英才揃いであり、そして 私のような者に構ってくれる同級生諸君に、心より感謝している。
「断端陽性」あるいは「断端陰性」という医学用語がある。 これは腫瘍性病変を切除したとき、その切断面に腫瘍性組織がみられるかどうかを表現するものである。 切断面に腫瘍性組織がみられるならば、体内に腫瘍の一部が残存していることが確実であり、 これを「断端陽性」という。 一方、切断面が正常組織のみで構成されていれば、腫瘍の本体は切除できたと考えられ、 これを「断端陰性」という。 なお、断端が陽性であるか陰性であるかの判定は、基本的には、切除標本を顕微鏡で観察して行う。
良性腫瘍とは、腫瘍のうち、浸潤性を持たないものをいう。 すなわち、良性腫瘍は全ての腫瘍細胞が一つの塊を成しているのであるから、 断端陰性であれば全ての腫瘍細胞を切除できたとみなすことができる。
問題となるのは悪性腫瘍、すなわち浸潤性を有する腫瘍の場合である。 断端陰性であれば悪性腫瘍の本体は切除できたと考えられるが、 本体から離れてコッソリと浸潤している腫瘍細胞が存在する可能性がある。 残念ながら現状では、そうした微小な浸潤巣の有無を検査する手段は存在しない。 従って、たとえば乳癌において乳房を部分切除する場合、 断端陰性となるように切除を行うことは当然であるが、 取り残しがあるという前提で、放射線照射や化学療法を併用するのが鉄則である。
医師の中には、悪性腫瘍についても、断端陰性であることをもって「腫瘍を取りきることができた」と 表現する人がいるようであるが、この表現は不正確であるように思われる。
10 月 3 日に、リチャードのことを書いた。 彼の自伝である『ご冗談でしょう ファインマンさん』は愉快なエピソードに満ちた良書であるが、 私の京都大学時代の同級生の一人は、この本を「自慢ばかりで嫌味ったらしい」と評していた。
リチャードは、私生活では奔放であったようだが、 科学者としては学問や社会に対して常に誠実であり続けた男である。 ただし、彼は若手の科学者として原子爆弾の開発にも関わり、 すなわち非戦闘員に対する条約違反の無差別攻撃に加担したわけであるが、 そのことに対して彼が反省の言葉を発したという話は、私は把握していない。 米国においては原爆投下を批判することがタブーであるような雰囲気もあるらしいが、 リチャードほどの男が、そのような空気に黙って従うとも考えられない。 彼が実際にどのように考えていたのか、真相は闇の中である。
さて、私はリチャードを科学者の鑑として、歴史上で二番目に敬愛しているわけであるが、 一番目は、フランスのピエール・キュリーである。 ピエールは、いわゆるキュリー夫妻の夫の方であり、つまりマリー・キュリーの配偶者である。
キュリー夫妻の娘のイーヴ・キュリーが書いた『キュリー夫人伝』を読む限りでは、 マリー・キュリーは優秀な科学者であったが、ピエールと出会った頃の彼女は、世紀の天才、というほどではないような印象を受ける。 学問が男のものであった当時において、女性にしては優秀である、という程度ではなかったか。 マリーが科学者として輝いたのは、ピエールと出会った後のことである。 ピエールはマリーと共同でノーベル賞を一度だけ受賞したが、 その後にマリーは再びノーベル賞を受賞したことなどもあり、世間ではマリーの方が高く評価されている。 しかし科学者としての才覚では、マリーはピエールに及ばなかったのではないかと私は思っている。
『キュリー夫人伝』によれば、マリーはもともとフランスに永住するつもりはなく、 祖国ポーランドで教師などをして生きていくつもりであったようである。 そのような将来像を描く 8 歳下の女性に対し、ピエールは熱烈なアプローチを行い、結婚に至った。 そして、後にピエールはソルボンヌの教授に在職中の交通事故で死亡し、マリーが後任の教授となった。
私は、二つの点においてピエールを敬慕している。
一つは、放っておけばポーランドの一教師で終わりかねなかったマリーの才能を拾い、 優れた研究者に育て上げたことである。 さらにいえば、キュリー夫妻の娘のイレーヌ・キュリーも、 マリーの教育の成果であろう、優れた研究者となったが、 間接的には、これもピエールの功績といえる。 ピエール自身も立派な科学者であったが、若い世代の優秀な科学者を育んだという事実は、 一個人のいかなる科学的業績よりも偉大である。
二つめは、マリーに対して 「結婚してくれなくても良いから、一緒に暮らして一緒に研究しよう。 何なら、私は職を辞してポーランドに移住しても良い。」などという、 ストーカーまがいの猛烈なアプローチをして結婚に持ち込んだ点である。 私もピエールを見習いたいのだが、なかなか、うまくゆかぬ。
「アトピー」という語は、世間では、かなりいい加減な使い方をされているように思われる。
医学的には、アトピーとは「アレルギー性疾患を来しやすい遺伝的素因」のことをいう。 従って、たとえば「アトピー性皮膚炎」とはアトピーを基礎とする皮膚の炎症性疾患であり、 「アトピー性喘息」とはアトピーを基礎とするアレルギー性喘息のことを、本来は意味したはずである。 しかし現状では「アトピー性喘息患者の中にはアトピー素因を有さない者もある」などと 意味不明な記述が教科書に書かれていることもある。
世間では、単に「アトピー」といえばアトピー性皮膚炎を指すことが多く、このこと自体、不正確な表現である。 さらに、上述のようなアトピーという語の意味を考えれば、 アトピー性皮膚炎は本来、患者の症状のみをみて診断できる性質のものではなく、 家族歴や他のアレルギー性疾患の併発状況などと組み合わせて、半ば推測によってのみ、診断することができる。
たとえば私の場合、幼少の頃より皮疹が生じやすく、今でも特に四肢に湿疹を生じやすい。 高校生の頃は両手背に慢性皮膚炎があった。工学部時代には一時的に寛解したが 大学院時代から現在に至るまで、足背に慢性皮膚炎を抱えている。 一ヶ月ほど前から膝窩および会陰部に、二週間ほど前からは右手背にも掻痒を伴う湿疹を認め、 増悪するのではないかと警戒している。 また、私は小学生の頃にアトピー性皮膚炎、アレルギー性鼻炎との診断を受けたし、今でも慢性的に鼻汁の分泌過多がみられる。
ここで問題にしたいのは、はたして、私の皮膚炎はアトピー性なのか、ということである。 皮膚がかぶれやすく、アレルギー性鼻炎を抱えていることなどから、 私がアレルギーを頻発する体質であるとは推測できるし、 明確な誘引なしに皮膚炎が寛解、増悪をくりかえす点は、世間でアトピー性皮膚炎と呼ばれている疾患に類似している。 しかし、私の家族には、同様のアレルギー性疾患を抱えている者はいない。 これでは、私のアレルギー体質が遺伝性素因に基づくものであるとは推定し難く、アトピー性とはいえないのではないか。
そもそも、責任遺伝子が不明確な状況において、遺伝的素因の有無を判定することは困難である。 そう考えると、「アトピー性」とされる診断の少なくない部分は、 真にアトピー性であるとの確信なしに、「特発性」あるいは「原発性」というような語と同じような意味で、 すなわち「原因不明」という意味で、用いられているのではないだろうか。
「アトピー性」というような名称をつけた診断を下せば、患者は、なんとなく自分の病気のことが わかったような気がして、安心するかもしれない。 しかし、それは医療の限界を隠蔽し、わかったふりをしているだけの、不誠実な姿勢ではあるまいか。
私は、医者が嫌いであった。 医者というと、他人の弱味につけこんで金を儲けて威張り散らすような、邪悪なイメージがあった。
実際、医学部の学生の多くは、自分達はエリートである、偉いのだ、社会から尊敬されるのだ、 というような意識を、多かれ少なかれ、持っているのではないか。 結構なことである。 人の命を救うのは医師だけではないとはいえ、最後のセーフティネットが 医師であることは事実である。 だから医師も、理工系技術者や薬剤師らと同様に、自らの職務に誇りを持って臨むべきであろう。
しかし名古屋大学医学部医学科の学生諸君をみて疑問に思うのは、 「勉強すること」と「覚えること」を混同しがちな学生が多いのではないか、ということである。 医学には「正しい診断法」や「正しい治療法」というものが既に存在し、医師のすべきことは、 それらの治療法を習得して実施することである、とでも思っているかのようである。 だが、それはとんでもない勘違いである。 というよりも、既存の治療法を覚える作業などはコンピューターにやらせればよく、 わざわざ人間様が苦労して記憶する必要はない。 決められた治療法を実施するだけなら、大学に医学部などを設置して教育する必要はなく、 専門学校で促成栽培の技術指導をやって医師を大量生産すれば良いのだ。
何も考えていない連中がいる。 医学部に行って、医師免許を取得して、医者として働けば、安定した高収入と社会的地位が手に入ると思っている。 こういう学生が、そのまま医師になっていくことで、医道の本質を忘れた藪医者が量産されているわけだ。
だから私は、今でも医者が嫌いであるし、原発性慢性皮膚炎を患いながらも、皮膚科を受診していない。
医学部編入を決めて、私が医者にならざるを得ないことを嘆いていた時期、大学院時代の後輩の女性に言われた。 「あなたは医者をやっている人間が嫌いなだけであり、医師という職業が嫌いなわけではないでしょう。 それならば、自分が医療の世界に入り、その誤りを匡せば良いではないか。 あなたは世の中の不正に憤る割には、社会の枠組みに対して従順すぎるのではないか。」
名古屋大学医学部医学科では、四年生の年明けに CBT が実施される。 これは全国共通で、医学科生に対し実施される試験であり、これに合格しなければ病院での実習を受けることができない。 この試験はコンピューターを用いて実施され、各受験生は、それぞれ異なる問題を解くことになる。 すなわち、予め多量の問題が用意されており、それぞれの受験生は コンピューターによって無作為的に選ばれた問題を解くのである。 従って、自分と隣の受験生は別の問題に回答するわけだから、不正行為は行いにくい。
出題される問題のうち、7 割だか 8 割だかは、いわゆるプール問題から出題され、残りは新作問題だという。 プール問題とは、過去に出題されたことのある問題のことである。 従って、過去問を研究しつくせば、7 割だか 8 割だかは、容易に得点できるわけである。 そこで、過去問集のようなものを出版している会社もあり、有名なのは「Question Bank」とかいうものであるらしい。 名大医学科四年生の大半の学生は、この時期、一生懸命に Question Bank で CBT 対策を練っているようである。
誰もが内心では思っているだろうが、この CBT という試験は、あまり問題としての出来が良くない。 択一式の試験であるために様々なテクニックが使える、という問題もあるし、 症例を提示して診断名などを答えさせる問題では、いわゆる典型的な症例しか出題されないから、 疾患についてあまりよく知らなくても、要領さえ良ければ正解できる。 このような試験にイチイチ対策を講じるのは、まっとうな勉強の仕方であるとは思えない。 しかし現実的な必要に屈して、試験対策に走る学生が多いのである。
私は、自分では Question Bank などやらないが、同級生が過去問をみてワイワイやっている所に首をつっこむことはある。 先日、実に腹立たしい問題があった。女性の基礎体温について正しい選択肢を選ばせる問題で 「低温期の後に高温期が来たことから、排卵があったと考えられる。」という選択肢が誤りだというのである。 解説をみると、「薬剤や感染症などの影響により体温が変動した可能性がある。」というのである。 これは屁理屈というものであろう。 薬剤や感染で発熱を生じ得るなどということなど、医を学ぶ者にとっては常識中の常識であり、わざわざいうまでもない。 当然、そういう可能性は排除した上で議論しているものと考えるのが、あたりまえではないか。
専門外の方には、次のような例で考えていただけばよいと思う。 「たかし君は、1000 円を持って果物屋さんへリンゴを 2 個買いにいきました。 果物屋さんでは、リンゴは 1 個 300 円、柿は 1 個 200 円でした。 さて、買い物から帰ってきたとき、たかし君は何円持っているでしょうか。」 というクイズに対して、 「たかし君が予定通りリンゴを買ったかどうか言及されていないので、わからない。」 を正解とするようなものである。
こういう馬鹿げた問題に対する得点能力を鍛えることに、いったい、どれだけの意味があるのか。
先日書いたように、名大医学科四年生の大半は、CBT 対策勉強に多くの時間を割いているようである。 もちろん、勉強しないよりはした方が良いのだが、もし勉強の目的が CBT 対策になってしまっているならば、 彼らの志の高さについて、いささかの不安を抱かざるを得ない。
彼らは将来、どのような医師になりたいと考えているのだろうか。 もし漠然と「医師になって病気に苦しむ人々を助けたい」などと思っている学生がいるとすれば、問題である。 現在の日本において国立大学の医学科に入学することは、いささか難関ではあるものの、 入学さえできれば、医師になることは比較的容易である。 従って、医学科生が上述のような将来を考えているとすれば、それは暗に 「特に何も考えず、流れに身を任せて生きていきたい」と言っているようなものである。 これでは、志がどうこう以前の問題である。
多くの学生は「高い学識と技術を身につけ、立派な医師として、より良い社会の実現に医学の立場から貢献したい」 というようなことを考えているのだと思う。たいへん結構なことである。 そこで私は、機会があれば、他の学生に対して次のようなことを言っている。 「CBT や国家試験は、学生や医師としての最低ラインを定めるものに過ぎない。 我々は栄えある名古屋大学医学部の学生である以上、 これらの試験には合格して当たり前なのであり、これらを勉強の目標にしてはならない。」 何より、国家試験ごときを目標にする自分の姿が、恥ずかしくならないのだろうか。
もちろん、単なる試験対策に留まらず、医学に対する学問的探求を継続できるのならば、 CBT 対策を講じること自体は悪ではない。 実際、そのように勉強している学生がいることは、私も知っている。 しかし大半の学生にとっては、試験を念頭に置くことで、 試験に出題されないような発展的あるいは基礎的な内容への関心が薄れ、 医学の本質を忘れ去ってしまうであろう。
「効率的な」勉強に走る学生の中には、「学生のうちには、学生時代にしかできないことをやっておきたい。 だから勉強にはあまり時間を費すことができない。」などと弁明する者がいる。 その考えは理解できるが、やはり、それは本末転倒である。 学生のうちにしかできないことの筆頭は、基礎から順番に積み上がった勉強である。 生理学や生化学、そして病理学や薬理学といった基礎的な学問を、今やらずして、いつ、やるのか。 また、臨床医学について系統的なしっかりとした勉強をするための期間が、学生時代というものではないのか。 研修医になってから基礎的な勉強をしている人も多い、などと悪いことを後輩に吹き込む医師もいるらしいが、 研修医には、他に学ぶべきことがあるのではないか。
最近、講義中に内職している同級生が非常に多い。 講義を聴くより試験対策の自習をする方が効率が良い、との考えであろう。 だが、こうした行為には、いくつかの問題がある。
まず第一に、あまりに非礼である。 時には講義中にムシャムシャと食事をするなどという蛮行を目にすることがある。 それは論外としても、わざわざ講義に出席しながら講義を無視するというのは、 対人関係における基本的な礼節が欠如していると言わざるを得ない。 また、講義中に居眠りをする者もある。私も、ときどき、不覚ながら意識を消失することがある。 だが、いくら何でも、腕を枕にして、机に伏せて眠るのは無礼であろう。
第二に、そうした効率主義は将来の「引き出し」を犠牲にしている疑いがある。 講義は、知識を習得する手段として、あまり効率が良くないのは確かである。 しかし優れた講義は示唆に富んでいるものであり、話を聴きながら、学生は各自でアレコレと思索を巡らせることになる。 そうした思考訓練の蓄積は、将来、有用な発想と工夫を与える豊かな土壌となるに違いない。
第三に、最も重要な問題であるが、コソコソと内職することにより、自らの精神を貶めていることが遺憾である。 私は常々「内職するぐらいなら欠席すれば良い」と言っているのだが、 多くの学生は「成績判定には出席点があるらしいから……」などと言う。 要するに、出席点欲しさに、出たくもない講義に出席しているわけだ。 あるいは、欠席することが何となく不安なのかもしれない。 いずれにせよ、主体性を欠き、周囲に合わせ、教員に媚びを売る卑屈な振る舞いである。 その一方で、講義を熱心に聴いている振りをするようなゴマスリまではしないのだから、実に中途半端である。
京都大学工学部の一年生から二年生にかけての二年間、私は全学共通科目、いわゆる一般教養で「漢文学基礎論」という科目を履修した。 履修登録している学生数に比べ、実際の出席者数は非常に少ないものである。 しかし、試験直前には、何か有用な情報があるのではないかと、顔を出す学生が増える。 担当の非常勤講師は、最後の講義の際、 試験において不正行為をしてはならぬ、との注意に加えて、すばらしい言葉を我々に与えた。 「たかが漢文学基礎論の単位のために、カンニングなどをして自らを貶める必要はない。 堂々と (単位を) 落としなさい。」
