学生たるものは、卒業するまでに、少なくとも一つ、できれば三つぐらいは、得意とする武器を用意しておくべきであろう。 具体的には何でもよく、たとえば「糸結びが巧い」とか「腹腔鏡の扱いが巧い」とかいう手技でも良いし、 「感染症なら任せろ」とか「膠原病を知っている」というような内科的学識を誇るのでも良い。 とにかく、同級生の中で、私はこれにかけては秀でている、と自信を持てるものがあれば、きっと、卒業後の人生において大きな支えになるであろう。
さて、ある四年生の友人によれば、私が臨床実習中に循環器内科で喧嘩を売った、というような噂があるらしい。 詳しいことはよくわからないのだが、どうやら実習中に、心筋梗塞で ST 上昇がみられる機序について 「世間では、いい加減な説明がまかり通っているように思われる」という発言をしたことなどが、誇張されて伝わったものと思われる。
私としては喧嘩を売る意図はないのだが、研ぎ澄ました武器を持って、教授その他の教員を刺しに行っていることは、事実である。 先生方が見落としているのではないか、うっかりしているのではないか、という部分を、突きにいくわけである。 もちろん、大抵の場合は返り討ちに遭うのだが、刺しに行くという行為自体が重要であると考える。 そうした学生と教員の真剣勝負の場こそが大学なのであって、センセイの有り難いお話を一方的に拝聴するのは、小学校までで充分である。
なお、ST 上昇の件については、実際に Google 検索をしてみればわかるが、説明を試みる人は多いものの、 本当に整合性のある説明をできている人は稀である。 電気軸の概念を正しく理解していないにもかかわらず、電気軸の概念を使って説明しようとしている人が多いように思われる。
学生が講義や教科書を評するとき、「わかりやすい」という表現は、しばしば、褒め言葉として用いられる。 たとえば「あの先生の講義はわかりやすい」とか、「この教科書はわかりやすい」とかいえば、それは、高く評価していると解釈するのが普通である。 しかし、医学に限らず学問は、大学で扱うような専門的な水準においては、非常にわかりにくいものである。 それを、わかりやすく説明しているとすれば、たぶん、何かをごまかして、正確でない説明をしている。
私の得意分野である心電図学において、例を挙げよう。 しばしば判断に悩む事象として、「心房粗動」と「心房細動」の鑑別がある。 心房粗動とは、概ね定まった伝導路を通る心房のリエントリー性不整脈であり、 心房細動は、不定な伝導路を通る心房のリエントリー性不整脈である。 専門外の人にとってはチンプンカンプンであろうから、これを「わかりやすく」説明すると、たとえば次のようになる。
心房粗動とは、心房の中にある電気的刺激の通り道がおかしくなって、心房の収縮と弛緩を高頻度で繰り返している状態であり、 心房と心室の同期がとれていないことから、心房は実際にはほとんど機能していない。 これに対し心房細動とは、心房の中にある電気的刺激の通り道がデタラメになって、もはや心房は収縮も弛緩もしていない状態である。
この「わかりやすい」説明の何がおかしいかというと、私は「収縮」とか「弛緩」とかいう言葉を、非常に漠然とした、曖昧な意味で使ったために、 実際には何を言っているのか、全然、わからないのである。 というのも、心筋細胞一つ一つを観察すれば、心房粗動だろうと心房細動だろうと、キチンと収縮や弛緩を繰り返しているはずである。 一体、私が述べた「収縮」とか「弛緩」とかいうのは、何のことなのだろうか。私自身、わからない。 素人を相手に、わかったような気分にさせて「教え方が巧い」と評価されることが目的であるならば、このような、実際には意味のわからない説明で 煙に巻いてしまうのも、一つの手段であるかもしれない。 ひょっとすると、予備校講師には、こうした技能に長けた人が多いかもしれぬ。 しかし学生は素人ではないのだから、こうした説明に満足してはならない。
