この記事は削除いたしました。不適切な記述がございましたことを、お詫び申しあげます。
これまでに学んだ病理学や生理学の知識からすれば、本態性高血圧の基本的な機序は次のように理解できる。 まず塩分などを一過性に過剰摂取すると、血漿浸透圧が上昇するので、尿量が減り、総体液量が増加し、血圧が上昇する。 続いて神経性およびホルモン性の機序により、総抹消血管抵抗が低下すると共に、アルドステロンが減少する。 これにより、水やナトリウムの再吸収が減少するので体液量は減少して正常範囲に戻る。 詳細な機序はともかく、ホメオスタシスの観点から、最終的には血圧も総抹消血管抵抗も正常範囲に戻るであろう。 しかし、このような血圧の上下や血管抵抗の上下を繰り返していると、血管に機械的な損傷が生じ、繊維化を来す。 すると血管は弾性を失うから、血管抵抗は正常よりも高いまま固定されたり、低いまま固定されたりするであろう。 理論上、血管抵抗が高くても低くても、それにつりあうだけ血圧が高ければ生理的に安定するのであるから、 このような血管抵抗の不可逆的な変化が起こることは不思議ではない。 以上のような機序により血圧が高値に留まった病態が、一次性の高血圧と呼ばれるものである。 この観点からすれば、「本態性低血圧」とでも呼ぶべき、血管抵抗や血圧が低くなってしまう病態もあり得ると考えられる。 しかし低血圧は、それが重度のものでない限り深刻な影響がないから、あまり注目されないのであろう。
さて、本態性高血圧は心疾患や脳血管障害の原因になると考えられている。 そのことは、上述の本態性高血圧の機序を考えれば、自明である。 すなわち、血管が不可逆的に繊維化して弾性を失っているのだから、粥腫を生じたり、解離したり、血栓を生じたりしやすいのは当然である。
ところで、高血圧の治療薬として、いわゆる降圧薬がある。 作用機序としては、利尿作用により体液量を減少させるか、何らかの方法で血管平滑筋を弛緩させるかに大別できよう。 こうした降圧薬は、抹消血管に新規の不可逆な変化が生じることを防ぐには役立つが、既に生じた変化を元に戻す効果はない。
以上のことから考えると、本態性高血圧に対する対症療法としての降圧薬の投与は、 本態性高血圧がさらに進行することによる心疾患などのリスクのさらなる上昇を防ぐ効果や、 血管に対する機械的負荷を軽減する効果はあるが、 既に血管壁に生じた不可逆的変化に起因する心疾患等のリスクを低下させる効果は持たないと推定できる。
カリキュラムの一部において、学外の研究者を招聘して講義をしてもらうことが、しばしばある。 それ自体は良いのだが、対象となる学生が既にどういうことを学んでいて、 どういうことをまだ学んでいないのか、という点については、事前にしっかりと打ち合わせをされるべきではないだろうか。
我々名古屋大学医学部医学科四年生は、既に基礎医学を一通り学んでいるのだから、 リソソームとかエンドソームとかウェスタンブロッティングとか LDL, HDL とかいう言葉の意味はよくわかっているし、 内耳の構造や粥状動脈硬化といったことも、大筋では理解しているはずである。 それを、「リソソームといわれる細胞内の小器官に……」などと、まるでリソソームを知らない素人に話すかのように 説明されると、白けるし、腹立たしくもある。
たぶん、講師の方は我々を馬鹿にしていたのではなく、単に、医学科のカリキュラムを知らなかっただけだと思う。 こういう事態が生じたのは、招聘する側の教員の落ち度ではないか。
「医師」と書いて「センセイ」と読むのが、医療業界の慣例らしい。 そのことにも疑問を感じるのだが、いくらなんでも、学生に対して二人称として「センセイ」と呼ぶのはいかがなものか。 臨床のセンセイ方の中には、授業の際に「学生諸君」という意味で 「先生ら」などと呼びかける人がいるが、どうにもなじまない。
そもそも、患者が医師に対して「センセイ」と呼ぶのも、私はいかがなものかと思う。 センセイという呼び方は、相手を上に持ち上げる言い方である。 昔の医療は、医師が上で患者が下という上下関係が暗黙のうちに定められていたから、 下の者が上の者に対し「センセイ」と呼びかけるのは、まぁ、自然であったといえなくもない。 しかし現在では、医療機関側が患者を「患者さん」と呼び、場合によっては「患者様」と呼ぶことすらある。 医療機関と患者の関係は対等か、あるいは形式的には患者が上かもしれないような状況にあるのだ。 その中で、なぜ患者が医師を「センセイ」などと呼ぶのか。 単に「医師」とか、せめて「お医者さん」ぐらいで良いではないか。
誰しも、他人から「センセイ」などと呼ばれれば良い気分になるであろう。 自分が偉くなったかのように錯覚もする。それを思えば、やたらと「センセイ」と呼ぶのは実に不気味な習慣である。 そのような気持ち悪い習慣は世間には存在しないし、医療の世界にそのような習慣が存在すべき合理的事情も存在しない。 医者の世界がいかに世間から乖離しているかを示す好例といえよう。
私自身、他の学生に対し「先生」という敬称をつけて呼ぶことがあるが、これは上述のものとは異なる。 単に、その人物に対する一定の敬意と一定の諧謔を込めているつもりであり、 工学部時代から用いている表現である。 しかし、医学部では誤解を招きかねないので、やめた方がよいのかもしれないとも思っている。
昨晩、自宅近くの路上で、初老の婦人から突然、 500円貸してくれませんか、と声をかけられた。 いかにも憐憫を誘う、弱々しい声であった。 私は拒否して帰宅したが、これによって思い出したことがあるので、記しておく。
乞食とは、厳密には、他人に金品を無心することによって 生活の糧を確保する行為、または、それをする人のことをいう。 従って、見ず知らずの相手にいきなり金を無心する行為自体は乞食にはあたらない。
念のために確認しておくが、ホームレスであるかどうかは、 乞食であるかどうかとは関係ない。 日本では、乞食は軽犯罪法によって禁じられている。 また、ホームレスは街にあふれているが、現代では乞食は極めて稀である。 私はこれまで三十年生きてきて、日本ではほとんど乞食に遭遇したことがない。 一方、ヨーロッパでは、乞食はありふれているように思われる。 私の記憶に強く残っている限りでも、ロシアのとある修道院の門前、 ヴェネツィアの路上、チューリッヒの駅前およびマルセイユの街角で乞食に遭遇した。
2007年の秋にロシアで開かれた学術会議に参加した際、オプショナルツアーとして 近くの修道院を訪れた。 案内してくれたロシア人など一部の人は、門前の乞食に対し多少の金銭を 与えていたようである。 しかし私はそのような場面に初めて遭遇したため、どうすべきか咄嗟に 判断できず、結局、何もしなかった。 後から考えるに、これは何もしなくて正解であったと思う。 その施しが修道院の門前で行われる以上、そこには、 当人達が意識しているかどうかはともかく 宗教的な色彩が含まれるのではないか。 すなわち、与える側にとっては「神前に寄付した」という意味が、 受ける側にとっては「神から与えられた」という意味が、生じるのではないか。 いわば、その施しに関わる両者は神の前に対等の立場にある。 しかし私はキリスト教徒ではない。 私が乞食に金銭を与えるとすれば、それは単に憐憫のみに由来するし、 私はその乞食よりも上の立場にあると認識した上で与えることになるだろう。 それは、神前で行われる対等の清らかな行為を侮辱することになりかねないと思う。
私がヴェネツィアを訪れたのは2008年秋の、よく晴れた日の朝ことであった。 ヴェネツィアでは観光客に対する乞食行為は法で禁じられていると、 私は事前に何かの文書で読んで知っていた。 しかし、観光客が行き交うとある路上の日陰に、一人の女の乞食をみかけた。 彼女は黒い服を着て、路上に跪き、額を地につけ、手を前方に差し出し、 金銭を無心する姿勢を示していた。 私は女を無視してヴェネツィアの街を散策し、昼食をとり、午後になってから 帰路についた。 そのとき、あの女乞食は、まだそのままの姿勢で無心を続けていた。 私は彼女を無視してホテルに戻った。 夕方になり、私はある一つの事実に気がつき、彼女を無視したことを後悔した。 私が彼女の前を朝と午後の二回、通り過ぎたのだが、二回とも、彼女は 同じ位置に座していた。 だが、その間に日は動き、初めは日陰であった彼女の居所も、 午後はひなたになっていた。 その日は暑く、強い日射しの下では喉が渇き、私は観光客向けに売られる 水の高さに辟易していたほどである。 そのような酷暑の中で、彼女は額を地につけ、じっと座っていたのである。 その苦しみは、並大抵ではあるまい。あるいは、聖人であったのかもしれぬ。
ヴェネツィアを訪れたのと同じ2008年の秋に、私はチューリッヒも訪れた。 このとき、駅前で、一人の青年に声をかけられた。 彼がいうには、昨晩から何も食べていない、1ユーロで構わないからくれないか、とのことである。 彼は首を斜めにかしげ、上目遣いであり、なんとなくチンピラ風の雰囲気を漂わせながら、 私に無心したのである。一瞬、私は恐喝されているのかと思ったが、たぶん、あれは乞食であった。 私は彼の要請を拒否した。
2010年の秋に訪れたマルセイユには、たくさんの乞食がいた。 中には同情を誘う内容の身上を書いた看板を立てている者もあったが、 それが英語で書かれていたことを思えば明らかに観光客狙いであり、 その主張も真実かどうかは疑わしいものである。
結局のところ、乞食に金を与えるという行為は、どうも私にはなじまない。 代わりに、教会を訪れた時には懐が許す範囲で多めの寄付をすることにしている。
臨床医学の分野では、しばしば検査値について「上がる」という 動詞が用いられる。 たとえば「血糖が上がる」「クレアチニンが上がる」などといった具合である。 しかし、これらは不適切な表現であるように思われる。
そもそも、これらの表現は日本語としておかしい。 「血糖」とは「血漿中のブドウ糖」のことであり、 それが増加することを言うならば「上がる」ではなく「増える」などと 表現するべきである。 クレアチニンも物質名であるから、「上がる」のではなく「増える」ものである。
たぶん、この「上がる」という表現は、もともと 「血糖値が上がる」「クレアチニン濃度が上がる」という表現から 「値」や「濃度」といった語が脱落して成立したのであろう。 そう考えれば、「上がる」という表現自体は、 日本語として大きく間違ってはいないともいえるが、 不必要あるいは不適切な略語であることは間違いない。
また、臨床医学の分野では、しばしば単位を省略する。 たとえば「尿蛋白が 3.2 である」といえば、これは「尿蛋白が 3.2 g/day である」 という意味になる。 講義中に教員が単位を省略して説明した場合、もし学生が「単位は何ですか」と問えば 「g/day に決まっているだろう」と、馬鹿にされるだろう。 これは、物理学や工学の出身者ならば誰もが唖然とする慣行である。 単位には極めて重要な意義があるのだから、決して省略してはならない。 学生に「単位は何ですか」と問われれば、教員は単位を省略した自らの怠慢を恥じるべきである。
臨床医学の人々は「単位は世界共通で g/day なのだから、省略しても誰でもわかる」と いうかもしれないが、そんなことはない。 現実に、単位の間違いによる放射線の過剰照射などの医療過誤が起こっている。 だいたい、なぜ、単位を省略する必要があるのだ。 わざわざ意味をわかりにくくして、誤りの可能性を高めて、 そして「3.2 g/day」という明瞭な意味と実感を持つ表現を 「3.2」などという無味乾燥で意味不明な数字にして、何の得があるのだ。
これらの不適切な表現は、医療分野を不必要に専門化し、 素人である患者には理解を困難たらしめ、医療知識を密室で寡占し、 特権的地位を磐石たらしめんとしてきた過去の医療従事者連中の陰謀の遺物であると、私は思う。
私はあくまで医学研究者になるつもりであるが、ひょっとすると、 基礎分野よりも臨床分野に行った方が、より良い研究ができるのではないかと、最近、思い始めている。
同期の編入生に指摘されたことがあるのだが、私は、あまり他人を尊敬しないクチである。 だから、「最も尊敬する現役の研究者を一人挙げよ」といわれると困るのだが、 最近になって、ようやく、一人の優れた教授に出会うことができた。 個人名は挙げないことにするが、名古屋大学医学部の、臨床の某教授である。