カンニングは論外であるが、試験対策に特化した姑息な勉強や、講義中の内職も、 自らを貶める行為である点は同じである。
名古屋大学医学部は、東海地方随一の名門医学部である。 東海地方を中心に多数の関連病院を抱え、また、東海地方においては「名大卒」の肩書は エリートである、優秀である、ということの証明とされる。 すなわち、幸いにして名大医学部に入れた我々は、特に重大な失敗をしない限り、 将来の安泰が保証されているといえる。 ついでにいえば、名大病院の医師には、名大出身者が多いようである。 これに加えて名古屋の土地柄もあるのかもしれないが、名大医学科、あるいは名大病院は、非常に保守的であるように思われる。
講義の際に、臨床的な問題について「当院では、このような処置をしている。」というように、 名大病院における標準的治療を説明する教員がいる。 名大の流儀を教えること自体は悪くないのだが、その場合、全国的な傾向、あるいは世界的な流れも説明するべきではないか。 我々が将来、名大病院や、いわゆる関連病院でしか働かないのであれば、名大の標準だけ知っていれば、一応、勤務に支障はない。 しかし、我が名古屋大学医学部は、東海地方に臨床医を供給するのみならず、 広く日本や世界に向けて人材を供給する名門大学であり、また、先端的医療を開拓する研究機関でもある。 名大の流儀に拘泥するような狭小な視野を持っているのでは、よろしくない。
一方で、こうした閉鎖的な名大の文化に対してチクリと苦言を呈する教員もいる。 たとえば、ある分野について、東海地方が非常に時代遅れな診療を行っていることを講義中に批判した教員がいた。 また、名大医学科の卒業生が、「名大卒」の看板に頼って研鑽を怠り、向上心に乏しいことを婉曲に批判した教員もいた。 たぶん、名大の保守的な文化に懐疑的な勢力は、少なくないのだと思う。 あと十年もすれば、ガラパゴスには外来種が導入され、惰眠を貪っている固有種は淘汰されるのではないか。
教員の中には、確かに、名大医学科を改革しようと努力している人々がいるのだ。 問題は、それに応えられる学生が、どれだけいるかということである。 目先の課題にとらわれず、長期的、大局的視野で、学業に勤しむ必要があろう。
名古屋大学鶴舞キャンパスには医学科と病院があり、生協が運営する食堂もある。 食堂を利用するのは、学生と職員と、一部の患者である。 食堂には、白衣や診察着、あるいは手術着のような格好で来る職員が少なくない。 これは、衛生的な観点からいって、いかがなものであろうか。
病院は、あまり清潔な場所ではない。 様々な病原体がウロウロしているし、医師の白衣などは、 肺炎患者がくしゃみと共に放出した細菌がベットリとくっついているかもしれない。 白衣は清潔感を出すための衣装でもあるが、医療従事者を守るための防具でもある。 すなわち、白衣は汚いのである。 実験室や病院で使用した白衣を着たまま外出してはいけない、というのは、 実験室で飲食してはいけない、というのと同程度の常識ではないだろうか。
京都大学の北部キャンパスには理学部や農学部があるのだが、 そこの食堂には「白衣で入るな」との注意書きがあった。 それをみた私は、理学部には白衣で食堂に来る馬鹿がいるのか、と驚いたものである。
私は原子炉物理学の出身であるが、紆余曲折あり、大学院を中退して、医学の世界に流れてきた身である。 大学院時代には、私の考えはほとんど教授に評価されなかったし、それで嫌になってしまった、 ということが中退しようという心境に至った原因の一部であったのかもしれない。
私は実名で某所に心電図理論に関する所見を掲載しているが、それを読んでくださったある方から、 ある原子炉物理学雑誌に掲載された二年以上前の記事を示して「この記事にある長髪の学生とは、あなたか」との質問を受けた。 私は、その記事を読んだことがなかったのだが、確かに私のことに言及されていた。 その記事を読んで、胸に込み上げてくるものがあった。 記事の著者は原子炉物理学の若手研究者三名で、いずれも、お会いしたり、議論したりしたことのある方々であった。
私は、昨今の原子炉物理学業界で国際的に常識と思われている、とある「法則」に対して異を唱え、 その「法則」は特定の条件下では成立しない、と、原子力学会や国際会議で主張していた。 だが、特にこれという反応は得られなかったし、指導教員も、私の意見には関心を示さなかった。
だが、この 2011 年 3 月の記事では、私が国際会議で発表した論文を引用し、名指しで私の問題意識を評価してくださっていた。 今さらではあるが、皆様に感謝しているし、原子炉物理学を辞めなければよかったと思う。
私の最大の過ちは、正しい主張はいつか必ず正当な評価を受ける、と信じきれなかったことであると思う。 今後は、最後まで自分を信じていけると思う。
近年、EBM という言葉が流行している。 これは Evidence-Based Medicine の略語であり、 キチンとした科学的根拠に基づいた医療、という意味である。 ここで問題にしたいのは「キチンとした科学的根拠」とは何か、ということである。
EBM という言葉が生まれた背景には、薬理学や病理学に基づいて 論理的考察から生み出された治療法が、しばしば、 実際の臨床では無力であったり有害であったりする、という経験的事実がある。 そこで、「理論的な予想だけでは科学的根拠として不十分である」と言わざるを得なくなり、 現在では、「ランダム化比較対象試験による検証が最も確かな科学的根拠である」ということになっている。 すなわち、理論的予想よりも、統計学的な検証が重視されているのである。
薬理学や病理学が、疾患や薬物の全てを明らかにすることには成功していない以上、 このように統計学的な検証を重視せざるを得ないことは確かである。 しかし、このことは、理論が臨床医学において無力である、とか、 経験は臨床医学において最も貴い、とかいうことを意味するわけではない。
まず第一に、統計学も、理論的予想と同様に、しばしば我々を欺くのである。 たとえばサンプルが偏っているとか、患者に特別な背景因子があるとか、 そういう場合には統計的検証の結果を眼前の患者に適用することができない。
第二に、そもそも統計学的検証が未だ不十分であったり、そもそも不可能な事例すら存在する。 たとえば非常に稀な疾患で、十分なサンプルを集められない場合がこれに該当するし、 三剤以上の薬物を併用せざるを得ない状況での薬物相互作用も、これに含めて良いだろう。
このように統計学的手法が無力である場合には、理論的予想に頼らざるを得ない。 だから、薬理学とか病理学とか生理学とか生化学とか、そうした基礎医学は、臨床においても重要なのである。
医学部教育は、残念ながら知識偏重である。 医学部学生は、工学部や理学部とは異なり、「『なぜ?』と疑問を持ちなさい」とは教えられない。 むしろ、馬鹿げたことに、「権威に逆らうな。教授は絶対だ。」と教えられる。 当然、学生も「教科書にどう書いてあるか」ということを重視し、理論的考察はおろそかにされる。 私は工学部出身であるから、医学部のこうした空気を異常であると理解し、その流れに逆らうことができるが、 高卒で医学部に来てしまった諸君は、どうであろうか。
たぶん、同級生諸君の多くは私を変人と思っているのだろうが、 実は、世間的には私の方がよっぽど多数派に属するのかもしれぬ。
ネフローゼ症候群とは、腎臓において本来は毛細血管から漏出しないはずのタンパク質が 何らかの事情により尿中に移行してしまうことに起因する症候群である。 臨床医学の教科書によると、典型的には、ネフローゼ症候群の患者は全身性の浮腫を来し、体重が増加するという。 その理由については、血漿膠質浸透圧の低下により、水が血漿から間質へと移行するため、とする説明が一般的である。 この説明にケチをつけようとしているわけではないが、しかし、この説明では不十分であると思う。
単純に考えれば、ネフローゼ症候群により体重が増加するというのは、奇異なことである。 血漿から間質に水が移行するといっても、あくまで血漿の浸透圧は正常と同じか低いはずである。 また、蛋白質が尿中に漏出するのだから、尿の浸透圧は正常よりも高くなる。 それならば、水の受動的な再吸収は抑制されるわけであるから、尿量は増加し、総体液量は減少し、 従って体重は減少するはずではないか。
ネフローゼ症候群で体重が増加するというのは、何かの間違いではないのか。 仮に臨床的にそのような事例が多数みられるとしても、それは何か 別の疾患なり症候群なりが、高頻度でネフローゼ症候群に合併しているためではないだろうか。
この疑問に対し、『ハーバード大学テキスト 病態生理に基づく臨床薬理学』は明快な回答を与えている。 どうやら浮腫が生じるよりも先に、腎臓におけるナトリウムイオンの保持が亢進しているらしい、というのである。 ナトリウムイオンが保持される機序や生理的意義は不明瞭だが、とにかく、 そのように解釈すれば、はじめて、臨床所見を合理的に説明することができる。
ハーバードは、さすがに名門である。
病院によっては、診療科間の垣根というものが高いらしい。 現代では医療は専門化が進んでいるため、一人の患者について単一の診療科で完結しないことが多く、 他科への診療依頼、いわゆるコンサルトが行われることが多い。 そうした時には、ある種の縄張りのようなものもあり、互いにある程度の遠慮が生じるのが普通であるという。
ある医師は、同級生や友人というのはありがたいものである、と言っていた。 例えばコンサルトに際しても、必ずしも正規の手順を踏まなくても比較的気軽に相談したり、 診療時間外でも互いに融通を効かせたりできる、というのである。 それは確かにその通りであろうし、そういう友人を多く持っておくことは大切である。
しかし、よくよく考えてみれば、というよりも言うまでもないことではあるが、 そもそも診療科間に垣根があること自体が問題である。 「医は仁術」だとか、「人の命を助ける崇高な仕事」だとかいうのは、建前なのだろうか。
小学校三年生の年末であったと思うが、私は急性虫垂炎を患った。 食欲不振と腹痛を主訴に近医を受診し、急性虫垂炎との診断を受けて近くの総合病院へ移った。 この時は化学療法により軽快し、退院した。
その次の春休みの時、ふたたび急性虫垂炎を発症し、同じ病院に入院した。 当時、母から聞いた話では、前回私を担当した医師は、私のために、 家族で春スキーに行く予定をキャンセルしたとのことであった。 私は世間知らずで不躾な子供であったから、「医者はそれが仕事なのだから当然である」 というようなことを言い、母からたしなめられた。
今から思えば、当時の私の発言は極めて不穏当なものであったが、 それでも、正しいことを言ったと思う。 勤務医はサラリーマンであるし、春休みに家族とスキーに行くのは当然の権利であり、 「医は仁術」という言葉を盾にして医師を酷使する悪徳経営者とは闘うべきである。 それでも、自分が担当した患児が再入院したとなれば、たとえ急性虫垂炎ごときであったとしても、 家族とのスキーなどは放置して病院に向かうのが、医師として望ましい姿ではないか。
もちろん現実には、そういう医師は多くない。 それを思えば、あの医師は、立派であった。
医師免許を取得して初期臨床研修を終えた医師は、制度上は、好きな病院に就職することができる。 しかし多くの医師は大学病院に就職し、いわゆる医局に所属することになる。これを「入局」という。 医局というのは、公式には病院や大学に存在しない組織であることが多いが、 事実上の人事権を掌握する教授を頂点とした、各診療科単位で事実上構成されている集団のことを指すと考えてよかろう。
市中にある病院の大半は、特定の大学病院と強いつながりを持っており、これを俗に「○○大学の関連病院」という。 市中病院は、大学病院に対し医師の派遣を依頼し、大学病院側は、 非常勤医などの名目で医師を市中病院に派遣するわけである。 しかしながら、某教授が指摘したように、人材派遣は大学の業務ではないし、形式的には、 教授は医師に出向を命じる権限を持っていない。 従って、こうした医師の派遣は、形式的には各人の自主判断に基づく雇用契約の形態を取るらしい。 もちろん形式的には、関連病院から大学病院への謝礼の類は存在しないはずである。
単純に考えれば、そのようなややこしいことをしなくても、各々の医師と病院が自由に雇用契約を結べば良さそうであるが、 そこにはイロイロと大人の事情があるのだろう。詳しいことは知らぬ。 しかし、そうした関連病院制度と医師派遣の慣習があるために、教授は大きな権限を持つことができるし、 研究を遂行する上でも何かと都合が良い、と、いわれている。
さて、医師の初期臨床研修制度の改革などを受け、医局制度の崩壊だとか、地域医療の崩壊だとかいう話が、 しばらく前から問題になっている。 そのため、世情に疎い私などは、もはや教授を中心とした封建的医局制度は失われており、 ましてや先進的教育や研究で日本をリードする立場にある名大病院では、 医局制度に基づく欺瞞に満ちた人事などは存在しないものと思っていた。 だが、どうやら事実は違うらしい。 多くの医師が言うには、名大病院には関連病院から医師の派遣依頼が多数寄せられるのであり、 名大病院としては、それらの依頼に応えるために多数の「入局者」が必要だというのである。
こうした医局制度を快く思っていない医師は、多いのではないか。 その一方で、そうした医局制度に反抗するだけの気概を持った医師や学生は、少ないのではないか。
具体的に言及することは避けるが、ある種の嘘が満ち満ちているように思われる。
名大医学科四年生には、優秀な人物が揃っているように思う。 試験の成績だけでいうならば三年生の方が英才が多いとの噂もあるのだが、 学生にとって重要なのは試験で点を取る能力ではない。
激しい受験戦争を勝ち抜いてきた学生の一部には、どうやら、 勉強とは試験で点をとるためにやるものだ、というような誤解があるらしい。 名大医学科の学生の中にも、「試験に出題される場所こそが、重要な箇所である」だとか 「頭が良いとは、試験で高得点を得られることをいう」だとか、 意味不明な妄言を発する連中がいる。
しかしながら、私は、そうした頭の悪い発言を現四年生がしている場面に ほとんど、あるいは全く、遭遇した覚えがない。 もちろん、私に遠慮して、そのような発言を慎んでいる可能性もあるのだが、 現三年生の一部は、そうした遠慮すらなく堂々と上述のような発言をしているのだから、 やはり、四年生は意識が高いといえるだろう。
試験の得点などは重要ではない、ということは、教授陣はよくわかっていらっしゃるし、 講義などの際に、そのように説諭される方も少なくない。 しかし、残念ながら教授陣の言葉は、必ずしも学生によく届いていない。 そこで、同じ学生の立場から、教授陣に代わって学生に声を投げかけることこそが、 我々編入生や再受験生が背負う道義的責任というものである、と、私は富山大学で教えられた。
私は、あまり三年生のことをよく知っているわけではないが、 彼らの一部をみていて少し不安に思うことがある。 すなわち、人生経験豊富な編入生や再受験生が、ひょっとすると、 率先して「試験で点を取るための勉強」に走っているのではないかと感じられるのである。
杞憂であればよいのだが。
ある日、某教授による、ある分野の入門的な講義があった。 全体として基本的な内容であり、私は気楽に受講した。
講義を終えるにあたり教授は、何か質問はないか、と問われた。 私は、特別に大きな疑問も抱かなかったため質問を発さなかったし、 他の学生からも、質問は出なかった。 すると、教授はたいへん挑発的な発言をなさった。
学ぶということは、問いを発するということである。 何も質問がないということは、諸君は本当に何かを学んでいるといえるのか、 というようなことを、非常に婉曲な優しい表現ではあるが、おっしゃったのである。
そうまで言われて、なお黙っていたのでは、名大医学科四年生全体の名誉に関わる。 再び教授が、質問はないか、と問うた時、私は挙手して質問を繰り出した。
入門的で基本的な内容であるからと、漫然と受講した怠慢を私は反省した。
昨日の話の続きである。 京都大学時代のことを思い返して、つくづく、反省した。
工学部時代の私であれば、よほど退屈でつまらない授業であるならばともかく、 基本的には、授業中にも積極的に発言していた。 たとえ入門的な内容であっても、教員が我々に対し真摯に語りかけてくれる限りにおいては、 私も全力で応えたし、ましてや、最初から最後まで一言も発言しないなどとは考えられなかった。
最も印象に残っているのは、私が四年生の時、卒業要件の単位数を満足していなかったために受講した、 全学共通科目 (いわゆる一般教養) で二年生配当の「振動・波動論」である。 私にとっては熟知している内容の授業であったが、私は最前列に座って授業中にベラベラと発言した。 担当の教員は、年度末に定年退職する保健学科の方で、よく私の意を汲んでくれ、しばしば発言機会を与えてくれた。
たとえば、ばねの話をした時、「重りに加わる力は、位置 x の函数として F(x) のように表せるだろう」と 教員が言った時、私はすかさず「先生」と声を挙げ、 「どうして力は位置だけの函数で表せると考えられるのでしょうか。 たとえば、どういう経路を通ってその位置に辿り着いたかによって、力の大きさが変わっても良いのではないでしょうか」 と述べた。 京都大学では、こうした非常識な発言が否定されることはなく、むしろ推奨される。 教員は「なるほど。確かに加速度などによって力が変わることもあり得るが、 ここでは入門編として、位置だけの函数で表現できることにしよう」とおっしゃった。