さて、学生向けの参考書では、「心房粗動は RR 間隔が一定であるが、心房細動では RR 間隔が不定である」などと書かれていることがあるらしい。 実に、わかりやすい。臨床的には、そういう例が多いのであろうし、医師国家試験に出題されるような典型的症例では、そのようになっているのであろう。 しかし本当は、RR 間隔は一つの判断材料にはなるものの、決定的ではない。心電図学は、そのような「わかりやすい」ものではないのだ。 たとえば、さまざまな程度の房室ブロックが存在するために RR 間隔が不定になる心房粗動もあるし、 逆に完全房室ブロックがあれば、心房細動でも RR 間隔は一定になる。 また、心房粗動では鋸歯状の P 波がみられ、心房細動では f 波や F 波がみられる、と書かれていることもあるようだが、 鋸歯状 P 波は不明確なこともあるし、f 波や F 波が存在しない心房細動もある。 このように、心房細動と心房粗動を鑑別するには、定義を正しく認識し、理論的に解釈することが必要である。 それにもかかわらず「まずは、わかりやすい説明で理解して……」などと言う者がいるが、彼らは、定義も理解せずに、一体、何をどうやって「理解」しているのだろうか。
先日、某所でたまたま、iCrip という医学科生向けのフリーマガジン (2014.12 Vol. 31) が配布されていたので、深い考えなしに、一部を頂戴した。 発行元は、医師国家試験対策のメックという予備校である。 もちろん私は、こうした予備校が医学を歪め、試験対策ばかりを学生に教え、学問の真髄には触れず、 その一方で、深く学問的で重要なことを教わっているかのように学生に錯覚させているということは、知っている。 その上で、連中の主張に一応は耳を貸した上で馬鹿にしてやろう、という程度に思い、手にとったのである。
まず表紙からして、おかしい。「医学部に来たのは医師になる為だよね! その目的と使命感を持って!!」と書いてある。 志が低すぎる。 たとえば私の場合、医学部に来た目的は医学を修めるためであって、医師になることは手段に過ぎない。場合によっては、医師には、ならなくても構わないのである。 医師になること自体を目的としては、ならない。 学生の中には、まずは医師になって、それから段々とステップアップする、という考えで何が悪いのか、などと反論する者がいるだろう。 大いにまずい。 人類の歴史を振り返った時、手段と目的を明確に区別して認識していなかった者が、何事かを成した例を、私は知らない。 「医師になること」自体を、暫定的とはいえ目的に設定してしまえば、勉強の仕方が歪んでしまうのである。
具体例を示す。このフリーマガジンの 54 ページに、この予備校が実施した模試から引用された例題が示されている。 「肝予備能を示す指標でないのはどれか」という設問に対し、選択肢は「a ALT, b ICG 試験, c 総ビリルビン, d コリンエステラーゼ, e プロトロンビン時間」である。 私は「全て指標になる」と判断した。 そこで「解説」をみると、「正解」は a の ALT であるらしい。その根拠が明記されていないのだが、解説の雰囲気からすると、どうやら出題者は、 原発性肝癌取扱規約にある「肝障害度評価」や Child-Pugh 分類に ALT が含まれていないことを根拠に「肝予備能の評価には用いない」としたものと推定される。 これは、全く不適当な判断である。
たとえば慢性肝炎の患者において、白血球数などの炎症所見は増悪傾向にあり、血清 ALT 活性が高度高値であった患者において、 炎症所見に著変がない一方で急激に ALT 活性が軽度高値ぐらいにまで低下した場合、肝硬変が完成したことを反映している疑いがある。 このような場合、ALT は肝予備能を示す指標として用いることができる。 「肝障害度評価」や Child-Pugh 分類が ALT を指標として採用していないのは、ALT 単独では指標として用いることが困難であり、 複合的で理論的な解釈が必要となることから、客観性を重視する場合には不適当だ、というだけのことに過ぎない。 客観性を重視する場合、というのは、たとえば臨床研究などのために統計を取るような場合をいうのであって、 通常の診療においては、そこまで客観的である必要はない。
単独では肝予備能を示さない、という点については他の項目も実は同様であって、たとえば溶血性貧血の患者では肝予備能が高くても 総ビリルビンは増加するし、あるいはプロテイン C 欠損症の患者やライデン変異の保有者であればプロトロンビン時間は肝予備能の割には短くなる。 ALT は、他の要因の関与の程度が著しい、という、程度の問題に過ぎない。
従って、適切に出題するならば「肝癌取扱規約における肝障害度や Child-Pugh 分類における肝障害度の評価に含まれない項目はどれか」などとするしかない。 それを、予備校が言うように「ALT は肝予備能の評価には用いない」などと暗記しているようでは、医学を学んでいるとは、いえない。 さらにいえば、このような出題に対して「正解」できる学生は、勉強の仕方がおかしい。