だが困ったことに、彼は、私が「この科にだけは絶対に行きたくない」と思っていた診療科の教授である。 どうしようかなぁ。行きたいなぁ。でも行きたくないなぁ。
医学部の学生諸氏は、あまり、想像や妄想で話をしない人が多いように思われる。 自信のないことや知らないことについては無責任な発言をしない、という意味では、これはたいへん、素晴らしいことである。
ただし研究や新しい分野の開拓という観点からは、これは少し残念なことに思われる。 想像を膨らませ、妄想を逞しくすることこそが、新発見の第一歩だからである。
医学部に来た当初、私の目には、医学部生は想像力が乏しく、つまらない人種であるように映った。 しかし、よくよく話をしてみると、実は多くの学生は内心で様々な妄想を巡らせているらしいことがわかってきた。 ただ、それをなかなか口に出さないのである。
確かに、突飛なことを口に出してはいけないような雰囲気があるようにも感じられる。 私は深く考えもせずに平気で出鱈目な妄想を口にしているので、 もしかすると、私は変人であると周囲から思われているのかもしれぬ。
最近、心電図に興味を持っている。 あれこれと調べて思索を巡らせた結果、ようやく、正常心電図の波形について一定の理解を得るに至った。 その上で申し上げるが、心電図の原理について、標準生理学やガイトン生理学においてなされている説明は、誤りである。 これらの教科書は大筋においては記述が充実しており、 特にガイトンの書は生理学を神秘主義の呪縛から解放し、物理学の観点から生命現象を説明する名著である。 しかるに、心電図に関してはさすがのガイトン博士も理解が及ばなかったとみえ、意味不明な説明に終始していることは遺憾である。 心電図学は、それほどに、難解にして魔窟ともいうべき分野なのである。
心電図の技法は Einthoven によって 1903 年頃に発見された。発明ではなく、発見である。 当初は、何故にかかる摩訶不思議な波形が記録されるのか不明であったが、 なにやら心臓疾患と波形の変化に深い関係がみられるらしい、という経験的事実から、 理屈は抜きにして、臨床的に利用されるに至った。 このような経緯により、心電図は「永久の謎スフィンクス」などと呼ばれたようである。
日本においては、京都帝国大学医学部内科学教室の前川孫二郎博士が、戦前から戦後にかけて、心電図学の分野を開拓した。 前川博士は昭和十年に「日本循環器病学」誌に全七回の「臨床電気心働図講座」を連載し、 今から思えばいささか不正確な点はあるものの、電気心働図、今日でいう心電図、に理論的解釈を加えた。
昭和二十年には日本循環器病学会で連続講演を行い、「日本循環器病学」誌に掲載されている抄録によれば、 欧米で支持されていた従来の心電図理論を明快に批判し、「層電対説」なる新理論を提唱した。 これは細胞膜上に多数の電気双極子が並んでいると考え、その双極子モーメントの変化の積分が 心電図波形として記録されている、と解釈するモデルであり、 それまでの「膜説」などを統合して改良したものである。
その後、昭和二十二年には雑誌「医学」において「生物電気の理論」が三回にわたり連載され、 ここに心電図理論の基礎が確立されたといえよう。 この連載はいかにも京都帝国大学教授によるものらしく、格調高い文章の中に、率直な批判と 科学への誠実さおよび野心、そして軽妙なユーモアが交えられており、名文である。 特に「医学」昭和二十二年一月号のものは傑作であり、ぜひ一読をおすすめしたい。 この雑誌は残念ながら国会図書館には所蔵されていないようであるが、 名古屋大学や東京大学、慶應大学をはじめとして多くの大学医学部の図書館には収められている。 以下に、博士の文章の一部を紹介する。 なお、一部の漢字は表示の都合上、新字体に改めた。
前川博士は、実験結果を深く批判的に吟味することなく安直に解釈してきた過去の科学者に対し
と批判し
と主張した。 とにかく実験を行って論文を書きさえすれば良いと思っている昨今の一部の自称科学者は、 この文章を朝に夕に音読すべきである。 前川博士はさらに、理論よりも実験を重視すべしと説いた Bernard の方針には
なる批判と見解を述べた。 ここでいう「精心」とは、精神のことであろうが、 常識とか直観とかいうものを精神的現象と解釈したようである。 前川博士はさらに、従来の常識に拘泥して新説を拒絶する頭の硬い科学者を揶揄して
と述べたのである。私も、いずれはこのような文章を書けるようになりたい。
閑話休題、少なくとも日本においては、前川博士の層電対説、あるいはそれに類する電対説が今日では支持されているようである。 たとえば標準生理学や朝倉内科学における心電図の原理の説明は、明記はされていないが、電対説に基づいている。 これに対してガイトンは双極子の概念を用いずに、定義を曖昧にしたまま「電気軸」の概念を採用しており、 電対説には否定的であるような印象を与える。
電対説は、心電図の根本となる微視的な現象を記述するには、論理的整合性のある美しい理論であるといえる。 だが、かかる微視的理論から心電図という巨視的な測定結果を演繹することは、不可能ではないにしても、容易ではない。 私の想像では、ガイトンは、この困難を問題視したがゆえに、心電図の説明に電対説を採用することを避けたのであろう。 その結果ガイトンの説明は漠然として理解できないものになってしまっているが、 これは心電図がスフィンクスであることを認め、強引な解釈を与えることを避けたガイトン博士の誠実さであると、 私は理解している。
そこで私は、本質的には前川博士の層電対説に基づきながらも、定量性を放棄し、 定性的に電流の流れを議論することにより、正常心電図の波形に合理的かつ平易な解釈を与えることを試みた。 まだ理論的検証が十分ではなく、不完全ではあるが、報告をインターネット上の某所で公開している。 実名での報告なので、ここからのリンクは設けないが、もし発見されたら、 一読の上で感想や批判をいただければ幸いである。
MEDIC MEDIA 社の「病気がみえる」シリーズが大人気である。 このシリーズは、臨床医学の大半の分野を、わかりやすいイラストで簡潔にまとめており、 しかも要点はしっかりとおさえてあるということで、名古屋大学医学部医学科生の間でも好評である。 重要な箇所をしっかりと記載している、として高く評価する教員もいる。 しかし、これは逆に、臨床的に重要なことしか書かれていない、ということでもある。 この病気にはこの薬を使えばよい、この病気ではこういう症状が現れる、そういった 知識と知識の対応関係しか、このシリーズには書かれていない。 そんなものは、いちいち記憶しなくても、コンピューターで調べれば 3 秒で出てくる。 それとも昨今の病院は、診察室に PC の一つも置いていないのだろうか。
率直に申し上げて、「病気がみえる」シリーズが医学科で流行している現状は、危機的である。 出版元のウェブサイトによれば、 このシリーズは「看護師の皆様に圧倒的に高く評価され」ているのであり、 「教科書、またはサブテキストとして採用される看護学部・看護学校が増えて」いるのである。 名大医学科生は、疾患について、看護学生と同程度の理解で満足するのだろうか。
看護師は、疾患の微妙な点について、あるいは個々の患者に対する医学的介入について 判断する立場にないのだから、疾患についてはおおまかな概略さえ理解していれば十分ともいえる。 逆に医師は、患者に対する直接的なケアについては高度の専門性を有する必要がない代わりに、 疾患の個別具体的な案件について判断し決断する責任を負う。 どうして、医師の卵と看護師の卵が、同じ教科書を用いて学ぶことができようか。
医学というものは、あるいは疾患というものは、複雑にして難解である。 これをわかりやすく、簡潔なイラストにまとめれば、厳密さを欠くことは免れ得ない。 実際、多少なりともまともに勉強した学生であれば「病気がみえる」シリーズのいかなるページについても、 あまり厳密ではない記述があることを指摘できるであろう。
なるほど、臨床医学の初学者たる医学科三年生や四年生にとっては、 最初の取りかかりとして「病気がみえる」シリーズは悪くないかもしれない。 いずれ「ハリソン内科学」や「朝倉内科学」などの成書で学べば、 あるいは研修医になってからじっくりと勉強すれば、それで良いかもしれない。 だが、そのような弁明をして、いま「病気がみえる」に頼る学生は、 五年生、六年生となって卒業試験や国家試験が迫れば試験対策でテンテコ舞いになり、 研修医になれば日頃の業務に追われ、 研修が追われば日常診療で手一杯になって、なおさら効率的な勉強を追求するであろう。 そしてハリソンの如き冗長な記述をじっくりと研究しようと考える余裕を失うことは、 火をみるよりも明らかである。
私は名古屋大学に対し、強い帰属意識と愛校心を有している。 しかし京都大学に対しては、それ以上の感情を抱いていることも事実である。 私は京都大学を愛している。
博士課程の頃の話を書くために調べものをしていたら、 このような 記事をみつけた。 たぶん専門家ではない人同士の議論の中での、核廃棄物処理を巡り、 原子力の研究開発に期待を寄せる人物の書き込みである。彼は
として、私もよく知っている京都大学原子炉実験所の某研究室のウェブページを引用して
と考え、加速器駆動未臨界炉を支持しているのである。
まことに申し訳ない。 こうした信頼に、我々は、応えることができなかった。
『博士漂流時代』という本がある。 著者の榎木英介氏は東京大学理学部生物学科卒業後に、博士課程を中退して神戸大学医学部に学士編入したらしい。 どこかの誰かさんと似たような経歴であるが、誰かさんとは、中退の動機が少し違うようである。 たまたま研究室に置かれていたので軽く読んだのだが、ウンウン、ソウダヨネと思う記述も 随所にみられたので、特に良いと思った箇所を紹介する。
数学や理科が得意な高校生が選択するのは医学部だ。成績上位層は医学部に殺到している。 現在国公立大学の医学部は、東京大学の理科 1 類や 2 類と同じくらいか、 あるいは高い難易度だ。
確かに、医学には大量の知識が必要だし、新しい治療法を開発するのに才能ある人材を投入することは必要だ。
しかし、数学や物理の才能を活用できる場面は限られている。 医学にはコミュニケーション能力など、いわば人間力とでもいえる能力が必要な場面が多い。 理工系に進んだなら才能が発揮できる人が、医学部に入り医師になるのは、宝の持ち腐れではないか。
理工系の仕事だって、人の命を救う職業であるのは変わりない。 何より未知なるものを発見し、新しい物を作り出すことは、この上ない喜びだ。 そういう意味でも科学・技術は魅力的なのだ。
しかし、いくら魅力的だと言っても、将来の見通しは立たず、年収も低いようでは、二の足を踏んでしまう。 それが如実に表れているのが、医学部の難易度の高さなのだ。
ある程度の成績がある高校生は、いくら理工系の学問の内容そのものには魅力があると言っても、 生きていくのさえままならないのだと知ってしまえば、医学部に行ってしまうだろう。
医学部に行けば研究も続けられるし、医師免許があるから食うに困らない。 患者さんのために働くのはやりがいがある。一生かけてもいい……
「理工系の仕事だって、人の命を救う職業であるのは変わりない。」というのは、よく言ってくれた、と思う。
もし理工系 (もちろん人文系も) が人の命を救っていることを知らない医師がいると困るので、一応、解説しておく。 あなた方が普段使っている CT や MRI の装置は、誰が作り、誰が改良しているのか。 そのインスリン製剤は、誰が作っているのか。 新幹線が悲惨な事故を起こさない、つまり新幹線事故で命が失われるのを未然に防げているのは、誰のおかげなのか。 日本の治安を維持し、凶悪犯罪から市民を守っているのは、誰なのか。 医者は、そんなに特別なのか。
命を救うということに関していえば、医者は、失われかけている命を拾っているだけである。 しかし本当は、命が失われる危険を未然に回避する方が偉い。 医師が人の命を救っている場面は目につきやすいが、実際には、最も悪い方法で命を救っているに過ぎない。
Felson's Principles of Chest Roentgenology 3rd Ed. なる教科書を読んでいたら `Felson's 10 Axioms for a Lifetime of Learning in Medicine' という十箇条があった。 特に気に入ったものを抜粋しよう。