さらに話が進み、「ばねの伸びが長くなるほど、重りに加わる力も大きくなる。では、どんどんばねを伸ばしていったら、どうなるか」 と先生はおっしゃりながら、チラリと私の方に視線を投げかけられた。 私は、先生の意図を汲み「壊れる」と述べた。 「そう、壊れる。つまり、力が伸びに比例するというのは、一定範囲における近似の話なのであって、 それが絶対の真理であるかのように誤解してはならない」というような話を、先生は続けたのである。
私は別に優等生ではないので、常に教員に対して協力的であったわけではない。 話がフーリエ変換に及び、三角波をフーリエ変換するとこのような格好になる、というような例が示された時のことである。 先生の書いた式では、三角波を表す式と、それをフーリエ変換した式とがイコールで結ばれていたため、私は 「先生、この式は、何か変です。左辺には微分不能な点があるのに、右辺は至るところで無限回微分可能ですから、 これはイコールのはずがありません。イコールではない何かのはずです」と述べた。 当時、私は四年生で、量子物理学について卒業論文を書いていたわけだから、 フーリエ変換におけるギブズの現象だとか、線形空間における距離だとかいうことは、一応は理解していたし、 なぜ先生がイコールで書いたのか、とか、厳密にはどういうことなのか、とか、 そういうことは全て理解していた。 理解した上で、半ば茶化すような、悪戯のような気持ちで、指摘したわけである。 先生も、たぶん、私が本当は理解していることを知っていたのだと思う。 その上で「なるほど、確かにこれは厳密にイコールであるとは考えにくい。しかし、ここは入門編ということで、 イコールではないかもしれないけれど似たような何かだということで、厳密な議論は省略していこう」と、おっしゃったのである。
実は、この講義には、私と同じ研究室に所属していた同級生の彼女さんが出席していたらしい。 その同級生から聞いた話では、彼女さんは「変な人と先生が、二人の世界を展開していた」と言ったそうである。
このような京都大学時代のことを考えると、この十年間で、どうも私は少しばかり衰えてしまったようである。 これは京都大学と名古屋大学の違いだとか、工学部と医学部の違いだとかいう要素もあるかもしれないが、 基本的には、私が学問に対する積極性を失い、受け身になりかけているせいであろう。
非常によろしくない。
また、前回の話の続きである。 京都大学工学部には、良い意味で非常識な教授も多かった。 一番印象に残っているのは、二年生だか三年生だかの時に熱力学を担当した教授である。
ある日、彼は「水飲み鳥」という、鳥の形を模した玩具を持って教室に現れた。 これは、水を入れたコップの縁に据え着けて、最初に頭をチョコンと少しだけ押してやると、 以後、鹿威しのように周期的に首を振って、水を飲むかのような動作を繰り返すのである。 しかし鹿威しとは異なり、外部から力が加わっているわけではないのに、 まるで生きているかのように延々と動き続ける、不思議な玩具なのである。 しかも特別に高級なものではなく、京都でいえば京極あたりの玩具屋で、安価に入手できた。
これは熱力学が身近な玩具でわかりやすく利用されている有名な例であり、 工学部出身者なら、よく原理を知っていることだろう。 一度わかってしまえば単純な原理なのであるが、 初めてみた時には、なかなか理解できない。実に味わい深いものである。
さて、教授は、この水を飲む不思議な鳥を学生にみせ、 「なぜ、この鳥は動き続けるのか、仕組みがわかる人はいますか」と問うた。 私を含め、誰一人として手を挙げる者はいなかった。 すると教授は続けて 「ひょっとすると、京都大学の学生であれば『動き続けるのはあたりまえだ、止まるほうがおかしい』 ぐらいのことを言う人がいるかもしれない。」 と言った。
教授は、京都大学の学生は優秀だから、こんな玩具の仕組みなど一瞬で見破るだろう、と言ったわけではない。 彼が言うには 「動き始めた物は、外部から力を加えなければ止まらない、というのがニュートンの運動の法則である。 だから、動き始めたこの鳥は、手を触れなければ動き続けるのが当然だ、ぐらいのことを言う学生が 京都大学にはいてもおかしくない。」 とのことであった。
もちろん、教授が言っているのは暴論であり、摩擦を考えれば自然に止まるのがあたりまえである。 彼が言いたかったのは、京都大学の学生ならば、そのくらい自由な発想を持つべきだ、ということであろう。 学生に変人がいるかと思えば、教授も奇人である。
それを思えば、名古屋大学医学部は、実に常識的である。
思い出話である。
あれは、博士課程三年生の春であったと思う。 当時、私は退学を決意する直前であり、指導教員と険悪な関係にあった。 私は、修士課程学生に対する研究指導のあり方について疑問を抱き、学生本人や助教らに対し、頻繁に意見表明をしていた。 私のそういう態度を不愉快に感じていたのだろう、ある日助教は私に対し、 「余計なことを気にせず、何のためにここ (大学院) に来たのか、初心にかえってよく考えよ」と言った。
たぶん、彼は「君は博士の学位を取るために大学院に来ているのだから、下級生のことに不必要に構わず、 自分の研究と論文に集中したまえ」という意味で言ったのであろうと、私は理解した。 ずいぶんと、見損なわれたものだ、と思った。
学位の取得を目的に大学院に進学する学生は、確かに少なくない。 当時の研究室内にも、某発展途上国からの留学生で、 どうすれば学位を取れるかということにばかり腐心し、純粋な学術的好奇心は乏しい者がいた。 だが、それは本来の大学院の姿とは異なる。 大学院生は、駆け出しの研究者であり、研究をするために大学院にいるのであり、 学位などは、研究の成果として必然的に授与されるに過ぎない。 学位は当然に得られる産物なのであって、それを目標に努力するような性質のものではないのだ。
いうまでもなく、私も、学位のために大学院に進んだわけではない。 研究をするために、科学を探求するために、進学したのである。 科学的良心を捨て、自らの学位取得に専念してしまえば、それはもはや科学者ではなく、従って大学院生でもない。
学生に科学者の良心を教えず、学位の取得に専念させるのであれば、それはもはや大学院ではない。 私は、あくまで科学者であり、大学院にいたかったのであって、学位が欲しかったわけではない。 あの助教の言葉により「ここはもはや大学院とはいえず、私のいるべき場所でもない」との思いが確固たるものになった。
助教は、私に苦手意識はあったろうが、嫌ってはいなかったと思う。 彼の発言は、あくまで、私を思い、私に学位を取らせようとしての言葉であっただろう。 それでも、四年間もつきあっていたにしては、あまりにも私を理解していない発言であった。 私と彼とのコミュニケーションは、そこまで不足していたのだろうか。
美しくありたい、というのは、程度の差こそあれ、老若男女を問わず誰しもが思うことだろう。 しかしながら容姿容貌は一朝にして変わるものではないため、今より美しくなることは、なかなか、難しい。 しかし美しさというものは、必ずしも容姿のみによって決まるものではない。 むしろ、 立居振舞や些細な所作の良し悪しによって、美しさは多分に決定されるであろう。
立居振舞や作法といえば、小笠原流だの何だのというものもあるが、 私のような庶民には、そのような厳かなものは馴染まない。 その一方で、作法を紹介したビジネス書の類は、残念ながら胡散臭いものが多い。 親しみやすくて信頼できる作法の教科書はないものかと思っていたら、 7 年ほど前であっただろうか、林實氏の作法心得に出会った。
これは 1981 年に刊行された、ホテル学校のテキストであるという。 その内容たるや微に入り細に穿つものであり、残念ながら私は、このテキストの教えのうち ほんの一割も身につけることができなかった。 しかしながら、非常に印象に残ったものがいくつかあるので、それを紹介しよう。 ただし、私もこれらを完全には履行できておらず、しばしば、怠ってしまうものもある。
他にもあるが、とりあえずは、これだけにしておこう。 なお、これは元来が西洋式ホテルを意識したものであるから、あくまで洋式の作法であり、 和式の作法とは、いくぶん異なる点もあるだろう。 その意味で、日本では、あまりこだわらなくて良いものも多いかもしれないが、少なくとも、海外では注意するべきであろう。
このような記述をみると「今どき、そこまで徹底しなくても良いのではないか、時代錯誤ではないか」と 思われる方もあるだろう。 しかし、そうではない。 キチンとしている人はキチンとしているのであり、もしこれを時代錯誤だと思うのならば、 それは、あなたの周囲には礼法に疎い人しかいない、というだけのことである。
上述の「無言」について、私は工学部二年生の頃、「漢文学基礎論」の講義を担当していた非常勤講師の先生から咎められたことがある。 あるとき、私はトイレで用を足した後、たまたま、入口で先生とすれ違った。 私は半ば無意識に、軽く会釈をした。 すると先生は、「君、トイレで挨拶をしてはいかん」と、おっしゃったのである。 それ以来、私はトイレで会話をせぬよう務めている。
なお、林實氏のテキストには、他に文書心得というものもある。 こちらもたいへん参考になり、特に、改まった手紙を書く際に有用である。
医学部の学生の大半は、とても、礼儀正しい。 わからないことを先生に質問する時も、控えめに「あのぅ、このへんが、よくわからないんですぅ」 とでもいうように、「教えを乞う」形で質問する人が多いように思う。
その点、私は少しだけアグレッシブであるかもしれない。 私は基本的に「おかしいじゃないか、教科書が間違っているんじゃないか」 と言わんばかりの勢いで、相手を睨みつけるように質問することが多いように思う。 工学部時代の私は、相対性理論にくってかかり、「アインシュタインは馬鹿じゃないのか」などと言った覚えがある。 もちろん、さすがにアインシュタインは優秀な物理学者であり、私は後で言葉を翻して 「負けた、アインシュタインは正しい」と言うはめになったのだが、若い学生は、そのくらいの勢いで議論するべきであると思う。 私がおかしいのか、京都大学工学部がおかしかったのか、それとも実は名古屋大学医学部がおかしいのか、 よくわからないのだが、京都大学工学部には私と似た流儀の学生が少なからず存在したことを思えば、 今の名古屋大学医学科は、実にさびしい。
私の流儀も少し行き過ぎであるかもしれないが、教科書を疑うことは、学問的に重要である。 しかし、私が教科書の記述に対し疑問を呈すると、かなり多数の学生は「それで良いから、そうなっているのだろう」 などと言い、私の疑問を無視しようとする。 そうでない学生も、あくまで教科書の記述は正しいと信じた上で私の説を打ちまかそうとするのであり、 私と一緒に教科書を批判してくれるような学生には、残念ながら、名古屋大学では出会えていない。 確かに、教科書の記述を頭から信じた方が、臨床医としては出世するだろうとは思うのだが、 ちょっと、皆、「良い子」でありすぎるのではないだろうか。
こういうことを考えると、実に、憂鬱になる。 私は、疑問を呈すること、それを他人に投げかけること、それに回答しようと思慮を巡らせることは、 医学的に重要であり、医療の発展に不可欠であると確信している。 しかしながら、残念なことに現在の名古屋大学医学科には、そうした姿勢を推奨する空気は存在しないように思われる。 これが私の思い違いであるならば良いのだが、もし本当に、 思考停止して教科書の暗記に走った学生や医者が高く評価されるとすれば、それは危機的である。
こういう環境にいると、もうどうでもいいや、という気分になってくる。 名古屋大学医学部の未来がどうなろうと、東海地方の医療が崩壊しようと、私の知ったことではない。彼らの責任である。 大学院を辞めた頃と同じで、私が生きていようがいなかろうが、大差なく、どうでもよいような気がしてくる。 とはいえ、自己診断ではあるが、私は大うつ病エピソードの診断基準は満足していないので、 まぁ、たぶん鬱病ではないし、今のところはまだ大丈夫だと思う。 ただ、こういうことを、わざわざここに書いている時点で、正常な精神状態とはいえないかもしれない。
工学部時代の私は、履修登録した授業が面白くないと判断すると、以後、出席せず、試験も受けずに単位を放棄していた。 それ故、四年生になると卒業要件の単位数を満足できなくなり、やむなく一年生や二年生向けの授業を再履修した。
そのような事情で、私は、一年生向けの微分積分学を、三年生だか四年生だかになってから、履修したのである。 この授業を担当した非常勤講師も味のある人物で、 「講義中に飲食するのは、私は構わない。別に朝食を摂りながら話を聴いてくれて構わない。 しかし他の先生はどう思うか知らないから、これはあくまで、私の授業に限ったことである。」とおっしゃった。 そこで私は公然と朝食のサンドイッチを食べながら授業を受けたのだが、 他の学生は生真面目な人物が多く、私以外には授業中に食事をする者はいなかった。
この講師は、あるとき、学問に対する姿勢として、次のようなことを我々に語った。 「学問や研究というものは、結果が全てである。いかに努力しようとも、成果の上がらない研究には意味がない。 また、達成した成果が同じであるならば、払った努力の量が少ないほど優秀だということになる。 すなわち、自分がいかに努力したかを述べることは、自分がいかに無能であるかを述べることに他ならない。」
ただし、昨今の名大医学科をみるに、「成果」というものについて大いに誤解があるように思われる。 学問における成果というものは、試験の点数だとか、国家試験における合格だとか、そのような矮小なものではない。 医学についていうならば、医の新境地を開拓し、医道の何たるかを世に示し、医師の理想像を体現することこそが、 学問として医学を修めることの成果である。
地域医療学やら法医学やらの講義の中では、医師としての倫理を説く講義が何回か行われた。 特に医療過誤訴訟の話についていえば、内容的には世間で言われているようなことを改めて説諭するものであったように思う。 すなわち、医療過誤で訴訟になるのは、たいてい、過誤そのものを問題にしているのではなく その後の不誠実な対応や、不信感を煽る言動が問題とされるのだ、ということである。 そういえば『白い巨塔』も、そういう話であった。 さて、振り返ってみると、名大医学科には若干名ながら、将来的に訴訟問題を起こしかねない危険な人物がいるように思われる。
もちろん、最も危険視されているのは私であろう。 半ば冗談ではあろうが、ある三年生から「将来、訴えられそうですよね」などと言われたこともある。 ただ、私が他の学生や教員に対して攻撃的なのは、社会に対する義務や責任についての認識に由来する いわば確信犯的なものなのであり、その矛先が患者に向かうことは、たぶん、ないと思う。 私の考えでは、医師や学生は社会正義の担い手としての責任を負うのであって、 倫理規範の欠如した同業者を咎めないこと自体が非道徳であり、それ故に、やむなく私は同業者を批判しているのである。 しかし患者にはそうした高度な倫理観は求められないから、私としては、 患者の不適切な行動を過度に咎める必要がない。
ここで問題にしたいのは私のことではなく、講義中に公然と私語を交わし、あるいは公然と食事を摂り、 またはおもむろに購買へ赴いておやつを購入し、それを堂々と授業中に食べるような学生のことである。 もし、彼らがある種の政治的信念に基づいて私語や飲食しているのならば、問題ない。 講義への出席を義務付けている大学当局へのあてつけとして、いわばアナーキズムの発現として、 精一杯の抵抗を示しているのならば、堂々とやるがよろしい。私は、そのような闘争に身を投じる若者のことが、好きである。 しかし、もし彼らが、なぜ私語や飲食が良くないのか理解しておらず、「叱られなければ問題ない」などと 本当に思って行動しているならば、残念ながら、彼らは将来ハイリスクな医師になることだろう。
遺憾ながら、大学の教員諸氏はもはや学生の振る舞いについては諦めていらっしゃるようである。 某教授などは、講義中に堂々とおやつを食べ始めた学生をみて、苦笑しながら、 いいなぁ、僕も食べたいなぁ、などと言って学生を笑わせるほどである。 大学内であれば、それで済む。
しかし、そうした素行の悪さは、やがてしっかりと身についてしまうことだろう。 医師免許を取得した途端に、立居振舞がピシャリと改善されるとは、とても思われない。 そして患者の不信を招き、怒りを買うことは、自明である。
文光堂『小児科学 改訂第 10 版』を購入した。 まだほとんど読んでいないのだが、第 1 章「小児科学序論」は名文である。 この章を担当されたのは慶應義塾大学の高橋孝雄教授である。 ここに記されていることは、必ずしも小児科学に限ったことではなく、 臨床医全般にとって重要なことであると思われるので、医学科学生諸兄姉には、ぜひ、一読することをお勧めする。
ここにはいくつかの大事なことが書かれているのだが、特に診断特異度のことを紹介したい。 曰く
良性の, 軽症の, 治療を必要としないような状態を ``心配なし'' と診断できるか. これが診断特異度である.