私は、普段はテレビをみないのだが、それでも何かの機会に視聴することはある。 名古屋に来てからは、医療関係の番組をみる頻度が、以前にくらべて高くなったように思う。 医療関係の番組というのは、たとえば、いわゆる医療ドラマや、健康問題を扱ったものである。 こうした番組には、ふつう、医療監修として医師が参加しているようである。 しかし、番組の演出上の問題なのか、監修している医師の資質の問題なのか知らないが、医学的には到底、容認できない内容であることが多い。
たとえば、某医療ドラマでは、転移のない大腸癌は手術で根治できる、再発したとすれば手術ミスである、という前提でストーリーが作られていた。 これは外科ドラマであったので、外科手術の効果を誇張したために、そのようなストーリーになったのかもしれないが、 結果として外科医諸氏を憤慨させる内容になってしまったのである。
癌の「転移」とは、癌細胞が原発巣から遠い別の臓器に移行して定着することをいう。 これに対し、原発巣のすぐ近くに移行することは「浸潤」という。 癌の局所再発は、浸潤した癌細胞を取りきれずに残存していたために生じるのだと考えられている。 従って、浸潤したものも含めて全ての癌細胞を切除してしまえば、転移がない限り、理論上、再発することはない。
しかしながら、どの程度の範囲にまで浸潤が及んでいるのか、現代の医学水準では検査で明らかにすることができない。 従って、癌を外科的に切除する場合には、明らかに癌である部分から何 cm かの余裕をみて、広めに切除するのが鉄則である。 それでも、時に、予想を越えて浸潤していることがある。 そのため、ふつうは外科的に切除された検体に対して組織診断を行い、「断端陰性」であることを確認するのである。 つまり、その検体の端の部分には癌細胞が及んでいないことを、顕微鏡下で確認するのである。 だが、組織診断といっても、切除した検体を隅から隅までみることは現実的には不可能であるし、 「明らかに断端陽性、というわけではないが、断端に近い部分まで癌細胞が来ているから、よくわからない」という例も多い。
そこで、再発のリスクを完全に回避しようとするならば、「どう考えても断端陰性である」と断言できるぐらい、とてもたくさんの余裕をみて切除しなければならない。 この「とてもたくさんの余裕」というのが、どの程度なのかわからないが、たとえば小さな、直径 1 mm 程度の下降結腸癌であったとしても、 大腸の半分を切除して、直腸も切除して、人工肛門をつける、というようなことになるかもしれない。 人工肛門とはいうが、現在の技術水準では、生理的な肛門とは異なり、「さぁ、出すぞ」と思って排便できるようなものではない。 大腸の運動に伴って、無意識に排便されるのである。 すなわち、この小さな結腸癌のために、患者は、日常生活に甚大な不自由を背負うことになるのである。 はたして、そのような不便を受け入れてまで、僅かな再発リスクを避ける必要があるのか、という点が問題なのである。
このように、患者の生活の質、いわゆる Quality of Life (QoL) を重視する観点から、若干の再発リスクは残るとしても、 切除範囲は小さめにするのが現代医学における標準的治療である。 従って、時に再発してしまうのは、外科医の過失でもなければ、手術の失敗でもない。
別の医療番組では、芸能人に健康診断を受けさせて、その異常所見について医師がコメントしていた。 あまりに低レベルな内容であったために途中でみるのをやめてしまったのだが、たとえば、次のような具合であった。 血液検査所見において、いわゆる肝逸脱酵素や胆道系酵素の活性が高かった。 具体的な項目としては ALT, γGTP, ALP であっただろうか。 問題は、それらの検査値に、単位がつけられておらず、単に数字だけが示されていたのである。
確かに、臨床医や学生の中には、検査値の単位を省略する者も多い。 彼らの多くは「まぁ、単位なんかつけなくても、わかるでしょ」などと言い訳する。 物理学や工学を知っている者からみれば、彼らは「我々はノータリンである」と宣言しているに等しい。 というのも、検査値というものは、その背景にある生物学的、あるいは物理学的現象を想像しながら読むものなのであって、単に数値の高い低いを議論するものではない。 単位には、その数値と生物学的活動とを橋渡しする重要な役割がある。 それを気にかけないということは、患者の体内で起こっている生物学的現象への思慮が欠如していることの証左である。 もちろん、臨床検査技師や臨床検査専門医は、単位がいかに重要であるかをよく認識しているはずだが、 残念ながら一般の医師は、検査というものに対し、それほど造詣が深くないようである。