2. Principles are as important as facts. If you master the principles,, you can make up the facts.
5. ... learning is better if you are actively involved. When you read, talk back to the author. Be skeptical. Don't follow the authorities too closely or you may become a Brown Nose Duck; he can fly as fast as the leader, but can't stop as quick.
8. Different people learn best by different methods. Figure out your own best method and cater to it, whether it be reading, listening, observing, or doing, or a combination of these. Don't depend on great teachers. They are as rare as great students.
特に 8 番の最後の二文は、日本の医学教育で最も欠如している問題のように感じられる。
以前に紹介した京都帝国大学の前川名誉教授は、物理学にも精通していたらしい。 前川博士は昭和十年に、日本循環器病学誌に「醫物理學」と題して 生理現象の基礎となる物理現象について、数式を駆使して概説を書いている。 また、博士の「層電対説」は、物理学、とりわけ電磁気学への理解がなければ生まれ得なかったであろう。
名古屋大学医学部医学科をみる限りにおいては、医師になろうという人々の多くは、あまり物理学に強くないようである。 私も物理学に詳しいなどといえる立場ではないが、それでも、だいぶマシな方であると思われる。
臨床医として医術を実施する限りにおいては、物理学はほとんど必要ないのかもしれない。 しかし新しい医学を拓いていくためには、生命現象の基礎たる物理や化学への理解が、不要であるとは思われない。 その一方で現在の医学教育課程においては、十分に物理学や化学を修めるだけの余裕はない。
その意味において、物理学や化学の分野で脱落した人々こそ、編入や再受験の形で、もっと医学の世界に来るべきであろう。
私の立場では書きにくい問題ではあるが、非常に気になるし、また、医学部の重大な悪習の一つと思われるので、敢えて書くことにする。
名古屋大学に限らず医学部においては、先輩後輩の関係が強固であるらしい。 上級生に対しては慇懃な敬語で話し、下級生に対しては尊大な態度も許されるようである。 これは相手との親しさにほとんど関係がないらしく、 下級生相手であれば、初対面の相手であっても敬語など使う必要はないらしい。 これは、実に不思議な習慣である。 会社における上司と部下の関係であるとか、 研究室などにおいて指導する側とされる側の関係であるとか、 そういう明確な人間関係の上下があるならともかく、 どうして学年によって立場の上下が規定されねばならないのだろうか。
このことに違和感を感じている編入生や再受験生は多いのではないか。 私の同期の編入生には博士課程を修了し、学位も取得した英才がいる。 私とは異なり、きちんと修了したのである。 彼は当然、ほとんどの学部学生より年長であり、学識にも富んでおり、 その豊かな才覚を医学の分野において遺憾なく発揮しているのだが、 五年生や六年生の学生からは「目下の相手」と認識されるようである。 どうして、現在の学年が、それほどまでに重要な意味を持つと考えるのか。 つい先日までは自分よりはるかに上級生であった相手に、 どうして、そのような態度がとれるのか。 思考停止して、人の中身をみずに肩書だけで判断していないか。 これだから、医学部は偏差値が高いだけの馬鹿の集まりと揶揄されるのだ。
およそ編入生は、過去に別の分野で何らかの活躍をなし、 その経歴が医学においても活かされると期待されたがために、 特別に二年次や三年次への編入が許可されたのである。 多くの再受験生も同様である。 もし、その期待を裏切れば、我々は単に年を経ただけの学生であり、 周囲に蔑まれるのは当然である。 しかし、期待に応え続ける限りにおいては、そのような扱いを受けるいわれはない。
私は、年長だから偉い、とか、大学院経験者だから偉い、 とか言っているわけではない。 むしろ、年長であっても学識に乏しく意欲を欠く学生は、侮蔑されるべきである。 だが、学年の上下を基準として態度を変えるのは合理性を欠くし、 「医学部以外で学んだ経験は医師たる上で何の役にも立たぬ」というような 傲慢な思想の発現であるように思われる。
名古屋に来る前から思っていたことであるが、医学や生物学の人々は、誤差というものに疎いようである。 実験においては常に誤差が生じるものであるから、誤差というものを正しく理解していなければ 実験結果を評価することはできない。 医学と密接に関係する生物学の分野では、伝統的に理論よりも実験が重視されているようである。 また臨床医学においても、さまざまな検査は一種の測定であり実験であるから、誤差を考えることは常に重要である。 それにもかかわらず、医学の世界において誤差の取り扱いが軽視されていることは不思議である。
医学の世界では、よく「有意差あり」とか「有意差なし」とかいうことが問題にされるが、 これは統計学的な手法を用いた検定によってなされる。 しばしば用いられるのが t 検定であるが、これは両群が等分散の正規分布であるという非常に強烈な仮定に 基づく検定法であり、実際の実験結果に適用することは不適当であることが多い。 しかし何も考えずに t 検定を適用し「有意差あり」と強弁しているような無茶苦茶な論文は、 有名な論文誌でも散見される。
また、同じ条件の実験を繰り返せば誤差はどんどん小さくなる、などと、 中心極限定理を誤解あるいは過信している研究者も多いようである。 中心極限定理によって縮小できる誤差は、いわゆる偶然誤差であり、系統誤差は小さくならない。 従って、系統誤差が有意に存在することが疑われる状況においては、 統計学的な手法などを用いて誤差を補正することが必要になるし、それを怠れば有意な実験結果は得られない。
しかし医学や生物学の世界では、とりあえず実験を行い、とりあえずそれらしい結果が出ていれば 立派な論文として認められ、有名な論文誌にも十分に受理されるという習慣があるらしい。 多大な労力を費して系統誤差を評価、補正しても、それで論文の評価が上がるわけでも 論文数が増えるわけでもないから、結局、忙しい研究者は、誤差の評価をおざなりにする。 その結果、多くの論文は実験結果の誤差を正当に評価しておらず、科学的価値が低いままになる。
もちろん物理学者や統計学者は誤差というものを悉知している。 これらの異なる文化のいずれにも通じている人材こそが、科学研究を推進していくために必要であろう。
「半沢直樹」なるドラマが人気らしい。私はテレビを持っていないし、テレビをみる習慣もないので 詳しいことはよくわからないのだが、銀行員の半沢直樹が会社や社会の理不尽と戦う物語らしい。 当初は特にそれほど関心もなかったのだが、インターネット上でたまたま 「『半沢直樹』原作者『半沢の真似はしない方がいい』」という AERA の記事を目にして、興味が湧いた。
さっそく、原作第一部の『オレたちバブル入行組』を買って読んだ。確かに面白い。 ストーリーも魅力的だが、文章も、一部にやや俗な表現があって気にはなったが、きれいである。 また銀行業が舞台なので多少の専門用語も出てくるのだが、 それも素人の読者にわかりやすいように平易な表現で説明されている。
だが、AERA に対して原作者が語ったという「半沢の真似はしない方がいい」というのは、納得いたしかねる。 我々の専門である医療に関していえば、日本の医療制度は、銀行組織と同様に、腐っている。 利権団体が業界を牛耳り、豊富な資金にモノをいわせて政治にも介入し、既得権益の防衛に躍起になっている。 臨床現場での非倫理的な逸話は、未だ病院実習にすら行っていない我々の耳にさえ、十分に届いてくる。
現在の医療のあり方に疑問を抱かないほどに蒙昧な医学部学生は、さすがに日本広しといえども一人としていないであろう。 それにもかかわらず、病院での実習に赴き、研修医として勤務を始めれば、社会のしがらみ、病院の理不尽、 先輩医師からの抑圧により、そうした疑問を口に出す余裕は失われるようである。 そこで敢えて反抗し筋を通そうとすれば、病院からは放逐され、医学界における輝かしいキャリアは失われ、 地方勤務の冴えない医師として人生を終えねばならなくなるらしい。 従って、社会の理不尽に逆らうな、という意見については、理解できないことはない。
しかし、そこで皆が口をつぐめば、医療の将来は、どうなるのか。 おかしいものはおかしいと、声を上げていかなければ、社会は悪くなる一方ではないのか。 一人一人の医師がそうやっておとなしくしているから、医療への信頼は失われ、 たとえば「癌治療は百害あって一利なし」などといった、 科学的根拠を無視したデタラメなアンチ医療本が世にはびこるのではないか。
良心を曲げ、患者を欺いて中央に居座るよりは、医の原点を守って地方に飛ばされる方が、人として立派であると思わないか。 自らの人生を顧みることなく社会の変革を目指して戦った、フランス革命や明治維新の英雄達のように、なりたいとは思わないか。 医師としてのキャリアなどというものは、それほどまでに重要なものなのか。 夢や希望を掲げ、誇りを高く持って突き進むことこそが、若者の特権であり、使命ではないか。
蛇足ではあるが、既に齢三十を越えた高齢学生である私が、このようなことを日記に書いている現状からしておかしい。 本来であれば私のような者の役割は、理想に燃えて血気に逸る若い諸君を抑え、現実との妥協点を探ることのはずである。 諸君は、戸籍の上では若いけれども、ひょっとすると、心は私よりも老いているのではないだろうか。
いろいろ書こうかとも思ったが、特定個人に関することでもあるので、やめた。
私は、その噂の真偽については知らない。 事実に反するなら論外であるが、仮に事実であったとしても、 他人が有する繊細な疾患について、 興味本位で第三者が噂を流布するべきではないと思う。 医師の卵であれば、なおさらである。
8 月 30 日に書いた「医学部生の上下関係」の続きである。