忘れてはならないことは, 無用な介入によって子どもの QOL をかえって悪くしたり, 医療費を浪費したりすることのないようにすることである.
「現時点では何ともいえません. 取り敢えず検査をして経過を見ましょう」という台詞はできるだけ避けたい.
「ないものはない」と太鼓判を押せる医師が本当の腕利きである.
この視点は、少なくとも名大医学科の学部教育においては、残念ながら軽視されているように思われる。
病理診断というものがある。 原義はともかく、現状では患者の病変から細胞や組織を少しだけ頂戴して、 その形態等を顕微鏡下で観察することにより、いかなる疾患であるか診断することをいう。 診断を下すにあたり、病理診断が有効な疾患とそうでない疾患があるが、癌は前者である。 原則として、病理診断により癌だということが判明しなければ、癌を癌と言いきることはできないし、 病理診断なしに癌の切除手術をすることは稀である。
病理診断にあたっては、形態学的変化が重視される。 すなわち、腫瘍、特に悪性腫瘍では、細胞や組織の形態や構造に異常がみられる。 たとえば大腸癌であれば、典型的には良性腫瘍では細胞の極性が乏しくなり、 核には染色体の濃縮が生じ、核小体様の濃染部位が認められる。 悪性腫瘍になると染色体の濃縮は高度になり、細胞の極性は失われ、組織異型が生じる。
ここで私が問題にしたいのは、このような形態学的判断は悪性腫瘍の診断について本当に感度が高いのか、という問題である。 換言すれば、病理診断で形態学的異常が認められずに良性腫瘍あるいは非腫瘍性病変とされた疾患の中に、 本当は悪性腫瘍であるような病変が、ある程度含まれている可能性があるのではないか、ということである。 ただし、生検において適切な部位を採取できなかった、というような例については別の問題であるから、ここでは扱わない。
先入観で議論しても仕方ないので、ここではあくまで論理に注目していただきたい。 もし強い細胞異型や組織異型が認められたならば、それは遺伝子の異常を強く示唆するのであり、 高度な遺伝子の異常と細胞の増殖が併さっているならば、それは悪性腫瘍であるとする蓋然性が高い。 しかし、逆はどうか。 腫瘍性病変となるためには、高度な形態学的異常は必須であろうか。 もし、形態学的異常を伴わない悪性腫瘍があり得るならば、形態学に基づく病理診断は 確定診断としての信頼性が乏しいということになる。
理屈の上では、形態学的異常は腫瘍性増殖に必須ではない。 たとえば慢性胃炎では、炎症による組織破壊に対する反応性変化として、 再生異型を伴う陰窩上皮の増生が認められる。 細胞レベルで考えれば、炎症により何らかの形で、陰窩上皮に対する増殖刺激が加わっているわけであるが、 何らかの適切な変異さえあれば、炎症も組織破壊も存在しない状況で、細胞が同様の増生を示すことは理論上、あり得る。 ひょっとすると、これが、いわゆる過形成性ポリープの本質なのかもしれない。
ここで言葉の定義を確認したい。 腫瘍とは、外部からの増殖刺激を必要とせずに自律的に細胞が増殖するものをいい、 過形成とは、外部からの増殖刺激に対する応答として細胞が増殖するものをいう。 前述の私の空想が正しいならば、いわゆる過形成性ポリープは過形成ではなく、腫瘍である。 病理診断学的には、いわゆる過形成性ポリープは異型が弱く、腫瘍ではなく過形成であるとされるが、本当であろうか。
このように、形態学的診断は必ずしも病理学的な本質を反映しているとは限らない点に、若干の脆弱性があるように思われる。 我々が組織学的に良性腫瘍だと判断している腫瘍は、本当に、全部良性なのだろうか。
以前にも書いたが、私が初めて急性虫垂炎を患ったのは小学校三年生の年末であったと思うので、今からちょうど 22 年前のことである。 その日の夕食は私の大好きなエビフライであったが、私がほとんど食べないため、母は「これはおかしい」と思ったらしい。 近くの内科医院を受診し、急性虫垂炎だろうとの診断を受けて、近くの多摩丘陵病院に入院した。 幸い、このときは化学療法により軽快した。 しかし次の春休みに虫垂炎が再発し、切除手術を受けることになった。 初回に私を担当した医師が、二回目の入院時には家族でのスキー旅行をキャンセルして私を診に来てくれたことも、以前に書いた通りである。 たかが虫垂炎のために、とは思うのだが、私は、あの人こそが医師の鑑であると考えている。
今回の話題は、小児の手術についてである。 当時の私は、麻酔というものをよくわかっておらず、手術はなんとなく怖い、いっそ全身麻酔して欲しい、などと言った。 しかし母から、全身麻酔とは恐ろしいもので、そのまま目が醒めなくなってしまうこともあるのだ、と脅かされて、局所麻酔での手術に納得したのである。 とはいえ、常識的に考えて、目が醒めていて意識のある状態で腹を切り内臓を取り出すなど、とても考えられない。 もし手術中に動いてしまったら、どうするというのだ。 たいへん気になったが、私はとても謙虚なシャイボーイであったから、医師や看護師に詳しく問うこともできず、自ら想像力を膨らませて解決するしかなかった。
そこで私が妄想により得た結論は、局所麻酔であっても、睡眠薬のようなものを併用するか、あるいは麻酔に催眠作用があるか何かの事情により、 結局は患者が眠った状態で手術をすることになるのだろう、というものであった。 実際にはそんなことはなく、患者はしっかりと覚醒した状態で手術されるのだが、プラシーボ効果は絶大であり、 私は麻酔薬か何かを注射されると、たちまち意識を失い、眠ってしまった。
私は朦朧とした意識の中で、ストレッチャーの上で看護師に何かをされた場面を覚えているが、何をされたのかは、はっきりしない。 手術室の中では、一度だけ少し意識を取り戻したが、無影灯の光をぼやっとみただけで、他には何も覚えておらず、すぐに再び眠りに落ちてしまった。
そんなわけで私は手術中ずっと寝ていたのだから、とてもおとなしかったようである。 ふつう小児の手術では、患児は嫌がり、泣いたり騒いだりして大変らしいのだが、私は実に神妙であったため、 かえって医師だか看護師だかに、「この子、大丈夫かしらん」などと心配されたらしい。
だいぶ間隔があいたが、本日の話題は漢方医学である。
漢方医学とは、江戸時代末期に西洋医学が日本に輸入され、あるいは明治時代に西洋医学こそが正統な医学だと 政府に認定されるまでの間、日本において主流であった医学をいう。 漢方医学は中国から輸入された医学ではあるが、日本において独自に発展した側面もあり、 中国における伝統医学、いわゆる中医学とは、明確に区別される。
現代の日本では、医師は基本的には西洋医学についての教育を受けるのみであり、漢方医学の学識は 極めて乏しいままで医師免許を取得するのが普通である。 しかし、一部の漢方薬は保険適応となっており、臨床現場でもしばしば漢方薬が処方される。 たとえば大建中湯は、手術後の腸閉塞を予防する目的でしばしば投与される。
これに対し、漢方医学や漢方薬に懐疑的な勢力も存在する。 特に、漢方薬は長い歴史の中で経験的に有効性が確認されてきたというが、 結局はプラセボ効果なのではないか、という批判が多い。 これに対して日本東洋医学会などは、二重盲検試験などを実施し、漢方薬の有効性を示す 学術的証拠を蓄積しようとしている。
漢方医学は、漢方薬の適切な投与方法を考える学問であるといえよう。 しかし、漢方医学の最大の弱点は、解剖学的知識がデタラメだという点にある。 漢方医学における解剖学については、いずれ、要約してどこかで紹介したいと考えているが、ここでは割愛する。 詳しい歴史的経緯は曖昧なのだが、おそらくは、歴史的に人体解剖が禁忌とされていた期間が長かったために、 人体構造について正しい見識が得られなかったものと思われる。
漢方医学支持者の中には、漢方医学における解剖学を、実在臓器と機能を一体として考えているために、 西洋医学における解剖学とは異なる、などと無理矢理説明する者がいるが、これは誤りである。 たとえば杉田玄白はもともと漢方医であったが、『蘭学事始』の中で、当時の彼らの解剖学的理解は 実は誤りであったことを明確に認めており、それ故に彼は西洋医学に転向したようである。 このことから、実在臓器と機能を一体と考え云々という理屈は、江戸時代以前には存在しなかったものと推定される。
漢方医学支持派は、漢方医学が誤った解剖学的理解の上に成立したという不都合な事実と、 きちんと向かいあっていないように思われる。 そのため、漢方医学入門書では、おそらくは意図的に、解剖学の説明が省かれていることが多い。 それにもかかわらず熱心な漢方医学支持者が少なくないのは、漢方医学がなんとなく神秘的な雰囲気を有していることと、 一部営利企業が盛んに漢方薬の有効性を宣伝しているが故であろう。 なお、こうした営利企業が販売している漢方薬は、漢方医学的観点からは不適切な方法で使用されることが多いため、 「ツムラ漢方」などと揶揄されることがある。
科学的に中立で患者のためを思う立場からは、漢方医学の理論は誤りであると、認めざるを得ない。 漢方薬の有効性についても、わからない、と言わざるを得ない。 ただし、理論的正当性や有効性は不明であっても、少なくともプラセボ効果を効率的に治療に用いるための方便として、 漢方医学は有用であるように思う。 しかし、これは漢方薬が全てプラセボであるという意味ではない。 長い経験は確かに有用であり、漢方薬の中には実際の効力を有するものが少なからず含まれていると推定される。 そうした漢方薬を選別し、適切に使用するためには、先人がいかなる思考により漢方薬を処方したのか、 彼らの理論が誤りであったと認めた上で勉強することも重要であると思われる。
なお、漢方薬の保険収載にあたっては、歴史的に長い経験から有効性が確認されている、との理屈により、 有効性の確認試験が免除された。 西洋薬については、二重盲検による有効性が確認されなれば保険適応とはならないにも関わらず、である。 純粋に科学的な立場からすれば、歴史的にプラセボ効果と真の薬効とが混同されてきた可能性がある以上、 西洋薬と同等の二重盲検試験を課すのが当然ではないか。 それをねじまげることができたのは、単に、当時は漢方薬支持派の政治力が強かったからに過ぎないのではないか。
最後に確認するが、個人の経験だけで漢方薬の有効性を主張する者は、まじないで病を癒す呪術師と大差ない。
医学の世界における極めて悪い習慣の一つに、言葉を正確に定義しない、というものがある。 たとえば「貧血」という語を考えても、定義は曖昧である。
たとえば医学書院『医学大辞典 第 2 版』では、貧血は「赤血球の減少により、 血液単位容積中のヘモグロビン濃度が絶対的に減少した状態をいう」とある。 一方で『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』 p.25 には 「貧血とは, 循環している赤血球量が著明に低下した状態と定義される」とある。 すなわち、前者は濃度で、後者は量で、定義しているわけである。 いうまでもなく、濃度と量は異なる概念であるから、両者の定義は同一ではない。 たとえば大量出血や高度の脱水により血液量が減少した状態は、医学書院の定義には該当しないが ハーバード大学の流儀では貧血である。
生理学的な観点からは、赤血球やヘモグロビンの濃度自体にはあまり重要な意義はないので、 ハーバード大学のように総量で定義する方が、生理現象との関係からいえば合理的である。 しかし、赤血球やヘモグロビンの総量は臨床的に測定することができない。 そこで実際に測定可能な量である濃度を総量の代わりに用いて定義することにも、 一定の合理性がある。 実際、上述のような急性の大出血や脱水などの場合を除けば、だいたい、 濃度と総量の間には強い相関があるから、どちらで定義しても多くの場合には問題にならない。
そこで医学界の住人の多くは、どちらでも良い、と考え、定義の統一を図っていないようである。 これは、物理学や工学の住人からすれば、とんでもなく野蛮なことであろう。
こうした、実にくだらない、無益な論争が生じてしまうではないか。
簡単なことである。生理学的な観点から「量」をもって定義と為し、 臨床的には「濃度」をもって指標とする、ということにすれば済むではないか。 その程度の言葉の統一もせずに、曖昧な用語によって漠然とした議論を行うことは、 我々医学界の住人の見識の乏しさと知的水準の低さを露呈しているに等しい。
実害もある。 医学界そのものが言葉の定義に無頓着なのだから、必然的に、学生も定義に注意を払わなくなる。 「貧血を起こして倒れた」などと医学的には意味不明な言葉を発する学生がいるかと思えば、 「心筋梗塞の組織像では心筋の壊死がみられる」などと、あたりまえすぎることを言う者もいる。 前者の例では、たとえば「貧血があるために、起立性低血圧を来して失神した」ということであろう。 なお、世間では失神を「意識消失」と同義で使うことがあるが、 医学的には「脳の血流低下により意識を失うこと」に限られる。 後者の例では、そもそも「梗塞」とは「虚血により組織や細胞が壊死すること」をいうのだから、 心筋梗塞において心筋が壊死しているのは自明である。
言葉を正しく理解せずして、学問や議論ができるとは、到底、思われない。
結果を出した以上、私には勝利宣言する資格があると思う。 何に対して勝利したのかというと、「CBT 合格を確実にするために過去問をみたい」という誘惑に対してである。
どこの大学でも、医学部医学科では四年生の終わり頃に CBT という全国共通の試験が実施され、 これに合格しなければ病院での実習を受けることができない。 これはコンピューターを用いて 多数の問題のストックからランダムに選ばれた選択式問題を解くものであり、 不正行為を行うのは比較的困難であるとされる。 各人が異なる問題を解くことになるため、難易度等について補正を行った上でのスコアによって合否が判定されるのだが、 CBT の実施時期や合格基準は大学によってマチマチであるらしい。
その成績表が、名古屋大学医学部医学科では、本日、各人に配布された。 私の結果は、正答率 78.22, IRT 標準スコア 57.6, 学内での順位は 108 人中 59 位であった。 学内平均正答率が 78.63 であるから、私は学内平均よりも少しだけ下だということになる。 IRT 標準スコアというのは、2006 年度実施の結果に基づく「標準的な母集団」を用いて計算した偏差値のことであり、 学務によれば、名古屋大学の場合はスコア 40.0 以上で合格となるらしい。
以前にも書いたように、過去問をみて試験対策することは学問の本道から外れている、と、私は考えている。 従って、友人が過去問を眺めているところに横からちょっかいを出したことが何度かあるのを除けば、 自分で過去問をみることはしなかったし、特に試験対策は講じなかった。 このため、CBT の難易度がどの程度であるのかも、自分がどの程度得点できそうなのかもわからなかったし、 どのような分野からどのような問題が出題されるのかもサッパリ知らなかった。 ひょっとすると不合格になるかもしれぬと、内心ではガクガクブルブルしていたし、 その時は諦めて過去問に手を出そうと腹を括っていた。
蓋をあけてみれば、余裕の合格である。 今こそ、声高に宣言したい。 過去問など、いらないのだ。
さらに言えば、たぶん、これは私が優秀だから過去問不要だったのではなく、 大半の学生は、実は過去問や予備校などを必要としていないのだと思う。 周囲や先輩が皆 Question Bank を解き予備校の講義を受けているからといって、流されすぎである。 ビビリすぎである。 度胸が足らん。
先日、採血の実習が行われた。 学生二人が一組になり、互いの静脈血を採取しあうものであった。 私は編入生の某君の協力を得て、三度の刺入を行い、一度の採血に成功した。 血液が採血管に流入した瞬間には「アッ」という声を挙げてしまったが、何も想定外の事態が生じたわけではないので、 何が「アッ」なのか、よくわからない。 さて、私は別に採血実習を批判するつもりはないし、むしろ、たいへん良い実習だと思うのだが、 この実習の法的位置付けは際どいものであるように思われる。
採血は、多少なりとも侵襲的な行為であり、しかもこの場合は、採取した血液はそのまま捨てるのであるから、医行為でもない。 少なくとも形式的には、純粋な傷害行為である。 そこで問題となるのが、この採血が傷害罪に該当し得るのか、ということである。 被害者の同意がある場合に傷害罪が成立するかどうかについては法学的に議論があるようだが、 社会的観点から相当と考えられる場合については傷害罪は成立しない、という点では概ね一致しているようである。
従って問題となるのは、採血されることについて学生が同意していたかどうか、ということである。 たぶん、実習の際に「私は絶対に採血されたくない」と強硬に主張すれば、実習を免除してもらうことは可能と考えられる。 しかし実習にあたって私はそのような説明を受けなかった。 ひょっとすると、学生の中には気が弱くて、嫌だと言いだす機会をつかめずに採血されてしまう人がいるかもしれない。 そうした学生が後で「実は嫌だった」と言いだせば、あるいは傷害罪が成立する余地があるかもしれない。 もちろん、採血されることを恐れるようでは臨床医になるのは難しいだろうが、 医学科に入ったからといって臨床医にならねばならぬという規則はない。 医者になるならないは、個人の自由である。
些細なことではあるのだが、一応は侵襲性のある実習を行う以上、学生からきちんとしたインフォームドコンセントを得る必要があると思う。
10 月 8 日に続いて、臓器移植の話である。 臓器移植といってもいろいろあるが、ここでは脳死者からの臓器移植に限ることにする。
私は、公益社団法人日本臓器移植ネットワーク (以下、ネットワーク) に対し、少なからず不信感を抱いている。 ネットワークが作成したポスター等をみると、 「あなたの意思で救える命があります」とか、「いのちの贈りもの」とかいうような表現が、しばしば用いられている。 まるで「臓器移植は良いことである。人のためになる、素晴らしいことである。」と、言っているかのようである。 さらにいえば「臓器提供を拒否する奴は自分勝手だ」とでも言われているような、プレッシャーを感じる。 はたして、臓器提供とは、そういうものなのか。 「臓器を提供する権利も、提供しない権利も、等しく尊重される」という一方で、 「提供してくれ、提供してくれ」などとプレッシャーをかけるとは、一体、どういうことなのか。 それが、提供しない権利を本当に尊重している態度なのか。