何より問題なのは、一般向けのテレビ番組である以上、単位をつけなければ視聴者には何も伝わらない、という事実である。 この場合「単位は省略してもわかるでしょ」という言い訳には、成立の余地がない。 あの番組を監修した医師、出演した医師が、医師免許を持っているだけの素人に過ぎないことは明白である。
学生の中には批判的精神に富んだ人もいて、彼らは病理学的、あるいは薬理学的な機序を追究する姿勢を持っている。 しかし、先生のおっしゃることや、権威ある教科書の記述を公然と批判する猛者は、なかなか、稀である。
かつて米国の物理学者であるリチャードが述べたように、本当に正しい物事は、いかなる批判に対しても耐えられるものである。 もし教科書の記述が正しいならば、我々が死力を尽くして批判を試みたところで、最後には教科書の主張を認めざるを得なくなるはずである。 仮に、我々の批判が未解決のまま残ってしまうならば、それは教科書の記述が正しくないか、あるいは我々が教科書の記述を正しく理解できていないかの、いずれかである。 従って、真に理解したと宣言するためには、全力で批判を加える試みが必要である。
どうすれば、若い学生達に、疑問を持つことや批判することの重要性を教え、実践させることができるだろうか。 残された一年余りの時間の中で、一体、私は名古屋に何を遺すことができるだろうか。 これまでの三年近くを振り返ってみると、実に無為に時間を過ごしてきたことが、かえすがえす、悔やまれる。
日本では、医師の間では、なぜか、経験年数による序列が存在するらしい。 そのため、多くの医師や医学科生は、先輩に対する批判を公には行わないようである。 もちろん、これは全く無意味な慣習であるので、私は、そのような序列に従う気は毛頭ない。
若手医師の中には、残念な勘違いをしてしまった人が少なくないようで、 「学生時代に勉強した内容などは、ほとんど役に立たない。卒業してから学ぶことの方が、よほど重要である。」などという言葉を、しばしば耳にする。 これは要するに「私は、基礎的な学識を必要としない程度の低質な医療しか提供していない」と言っているに過ぎない。 どうして、病理学や薬理学、あるいは内科学や外科学の学術的理解なしに、先端的医療を患者に提供することができようか。
彼らが行っているのは、たぶん、いわゆるマニュアル診療である。 「こういう症状の患者が来たら、こういう検査をする。こういう所見があれば、こう診断する。そして、こう治療する。」 というような膨大なマニュアルを記憶し、あるいは必要に応じて調べ、その通りに実行するのである。 そこには、マニュアルの背景を考察し、批判的吟味を加えるという科学的精神は存在しない。 もちろん、まともな医師は、こうしたマニュアル診療を批判しているし、研修医をマニュアル診療に走らせるような教育体制は疑問視されているのだが、 思考停止してしまった一部の研修医は、まるで自分が何か重大な仕事を成し遂げているかのように錯覚してしまうらしい。
もっとも、いわゆる受験戦争を勝ち抜いただけで、学問を修めることなしに医師になってしまう若者達に、それが錯覚であると認識させるのは容易ではあるまい。 「なぜ?」と問うことの重要性を教わらないことは、現代の医学科生の最大の弱点である。
過日、某市中病院の、某診療科の部長から、次のような話を聴いた。 皆、あまり口に出しては言わないが、医療機関の違いによる医療の質の差異は、明確に存在する。 開業医の多くは、診断能力は高くない。 それは CT などの装置の有無によるのではなく、単に、医師の診断能力の違いである。 すなわち、本当に正しい診断を受けたければ大きな市中病院を受診するべきであるし、それでも診断が難しいなら大学病院などに任せるべきである。 逆に、高度な診断能力や治療を必要としない患者は小規模病院や開業医に移るべきであり、そうでなければ、大病院の機能が麻痺してしまう。
まぁ、言われてみれば、あたりまえのことである。 しかし、医療の質の差異については、私がすっかり忘れかけていた指摘であったため、敢えてここに記録しておく。