医学部生の間で、かかる不可思議な上下関係が存在する原因の一つは、 医師の間に同様の奇妙な上下関係が存在することであろう。 噂では、医師の間でも、卒業年次によって規定される先輩後輩関係が存在し、 先輩医師の言うことには逆らってはいけないそうである。
実に馬鹿げた話である。 医療は、高度な学識と熟練した技術によって支えられている。 これらを習得するには、もちろん、経験が非常に重要ではあるが、 経験さえ積めば済むというものではない。 もし経験が全てであるなら、医学部など不要であり、高卒の青年をただちに 医師見習いとして病院に送り込めば良いのだ。 実際はそうではない。経験の豊富な医師が必ずしも優れた医師であるとは限らない。 また、卒業から年を経ていれば経験が豊富であるとも限らない。
要するに彼らは、医療の世界に実力主義がもたらされることを恐れているのではないか。 年功序列であれば、自分もいつかは上に立てる。 実力主義がはびこれば、怠慢医師はいつまでも下働きである。 どうせなら、与えられた任務だけこなしていれば 高い社会的地位と経済的恩恵が受けられる年功序列制度の方がありがたい。 それが本音ではないか。
とある方とメールで議論(喧嘩?)していて、ふと気になったので、乾電池の内部抵抗について調べてみた。
教科書的には、抵抗をつけずに、乾電池に電流計を直接つないでショートさせると 電流計が壊れる恐れがあるからダメだ、ということになっている。 私は小学生の頃、これが本当なのかどうか、自分で確かめてみたくなり、 理科の実験の時に密かに、ショートさせてみたのである。
今から思えば、もし実際に電流計が壊れたら大変なことになるところであった。 私は当時、優等生ということになっていて、先生方からの覚えもめでたかったのだが、 そうした評価が一気に失われる恐れがあった。
幸い、電流計が壊れることはなく、最大レンジ (5 A 程度だろうか) では 針が振り切れることもなかったと記憶している。 乾電池の内部抵抗が、意外と大きかったということであろうか。 あるいは、導線の接触が悪い点がどこかにあったのかもしれない。
乾電池は 1.5 V 程度の起電力があるから、5 A のレンジに収まったということは 300 mΩ 以上の内部抵抗があったということになる。 結構大きいな、と思い、ちょっと Bing 先生や Google 先生に訊いてみた。 みつかったサイトは http://blog.zaq.ne.jp/igarage/article/1535/, http://www.tsuruga.co.jp/TsurugaExPress/?page_id=16 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1239209607 などである。
どうやら、私は運が良かったらしい。 電池の種類などによっては 10 A 近くの電流は生じ得るようである。
あまり良くないことだとはわかっているのだが、私は、 いささか協調性に乏しく、血の気が多いようである。
医学部に行くと決めた時、私は、これからは他人と争わず、おとなしく生きていこう、と考えた。 なにしろ、医学部である。 権威主義に凝り固まった教授と、それに媚びへつらう学生がワンサカといるに違いない。 そんな場所で、これまでと同様の振る舞いをすれば、たちまちにして睨まれ、つまみ出されてしまうだろう。 もはや私には、教授に逆らわず、犬のように忠実に生きていくしか、道はないのだ。 そのように考えていた。
ところが予期せぬ形で、私には戦う意思は全くなかったのに、教員との衝突が起こってしまった。 医学部編入対策の予備校 (KALS) 時代のことである。 事件が起こったのは、鹿児島大学医学部編入学試験の解説講座において、 平成 22 年入試問題 I の設問 6 を扱った時であった。 同大学の過去問は公式サイトから 閲覧することができる。
講師は、この問題に対して、Na+,K+ポンプの活性が低下するから、という方向で説明をした。 私は、プラトーが短くなっていることと活動電位の大きさが変わっていないことから、むしろ Ca2+ ポンプの関係ではないかと考えた。 それ故に、講師の説明に納得がいかなかったし、それが顔に出ていたのだろう。 講師は最前列中央に座っていた私に発言を促し、私は Ca2+ の関係ではないかとの意見を述べた。 それに対し講師は、Ca2+ ならばプラトーの短縮を説明できると認めた上で、 しかし、これは Na+,K+ ポンプの影響であると断じた。 私はなお不服であったために、講師の「納得いきませんか」という問いに対し「はい」と答えた。 すると講師は怒り出し「膜電位はナトリウムやカリウムで議論するのが常識である」と述べ、 「信じてもらえないなら講義する意味がない、やめる」などと言い、 講義を中断して教室から退出するそぶりをみせた。 私は、これは講師控室まで謝りに行かねばならないのか、と思った。 しかし講師は実際に退出する前に、私に対し「それ(講義をやめること)で良いか」と問うた。 やむなく、私は「申し訳ありません」と謝罪し、 「膜電位はナトリウムやカリウムで議論するのが常識だというのは、おっしゃる通りです」と述べた。 これによって、一応、その場は収まり、講師は怒りを露にしつつも、講義を続けた。 私は、その後の休み時間に荷物をまとめて帰宅し、以後、講義には出席しなかった。
私の最後の発言には、「それが常識ではあるが、本件については常識を適用できない」という意味を含めてあった。 また、このとき私は「おっしゃる通りだと思います」ではなく「おっしゃる通りです」と言ったように思う。 この辺りの言い方は実に生意気であったが、 私は、そういう言い方をできるほど自分がよく理解しているという自信を持っていたのである。
蛇足であるが、このときの私の謝罪は、他の受講生に対するものであり、講師に対して謝ったつもりはない。 私は講師に対して、何ら悪いことはしていない。 しかし結果として講義の進行を止め、講師を怒らせて授業の品質を下げてしまったことについて、 受講生に謝罪したのである。
思えば、それ以前にも、私は講師の不興を買っていた。 講師の説明に化学的観点から誤りがあると思われたのでコッソリ指摘した所、 講師氏は「いや、これで合っている」と言い、なお私が抵抗すると 「私が、そうだと言っているのだ (だから黙って認めろ)」と強弁された。 意味がわからない。
学術的な話をしているときに、権威を持ちだして相手を黙らせようとするのは、いかがなものかと思う。
先月、某所で、精神科医である某大学教授 (人文系学部) の講演を聴いた。 医学部学生の自殺や留年および退学の問題に関する講演であり、 聴衆は、医学科をはじめとする医療系学生であった。 内容は正直なところイマイチであり、学生からの質問に対しても、きちんと答えない、残念な講演であった。
講演の中で、凄まじい発言があった。女子学生の留年だか何だかの統計データを示し、 「有意差はないが、確かに差がみられる」とおっしゃったのである。
統計学というものを、まるでわかっていらっしゃらない。 「有意差がない」ということは、その集計上の差は単なる偶然の疑いがあり、 「差があるかどうかは、わからない」という意味なのである。 それを「確かに差がみられる」とは、どういうことなのか。
より良い医療者になりたい、ということは、多くの医学部学生が思っていることであろう。 そのため、様々な課外活動や学生主体の企画があり、たいへん、結構なことである。
ただし、ときどき、最も基本的にして最も重要なことを忘れている学生がいるように思われる。 すなわち、基礎医学と臨床医学をしっかりと学ぶこと、である。 課外活動に時間と労力を費し、医学をキチンと学ばず、 試験対策のテクニックで単位や免許を掠め取るなどは、本末転倒であり言語道断である。
臨床手技さえ身につければ、その背景たる基礎医学に無知であっても、一応は医者として働くことができるであろう。 そして、そういう医師こそが、非定型的な患者に対し頓珍漢な処置を施すわけである。
名医になるためには、我々は、CBT とか卒業試験とか国家試験とか、そういうくだらない目標ではなく、 学識を身につけるために、医学を勉強する必要がある。
国家試験ごときでアタフタするなど、みっともないと、思いませんか。
臨床のセンセイ方の中には、病理組織像のことを「病理」と呼ぶ人が、少なからずいらっしゃるようである。 確かに「病理組織像」などという表現は長々しいので、省略したくなるのが人情である。 そこで頭の部分だけを取り出して「病理」と呼ぶのは、理解できる。
しかし、病理とは病の理であり、pathology のことである。 すなわち「なぜ、そのような疾患や病態が生じるのか」という理論をいうのである。 組織像に基づいて診断を下す、いわゆる病理診断は、病理学の一つの応用に過ぎず、病理学の本質ではない。 画像そのものは病理でも何でもないのである。
そのことをふまえれば、病理組織像のことを「病理」と呼ぶのは不適切であるように思われる。 漢字二文字に略すなら、むしろ「組織」と呼ぶべきではないか。
現代医学では「がん」といえば cancer, すなわち悪性腫瘍を指し、 「癌」といえば carcinoma, すなわち上皮性の悪性腫瘍を指すことが多い。 なお、上皮性とは細胞接着性に富んでいることをいい、非上皮性の悪性腫瘍は肉腫, sarcoma と呼ばれる。
この「癌」と「がん」の使い分けは、私には馴染まない。 「癌」は、当然、「がん」と発音するのであるし、「がん」を漢字で表現すれば、 どう考えても「癌」であり、「雁」ではないだろう。 平仮名で書いた場合と漢字で書いた場合に、このように明確に違う意味を持たせる、ということは 普通の日本語では行われないように思う。 もちろん、同音異義語というものはあるが、それは異なる語がたまたま同じ音を持っているだけであり、 「癌」と「がん」のような、もともと同じ語について表記によって意味を分けているものとは異なる。
医学においては普通の日本語とは異なるヘンテコな術語がたくさんあり、それは癌に限ったことではない。 だが、このように紛らわしい言葉は、あまりよろしくないように思う。 そもそも、平仮名で「がん」と書くと、何だか間抜けな印象を受ける。 従って私は、いわゆる「がん」については「悪性腫瘍」と言うことにしている。 この場合、英語でいう `cancer' と `malignant tumor' の微妙なニュアンスの違いを訳し分けることができないが、 その程度は大した問題ではないと考える。
癌を表現する術語としては「悪性新生物」という言葉もある。 「新生物」と「腫瘍」は同義と考えてよい。 私は初めて「新生物」という言葉を聴いた時、「新しい生物」という意味に解釈し、 なるほど、癌はもはや宿主とは異なる別の生物だと考えられているのか、と理解した。 ところが後に、新生物は英語で `neoplasm' であると知り、驚いた。 「新生物」とは「新・生物」ではなく「新生・物」なのである。 「新しい生物」ではなく「新しくできた物」ぐらいの意味なのだ