臓器移植は、人の死生観や宗教観、哲学にかかわる問題である。 脳死が人の死であるかどうか、社会的必要に応じて部分的に法律で規定されているとはいえ、 あくまで根本的には、各人がそれぞれに考え、決めることである。 脳死後の臓器を「不要なもの」と考え移植に供したいと考える人がいるのも当然だし、 脳死を死とは認めずに、臓器摘出を殺人に等しいと考える人がいるのも自然なことである。 従って、臓器提供は、良いことだとか悪いことだとか、一概に言えるようなものではない。 このような観点からすれば、ネットワークが用いている文言は価値観の押しつけであり、不愉快である。
先日、ネットワークのとある職員と話をする機会があり、上述のようなことを述べたところ、 「おっしゃる通りであり、私も個人的には、ああいう文言には引っかかるところがある」とのことであった。 その方の考えでは、あくまで自発的に臓器を提供したいという人や臓器を欲しいという人がいた場合に、 それらを仲介するのがネットワークの仕事であり、 臓器移植を推進することが目的ではない、とのことであった。 その話を聴いて、私は、とてもすっきりした。
だが、臓器移植に関わっている医師の話などを聴くと、 どうやら、臓器移植は良いことであり、推進すべきであり、移植件数の増加を目指すべきである、 というような考えの持ち主も少なくないような印象を受けた。
いかがなものだろうか。
11 月 5 日に書いた EBM の話に関連する話題である。 先日、同級生の某君と話していて、これまで統計学的 evidence について誤解していたことに気がついた。 統計学に通じている人からすれば当然のことであろうし、こうした誤解は工学部出身者として恥ずかしいのだが、 この日記の趣旨に基づき、赤裸々に全てを語ることにする。 統計学的な話ではあるが、公衆衛生学だか何だかで習う程度の内容なので、医師や医学部生であれば誰にでもわかるはずである。
現在、最も有力な evidence とされているのは二重盲検による検証、あるいはそれに基づく、いわゆるメタ解析である。 すなわち、ある薬が有効かどうかを調べる際には、薬と偽薬 (placebo) を用意し、患者にはどちらかを無作為に投与する。 このとき、真の薬と偽薬のどちらが投与されたかは、医者にも患者にもわからないようにしておく。 そうした上で、真の薬か偽薬か知らないままに治療効果があったかどうかを判定する。 その結果として真の薬を投与された患者の方が良好な治療成績が得られたならば、この薬には効果がある、と結論するのである。 この二重盲検は、統計学用語でいえば、一種の検定を行っているわけであるが、具体的には 「この薬には効果がない」という帰無仮説の棄却を行っていることになる。 すなわち、二重盲検で「有意差あり」という結論が得られたならば、「この薬には何らかの効果がある」と推定される。
たとえば、感冒、すなわち上気道感染症に対し、抗生物質であるアモキシシリンが有効かどうかを考えよう。 アモキシシリンはペニシリン系の抗生物質であり、細胞壁の合成を阻害することにより細菌を死滅させるものであるから、当然、ウイルスには無効である。 一方、感冒の大半はウイルス性であるが、中には細菌性の感冒も存在する。 従って、大規模な二重盲検試験を行えば、アモキシシリンは感冒の治療に有効である、という結論が得られるはずである。
さて、何らかの理由により、この患者はウイルス性の感冒であると事前にわかっていたとしよう。 このとき、この患者にアモキシシリンを投与することは正当だろうか。 短絡的な頭脳を持つ医者は、したり顔で「アモキシシリンは感冒に有効だという科学的エビデンスがある」などと言い、 感冒患者にドシドシとアモキシシリンを処方して金を稼ぐであろう。 しかし冷静に考えれば、抗生物質がウイルスに無効である以上、この患者にアモキシシリンが奏効するはずはなく、この投薬は不適切である。 では、どうして、二重盲検の結果を眼前の患者に適用することができないのか。
二重盲検において患者群の中に、その治療が有効な患者と無効な患者が混在している場合、 充分に大規模な試験であれば「有意差あり」との結論が得られる。 すなわち、二重盲検の結果は「少なくとも一部の患者には効果がある」と言っているだけであり、 眼前の患者がその「一部の患者」に該当する可能性があるかどうかは、何も言及していないのである。 今回の例では、患者は「ウイルス性感冒」なのであって、病原体を問わない「感冒一般」について行った上述の二重盲検とは、背景が異なる。 従って、当該二重盲検の結果を、そのままこの患者に当てはめることはできないのである。 このことを、私はつい先日まで、はっきりとは認識していなかった。
このように考えると、患者はそれぞれ固有の背景要素を持っている以上、 二重盲検の結果をそのまま各症例にあてはめられる例は、実は少ないといえよう。 統計学的推論は、あくまで、病理学的、薬理学的、その他理論的な検討を尽くした上で、どうしても残ってしまう未知の領域、 いわば生命の神秘的な要素について、エイヤッと占う目的に限定して用いるべきである。
以上の議論から導かれる一つの結論として、癌治療に関する統計学的推論は非常に難しいということがいえる。 癌は非常に heterogeneous な疾患であり、同じ癌は世界に二つとして存在しないと言えるほどである。 癌の治療法について統計学的手段により有効性を調べることはできるが、 しかし眼前の患者について、その治療法が奏効する可能性を統計学的に論じることは極めて困難である。 その患者に固有の背景を全て無視して、たとえば「胃癌である」というだけの情報から統計学をあてはめることは可能であるが、 それは背景因子を無視した推論である以上、非常に粗い推定であるといわざるを得ない。 個別具体的な事例について議論するには、どうしても、病理学的、薬理学的、生理学的な議論が不可欠である。
今日の話題は、医学部学生向けの書籍の紹介である。 金原出版といえば、医学部学生には、各種ガイドラインなどを出版している会社として知られているのだろうか。 その金原出版から出ている『臨床検査法提要』という書籍が、おすすめである。
これは血液検査や尿検査など、現在の医療現場で行われる様々な検査について、その方法を細かく解説した辞書のようなものである。 主な購入者は臨床検査技師かもしれないが、帯の部分には「医師、臨床検査技師、薬剤師、看護師のために」と書かれているから、 我々もキチンと読者として想定されているらしい。
実際に医師になると違うのかもしれないが、学生の段階では、我々は検査の方法については、ほとんど注意を払っていない。 「どういう患者に対してどういう検査を行うか」ということまでは考えても、 「具体的にどのように検査を遂行するか」までは考えないのである。 臨床現場でも、医師が直接行うのは採血までで、具体的な血液検査の操作は技師任せ、という例が多いのかもしれない。 役割分担という意味では、それで良いのかもしれないが、それでも、実際にどのようにして検査が行われるのかは、知っておくべきだろう。 というのも、具体的な検査方法を知らなければ、その検査の長所や弱点が、わからないからである。
具体例を挙げよう。やや専門的な話になるので、医学や生物学を専門としない人にはわかりにくいだろうが、ご容赦願いたい。 先ほど、ふと、第 V 因子ライデン変異の有無はどのように検査するのだろうか、と気になったので、この臨床検査法提要で調べてみた。 第 V 因子ライデン変異とは、血液凝固因子のうち第 V 因子の Arg506Gln 変異のことである。 (もちろん、どこに変異があるかなどという細かなことまでは私も記憶していないから、調べながら書いている。) 正常な第 V 因子はプロテイン C によって不活化されることで負のフィードバック制御を受ける。 しかしライデン変異のある第 V 因子はプロテイン C による不活化をあまり受けないために、凝固亢進状態となる。 この変異は日本人には少ないが、欧米人の数 % にみられるらしい。
ライデン変異の有無を完全に調べるためには、ゲノム上の当該部位をシーケンシングする必要があるが、 これは時間も費用もかかるため、日常的な臨床現場ではあまり現実的ではない。 そこで提要をみると、活性化プロテイン C 存在下と不存在下での APTT の比を調べることで ライデン変異のスクリーニングとするらしい。 APTT とは何かを説明し始めると長くなるので割愛するが、要するに、血液凝固に要する時間の指標である。
正常な血液であれば、活性化プロテイン C があれば第 V 因子が不活化されるので、血液凝固には長い時間を要するようになる。 しかしライデン変異があれば、活性化プロテイン C の有無は、APTT にあまり影響を与えないはずである。 そこで、これらの時間の比を測定して、この比が小さければライデン変異が疑われる、と考えるのである。
たいていの場合、この検査方法は簡便な割に高い精度の推定が得られるであろう。 しかし、たとえば APTT が極端に延長あるいは短縮している場合などは、たぶん、ライデン変異の有無の推定精度も落ちるであろう。 このように測定手法から類推した考察は、稀に、臨床現場においても役に立つと思う。
「地域医療」という言葉が一部に流行しているようである。 名古屋大学医学部医学科でも「地域医療学」という講義が行われており、 何やら現代医療において非常に重要なことがらであるらしい。 しかしながら、講義を受けても教科書を調べても、私には結局、「地域医療」という言葉の定義がわからなかった。 「医療」と「地域医療」の違いは何なのか。同じものではないのか。 「地域医療ではない医療」には、具体的にはどのような医療が該当するのか。 1 月 20 日にも書いたような、言葉を明確に定義しないという 医学界の悪癖が、ここにも露呈しているように思われる。 同級生の某君は「国立がんセンターにおける医療などは地域医療に該当しないのではないか」と言っていた。 ひょっとするとそうなのかもしれないが、いまいち、釈然としない。
同様に曖昧な使われ方をする言葉の一つに「医学的」という語がある。 「全人的医療」という、これまた曖昧な標語の下に、「医学的事項だけでなく、患者の社会的背景まで考えて治療方針を云々」 などという言葉を、何かの講義で聴いたことがある。 私は「患者の社会的背景を考えて治療方法を選択するのは、医学的の範疇ではないというのか」と不満に思った。
一部の人々は、医学と生物学を混同しているのではないだろうか。 医学の目的は、人の健康を守り、尊厳を保つ助けをすることにある。 生物学が医学の中核を担っているのは確かだが、それに心理学、物理学、 その他あらゆる自然科学的、人文科学的な要素を総括するのが医学ではないか。 患者の社会的背景を考慮して治療方針を決定するのは現代医学では当然であり、「医学的事項だけでなく」とするのは誤りである。
このように医学の範疇は拡大してきているが、同様に医学の目的も変化しつつある。 大昔は、医学の目的は「人の命を救うこと」であったらしい。 そのため、とにかく命をつなげば良い、死なせなければ良い、ということになり、いわゆる延命治療が発達したのだろう。 しかし現代では、いわゆる尊厳死の是非が問われ、臓器移植が議論になり、予防医学が重視されていることからわかるように、 いかに健康を守るか、いかに人の尊厳を守るか、ということが医学の目的になりつつある。
思うに、基礎医学の発展が医師ではない基礎科学者によって担われ、医師はひたすら臨床を重視してきたがために、 ただ技術のみが進歩してしまい、医学の目的や倫理といった哲学的あるいは宗教的な側面が忘れられてしまったのではないか。 安定した高収入を欲する者が医師を目指す時代であり、学生は試験に追われて、志を胸に抱く余裕もない。
名古屋大学医学部医学科四年生の中で、講義への出席要件緩和を求めて署名運動を展開しようとする動きがあるらしい。 その首謀者が言うには、学生に講義への出席を義務付けることで、かえって教育の質が低下している、とのことである。 確かに、昔、大学というものが輝いていた頃には、出席の義務などはなかったそうである。
長尾健太郎君が亡くなっていたということを知ったのは、つい先日のことである。 たぶん彼は私のことなど覚えていないだろうが、私にとっては、彼は人生の目標であった。
私が初めて彼の存在を認識したのは、小学校六年生の時であったと思う。 私は当時日能研多摩センター校に通っていて、自慢ではないが、校内では成績の一、二を争う位置にいた。 全国でいえば二番手集団で、毎週行われるテストでは 50 位以内の常連、時には 10 位以内に入るし、100 位に入らなければかなりの不調、というところであった。
月に一度の公開模試では、非日能研生すなわち外部生も多数受験する。 こういう試験にはクセのようなものがあるので、だいたい、外部生は不利である。 たとえば私は、当時日能研と同程度の規模であった四谷大塚の公開模試を、試しに受験してみたことがある。 結果は 313 位ぐらいであった。私にしてみれば、とんでもなくひどい成績であるが、 日能研の先生方がいうには、「地の利を考えれば、そんなものだろう」とのことであった。
長尾君は、当時SAPIXに通っていたらしいのだが、あるとき、日能研の公開模試を受けたことがある。 彼はそのとき、全国一位をさらっていった。 私にしてみれば、日能研のトップ集団である益本君、甘利君、手塚君、龍岡君といった連中でさえ手の届かない位置にいるのに、 そうした英才達を飛び越えたところに、長尾という男が現れたのだ。 我々にとって、長尾健太郎の名は忘れられないものになった。 その後、私は麻布中学に進学することになったが、長尾は開成中学らしい、という噂を聴いた。
私は中学で囲碁部に所属したが、長尾君も、開成で囲碁部に入ったらしい。 麻布と開成は互いの文化祭を訪問して交流戦を行っている他、東京都の囲碁大会には私も彼も参加していたから、 何度か、彼と対局する機会があった。もちろん、勝負にならなかった。
私は、自分と彼との実力差を弁えていたから、あるとき、真似碁で挑んだことがある。 真似碁というのは、ルール上は認められているが、勝ちに執着する卑怯な打ち方であると思っていただければ良い。 中盤で長尾君のミスもあり、一時は私が優勢になったが、終盤には私が緩み、結局は負けてしまった。 その次に彼と対局した時も、私は真似碁を挑もうとしたが、彼は「またか」という顔をして 序盤から真似碁外しの手を放ち、また、私は負けた。
高校三年生の時、私は進路を決めかね、とりあえず一年は浪人するか、と決めていた。 噂では、長尾健太郎は東大理科 I 類に行くとのことであった。 もし彼が東大理 III すなわち医学部に行っていたら私は彼を軽蔑していただろうが、理 I ではそうもいかない。 私は「たとえば北海道大学などに行くのであれば恐ろしいことだが、 開成から東京大学などに行くとは、所詮、世間の価値観から離れられない男である。」などと負け惜しみを言うので精一杯であった。
その後、彼は京都大学大学院で博士の学位を得、ポスドクを勤めた後に名古屋大学で助教になったらしい。 東京から京都、名古屋とは、まったく、偶然の一致というものである。
実績からいえば、誰がどうみても、私より長尾君の方が優秀であろう。 だが、学問というものは、試験の点数や職歴、論文数などで単純に語れるものではない。 まだまだ、これからだと、私は密かに思っていた。
残念である。
いつまで残っているかわからないが、一応、 彼のサイトへのリンクを残しておく。 他に、長尾君の後輩にあたるという人物の日記も紹介しておこう。 こちらも。
私は「医学生」という言葉が嫌いである。 「医学生」とは、現代では医学部学生、さらに正確にいえば医学部医学科生のことをいう。 同様に「薬学生」といえば薬学部生をいうが、たぶん、ふつうは六年制の薬剤師養成コースの学生のみを指し、 四年制のいわゆる創薬系の学生は含まないのではないかと思う。 「看護学生」も看護師養成コースの学生を指す言葉であり、こちらは大学生に限らず、 いわゆる看護学校の学生全般を含むと思われる。 医療系以外でも「法学生」という言葉があり、法学部生とほぼ同義であろう。
ところが、工学部学生のことを「工学生」と呼んだり、理学部学生を「理学生」と称することは稀である。 なぜ、医療関係や法学だけが、こうした特別な呼称を持っているのだろうか。 詳しく調べていないので妄想で書く。 これらの学生が大学で学ぶことは、純粋に学問というよりも、職業訓練の色彩が強く、その点において 工学部や理学部、文学部や経済学部などとは大きく異なる。 そこで、一般の学生とは区別する意味で、慣習的に「医学生」などと呼ぶようになったのではないか。 あるいは、医学部制度ができる前に「医学を学んでいる人」というような意味で使われていた「医学生」という言葉を、 医学部制度ができた後にも引きずっているだけかもしれない。
歴史的経緯がどうであれ、単に「学生」とか「医学部生」とか言えば良いものを、 わざわざ「医学生」などという専門用語で呼ぶところに、少なからず、いやらしさを感じる。 医学部学生が何か特別な存在、エリートであるかのような錯覚を、しているのではないか。
同じような違和感は、部活動でも感じる。だいたいどこの大学でも、医学部には医学部内の部活動があり、 たとえば「医学部水泳部」とか「医学部硬式野球部」とかいった具合で、基本的に医学部の学生だけで構成されている。 また、正式名称は知らぬが、西医体という、西日本の医学部の体育系部活動の大会などもあるらしい。 なぜ、医学部だけで独立した部活動を行う必要があるのか。 これに対しては、医学部はカリキュラムが特殊で忙しいなどという反論があるようだが、それなら、 活動を平日夕方以降や土日に限って、比較的、緩く活動する同好会のような活動を全学で行えば良いだけであり、 組織として分離した医学部だけの部活動にする必要はない。 医学部はキャンパスが他学部から離れている、との意見もあるが、それでは京都大学などのように キャンパスが離れていない例について説明できない。 また、逆に京都大学桂キャンパスのような、 一部の学科が僻地に隔離されているにもかかわらず部活動は独立していない例を説明することもできない。
また、学生の自治活動についても、医学部は分離している。 多くの大学では自治会があるが、それとは別の組織として医学部自治会というものがある例も多いらしい。 全学連の他に医学連という組織もある。 ただし、全学連や医学連は、そもそも政治闘争団体であるから、部活動などの分離主義とは事情が異なるかもしれない。 医学連については、また後日、別の記事にまとめようと思う。
要するに、医学部は特別なのだ。エリートなのだ。他学部とは一線を画すのである。 そういう、おかしな意識が根底にあるように思われる。
朝日新聞に「アスピリンで大腸ポリープ抑制」という記事が載っていた。 いつものことながら、こうした学術的な記事には、だいたい、不必要な煽り文句がついている。