過日の記事で、私は北陸の某地方大学で初期臨床研修を受ける予定である旨を記した。 私のスポンサーである父は、私の意向に対して難色を示しているようであるが、母が丸く収めてくれているようであり、実にありがたいことである。 先の記事では書き忘れたが、その大学が優れた人材を広く集める度量において日本一であることを示す証拠が、一つだけ、存在する。 医学部編入試験を受ける者の間ではよく知られているのだが、この大学は一次試験として書類選考を行い、 二次試験として筆記試験を行い、三次試験として一泊二日の合宿形式での面接を行っている。 特に三次試験では数名の教授が一日半を費しているのであるが、当然、準備にはそれ以上の時間をかけているはずである。 わずか 5 名の新入生を選ぶためだけに、そこまでの手間をかけている大学は、日本広しといえども、他にない。 何より、日本の原子力学界から逐われ、医学界からも拒まれつつあった私をも受け入れる器の広さは、燕の昭王に比類する。
燕国の昭王は、中山国の遺臣である名将・楽毅を登用し、彼に軍事を委ねることで、当時大国であった斉国を滅亡寸前にまで追い込んだ名君である。 即位して間もない頃の昭王に対し、郭隗という臣は、郭隗自身を重く用いることを進言した。 暗愚な王であれば、郭隗の進言を私利私欲のためだと短絡的に判断し、彼を遠ざけたであろう。 しかし昭王は明君であり、彼の進言を容れたのである。ここで重要なのは、郭隗は有能な人物ではあったが、しかし天下無二とまでいうほどの人物ではなかった、という点である。 もし彼が無能であったならば、それを重用する昭王も暗君として世に知られてしまったであろう。 しかし彼は「そこそこ有能」であったために、自分は郭隗よりは有能だ、と自負する天下の名士が昭王の下に集まった。 これが「先ず隗より始めよ」という故事成語の由来である。 昭王の下に集まった名臣の中には、先に述べた楽毅も含まれていたのだから、燕の最盛期を築いた最大の功労者は郭隗であったと言うこともできる。 ただし、昭王の次に王となった恵王は暗君であり、昭王の偉業は全て、恵王の代に失われてしまった。
私は、自分が楽毅になれるとまでは思っていないが、郭隗ぐらいには、なれるであろう。 唯一の問題は、昭王に巡り合うことができるかどうか、である。
なお、度量で知られた歴史上の人物としては孟嘗君も有名である。 孟嘗君は古代中国の貴族であり、多数の食客を抱えていたが、その中には、鶏の鳴きまねが巧い、などの意味不明な技能の持ち主も数多く含まれていた。 しかし孟嘗君が命を狙われたとき、その鶏の鳴きまねによって窮地を脱することができたという。 ただし宋の名士である王安石であったか誰かは、孟嘗君の食客はつまらぬ人物ばかりであり、 それ故に孟嘗君の危機を未然に察知して防ぐことができなかったのだ、と酷評している。 もちろん、この批判には、孟嘗君自身も二流の人物だ、という意味が含まれている。
Willem Einthoven はオランダの生理学者であり、心電図の技法を発見した偉人である。 彼は数学にも優れており、心電図学の黎明期に巨大な足跡を遺した。 彼自身には何の責任もないことであるが、彼は、彼以降の心臓生理学者に比べてあまりに優秀であったために、 彼が便宜的に導入した心電図判読法は、百余年が過ぎた現代においてもなお用いられている。
たぶん、Einthoven は、彼が発明した手法そのものが、これほどの長期間にわたり臨床的に使用されることになるとは予想していなかったのではないか。 彼自身は理論を尊ぶ、優れた科学者であったようだが、その Einthoven ですら心臓の電気的活動を適切な理論によって説明することはできなかったらしい。 そこで彼は心臓生理学を無視した便宜的な手段により心電図の臨床応用を可能たらしめたのである。
Einthoven の最大の発明は、電気軸の概念である。 これは何らの生理学的実体をも伴わない便宜的な概念に過ぎないのだが、しかし心電図から得ることのできる平均電気軸は、心臓疾患の診断に有用である。 そして昨今の医科学生は、理論を放棄し、ただやみくもに先人の教えを暗記するという愚行に走る傾向があるらしく、 Einthoven の電気軸に基づく診断法を、ただ、機械のように暗記しているようであり、実に嘆かわしい。
さて、私は近年、心電図を定性的に理解するための理論について考えてきたのだが、 ヘミブロックと軸偏位の関係、すなわち左脚前枝ブロックが左軸偏位を来し、左脚後枝ブロックが右軸偏位を来す、という現象を説明できず、苦しんできた。 過日、同級生の某君から、なぜヘミブロックが軸偏位を来すのかと問われたことを契機に、あらためて思案を重ねたところ、次のような結論に至った。 簡潔にいえば、我々は電気軸などという、Einthoven の亡霊のような無意味な概念に捉われすぎていたのである。 より生理学的実体に基づく細胞外液電位を定性的に議論すれば、ヘミブロックと軸偏位の理解は、それほど難しくはない。