この記事を書くにあたって、ハッと気がついたことがある。 肺にできる悪性腫瘍に、悪性中皮腫というものがある。 アスベスト曝露によって惹起されると考えられている、アレのことである。 悪性中皮腫は、アスベスト曝露後の潜伏期間が長いが、ひとたび発症すると極めて予後不良な悪性腫瘍である。 これは肺の胸膜を構成する中皮細胞が腫瘍化したものである。 中皮細胞は形態的には上皮様であるが、体の内部と外部を隔てるものではないために、 定義上は「上皮」とみなされず、「中皮」と呼ばれる。 細かいことをいえば、女性の腹膜に関しては中皮が体の内部と外部を隔てている部分があるといえなくもないが、 ふつうは、そのようには考えない。 なお、血管の管腔側を構成する細胞も、形態的には上皮様であるが「内皮」と呼ばれる。
さて悪性中皮腫は、組織学的には上皮型と肉腫型、および二相型に分類される。 上皮型は腫瘍細胞間に強い接着性がみられるものであり、肉腫型は接着性を有さない。 二相型は、上皮型の腫瘍細胞と肉腫型の細胞とが混在しているものをいう。 中皮細胞は元来、上皮様の細胞間接着を有するのだから、それが腫瘍化したからといって、 ただちに肉腫型の組織型を示すはずがない。 そこで二つの可能性が考えられる。
一つは、悪性中皮腫は初期においては全て上皮型であるが、 一部の細胞において細胞間接着性が失われれば二相型となり、 さらに肉腫様の細胞が増殖能において上皮様の細胞を上まわれば肉腫型となる、という可能性である。 もう一つは、アスベスト曝露後に、ゲノムが損傷されて腫瘍化する過程で 細胞間接着に関係する遺伝子が失われ、はじめから肉腫型の腫瘍が生じる、という可能性である。
理屈としては、一応、両方の可能性があるが、いずれにしても不思議である。 第一の可能性について考えれば、普通の癌であれば、それが成長する過程において 細胞間接着が減弱して浸潤能や転移能を獲得することはあっても、原発巣において肉腫様の組織型を示すことは稀である。 どうして、悪性中皮腫の場合には、肉腫様に変化できるのだろうか。 第二の可能性については、二相型を説明することが困難であるし、同様に他の癌との比較で考えれば、 どうして悪性中皮腫の場合にのみ肉腫型で発現できるのか、よくわからない。
これは中皮という組織の特殊性なのだろうか。 中皮は単層の立方ないし扁平な中皮細胞と、比較的厚い繊維性の結合組織から成る。 このような、生理的に多くの結合組織に囲まれている上皮性細胞は他には思いあたらない。 表皮でも消化管でも、基底膜に接する細胞は円柱状であるから細胞間の接着面積が大きいが、 中皮の場合には細胞間よりもむしろ結合組織との接着面積が大きい。 こうした環境の特殊性が、肉腫型という風変りな上皮性細胞由来腫瘍を生んでいるのかもしれぬ。
あるいは、これはアスベストの産物かもしれない。 長期にわたりアスベストから癌化シグナルのようなものを受け続けることで、 ふつうは容易には失われない細胞間接着性を喪失し、肉腫型となるのだろうか。
悪性中皮腫は、このように不可思議な腫瘍なのであるが、その不思議さに、私は、つい昨日まで気づかなかった。
先日の産婦人科学の講義で、過多月経の原因としては子宮筋腫が多い、という話があり、私は首をかしげた。 子宮筋腫とは、その名の通り、子宮の筋層に生じる腫瘍であり、平滑筋細胞の腫瘍である。 一方で月経は子宮内膜の機能層が虚血性に壊死して脱落する現象である。 少し脱線するが、虚血性の壊死なのだから、定義上は、月経は梗塞の一種であるといえよう。
どうして、筋層の腫瘍が、内膜の現象である月経に影響するのか。 筋層の平滑筋が内膜の肥厚や脱落を制御するなどとは考えにくい。 調べてもわからないので、休み時間に質問してみた。 本当は休み時間ではなく講義中に質問して全体で共有した方が良いのだが、 そのタイミングをつかめなかったので、代わりにここに書く。
実はこれは極めて単純な話であり、子宮筋腫により子宮壁が内腔にむかって突出すると、 子宮内膜の表面積や体積が増大する。従って、機能層の量が増え、月経量も増える、というだけのことである。
理屈がわかれば、様々なことが芋蔓式にわかる。 子宮筋腫が生じても月経の量が変わらない症例が多いのはあたりまえだし、 腫瘍が粘膜寄りの位置に生じた方が月経量への影響が大きくなりやすいのも当然である。 逆に、過多月経があったとしても、超音波その他の画像所見で異常がみられない場合に、 「写真でみえない小さな子宮筋腫があり、そのせいで月経量が増えているのかもしれぬ」と考えるのはおかしい、 ということもいえるだろう。
婦人科で思い出したが、卵巣の中にある卵母細胞は、ヒトの場合、減数第一分裂の前期にあるという。 ところが組織像をみると、これらの卵母細胞は明瞭な核小体を有し、また、染色体の凝集像はみられない。 減数第一分裂の最中なら、伊藤隆『組織学』によれば染色体は凝集し、従って核小体も消失しているはずではないか。
私は昨年、そのような疑問を持ち、教授その他の人々に質問し、幾人かの学生に問題提起してみたが、解決しなかった。 いくつかの可能性が考えられたが、私は、教科書に書いてある減数第一分裂の機構が実は間違いなのではないか、と唱えた。
発生学の勉強をしているとき、ムーアの教科書にチラリとヒントが書いてあることを発見し、医学書院の医学大辞典を調べたら、わかった。 精母細胞と卵母細胞では、減数第一分裂が少し違う、というのである。 卵母細胞の場合、前期の最後に脱凝集し、その状態で何十年も待機するらしい。 私の「教科書が間違っている」という説は、概ね、正しかったということである。
しかし、疑問はさらに続く。 染色体が脱凝集すれば、ゲノムは無防備な状態に曝されることになる。 そのような状況で何十年も待機して、大丈夫なのだろうか。変異が多発しないだろうか。
私の想像では、変異は多発する。卵母細胞系列の変異は、ここで生じているものが多いだろう。 だが、歴史的には変異が起きても問題なかったと思われる。 致命的な変異が生じれば流産するだけであるし、致命的でない重篤な変異を持って生まれた子供は、長生きできなかった。 昔は多産多死であったから、不利な変異を生じた個体は淘汰されていったのである。 むしろ、有利な変異を獲得した個体が選択的に生存しやすいのだから、進化が速まって良かったのではないか。
しかし医術の発展により、多少の不利な変異を抱えていても、社会生活に重大な支障を来さない例が増えてきた。 これは個人の幸福という観点からは好ましいことであるが、別の問題も生じることになり、難しい。 ただし、社会構造の問題から晩婚化、少子化が進んでいることに比べれば、この問題は比較的、些末である。
性同一性障害は、近年になって認知されるようになってきた疾患である。 しかし、この疾患は世間で正しく認識されているとはいいがたく、 医学部学生であっても、性同一性障害と同性愛を混同している人がいるほどである。
詳しい本にはいろいろ書いてあるが、現時点では一般的な教科書にはあまり記載されていないように思うので、 私の認識しているところを記してみる。 誤り等があれば、ぜひご指摘されたい。
簡潔にいえば、性同一性障害とは、身体の性と心の性が一致しない病態をいう。 身体の性とは、若干の曖昧さはあるものの、性腺や外性器などの形態をいう。 一方、心の性とは、当人が認識する自己の性をいう。 これに対し、同性愛は単なる性的嗜好であるし、異性装も単なる趣味・嗜好である。
懐疑的な勢力の中には、性同一性障害は、同性愛や異性装などに極端にのめりこんでいるだけではないか、 との批判を呈する人がいる。 また、性同一性障害の患者の中にも、そのように考え、自分には奇異な趣味があるのではないかと苦しむ例が少なくないという。 なお、同性愛は私には経験がないのでよくわからないが、異性装は、別段、奇異な趣味ではないと思う。 ちょっと女物の服を着てみたいとかスカートをはいてみたいとか思ったり、 実際にやってみたり、その格好で夜間、少しだけ外出してみたりとか、そういう経験のある男性諸君は、少なくないと思う。 逆に女性についていえば、たとえばジーンズは当初は男物であったのに、 やがて女性も着用するようになり、現在では男女共通の装束である。 これは一種の男装が女性の間で定着したものと解釈することができよう。
閑話休題、医学的観点からいえば、心の性というものは、そういった趣味嗜好の問題ではない。 なぜならば、脳には性差があるからである。 神経解剖学を学んだ諸君ならよく知っているはずであるが、 たとえば脳梁の発達の程度など、脳の形態は男女で異なるのだ。 この解剖学的特徴が、脳の機能面にどのような影響を及ぼしているのかは未だ不明であるが、 形態と機能は密接に関係しているのが普通であるから、脳の機能にも男女差があると考えるのが自然である。 ただし、人間の行動様式や思考の傾向は、生後の教育や環境により多大な影響を受けるために、 いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、どの程度まで脳の先天的な差異によって規定されているのかは、よくわからない。
身体の性は SRY 遺伝子によって規定される。 SRY は通常 Y 染色体にコードされており、この遺伝子が機能すれば男性になり、そうでなければ女性になる。 SRY を持たないヒトが身体的に男性になる例はないと思うのだが、よくわからない。詳しい人がいれば、ぜひ教えていただきたい。 ただし SRY は転座により X 染色体や常染色体に乗っている場合がある。 このことは、スポーツの大会などで Barr 小体の有無により性別検査をする際に、 Klinefelter 症候群や Turner 症候群 と共に問題となる。
一方で心の性についてはよくわかっていないが、胎児期におけるアンドロゲンへの曝露量が関係するという説が有力である。 通常は身体の性によってアンドロゲン量が定まり、それに伴って脳が性分化し心の性が適当に決定される、ということであろう。
以上のことから、性同一性障害は次のように理解できる。 身体が男性で心が女性の患者は、ゲノム的には男性であるが脳の性分化の際に異常が生じ、心の性が女性になってしまったのであろう。 逆に身体が女性で心が男性の患者は、ゲノム的には女性であるが、脳の性分化に問題が生じ、心の性が男性になったと考えられる。
治療方法としては、性ホルモン投与などに加えて、性別適合手術が行われることがある。 現行法では、性別適合手術まで行えば戸籍の性別を変更できる。 しかし、こうした治療法はゲノム上の性別と実際の性別の間に乖離を生じるし、不妊となることが問題である。 その意味では、現在では技術が全く確立されていないが、心の性を身体の性に合わせる治療ができれば、生殖能力を温存でき、良いかもしれない。 ただし、仮にそのような治療が可能になったとしても、身体の性を心の性に合わせる方を望む患者も少なくないであろう。