今回の発表でいえば、「大腸がんの予防につながると期待される」という文言が余計である。 大腸ポリープは、慢性炎症を背景に生じると推定はされるものの、詳細な形成機序は不明であり、 その解明につながるという意味で、この結果は「大腸癌の予防につながる可能性がある」ぐらいには言える。 だが、大腸ポリープの予防目的でアスピリンを常用するのはリスクが大きいし、「期待される」は、言いすぎである。
研究者は、予算獲得の都合もあるから、自分達の研究の価値を誇大に宣伝しがちである。 それに対して、新聞記者はだいたい素人であり、研究者の言うことをあまり正確に評価できず、こうした煽り文句をそのまま書いてしまうのではないか。
ひょっとすると最近は変わりつつあるのかもしれないが、一昔前には、新聞社においては政治部や社会部が花形であり、 新聞記者たるもの政治や社会に精通していなければならぬ、という風潮があったらしい。 それ自体がおかしいとは思わないが、技術立国日本の新聞記者の中に、物理学や化学や生物学において博士号を取得している人物が、いったい、どれだけいるのだろうか。
12 月 19 日に、病理診断について、形態学的診断には若干の脆弱性があるのではないかと書いた。 先日『ハリソン内科学 第 4 版』を読んでいたところ、p637, 88 章 「頭頸部癌」に、気になる記述があった。
切除断端が組織病理学的に陰性の(いわゆる完全切除を行った)腫瘍標本において, p53 の変異を有する細胞が切除断端に遺残していることがある。 すなわち, 腫瘍に特異的な p53 変異が, 表現型としては外科的に「正常」な断端からも検出されることがあり, これは腫瘍の遺残を示唆する。 顕微鏡では検出できないこうした断端病変を有する患者は, 真の断端陰性の患者よりも予後が悪い可能性がある。
このことは、何を意味するか。 腫瘍細胞が増殖する過程で、異型性を失うことは稀であると考えられている。 従って、こうした形態学的に正常だがゲノム的に異常な細胞は、腫瘍の本体から派生したとは考えにくい。
二つの可能性が考えられるだろう。一つは、腫瘍が炎症を惹起することで、周囲の非腫瘍性細胞に変異を誘発している可能性が考えられる。 もう一つは、形態学的異常を生じる前に p53 等に変異が生じ、増殖傾向を来した細胞群のうち、 一部がさらに変異を蓄積して形態学的に明らかな腫瘍となる一方で、残りの部分は形態学的変化を伴わずに留まっている可能性が考えられる。 後者の仮説においては、こうした形態学的に正常な細胞は、腫瘍性の増殖を示すことも示さないこともあり得るし、 さらにいえば、浸潤性や転移能を有する可能性も否定はできない。 そうしてみると、私が昨年末に空想した通り、形態学的に正常な腫瘍は存在し得ると考えた方が良さそうである。
腫瘍に対する形態学的診断には、こうした限界があることを頭の片隅に置いておくべきだろう。 ひょっとすると、生検した組織を培養する検査などが、将来的には有効かもしれぬ。
先月末に発表されて、巷で話題となっている STAP 細胞の件である。 嫉妬や羨望もあるのだろうが、論文に捏造疑惑もかけられているようであり、小保方博士も大変である。
私も Nature に掲載された STAP 細胞の論文を入手はしたものの、 あまり興味が湧かなかったこともあり、未だ読んでいない。 そろそろ目を通してみようと思っているのだが、読むにあたり、特に注意しておきたい点を予め書いておく。 読み終わったら、あらためて、論文のレビューを書こうと思う。
まず第一に、報道によればリンパ球から STAP 細胞を作ったとのことであるが、 その元の細胞が普通のリンパ球であることを確認したかどうか、という点である。 すなわち、細胞に刺激を加えることで幹細胞になったのではなく、 もとから存在する幹細胞が刺激により活性化しただけではないか、との疑念に、きちんと答えているのだろうか。 CD4 や CD20 などといった膜蛋白質の存在は、それが分化したリンパ球であることを保証しないし、 形態学的にふつうのリンパ球と類似していることも、分化の程度を保証はしない。 つきつめて考えれば、そもそも、ある細胞が「多能性幹細胞ではない」ことを証明するのは 非常に困難であると思われるのだが、その点は、どのようにして解決したのだろうか。
もし、元の細胞が多能性幹細胞でないことを確認していないのであれば、小保方博士は 「多能性幹細胞の新しい作り方」ではなく「生物に天然に存在する、これまで知られていなかった多能性幹細胞」を発見した可能性がある。 仮にそうであったとしても、重大な発見ではあるのだが、生物学的あるいは医学的見地からは、両者の意義は大きく異なる。 すなわち、前者であれば、iPS 細胞と同様に拒絶の心配をせずに自己細胞移植を行うことができるし、 あるいは患者の細胞から、疾患特異的なゲノム変異を持つ多能性幹細胞を作ることもできるが、後者ではそれらは困難だからである。
第二に、できあがった STAP 細胞は、どの程度の多分化能を持つのか、という点である。 幼若な細胞であれば、ある程度の多分化能を有するのは当然であるが、小保方博士は、どのようにして、 STAP 細胞が多能性を有することを確認したのであろうか。
新聞報道では、脊髄を損傷したマウスに STAP 細胞を移植することで、脊髄の機能が回復した、などという記事があったように思う。 こうした実験は、ES 細胞や iPS 細胞でも行われてきたが、はたして、これは細胞の多能性を確認する試験として適切なのかどうか、疑問がある。 というのも、多分化能を有する細胞を移植したからといって、その組織で必要とされる細胞に都合よく分化するという保証はなく、 実際、移植された幹細胞はなかなか生着しないという話があったように思う。 また、仮に移植により機能が回復したとしても、それは移植された細胞が適切に分化したからではなく、 サイトカインその他の、組織再生を促す環境因子が供給された結果である、という話も、どこぞで聴いた覚えがある。 名古屋大学でも、一部の教室では、幹細胞に頼らない再生医療の研究を行っている。
というよりも、常識的に考えて、移植するだけで神経に分化するわけがないでしょう。 もし、移植だけで適切に分化するのであれば、「損傷部位には適切な分化誘導するための環境が整えられている」ということになる。 たとえば表皮などのように、生理的に細胞の分化増殖により修復される部位であれば、そのようなことは充分に起こり得る。 しかし神経のように、生理的には増殖も分化もしない組織において、自然に、そうした分化誘導の環境が整えられているとは考えにくい。 逆に、もし本当にそうした環境が自然に提供されているのであれば、それは神経も生理的に増殖、回復し得るということを示唆しているのであり、 外部からわざわざ幹細胞を供給せずとも、機能回復する手段があると思われる。
考えてみれば、表皮の角質層のように終末分化してしまった細胞を別にすれば、心筋だろうと神経だろうと、 完全なゲノムを有している以上、適切な環境さえ整えれば細胞分裂をするはずである。 従って、脊髄損傷だろうが心筋梗塞だろうが、再生医療を行うにあたり、幹細胞が必要不可欠であるとは考えにくい。 むしろ、幹細胞を適切な細胞に分化誘導する困難を考えれば、幹細胞を利用しない再生医療の方が現実的であるように思われる。
なお、以前にも書いた通り、私は信仰上の理由から、iPS 細胞や STAP 細胞などの多能性幹細胞研究に反対である。 従って、こうした多能性幹細胞を巡る問題については、おそらく私の意見は偏っているので、注意していただきたい。
蛇足ではあるが、私は普段、研究者に対して「博士」という敬称はつけずに「さん」などと呼んでいるが、ここでは敢えて小保方博士と書いた。 これは、「小保方さん」について低俗な報道を繰り返す頭の悪いマスコミに対するあてつけ程度の意味である。
少し前から疑問に思っているロイコボリン救援療法 leucovorin rescue therapy の謎について、記しておく。 高度に専門的で厳密さを要求する内容であるので、医学関係者以外の方にも理解できるような配慮は、していない。
まず、メトトレキサート methotrexate は葉酸代謝阻害薬であり、抗癌剤として用いられる。 この薬剤は細胞膜をあまり透過せず、基本的には能動輸送により細胞内へ取り込まれる。 しかし中枢神経系や精巣などの腫瘍では、血中から腫瘍への methotrexate の移行が乏しいし、 また、一部の腫瘍は methotrexate の取り込みを低下させるような変異を獲得しているため、作用に乏しい。 そこで methotrexate を大量に投与することで、受動輸送による細胞内への移行を促すという治療法が考案された。 当然、正常細胞でも葉酸代謝が阻害されることになるのだが、leucovorin を投与すると、 正常細胞は rescue され、腫瘍細胞に選択的な毒性を発揮するのである。
ここで疑問に思うべき点は、なぜ、leucovorin では正常細胞だけが選択的に rescue されるのか、ということである。
南山堂『腫瘍薬学』によれば、methotrexate は細胞内で methotrexate polyglutamate となる。 一方、正常細胞では methotrexate polyglutamate はあまり形成されないらしい。 そして、leucovorin は methotrexate monoglutamate とジヒドロ葉酸還元酵素の結合を解除するが、 methotrexate polyglutamate は leucovorin 存在下でもジヒドロ葉酸還元酵素を阻害し続ける、というのである。
結局、どうして腫瘍細胞と正常細胞の間で methotrexate polyglutamate の形成程度に差が生じるのか、よくわからない。 少し論文検索してみた限りでは、どうも、この polyglutamate については未だに謎が多いようである。 methotrexate の細胞内への取り込み低下と、polyglutamate 化の間に、何か関係があると思うのだが。
もし何かご存じの方がいれば、ぜひ、ご教示願いたい。
3 日前に書いたロイコボリン救援療法について、一定の理解を得るに至ったので、ここにまとめる。 葉酸代謝の専門書をみれば詳しく書いてあるのかもしれないが、そうした専門的な書物を私はみつけられなかったので、論文に頼った。 参考にしたのは、ロイコボリン救援療法の理論的基礎についての、次のレビューである。 27 年も前の論文であるが、私が調べた範囲では、これが最新の情報であった。 なお、著者は現在 Yeshiva University Albert Einstein College of Medicine の教授で、葉酸トランスポーターの専門家であるらしい。
この論文は名古屋大学に所蔵されていなかったので ILL 文献複写を依頼したところ、 鳥取大学附属図書館医学部分館から 3 日で届いた。実にありがたいことである。 なお、この論文の英語はいささか冗長に感じられ、私のように英語力の乏しい者にとってはやや難読であるが、説明は丁寧である。 葉酸代謝について、『ハーバード大学テキスト 病態生理に基づく臨床薬理学』に書かれている程度の基礎知識があれば、充分に理解できる。 余談であるが、同書は薬理機序について明快に、かなり詳しく解説した良書であるので、医学科の諸兄姉には、ぜひ一読することを強くお勧めする。
まず、葉酸の働きについて確認しよう。葉酸はメチル基転移反応の補酵素であり、様々な酵素に用いられる。 中でも、チミジル酸シンターゼが医学的に重要である。 チミジル酸シンターゼは、dUMP をメチル化して dTMP を合成する酵素である。 核酸合成には de novo 経路と salvage 経路があるが、チミジル酸は RNA に含まれていないのだから、 salvage 経路でいきなりチミジル酸が合成されることはないと考えてよい。 すなわち、チミジル酸の合成には dUMP のメチル化が必須である。 なお、このチミジル酸シンターゼを阻害する薬剤が 5-フルオロウラシル (5-FU) やフルシトシンである。
初等的な教科書に書かれている説明を繰り返しても仕方がないので、核酸合成経路の説明は省略した。 何を言っているのかわからない人は、核酸合成経路を、もう一度、復習していただきたい。 蛇足であるが、私は病理学の基礎を学んだ際、不勉強であったためにチミジル酸合成には dUMP のメチル化が必須であることを認識しておらず、 葉酸欠乏で巨赤芽球性貧血を来すことが理解できず苦しんだ。 すなわち、どうして RNA は合成できるのに DNA は合成できないのか、わからなかったのである。 ところが、あるとき道端で一学年下の「教授」と呼ばれる秀才に、なぜ葉酸欠乏で巨赤芽球が生じるのか尋ねたみたところ、上述のようなことを教えられ、納得した。
さて、葉酸は細胞内でイロイロと代謝されるわけだが、補酵素として活性を有するのはメチレンテトラヒドロ葉酸 (methylenetetrahydrofolate; MTHF) である。 これが補酵素として使われると、メチル基を失ってジヒドロ葉酸 (dihydrofolate; DHF) になる。 DHF はジヒドロ葉酸レダクターゼ (DHFR) によって還元されてテトラヒドロ葉酸 (tetrahydrofolate; THF) となり、さらにメチレン化されて MTHF に戻る。 この DHFR を阻害する薬剤が、抗癌剤として用いられるメトトレキサート (methotrexate; MTX) や、 ST 合剤の「T」であるトリメトプリム trimethoprim, およびトキソプラズマやマラリアに有効なピリメタミン pyrimethamine である。
では、MTX を抗癌剤として用いる場合について考えよう。 抗癌剤である以上、腫瘍細胞を選択的に殺傷しなければならないのだが、その選択性の理論的基礎はどのようなものか、という点が、本日の主題である。 MTX は、基本的には能動輸送で細胞内に取り込まれるのだが、この能動輸送は、葉酸を取り込むトランスポーターが担うらしい。 一方、MTX は多少は脂質二重層の膜を透過するため、いくらかは受動拡散により細胞外に漏れ出すらしい。 ふつう、葉酸取り込みのトランスポーターはあまり多量には発現しておらず、すぐに飽和するため、 MTX の取り込みは基本的には 0 次速度論に従って、すなわち細胞外の MTX 濃度に依存せず一定の速度で、取り込まれる。 一方、薬物の漏出は単純拡散であるから、細胞内外の薬物濃度差に比例する速度で行われる。 また、leucovorin は MTHF の前駆体であり、これも通常は葉酸トランスポーターにより能動的に細胞内へ取り込まれる。
以上のことから、古典的に言われてきた、ロイコボリン救援の第一の機序が説明できる。 まず、ロイコボリン救援療法が有効なのは、葉酸トランスポーターの変異あるいは血液脳関門などの生理的障壁により MTX を 細胞内にあまり取り込まない腫瘍であることに注意されたい。 MTX を多量に投与すると、葉酸トランスポーターの活性が低い細胞であっても、受動拡散によって MTX が細胞内へ取り込まれる。 そこで低濃度のロイコボリン leucovorin を投与すると、leucovorin は葉酸トランスポーターの活性が低い細胞にはほとんど取り込まれず、 正常に葉酸トランスポーターを発現している正常細胞に選択的に移行する。 leucovorin は、MTX に拮抗することで DHFR の阻害を解除する。 正確にいえば、これは leucovorin ではなく leucovorin が代謝された産物の作用なのだが、ややこしくなるので、いささか不正確ではあるが leucovorin と表記する。 このため、leucovorin 投与により「葉酸トランスポーターを正常に発現している細胞」が選択的に救援されるのである。
1980 年代になって、どうやらロイコボリン救援療法の選択性には、 MTX や DHF のポリグルタミル化 polyglutamylation が重要らしい、ということが報告された。 MTX は細胞内でモノグルタミル化 monoglutamylation されて安定化する。 さらに polyglutamylation されることもあるのだが、抗癌剤で副作用を生じやすい骨髄や腸管上皮などの正常細胞では、ほとんど polyglutamylation されないらしい。 その一方で、一部の腫瘍細胞では MTX や DHF に著明な polyglutamylation が起こるらしい。 さて、polyglutamylation された MTX や DHF は DHFR などの酵素を阻害するのだが、 この阻害はどうやら leucovorin と拮抗せず、すなわち非競合阻害であるらしい。 従って、高度な polyglutamylation を来す腫瘍細胞は、たとえ leucovorin が細胞内に到達したとしても、救援されない。 これがロイコボリン救援の第二の機序である。
こうした二つの機序により、ロイコボリン救援療法では、著明な polyglutamylation を来す腫瘍細胞を選択的に傷害するのである。 当然のことながら、葉酸トランスポーターを正常に発現して、しかも polyglutamylation を来さないような腫瘍細胞は、leucovorin に救援されてしまう。
アスピリンの副作用として代謝性アシドーシスを来すことがある、という話を読んだのだが、その機序がよくわからなかった。 ところが、私の手持ちの薬理学や内科学の教科書類には、その副作用の機序について詳しく説明しているものがない。
そこで、ふと気がついたのが、某准教授の推薦で購入した、上條吉人『臨床中毒学』(医学書院) である。 この教科書は中毒について解説したものであるが、アスピリンなどの医薬品も中毒を来すわけであるから、この書の守備範囲である。
アスピリン中毒についても詳細な記述がある。せっかくだから、簡潔に紹介しよう。 アスピリン (アセチルサリチル酸) は体内でサリチル酸に変換されるが、このサリチル酸は弱酸性であり、非イオン型は疎水性の小分子である。 従って、例の有名な機序により、サリチル酸はミトコンドリアの脱共役を来して好気呼吸を阻害し、 乳酸産生や β 酸化を促進して代謝性アシドーシスを来す。 また、尿をアルカリ化することで再吸収を防ぎ、腎排泄を促すことができる。 代謝性アシドーシスに対する代償反応として炭酸水素イオンの再吸収が亢進するから、低カリウム血症には注意が必要である。
また、アスピリン中毒では高体温を来すらしいのだが、これが私にはよくわからない。 単に交感神経系が亢進するから、という理解で良いのだろうか?