まず左脚前枝ブロックから考える。 基本的には、右脚ブロックや左脚ブロックと同様の理論で説明できるのだが、左脚前枝の支配領域は左脚後枝の支配領域に近接しているため、QRS 幅の延長は軽度である。 また、左脚前枝の支配領域は、通常ならば Purkinje 繊維に添って下向きに伝導するため、心臓下方の細胞外液が高電位になる。 しかしブロックがあれば左脚後枝から固有心筋を介して「前向きの伝導」で興奮するため、心臓下方の高電位は著明ではなくなる。 従って、いわゆる下壁誘導において、QRS 群の後半で電位差は小さくなり、あるいは陰性の波、すなわち S 波となる。 しかし I 誘導などでは著明な変化はみられないため、左軸偏位となる。
次に左脚後枝ブロックを考える。 左脚後枝の支配領域は、いわゆる後壁の周辺である。この場合は、ブロックが生じても心臓下方の細胞外液電位については著変を来さない。 ここで心臓の解剖を思い起こせば、左室後壁は、かなり左の方に位置している。 この左室後壁や左室側壁の周囲の細胞外液高電位が I 誘導の R 波の源なのである。 さて、左脚後枝ブロックでは、こうした左室後壁や側壁の一部が前枝支配領域からの「後向きの伝導」で興奮するために、 左方の細胞外液高電位が著明でなくなるから、I 誘導などの R 波が減高し、あるいは S 波となる。 結果として、軸は右方に偏位する。
当然のことであるが、もともと平均電気軸が -20 度であった心臓に軽度の左脚後枝ブロックが合併しても、電気軸は正常範囲に留まるため、 いわゆる右軸偏位の診断基準を満足しない。 これに対し、平均電気軸が 80 度の心臓に軽度の左脚後枝ブロックが合併した場合は、診断基準を満足するであろう。 このように、平均電気軸に基づく診断は感度も特異度も低いため、本来は、波形をイチイチ調べて診断するべきであるし、 標準十二誘導心電図は必ずしも診断に適した電極配置ではない。 こうした議論を理解できる学生の少ないことは、実に遺憾である。
なお、以上の内容は、後日、私が実名で公開している心電図学の定性理論の書に転載する予定である。
私は、いまのところ、北陸の某地方大学で初期臨床研修を受けようと考えている。 率直にいえば、その大学病院は特に指導が充実しているという噂は聞かないし、特別に有名な医師がいるという話も知らない。 研修医の待遇が格段に良いというわけでもなく、要するに、特段「環境が良い病院」というわけではない。 ただ、私はその大学にいささかの恩義があり、個人的に強い思い入れがある、というのが、第一の志望動機である。 そして、その大学には、広く人を集め、学問を研き、明日の医学を創成せんとする空気が満ちているように思われる。 そうした教授陣の声に応え、新しい医療を築くことこそが、我々のような若手が背負うべき使命である。
学生の多くは、初期臨床研修病院選びの基準として、教育体制が充実しているとか、有名な医師がいるとか、あるいは待遇が良いとか、そういうものを重視する傾向があるらしい。 要するに、自分が受けとることばかりなのである。受動的なのである。 彼らがいうには「今はまだ、我々は研修の身である。 制度を変えていくこと、自分から働きかけていくことも重要だが、それは将来、上の立場になってからで良い。」とのことである。 では、上の立場とは、いったい、いつなのか。十年後なのか、二十年後なのか。 古来、本当に社会を変える働きを成してきた先人達は、例外なく、幼少の頃より大志を抱き、青年期より社会の変革を求めて活動し、 壮年期以降に、ようやく何らかの事を成したものである。 学生時代に「今はまだ若輩の身であるから」などと弁明する者は、生涯にわたって弁明を続け、ついに何事をも為さないことは明白である。