名古屋大学医学部医学科には、一学年あたり百余名の学生がいる。 そのうち二十名以上は地元の東海高校出身者であり、 愛知、岐阜、三重、静岡の東海地方出身者を合わせれば八割以上になるであろうか。 卒業生のほとんどは医師になるのだが、初期臨床研修も東海地方で受ける人が多いらしい。
残念ながら、このような、地元から来て卒後も地元に留まる、という人の流れは、 典型的な地方大学の特徴であるといわざるを得ない。
地元を愛するのは、たいへん、結構なことである。 将来は地元で就職したいと考えるのも、すばらしい。 そうして身近な所から社会を良くしていくことで、ひいては日本や世界が住みよくなるのだ。
だが、どうして、徹頭徹尾、地元に留まろうとするのか。 学生時代ぐらい、あるいは初期臨床研修ぐらい、遠方の見知らぬ土地で過ごそうと、なぜ思わないのか。 東京出身ではあるが、その後は京都、名古屋と移動している私からすれば、いまいち、よく理解できない。
女子学生であれば、娘を遠くにやりたくない、などと、親が駄々をこねたケースがあるかもしれぬ。 経済的に苦しく、親元から通いたいという例もあるだろう。 それらは理解できなくもないが、親と喧嘩して家を飛び出すにせよ、 奨学金と称する借金によって学資を賄うにせよ、やり方は、いくらでもあったはずであり、 地元に留まらねばならない決定的な理由とは考えにくい。
それ以外に地元に留まる理由としては、名古屋大学医学部のネームバリューがあるのではないか。 将来、東海地方で医師をやるならば、やはり名古屋大学の看板が物を言う。 そういう打算の元に、地元・名古屋を選んだ学生が、少なからずいるのではないか。 名古屋大学医学部を卒業し、いわゆる関連病院で研修を受け、 その後も地元の有名病院に就職するというのが、 東海地方におけるエリート医師の典型的なキャリアパスなのである。
率直に申し上げて、志が低い。 安定した有利な条件での就職を希求するあまり、大事なことを、何か忘れてはいないか。 せっかくの優秀な頭脳の、使い方を間違えてはいまいか。
今さら過ぎたことを言っても仕方はない。 しかし、せめて初期臨床研修ぐらいは、関連病院でなく、外の世界で受けようではないか。
名古屋大学医学部医学科では、試験の際の不正行為が横行しているという。 詳しいことは知らないのだが、カンニングペーパーを持ち込む、 試験中に携帯電話で Google 先生に尋ねる、 携帯電話を持ってトイレに行って何事かを為す、などの手口が多いらしい。
本日、所用があって大学の備え付けのコピー機で複写をしていたら、 たまたま、足元に小さな紙片が落ちていた。 何かと思い拾ってみると、A4 をさらに 16 分の 1 程度に小さくした縮小コピーであり、 何やらウイルス学の重要事項らしきものが細かく記載されている。 そういえば、明日は三年生のウイルス学の再試験であるそうな。 しかし、どうして、ノートをここまで小さくコピーする必要があるのか、私にはサッパリ理解できない。
何としても試験に合格せねばならないという強迫観念と、 これまでの怠慢ゆえに合格点を獲得することが絶望的であるとの現実が合わさったとき、 心が弱い者が、かかる不正行為に手を染めてしまうことは、理解できる。 しかし、試験を、かような姑息的手段でごまかした学生が、以後の学習に支障を来さないとは考えられない。 かろうじて国家試験を通過したとしても、藪医者になることは明白である。 おそらくは患者を傷つけ、医学の発展を妨げる害虫となることであろう。
もし、彼らが既に医師としての高い志を失い、単に安定した高収入と社会的ステータスを獲得するための 手段として医師免許を欲しているならば、もはや私は彼らに投げかける言葉の一つも持っていない。 しかし、もし彼らが、かつて有していた誇りの一片でも保ち、 自らの所業を恥じる心を僅かでも残しているならば、ぜひ、過去の過ちを自首されよと、申し上げたい。
試験における不正行為には、厳罰が下される。 現行犯でなく自首であるならば温情ある措置が下されるかもしれないが、 一年間の留年ぐらいは、覚悟する必要があるだろう。 生涯収入のことだけを考えても、一千万円以上の損失になると思われる。
だが、ここで悪事を隠し、それを一生の負い目として、余生を藪医者として過ごすことが、はたして幸福な人生であるか。 そうして、ごまかして、逃げ続ける人生を、本当に望むのか。 全てを告白し、周囲からの嘲笑と侮蔑を受けたとしても、今からしっかりと学び直せば、 人並の医師か、あるいは名医と呼ばれる医師にもなれるやもしれぬ。
胸を張って、生きていこうではないか。
残念ながら昨今の医学科のカリキュラムでは、統計学は非常に軽視されている。 国家試験でもあまり難しいことは問われないらしく、 結局、統計学がよくわからなくても、医師になる上で障害とはならない。 しかし 8 月 30 日にも書いたが、統計学や誤差の取り扱いは、臨床医学において本当は極めて重要なはずである。 その一方で、統計学の教科書は何やら数式が多く、言っていることがわかりにくく、 読んでいると眠たくなってしまうものである。 そこで何回かに分けて、統計学の基本的な考え方を、医学的な例を挙げながら説明してみようと思う。 もし、それなりの内容ができたなら、別にコーナーを設けてまとめて掲載するつもりである。
名古屋大学医学部医学科四年生の A 君は、大腸癌のマーカーとして、蛋白質 B が有力なのではないかと考えた。 すなわち、健常者の血液中には B はほとんど検出されないのに対し、 大腸癌患者の血液中には B がたくさん含まれるのではないか、との仮説を立てたのである。 そこで A 君は消化器外科の C 博士に相談して研究を行い、次のような測定結果を得た。
健康な医学部医学科生 3 人の血液中の B の濃度を測定したところ、 0.05 mg/dL, 0.02 mg/dL, 0.06 mg/dL であった。 大腸癌の患者 3 人から得た血液について、本人の同意を得た上で B の濃度を測定したところ、 0.07 mg/dL, 0.10 mg/dL, 0.29 mg/dL であった。
さて、A 君は測定結果を得たものの、これをどう解釈すれば良いか悩み、 多少は統計学の心得があるという同級生の K 君に相談した。
ここでは、いろいろな考え方があるだろうが、まずは代表的と思われる五つの考え方を検討する。
どの考え方が、実験結果に対する検定の方法として、最も正しいものであろうか。
検定とは、仮説を論理的に厳密な形で定めた上で、その仮説と実験結果が矛盾しないかどうかを調べる行為である。 従って、まずは仮説を明確にしなければ、検定のしようがない。 では、A 君の研究において、検定されるべき仮説とは何か。
おわかりか。A 君が述べている仮説は、よくよく考えると意味が曖昧で、漠然としている。 これでは論理的に正しい検定など、行いようがないのである。 このように考えると、さきほど示した五つの考え方はいずれも、ある意味において「正しい検定」だといえる。 順番にみていこう。
(1) まず「大腸癌患者の血中 B 濃度は、健常者の血中 B 濃度よりも『必ず』高い」という仮説を立てたとする。 実際に測定を行い、この仮説と矛盾する現象が確認されなければ、とりあえず仮説は守られていると考える。 この場合、上述の 1. の考え方を用いることは合理的であろう。
A 君と K 君が議論しているところに、たまたま同級生の O 君が通りかかった。 彼は工学部出身の編入生であり、やはり統計学に詳しい人物である。
つまり、こういうことである。 健常者については三人分の測定を行ったわけだが、その三つの試料の平均は 0.043 mg/dL であり、不偏分散は 4.33 x 10-4 mg2/dL2 であり、その平方根は 0.021 mg/dL となる。
平均 N, 標準偏差 s の正規分布に従う統計量は、たとえば、次のような性質を持つ。 この統計量が N + s より大きい値を取る確率と N - s より小さい値を取る確率は等しく、それぞれ 16% 程度である。 同様に N + 2s より大きい値を取る確率は 2.3% であり、 N - 3s より小さい値を取る確率は 0.2% にも満たない。 しかし逆に、0.1% よりは高い確率で、N - 3s より小さな値を取ることがある、ともいえる。
統計学の教科書では「正規分布を仮定すると」などとさりげなく書いてあり、 さも当然の仮定であるかのような顔をしているが、実際には、この程度の意味でしかない。 もちろん、測定を 3 人分ではなく、もっとたくさん反復して行えば、良い推定が得られるかもしれないが、それは別の話である。
9 月 15 日に書いた「性同一性障害」について、「性的指向」と「性的嗜好」を混同しているのではないか、 との指摘がありそうなので、補足する。
性的少数者に関する議論の多くや心理学などでは、性愛の対象となる性が同性か、異性か、両性か、などの 方向性のことを「性的指向」と呼ぶことが多い。 これに対し、「性愛の対象が概ね 18 歳未満の若年者である」とか「スカートを着用した女性が好きだ」とか 「教師と生徒の性的関係に憧れる」などの性的な好みのことを「性的嗜好」と呼ぶ。 そして性的指向は性的嗜好とは異なるものである、とするのが多数意見であるらしい。
しかし私としては、いわゆる性的指向は性的嗜好の一種であるように思われてならない。 性愛対象の性別に関してだけ分離して扱うことに納得がいかないため、先の記事では同性愛を「性的嗜好」と表現した。 もし、いわゆる性的指向を性的嗜好と区別するべきであるという論理的、科学的な 根拠を示した文献をご存じの方がいれば、ぜひ教えていただきたい。
Wikipedia 英語版によれば、性的指向と性的嗜好は重なる部分もあるが、 性的指向は本人の自由意思で選択するものではないのに対し、 性的嗜好は当人が任意で定める好みをも含む、とのことである。 ただし、この記述の根拠として Wikipedia で引用されている文献は、 こうした言葉の使い分けを特に支持しているわけではなく、Wikipedia の記者が 複数の文献を独自につなぎあわせて原文には存在しない意味を捏造した、 Wikipedia 用語でいう「独自研究」に該当すると思われる。 とはいえ、こうした言葉の使い分けを支持する人々からすれば、 Wikipedia 英語版の解釈が、おおむね正しいということになるのであろう。 そこで、この考え方に反論する。