2 月 20 日に書いたフォリン酸救援療法の話題の続きである。 私は不勉強であるため、よく考えもせずに「ロイコボリン救援療法」などと書いてしまったが、 「ロイコボリン」は商品名であり、一般名は「フォリン酸」である。 臨床的には薬剤は商品名で呼ぶのが普通らしいが、学術的には一般名を使うべきであると思うので、「フォリン酸救援療法」とする方が良いだろう。
2014 年 2 月 25 日昼の時点では、Wikipedia 日本語版の「ロイコボリン」の項や、英語版の「Folinic acid」の項では、作用機序について誤った説明がなされていた。 Wikipedia には、しばしばこういうことがあるので、注意されたい。 また Wikipedia は、特に専門的な内容については英語版の方が充実しているので、自分の関心があるページについて、 英語版を翻訳して日本語版に投稿するのは、自分の勉強にもなり、お勧めである。
最近、また糖質制限ダイエットなどというものが流行しているのだろうか。 一部で人気の某精神科医がブログで、自身が糖質制限を行っていることを宣言していた。 世間には、「医者は人体のことをよくわかっている」などと誤解をしている人が少なくないらしく、 「医者がそう言っていたから」と、医者の発言を素直に信じてしまう純粋な方も少なくないようなので心配である。 医学関係者としての良心から、そのブログでみかけた、ひょっとすると糖質制限信者が誤解しているかもしれない点を指摘しておくことにする。
第一に、「糖分を摂取しなくても、蛋白質や脂質から糖質を作ることができる」というのは誤りである。 蛋白質から糖新生でブドウ糖を合成できるのは事実だが、脂質から糖を合成することはできない。
多少専門的な話をすれば、厳密には、原理的にはアセチル CoA と二酸化炭素からピルビン酸を合成する酵素が存在しないとは限らない。 こうした酵素は熱力学の第二法則に矛盾するが、熱力学の第二法則が正しいことを実験的あるいは理論的に証明した者はいない。 私は、熱力学の第二法則は誤りであると信じているし、将来的に、解糖系を真の意味で逆行する反応が実現されると考えている。 なお、糖新生は厳密な意味では解糖系を逆行していないことに注意されたい。
第二に、脳は糖分だけでなくケトン体も栄養にできるから、糖分を制限しても脳の働きに影響はない、という論理も誤りである。 なぜならば、糖分を極端に制限すれば、糖尿病性ケトアシドーシスと類似の病態を来し、悪くすれば命に関わるからである。
素人は「糖尿病」という病気を、体内の糖分が多すぎる病気であると誤解することがあるようだが、それは正しくない。 糖尿病は「ブドウ糖が血液から細胞内に移行しない病気」と考えるのが正しい。 その結果として、血中のブドウ糖が多くなりすぎて血管障害や口渇感などを生じる一方で、細胞ではエネルギーが不足する。 さて、重症の糖尿病患者が、インスリンの自己注射を怠ると何が起こるか。 インスリンは「血中のブドウ糖を細胞内に移行させるホルモン」である。 従って、インスリンが極端に不足すれば、細胞はブドウ糖を取り込めず、エネルギー不足となる。 細胞の中で起こる現象だけでいえば、これは、糖分が極端に不足している状態とほぼ同様である。
特に肝細胞などでは、ブドウ糖が不足している場合には脂肪を分解し、アセト酢酸やアセトンなどの、いわゆるケトン体を作る。 ケトン体の一部が脳などで栄養に使われるのは事実だが、大量に産生されれば、患者の口からはアセトン臭が発し、また血液は酸性になる。 これが糖尿病性ケトアシドーシスである。
ケトアシドーシスの何が悪いのか詳しい機序はよくわからないのだが、 脳などでエネルギーが不足することや、体液中のイオンバランスが崩れることなどにより、意識障害などを来すようである。 すぐに治療しなければ、もちろん、死ぬこともある。
もっとも、健康な人であれば、糖を摂取しなくても蛋白質を充分に摂っていれば、 肝臓における糖新生により糖を合成できるから、急に体調を崩すようなことはないだろう。 しかし、肝細胞などに負荷がかかるわけだから、肝障害が少しずつ蓄積していく可能性は否定できない。 血液検査等でも肝機能障害は発見されないだろうが、こうした慢性的変化の場合には、 検査で異常が発見される頃には、よほど状態が悪くなっているであろう。
糖分の摂取が本当にヒトにとって必要なのか、あるいは不要なのか、本当のことは誰も知らない、というのが現在の医学から言えることだろう。 私の個人的な見解でいえば、糖も蛋白質も脂質も、バランス良く摂取するのが無難であると思う。
間隔が空いてしまっているが、ゆっくりと書き物をする余裕がないため、医学的疑問を二つ挙げておくことにする。
まず第一に、『ハリソン内科学 第 4 版』 699 ページによれば、去勢治療抵抗性の前立腺癌においても、 大半の例ではアンドロゲン感受性は保っているらしい。 すなわち、増殖はあくまでアンドロゲンによるコントロールを受けているというのだ。
これは二つの点で不思議なことである。第一には、アンドロゲン感受性であるならば、どうして 去勢治療、すなわち抗アンドロゲン療法に抵抗性であるのか、という点である。 第二に、どうしてアンドロゲン不応性の前立腺癌が稀なのか、という点である。
第一の点についてはよくわからないのだが、第二の疑問については、一応の回答を考えることができる。 すなわち、アンドロゲン受容体は RAS のような G 蛋白質とは異なり、機能を保ったまま活性化する変異が困難である、と考えられる。 アンドロゲン受容体は転写調節因子であり、その活性部位が受容体とリガンドの両方にまたがっていると考えれば、 なるほど、活性化変異というものは、なかなか困難であろう。
もう一つの疑問は、女性化乳房である。 女性化乳房とは、男性の乳房が女性のように膨らむものをいうのだが、これにはいくつかの原因があるらしい。 一つ特徴的であるのは、肝硬変などによる肝機能障害により女性化乳房を来すことがある、というものである。 これについては、エストロゲンはふつう肝臓で分解されるのだが、肝機能障害ではこのエストロゲン分解能が低下し、 結果としてエストロゲン過剰状態になるため、とする説明がなされることがあるらしい。
しかし、これは説明になっていない。 ふつう、ホルモン等の産生や分泌は負のフィードバック制御を受けているので、 分解能が亢進しようが低下しようが、それほど顕著なホルモン異常は来さない。 別の言い方をすれば、エストロゲンがそれほど過剰になるほど肝機能が低下しているなら、もっと様々な、 生命にかかわる異常が生じるはずではないか、と思われる。
よく調べていないのだが、ひょっとすると、エストロゲンの産生は負のフィードバック制御を受けていないのだろうか。 というようりも、そうでなければ、エストロゲン分解能低下と女性化乳房を結びつけることは不可能である。
Massachusetts General Hospital は、米国 Harvard Medical School の teaching hospital である。 おおざっぱに言えばハーバード大学の附属病院である。 念のために確認しておくが、米国の大学には医学部はなく、medical school がある。 medical school は graduate school, すなわち大学院であり、日本でいう専門職大学院に相当する。 専門職大学院は、法科大学院などの、高度に専門的な職業に就くための教育機関である。 ハーバード大学は「ハーバード大学テキスト」として優れた教科書を出版しているのだが、 薬理学や血液疾患については日本語訳もあり、明快で詳しく、知識偏重ではなく医学的思考を重視した名著である。 私は、これらの教科書を読み、ハーバード大学のファンになった。
さて、New England Journal of Medicine 誌には、Case Records of the Massachusetts General Hospital として、 年に 40 報ほど、症例検討会の報告が掲載されている。 日本でも、全国各地の大学でこの Case Records の勉強会が行われており、名古屋大学医学部医学科も例外ではない。
当初、私は、かの Massachusetts General Hospital からの報告であるから、さぞすばらしいものなのだろうと期待していたのだが、 実際に読んでみると、いくつか残念な点があった。 その中で最も気になったのは、言葉の使い方が不正確なことである。
血液検査の結果を示す表に ``Carbon dioxide (mmol/litter)'' という項目がある。 Carbon dioxide とは、日本語でいえば二酸化炭素である。 しかし、その Carbon dioxide の基準値が 23.0-31.9 mmol/litter とされていることや 医学の世界では二酸化炭素濃度は分圧で表現するのが普通であることなどから考えると、 これは炭酸水素イオンを言っているものと思われる。 すなわち、炭酸水素イオンと二酸化炭素を区別していないのである。
また、血液検査所見として ``test of liver function'' という表現がみられた。 たぶん、これはアスパラギン酸アミノトランスフェラーゼやアラニンアミノトランスフェラーゼの血中濃度を言っていると思われる。 というのも、これらの酵素は肝臓に多く含まれており、肝炎などの際に逸脱酵素として血中濃度が上昇することから、 肝機能の指標とされることがあるからである。 しかし、これらの酵素は肝臓特異的ではないし、肝機能障害が必ずしも逸脱酵素の放出を伴うわけでもないから、 これらの酵素の血中濃度を「肝機能の値」などと表現するのは誤りである。 ましてや ``tests of renal and liver function were elevated'' という表現は意味不明である。 機能が向上したのか、それとも逸脱酵素の血中濃度が上昇したのか。 たぶん後者であろうが、あまりに言葉に無頓着である。
言葉の使い方が多少いいかげんであっても空気を読んで理解してくれるだろう、という甘えがあるのではないか。 名門ハーバードといえども、そうした意識の低さや、学問に対する真摯な姿勢の欠如と、無縁ではいられないらしい。 まことに遺憾である。
本日、雨天の中、名古屋大学医学部では動物慰霊祭が行われた。 これは、簡素ではあるが、動物実験で犠牲となった動物の霊を慰める祭典である。
名古屋大学医学部医学科では、三年生の後半に基礎医学の研究室に配属され、また、一部の学生は任意に研究室に通い、研究指導を受ける。 時に勘違いしている人がいるが、研究と実験は同義ではなく、全く実験を行わない研究もある。 とはいえ、医学研究は何らかの形で動物実験と関係することが多いため、医学科三年生の多くは動物実験に関与している。 ところが、本日の慰霊祭では、昨年に較べると、三年生の参列者が少なかったように思う。なぜだろうか。
率直にいえば、慰霊祭の位置付けには繊細な問題があるだろう。 動物実験を巡っては、いわゆる動物愛護団体などからの厳しい批判があり、時には実験を妨害するために違法な活動が為されることもある。 そこで動物実験に対する批判を緩和する目的で慰霊祭を行っているという側面も、あるのではないかと感じられる。 また、自分達の都合で動物を殺害しておきながら、その冥福を祈るなどというのはあまりに自分勝手であり、偽善的だという批判もあるだろう。 このような観点からすれば、ある種の正義感の表現として慰霊祭をボイコットするという態度は、合理的であるといえる。 あるいは、単に宗教上の理由から、動物の霊を慰めるという概念を否定する人もいるだろう。
このように、宗教的、あるいは社会的信条に基づいて慰霊祭を欠席するのであれば、何ら問題ない。 あるいは、どうしても実験等で手が離せずに参列できなかったのであれば、スケジュール管理にいささかの問題はあるかもしれないが、やむを得ないといえよう。 しかしながら、もし、単に面倒だからとか、雨が降っていたからとか、そういう理由で欠席したのであれば、 医師として、あるいは医師の卵として、倫理的に問題があると思う。 もちろん、中には直接的には動物実験を行っていない学生もいるであろうし、私もその一人ではあるが、医学を修める以上、 少なくとも間接的には動物実験の恩恵を受けていることは確かである。 「私は直接、動物を殺してはいない」などという釈明は、成立しない。
私は、自身に帰属する property の中で、生命が何よりも尊いとは思わない。 最も大切であり、時には生命より優先すべきものは、人としての尊厳である。 自らの尊厳を守るということは、他者の尊厳を守るということでもあり、それはヒトに限らず、実験動物についても同様である。 また、我々にとって、動物実験は必要不可欠である。これは、食料として動植物を殺傷せねばならないことと同様である。 従って、我々の職務として実験動物を殺傷することは、不可避である。 ゆえに、我々は、実験動物の尊厳を守る形で動物実験を行わなければならない。
医学を学び、医学を研究する中で、宗教や思想上の特別な事情がないにもかかわらず慰霊祭に参列したいという強い思いが湧き起こらない人がいたとすればとすれば、 その人は、何か大切なものを忘れてしまっているのではないだろうか。
本日は、基礎医学セミナーの研究発表会が行われた。 名古屋大学医学部医学科では、三年次後半の半年間は講義が一切なく、基礎医学あるいは社会医学の研究室に配属されて研究指導を受ける。 その半年間の成果を発表するのが、この発表会である。
三十余名の学生は口頭発表を行い、残りの者はポスター発表を行う。 ただし、このポスター発表は変則的なものである。 審査員が順番にポスターをみてまわり、その際に発表者は 6 分ほどの口頭説明と 3 分ほどの質疑応答を行う。 審査員がいない時は、発表者もポスターの前から姿を消すことが多い。 ふつう、学会などで「ポスター発表」といえば、発表者は原則としてポスターの前に常時待機し、 訪れた人と 1 対 1 または 1 対少数で侃侃諤諤の議論をする、というものであり、 この双方向の議論こそが、ポスター発表の醍醐味であるといえよう。 本日のような形式のポスター発表は、口頭発表の縮小版に成り下がっており、実に寂しい。
発表者が不在のポスターとにらめっこをしてもイマイチ面白くないので、私はほとんどの時間を口頭発表の会場で過ごした。 質疑応答の時間には積極的に挙手をしたのだが、午前の部の司会をした学生からは 「あいつは、いつもくだらない質問をして貴重な時間を浪費する要注意人物である」などとマークされていたのであろう、露骨に指名を回避されてしまった。 それでも、次第に参加者が疲れてきたのか、挙がる手が減ってくると、司会者も私を指名せざるを得なくなり、私は嬉々として質問を繰り出した。