わかりやすい例として、いわゆるロリータコンプレックスと同性愛の違いについて考える。 ロリータコンプレックスとは、小児を性愛の対象とすること、 あるいはそうした嗜好を持つ人のことを意味する言葉である。 すなわち、性的指向と性的嗜好を区別する考え方からすれば、 ロリータコンプレックスは本人が自由意思で選んだのであるが、 同性愛は自然の力によって、本人の意思とは無関係に決定された性向である、ということになる。
はたして、そうであろうか。 同性愛が本人の自由意思とは無関係に形成された性向であるという点については、異論はない。 しかしロリータコンプレックスの場合、当人は「ロリコンになろう」と考えてロリータコンプレックスになったのだろうか。 ロリータコンプレックスの形成機序はよくわからないが、たぶん、 小児を性愛の対象とする文化的作品その他の環境からの影響により形成されたものではないか。 そうであれば、当人にしてみれば、「気がついたらロリータコンプレックスになっていた」のであり、 自分の意思とは無関係に形成されたのだから、 性的嗜好ではなく性的指向だ、ということになる。
これに対し「当人が自由意思でロリータ作品を閲覧した結果として ロリータコンプレックスになったのだから、あくまで自由意思によって形成された嗜好といえる」という 反論があると予想される。 しかし、それは誤りである。 たとえば幼女を性愛の対象とするアニメ作品があったとして、 ロリータ趣味のない人は、そういうアニメに魅力を感じず、閲覧しないであろう。 しかし、一部の人は、そういう作品を面白いと感じ、それ故に自由意思で閲覧するのだ。 従って、自由意思で閲覧するかどうかの分岐点は、それ以前に既に何らかの要因で定められた 「ロリータアニメを面白いと判断する素因」の有無にある。 こうした素因がどのようにして形成されるのかはわからないが、自由意思と考えるのは無理がある。
別の観点からすれば、ロリータコンプレックスを自由意思だと主張するならば、 「同性愛者は自由意思によって同性と性行為をするから、同性愛者になったのだ」とも言えてしまうのではないか。 もちろん、この考えには「同性愛者は、同性と性行為をする前から同性愛者であった」と反論されるであろう。 ならば、同様に「ロリータコンプレックスは、ロリータ作品を閲覧する前からロリータコンプレックスであった」ということに、なぜ、ならないのか。
以上の議論により、同性愛とロリータコンプレックスの間に本質的な差異は存在しないと考えられる。 同性愛を容認する人の中には、同性愛とロリコンは違う、そんな変態趣味と一緒にするな、 などと論じる人がいるが、それは誤りである。 もしロリータコンプレックスが変態だというのであれば、同性愛も変態だということになってしまう。
私は、同性愛もロリータコンプレックスも、その他の少数派に属する性的嗜好も、 すべて個性として社会的に容認されるべきであると信じる。 日本という国は、アメリカなどとは異なり、そうした嗜好の多様性を認める自由の国であったはずだ。
もちろん、ロリータコンプレックスをこじらせて卑劣な性犯罪に走る輩は許されぬ。 しかし、それは多数派に属する性的嗜好の持ち主が犯す性犯罪が許されないことと、何ら変わる所はない。 一部には、ロリータ文化作品を法的に規制しようとする動きがあるようだが、 他の性的文化作品を容認する一方でロリータ物を狙い撃ちすることは、不適切であると思う。 ただし、未成年者も出入りするコンビニエンスストアで猥褻図書が公然と販売されている現状は、よろしくないと思う。
工学部時代の私は、経済学と生物学に一定の関心を持っていたが、いずれも特にまとまった勉強はしなかった。 今は、ヒトに偏っているとはいえ、生物学には足を踏み入れたわけであるが、経済学については全く触れていない。
以前、マルクスの資本論を少しだけ読み、その論理の精巧さには感心したが、 そもそも論理が「財物には普遍的な価値がある」というような暗黙の仮定から出発していることが残念であった。 もし先まで読み進めれば、もしかすると、この仮定は撤廃されるのかもしれないが、 私は最初の仮定に納得できないまま読み進めるのが苦痛であったため、挫折してしまった。 論理はわかるが根本の仮定が納得できないという理由で挫折したという点では、 マルクスの理論も、純粋数学も、量子力学も、私にとっては同列である。
私は現在、二つの経済学上の問題について、疑問を抱えている。
一つは、経済学を少しだけかじった人がしばしば口にする 「無駄遣いすることで経済が良くなる」という説である。 いったい、いかなる理論的根拠により、このような説がとなえられているのだろうか。 いわゆる無駄遣いが行われ、金が世の中をグルグルと回れば GDP が高くなる、という理屈は概ね理解できる。 しかし、GDP の高さをもって経済の具合を評価することは、はたして妥当なのか。
経済学の目的は、究極的には、人々がより多くの財やサービスを手に入れられるようにすることであろう。 人々が多くの財やサービスを手にしていれば GDP は高い、という関係は概ね成立するにしても、 はたして逆は真だろうか。 国内の生産力が一定、という条件の下で、はたして、無駄遣いの量は、 各人が手に入れられる財やサービスの量を増やすのだろうか。
もう一つの疑問は、どうして日本は、こうも物質的に豊かなのか、ということである。 結局は、資本主義の機構を利用して、発展途上国など諸外国から 財やサービスを搾取しているからに過ぎないように思うのだが、どうなのだろうか。
なかなか、経済学の良い入門書に巡り合うことができない。
この場合の T 検定とは、大腸癌患者と健常者で、いずれも血中 B 濃度は正規分布に従うという仮定の下で 「大腸癌患者における血中 B 濃度は健常者の血中 B 濃度と異なる平均値の正規分布に従う」という命題の 真偽を調べることである。
大腸癌患者の血中 B 濃度の平均が m1, 健常者の血中 B 濃度が平均 m2 であるとき、 もし両群が同じ分布に従っているのであれば、m1 - m2 = 0 となるはずである。
ここが、検定の理論の一つの山場である。 検定の結果として「両群が異なる分布に従っている」という結論が得られることはあっても、 「両群が同じ分布に従っている」という結論が得られることは、決して無いのだ。 すなわち「完全に厳密に一致しているもの」と「ほんの少し、ごく僅かだけずれているもの」とを、 実験的に鑑別することは不可能なのである。 ただし「差があるとしても、それは最大いくらぐらいであるか」を推定することはできる。 この話は、また後日になるだろう。
p 値については、何となく知っている人は多いと思われるが、 厳密に理解している人は少ないように思われる。 このあたりの議論から、いよいよ確率論の深淵なる奈落の底が垣間みえるのである。
以前にも何度か似たようなことを書いたが、臨床現場では、奇異な略語が、しばしば用いられるらしい。 たとえば (急性) 虫垂炎は英語で (acute) appendicitis であり、カタカナではアッペンディシティスであるから、 略して「アッペ」という。この表現は、手塚治虫のブラックジャックでも多用されている。 また、癌の転移は英語で metastasis でありメタステイシスであるから、「メタ」という。
臨床の医師は多忙であるから、「転移」という三音節の語を発音する時間を惜しんで 「メタ」という二音節の語を用いることには、一定の合理性がある。 しかし、こうした俗語を大学の講義で使い、学生に教え込むのは、いかがなものであろうか。
専門用語は、それぞれに意味が定義されており、学術的な議論をする上では、それらを正確に使い分けねばならない。 たとえば「びらん」と「潰瘍」は似たようなものではあるが、これらを混同して使ってしまうと、 まともに皮膚や消化管の疾患を議論することができない。 なので、特に学生は、言葉を正確に理解し、正確に使えるように訓練する必要がある。 たとえば、前述の「びらん」とは表皮や粘膜が部分的にもしくは全体的に欠損している状態を指すのだが、 これは内視鏡的所見としては、赤くみえる。 だからといって、赤くみえれば「びらん」である、というわけでは、もちろん、ない。 従って、内視鏡的に発赤してみえることを「びらんがある」と表現してはならない。 これは、特に子宮膣部の病変を議論する際には重要である。 これらの用語は、学会などがまとめて、公式な定義として公表されている。
それに比べれば、メタとかアッペとかいう略語は、公式な合意を得た表現ではない。 本当に一音節の差を重視している場合を別にすれば、わざわざ、そうした俗語を使うのは、なぜだろうか。 転移とか虫垂炎とかいう正確で公式な語を、なぜ、使わないのか。 「臨床用語に精通しているオレ、カッコイイ」とでも思っているのだろうか。 少なくとも、我々学生には十年早いのではないか。
略語以外にも、不適切な俗語がある。 たとえば、いわゆる大腸菌 O157 である。 O157 とは、細菌を細胞壁に含まれるリポ多糖の抗原性によって分類した場合の、 157 番目に定義された抗原を有するもの、という意味である。 専門家以外にはややこしいが、要するに大腸菌を細胞壁の構造によって分類したものだと思って良い。 これは、その大腸菌が毒性を持っているかどうかとは、直接は関係ない。
人によっては、アレ、と思うかもしれない。 O157 の大腸菌といえば、腸管からの出血を来し、時々流行して死者も出ている、恐ろしい大腸菌のことだ、 と思っている素人は多いであろう。 医師の中にも「O157 は腸管出血性大腸菌である」などと思っている人がいるらしく、とんでもないことである。
「腸管出血性大腸菌の中には、O157 に分類されるものが多い」というのは事実である。 しかし、O157 ではない腸管出血性大腸菌もあるし、O157 でも無毒なものもたくさんある。 腸管出血性大腸菌のことを意味したいのであれば、O157 ではなく EHEC (entero-hemorrhagenic Ecsherichia coli) などの用語を使う必要がある。
医学の世界には、このような、似ているが意味の異なる単語がたくさんある。 これらを正確に使い分けるよう注意していれば、メタとかアッペとかいう曖昧な略語は、 恐ろしくて、とても使えたものではない。
昨年度であったと思うが、何かの講義で、CT スキャンなどの医療行為のために、 日本人は諸外国人に比べてかなり多量の被曝をしている、という話があった。 その時の教員は、これは日本では高度な医療行為が高頻度で行われているためである、と主張し、私は違和感を覚えた。
その論理でいえば、すなわち、諸外国は貧乏で CT スキャン装置が普及していないために、 CT スキャンを実施する機会が少なく、結果として様々な疾患が見逃され、あるいは誤診されている、ということになる。 はたして、本当だろうか。