私が発する質問には、二種類ある。一つは、純粋に学術的疑問から発するものであり、もう一つは、発表者の見識の不足を指摘するものである。 後者の質問については、時に、陰湿であるとか、嫌らしいとか、言われることがあるのだが、私は、そうは思わない。 いやしくも「研究」と称する事業を為し、それを人前で発表する以上は、自らの発表内容について、誰よりも良く理解していなければならない。 もちろん、指導教員よりもよく理解していなければならない。 時に誤解している人がいるが、三年生の終わりともなれば、我々は基礎医学を一通り修めたのであるから、 基礎的な学識については既に教授に迫る位置にあるといえる。我々と教授との違いは、ただ、経験の多寡だけである。 我々が研究室で行っている研究そのものは、教授にとっても未経験のものであり、それを現に為している我々こそが、最も経験豊富な者であるといえる。 すなわち、当該研究に限って議論するならば、我々の方が、教授よりも詳しいはずである。 こんなことは工学部や理学部では常識なのだが、なぜか、医学部の学生は、そうした意識を欠くことが多いようである。
ともあれ、発表者の研究内容に関することがらであれば、門外漢の私などよりも、当事者たる発表者の方がはるかによく理解しているのであり、 私がいかに陰湿な質問を繰り出そうとも、それに回答することは赤子の手をひねるが如きものであろう。 実際、優秀な人物は、私の質問に対し即座に明瞭な回答を与え、「フフン、あんたは四年生にもなって、そんなこともわからんのか」と言わんばかりの顔をするのである。
閑話休題、発表会の感想である。 口頭発表自体は、ほとんどの人は経験が浅いであろうにもかかわらず、綺麗に発表されていたように思う。 ただ、質問への回答はいささか残念であった。 というのも、「yes」か「no」かで答えられるような質問には、まず「yes」か「no」かを述べ、さらに必要があれば補足説明する、というのが世界の常識であると思われる。 しかし、ほとんどの人はそうした指導を研究室で受けなかったのであろう、yes だか no だか曖昧なままに冗長な説明を行い、 時には、最後まで聴いても結局 yes なのか no なのかわからないようなこともあった。
ポスターに関しては、美しくわかりやすくまとめている人もいたが、率直なところ、小難しくてよく理解できないものが多かった。 これは、一つには私の学識不足が原因なのであろうが、もう一つには、書いている本人が、研究の背景や目的をよく理解していないせいであると思われる。 専門外の者にとっては、実験の詳細な方法やら結果の解釈やらは、なかなか、容易に理解できるものではない。 しかし、実験の目的や研究の背景が明らかであれば、その分野の素人であっても、発表者の述べる論理を容易に理解することができるのである。 私自身の話をすれば、大学院時代には原子炉物理学の中でも特にマイナーな分野を扱っていたため、 学会発表はもちろん、研究室内の討論会でも、発表時間の半分近くは背景の説明に費した。 このように、他分野の人に説明する場においては、研究の背景や目的を明瞭にすることが重要であるのに、目的について 「○○の△△への影響を調べること」というような曖昧な表現をする人が多かったのは、遺憾である。
言うまでもなく、国立大学医学部医学科は、現在の大学受験界においては最難関である。 すなわち、医学科生は受験界の勝者であり、エリートである。 従って、医学科生には医師としての輝かしい将来と高い報酬が約束されているのは、当然のことである。 と、考えている者がいるように思われてならない。 編入学や推薦で入学した者を別にすれば、確かに、彼らの頭脳は入学時点ではエリートであった。 しかしながら医学部在学中に、彼らは科学的思考を忘れ、ひたすら教科書を暗記するマシーンと化し、 学生としての質を失い、肉体労働者となって卒業していくように、私には感じられる。 肉体労働も尊いものではあるが、肉体労働者としては、彼らは別にエリートではない。 このように、医学部生は、大学入学以後は特段エリートでも何でもなくなっているのだが、何か勘違いしている学生が多いようで、 時に、歪んだエリート意識から来る暴言を耳にすることもある。
周囲の学生諸君をみていると、彼らは本当に医学が好きなのだろうか、という疑問が湧いてくる。 成績が優秀だったから、親や教師に勧められて医学部に来てしまっただけであり、 実はあまり医学が好きではない者が多いように思われる。 こうした学問への関心の薄さこそが、医学部生が、工学部生や理学部生に較べて低品質であるゆえんであろう。なお、農学部については、私はよく知らない。
病理学の某教授が講義中に言っていたように、学ぶということは、疑問を発するということである。 何となく環境に流されて学生生活を送っている者は、卒業するまで、ついに何も学ぶことがないであろう。 そうした学生は、やがて医術を施す労働者にはなっても、終生、医学を身につけることはなく、凡医として生涯を終えるであろう。 この意味において、私は、二世の医師や医学部生に対し、ある種の疑念を抱いている。
日本においては職業選択の自由が憲法で保証されているから、基本的には、親が医師であるからといって、子が医師になってはいけないということはない。 だが、親が医師、特に開業医で、子に医業を継がせたいと思い、子を医師にすべく育て、また子がその期待に応えてしまった場合については、非常に危険であると思う。 なぜ医学部に来たのか、と問われて「親が医者だし」というようなことを口にする者がいるが、それは「私は何も考えていない」と述べているのと同義である。 たぶん、この文章を読んでくださる人の中には、このようなパターンに該当する人もいて、二世であることの何が危険だというのか、と憤慨するであろう。 しかし、これが危険なパターンであることを理解できないこと自体が、既に、思考が歪んでしまっている証拠である。
医者の世界は、世間からみれば、いびつである。 時代錯誤の権威主義がはびこり、豊富な資金にものをいわせて政治に介入し、既得権益を守り、医師免許なる鉄壁の内側で安寧を貪っているのである。 世間の人々は、こうした医者の悪口を言っているが、さすがに医者の前では口をつぐむため、医師や二世は、それらの悪口を耳にすることはない。 そうした、狭く、世間から隔絶された医師の家に育ち、外の世界をよく知らないままに、弱冠 18 歳で医師の道を選んでしまうということは、視野の狭小なることの証左である。 二世医師の全てが凡医だというわけではないが、子が親に比肩し、あるいは親を凌ぐ例は、稀である。 おそらく、これは、親の命じるまま素直に成長し、疑問を呈する能力、すなわち物事を学ぶ能力が、磨かれないためであろう。
二世の諸君には、最低限、卒業後は親元から離れ、決して家業を継がないことをお勧めする。
特に最近、というわけでもないのだが、いわゆるエセ科学が流行している。 いわゆるエセ科学とは、実際には何の科学的根拠もないのに、あたかも科学的に証明されているかのように装った風説のことをいう。
有名な話では、たとえばコップに入った水にクラシックの音楽を「聴かせる」と美味しくなるだとか、 マイナスイオンがどうこうとか、ナノイーが云々とか、プラズマクラスターだとかいうものである。 最近は「酵素を補う」などと謳った飲食物もあるらしい。 これらは全て、一切の例外なく迷信であり、いわゆるエセ科学である。 いかにも馬鹿げた話なのであるが、こうした迷信を信じる一般人が少なくないらしいから、 日本の科学教育水準の低さには、呆れるばかりである。
とはいえ、日本を代表する大企業が、こうしたインチキ商品を開発し、大々的に宣伝しているのだから、 素人がつい騙されてしまうことには、ある程度、仕方ない面があるかもしれない。 だが、まっとうな教育を受け、確かな学問を身につけたはずの技術者達が、 こうした科学を冒涜するような商品の開発を手がけるとは、いったい、どういうことなのか。 いくら職務上の命令だからといって、そのようにして素人を欺き、神聖なる学問を冒涜することに、良心の呵責を感じないのか。
いわゆるエセ科学に、いちいち反論するのも馬鹿らしいのだが、こうした欺瞞が看過できぬほどに世間に満ちており、 しかも日本屈指の頭脳集団である医学科生の中にも、こうした迷信を信じている者が若干名ながらいるようなので、敢えてここで批判を展開しよう。
まず、コップの水が音楽で美味しくなる話について考える。これにはミカンだとか、優しい言葉をかけるだとか、 様々なバリエーションがあるようだが、いずれも、プラシーボ効果である。 プラシーボ効果の定義には、人によって若干の差異があるようだが、ひらたく言えば、 「本当は効能がない偽薬であっても、効くと思って飲めば効いたような気になる」というものである。 つまり、「音楽を聴かせたのだから、美味しくなっているはずだ」と思って飲めば、本当に美味しく感じるのである。 これが単なる思い込みであることを証明するには、次のような実験を行えば良い。 まず、A さんがコップの水に音楽を聴かせる。その水と、音楽を聴かせていない普通の水の入ったコップを用意して、 B さんに、どちらが美味しいか質問する。このとき、B さんには、どちらのコップが「音楽を聴いた」水なのかはわからないようにする。 こうした実験を行えば、B さんには、どちらの水も同じ味に感じられるだろう。
話が逸れるが、名器とされるヴァイオリンにストラディヴァリウスがある。 ヴァイオリンの弾き手も聴衆も、ストラディヴァリウスの音は素晴らしいと言うが、現代に作られたヴァイオリンと何が違うのか、現代科学をもってしても解明されていない。 そこで、ストラディヴァリウスと普通のヴァイオリンの音色について、聴衆にはどちらだか分からないようにして音の良し悪しを評価させる、 という試験が過去に何度も行われた。こうした試験では、特にストラディヴァリウスの方が評価が高くはならなかったようである。 要するに、ストラディヴァリウスも別段、名器ではなく、単なるプラシーボ効果なのであるが、なぜかクラシック関係者は、そのことを認めたがらない。
閑話休題、次はマイナスイオンやナノイーやプラズマクラスターの件である。 これらは全て、学術用語としては存在せず、各企業の広報担当者が、なんとなく科学的な雰囲気を醸しだすために作った造語である。 しかも悪質なことに、ウェブサイトなどで「仕組み」を解説する振りをしながら、結局、 マイナスイオンとは何か、ナノイーとは何か、プラズマクラスターとは何か、という定義をしないのである。 たぶん、キチンと定義してしまうと、良心的な科学者からの猛烈な批判が殺到するからであろう。 定義をしなければ、結局、何を言っているのかわからないので、論理的に批判することもできない。 実に卑劣な広報戦略である。 本来は、こうした詐欺同然の公告は政府が取り締まるべきであるが、日本政府には科学的良心がないためであろう、野放しになっている。
また、だいぶ昔からであるが、コラーゲンやグリコサミノグリカンなどで、「皮膚がプルプルになる」かのように錯覚させる公告も多い。 コラーゲンやグリコサミノグリカン、あるいはプロテオグリカンが、いわゆる肌の保湿を担っていることは確かである。 しかし、これらを経口摂取しても仕方ないことも、散々、指摘されている通りである。 腹立たしいことに、ウイスキーで知られる某企業をはじめとして 有名企業が率先して「コラーゲンを摂取すれば肌が潤う」というような誤解を素人に植えつけているため、 無知蒙昧な一部消費者は、いまだにコラーゲンを喜んで経口摂取しているようである。
さらに、最近では「人が一生のうちに作れる酵素の量は有限である」というような説を唱え、 「酵素」を補給しよう、と謳う商品もあるらしい。 これは、あまりに馬鹿らしく、呆れるばかりなのだが、一応、反論しておこう。
酵素産生量が有限である可能性は、確かに、否定できない。 その限界に到達した、という現象が、いわゆる老衰なのかもしれない。 「老衰」の本質は、未だに、謎なのである。 その意味では、酵素を補給すれば、老衰を防ぐことができるかもしれない。 しかしながら、酵素はあれば良いというものではなく、具体的にどの酵素がどれだけあるべきなのか、 緻密にコントロールしなければ、病気になってしまう。 どうして「酵素原液」なるもので一律に補給することができようか。 また、口から摂取した酵素は、胃や腸で消化され、アミノ酸になってしまう。 どうしても補給したければ、点滴などの形で補給せねばなるまい。 もちろん、いわゆる酵素液を点滴すれば、すさまじい全身性の炎症が起こり、場合によっては死に至るであろう。
稀に、糖尿病を、この酵素産生量限界説と結びつける人がいるらしい。 つまり、糖を多量摂取するとインスリンが大量に分泌され、そのような生活を長年続けていると、やがてインスリンが枯渇して糖尿病になる、というのである。 そうした現象が起こる可能性は否定はできないが、現在、臨床的にみられる糖尿病は、そのような病態ではない。 I 型糖尿病は若年発症が多く、不健康な食生活が直接の原因ではないようだから、問題外である。 II 型糖尿病の場合、細胞がインスリン不応性になっているのであり、スルホニル尿素薬などによりインスリンの分泌を促すことができるのだから、 どうやらインスリンが枯渇しているわけではないようである。 その他の糖尿病の中には、ひょっとするとインスリンが枯渇しているものがあるかもしれないが、かなり稀である。
まもなく、2013 年度も終わる。 振り返ってみれば、この一年、まともに医学を勉強しなかったと言わざるを得ない。 散々、他人を批判してはいるが、私自身も怠慢な学生であることは、事実である。 10 年以上前から、勉強しなければ、勉強しなければ、と常に思い続けながらも、本格的な意欲は起こらず、怠け続けているように思う。 ひょっとすると、私は一生、このままろくに勉強せずに過ごしてしまうのかもしれないと、不安に思う。
どうして勉強する意欲が起こらないのかといえば、一つには、目的意識の欠如があるだろう。 私は医師になりたいわけではないし、今となっては純粋な基礎科学研究者を目指しているわけでもない。 ただ惰性で学業を続けているに過ぎない。 根本のところで無目的なのだから、いまひとつ学問への情熱が湧き起こらないのは、当然であろう。
さらに考えれば、そもそも、人生の目的を欠いていることが問題である。 四年ほど前に原子炉物理学の道を離れた時、私は完全に人生の道を失い、以来、騙し騙し生きてきた。 ひょっとすると医学の世界では私の能力を活かす余地があるかもしれない、とも一時は思ったが、 どうも、閉鎖された封建的医学界では、私のような者は歓迎されないように感じられる。
たぶん、いずれ私は医学界からも抹殺されるのだろうが、今さら、信念を曲げて彼らに迎合しようとは思わない。 第一、それでは原子炉物理学の諸兄姉に申し訳がたたない。