CT スキャンを実施して、被曝による発癌のリスクを背負うのも、 そのための高額な費用を負担するのも、医者ではなく患者である。 それを「高度な医療だ」などと威張るのは、時代錯誤というものではなかろうか。
私は小学生の頃に、日能研という塾に 通っていた。あるとき、試験前日の夜遅くまで勉強していた私は、母から 「テストの点数などというものには大した意味がない。 試験の前日に一夜漬けて勉強して良い点数を取ったとしても、無駄である。 だいたい、試験のために勉強するという行為自体がくだらない。」というような 叱責を受けた。 それ以来、私はいわゆる試験勉強というものをしなくなったし、 そもそも試験というものを馬鹿にするようになった。 高校三年生の時には、「実力考査」という、定期試験とは異なる 校内模試のような試験が三回実施された。 この実力考査の点数と大学受験の結果は、氏名は伏せる形で公式の資料にされ、 進路を決めるための参考資料として後輩に配布されるのである。 私は試験というものが嫌いであったから、敢えて実力考査で悪い点数を取りつつ 東京大学に合格して驚かせてやろう、との悪戯心を抱いた。 そのために英語を白紙答案で提出して 0 点となり、狙い通り、 学年約 300 人のうち 250 位程度の成績を獲得したのである。 ただし結局、高校三年生時点では東京大学にも京都大学にも合格できなかった。
大学などの入学試験は、優秀な学生とそうでない学生を選別するために 実施されるが、大学に入った後の試験は、むしろ 学生に勉強する気を起こさせるための手段として実施されているように思われる。 しかし、結果として学生は試験で効率良く得点するための勉強に走り、 学問の正道を失っているのではないか。
医術を身につけ、医者として患者を治療して報酬を得るだけであるならば、 既に確立された治療法を学び、ガイドラインに沿った治療を行えば良い。 しかし、そのような医師ばかりでは困る。 新たな治療法を開発し、ガイドラインを策定し、 未来の医療を開拓していく医師が必要である。 そうした医師を育成することこそが、 名古屋大学医学部の理念である。 また、分野によっては標準的治療がガイドラインとして定まっていないことも多いし、 そもそもガイドラインは目安に過ぎず、個別の症例については各医師が個別に判断せねばならない。 教科書やガイドラインや慣習に盲目的に従う医師は、残念ながら、水準が高いとは言い難い。
正しい医療を実践していくには、既存の知識を習うばかりでは、もちろん、不足である。 習うことに加えて、疑問を呈すること、調べること、批判することが必要である。 また、新しい医療を開拓するには、これらに加えて新説を唱えること、検証することも必要である。 これらを全て備えて初めて、新しいものを生み出すことができる。 しかし残念ながら、試験で測定できるのは基本的には「習うこと」だけであり、 むしろ疑問を呈したり批判したりすれば、試験の点数は、下がる。 従って、高得点を得るには、ひたすら習うべきであり、教科書の記述を疑ったり批判したりするのは、避けた方が良い。
自慢であるが、私は中学時代からずっと、試験の問題や、 出題者が期待しているであろう解答に異論や納得できない点がある場合には、 大幅減点を覚悟した上で、異論を解答用紙に書き続けてきた。 昨年の、病理組織標本をみて所見を書く試験では、 正解が急性虫垂炎であることはわかっていたが、 不勉強な私の目には慢性炎症の組織像にみえたので、「慢性虫垂炎」と解答した。 もちろん、そのような疾患名は存在しないということは承知していたが、 点数を取るために「急性虫垂炎」などと回答することは、科学者としての敗北であると考えたのである。
疑問を持つことや批判することは、経験を積めばできるというものではない。 むしろ医師になって臨床経験を積み、慣れれば慣れるほど、「そういうものだ」という 思い込みが強くなり、疑問を持たなくなるのではないか。 「まだ経験が浅くてよくわからないから」と遠慮して、無批判に、疑問を持たずに、 教科書や講義の内容を黙々と暗記している学生がいるとすれば、たいへんに残念なことである。
子宮頸癌は、子宮頸部にできる悪性腫瘍である。 子宮は体部と頸部に分けて考えられ、おおまかにいえば、胎児がいる部屋の部分が体部であり、 体部と膣をつなぐ部分が頸部である。 なお、子宮頸部のうち、膣側に突出している部分を特に子宮膣部と呼び、 それ以外の管状の部分は頸管と呼ばれる。
さて、子宮頸癌は、ふつう、上皮内癌と呼ばれる状態から悪化して生じる。 上皮内癌は、ほとんど癌細胞と同じ悪性腫瘍様の細胞の集塊であるが、 それが基底膜を越えずに、上皮、すなわち表面の部分に留まっているものをいう。 これが基底膜を越えて奥の方に入っていけば、浸潤癌と呼ばれるようになり、これが子宮頸癌である。 なお、この説明はあくまで素人向けであり、病理学的に厳密にいえば誤りであることには注意されたい。
さて、日本では、子宮頸癌や子宮頸部の上皮内癌に対しては外科的な処置が施される例が多い。 すなわち、子宮の一部、もしくは全部を切除して、癌の広がりを防ぐのである。 一方、米国では化学療法や放射線療法が適用される例も多いらしい。
ガイドラインには明記されていなくて困るのだが、ここでいう放射線とは、X 線やγ線のことであるらしい。 調べていて不思議に思ったのは、どうしてβ線を使わないのだろうか、ということである。 上皮内癌であれば、体の表面付近に癌細胞は局在しているわけだから、β線や、場合によってはα線のような、 飛程の短い放射線を使えば正常組織への影響を抑えて効率的に癌細胞を死滅させることができるのではないか。
加速器を用いてヘリウム原子核よりも重いイオンを照射する、いわゆる重粒子線治療は研究されているようだが、 β線の利用については、どうなのだろうか。 あるいは経済性の問題があるのかもしれないが、他に何か、理由があるのだろうか。よくわからない。
「治る」という語の意味は、時として難しい。 感冒や軽度の外傷のような、ほぼ完全に可逆的な疾患の場合には、 「治る」とは「元通りの状態に戻ること」と考えて良いだろうから、問題は少ない。
しかし悪性腫瘍など不可逆性の疾患については、どうであろうか。 たとえば胃癌の患者について、胃の全体を切除して癌細胞を完全に取り除いた場合、 これは「治った」と言って良いのだろうか。
多くの医師は、これを「腫瘍を完全に摘出したことにより、治った」と言うのではないか。 しかし患者は胃を完全に失い、もはや以前と同様の食事をすることはできない。 重大な後遺症が残るわけである。 転移や再発の可能性を別にすれば、確かに癌ではなくなったわけだが、完全に健康な状態になったわけでもない。 これを「治った」と主張するのは、私には、どうも納得できない。
従って、私は「治る」という言葉を極力使わないようにしている。
尿意をあまりに我慢し続けると尿道炎や膀胱炎になることがある、というような話は、広く知られている。 我慢することと膀胱炎に、本当に関係があるのかどうかは知らないが、 入院患者などで寝たきり生活が続くと膀胱炎などの尿路感染症を引き起こしやすい、とはいわれている。 こうした尿路感染症は、上行性感染によるものである、と考えられている。
ふつう、腎臓や膀胱などといった尿路系は、無菌である。清潔なのである。 もちろん、尿道は外に向かって口を開いているのだから、そこから細菌がウネウネと入ろうとすることはある。 しかし、それらの細菌は尿によって洗い流されるために、膀胱や腎臓には、なかなか到達しない。 ところが、排尿と排尿の間隔が長すぎたり、尿量が少なすぎたりすると、十分に洗い流すことができず、 ついに細菌が膀胱に到達してしまう可能性がある。 そうすると膀胱で炎症が起こり、痛かったり、時に出血したり、大変なことになるわけである。 このように、出口から中の方に細菌が逆行して感染する現象を上行性感染といい、 乏尿による膀胱炎は、だいたい、こうした上行性感染によると考えられている。
もし、本当にそうであるならば、膀胱炎までは滅多に起こらないにしても、 外尿道口に近い部分の尿道は、頻繁に細菌感染を起こし、炎症を生じているのだろうか。
上行性感染といえば、胆石である。胆嚢に石ができる、という、アレである。 医師国家試験や、病院での実習に入る前に受けなければならない CBT という試験などでは、典型的な症例しか出題しない。 そのために、問題文中に「天プラを食べた後に腹痛を生じた」という記述があれば、検査結果などをみなくても診断名は胆石だとわかる、 というのが試験対策テクニックの一つであるらしい。 もちろん、実際にはたまたま天プラを食べた後に大腸炎の痛みを自覚した人もいるだろうし、 天プラを食べたかどうかだけで診断できるわけがないのだが、医学科生が受ける全国共通の試験には、このような、くだらない出題が少なからず存在するらしい。 むしろ検査結果などを提示せずに、「天プラを食べた後に生じる腹痛の原因として多い疾患は何か」などと直接的に出題した方がマシであると思う。
それはさておき、上行性感染と胆石の関係である。 胆石の成分にはイロイロあって、組成に基づく細かな分類もあるのだが、 おおまかにいえば、コレステロールの塊か、ビリルビンなる色素の塊か、 それらの混合物であるか、の三種類と考えて良い。
私はまだ実物をみたことがないのだが、純コレステロールの胆石は 外観もキレイで、変な匂いもせず、細菌もあまりいないらしい。 一方でビリルビンが多く含まれる胆石は、汚い色をしており、悪臭があり、 細菌がウヨウヨと住んでいるという。
では、ビリルビンの胆石に住んでいる細菌は、どこから来たのか。 胆石は胆嚢の中か、胆管にできる。胆管や胆嚢は、肝臓と十二指腸の間にある。 肝臓はふつう無菌であるから、基本的には、 胆石に住んでいる細菌は十二指腸から上行性にやってきた、と考えるべきであろう。
いまいち、すっきりしない。 十二指腸から胆嚢まで上行性に細菌が移動できるなら、 胆嚢から肝臓までも、同様に移動できるのではないか。 肝臓の中に大腸菌が入りこんで、肝炎を引き起こすはずではないか。 肝臓に細菌が入り込んで膿瘍をつくる、肝膿瘍という病態は存在するが、 あまりありふれたものではない。 ふつうの人では、細菌は肝臓まで入り込まないのである。 一体、いかなる防御機構が存在するのか。
たぶん、肝臓からは常に少量の胆汁が分泌されているために、細菌はそれに流されて、 なかなか肝臓に到達できないのであろう。 一方で胆嚢から十二指腸までは、間歇的にしか胆汁は流れない。 そのために、胆嚢までは比較的容易に細菌が到達できるものと思われる。
このように、一応は理屈をつけることができるのだが、 どうにも、無理矢理説明したような印象を拭いきれない。