やましいことは一切ないはずなので、私の知ることを全て、隠さずに、ありのままに記す。 大抵の病院には、製薬会社の営業担当者、いわゆる MR (Medical Representative) が多数、出入りしているらしく、名大病院も例外ではない。 彼らは、臨床の教授やその他の人々と面会するために、寒空の下で朝からじっと立っている。 また、医局、すなわち医師らの控え室の前で、資料の束を抱えて、じっと待っていることも多い。 彼らにしてみれば、我々学生も「取引先の関係者」にあたるという認識らしく、慇懃な挨拶をされることも多い。 しかし私としては、ひたすら廊下や屋外で待たされている人々から丁寧な挨拶を受けては、実に恐縮であり申し訳なくなってしまうので、 どちらかといえば、軽い会釈だけで済ませていただいた方が、ありがたい。 たぶん医師も、彼らをそのように待たせることについて心苦しく思ってはいるのだろうが、しかし ひっきりなしに訪れる営業担当者との面会にイチイチ応じていては本来の業務が滞るから、そのような対応になっているのだろう。 また製薬会社側も、そのような人員を確保することに予算を投入してでも、販路拡大することに意義を認めているのだろう。 とはいえ、そのような人件費は結局のところ薬価に反映され、すなわち患者や国民の負担となっているのだから、 こうした営業活動のありさまが公共の利益にかなっているかどうかは、疑問である。
さて、診療科によっては、定期的に、たとえば週一回程度、手の空いている医師が集合して営業担当者からの商品説明を聴く、という時間が設けられていることもある。 こういう場合には、たいてい、いささか高価な弁当などが、製薬会社側の負担で供される。 そうでもなければ、誰も、そのような説明を聴くために時間を割こうとはしないのであろう。 この弁当代も、最終的には薬価に転嫁されているものと推定される。 広告宣伝費が商品価格に転嫁されるのは、どの業界においても同じことであるが、日本の医療は公的保険制度を背景に成立しており、 かなりの程度、公的な性質を帯びた業種である。 このことを思えば、営業活動のあり方や、接待に類する行為のあり方について、市場原理に全てを任せるのは不適当である。
このように営業担当者は、ありとあらゆる手段を用いて、自社の薬剤のすばらしさを、医者に対して説明するのである。 その際には、当該薬剤の性質について、「科学的な」検証結果を示して有効性をアピールするのが普通である。 過日の某製薬会社による不正行為を挙げるまでもなく、こうした「検証結果」は、真に科学的な意味で充分な吟味を尽くしたものではない。 多くの場合、「検証」は、治験等によって得られる統計によって行われるのだが、こういう統計は、素人には客観的にみえるかもしれないが、 実際には、かなりの程度の主観が入る。
たとえば、ある新薬が「既存の薬剤と同等の効果を有する一方、副作用は少ない」ということを主張したければ、 効果について統計誤差が大きくなるようにすれば良い。その場合、既存の薬剤と新薬とで有意差が生じにくいから、「効果は同程度である」と主張しやすくなる。 また、薬剤の作用機序が完全には同一でない場合には、対象となる患者を巧く選定することで、二重盲検であっても新薬に有利な条件を整えることができるだろう。
はたして製薬会社や医師が、どの程度、科学的良心に基づく公正な基準と、専門家に相応な批判的精神で薬剤を評価しているのか、私は、よく知らない。
先日、ある論文を読んで、沸々と怒りが湧いてきた。 その論文は、いわゆる臨床研究の報告であって、ある種の患者の予後を統計学的に調べた、というものであった。 掲載していたのは、いわゆるインパクトファクターが 5 だか 6 だかある、その筋では権威があるとされる論文誌である。 その論文で結論として述べられていた内容自体は、これまで経験的に言われていたものと特に変わるところはないのだが、 それを統計学的にキチンと調べた、という点に、論文としての意義がある、と考えられたようである。 この論文には、二つの問題点があった。一つは解析手法としてロジスティック回帰分析を用いることの妥当性であり、 もう一つは統計誤差の解釈についてである。
ロジスティック回帰分析は、この種の統計解析で頻用される手法であるが、その理論的基礎については正しく理解していない研究者が少なくないように思われる。 この分析手法は、ある一つの結果が、複数の要因の複合的な影響により生じていると考える場合に、 各々の要因がどの程度の重要性を担っているかを解析するものである。 たとえば、大腸癌のリスク因子として性別、年齢、人種、喫煙習慣、食物繊維の摂取量、を検討する場合についていえば、 多数の患者について大腸癌発症の有無や、各因子の有無を調べた上で、 これらの因子がそれぞれ、どの程度、大腸癌の発症リスクを高めるかを統計学の力によって明らかにするのである。
もし、上述の説明により「フーム、そのような解析方法が存在するのか」などと納得した人がいるとすれば、 その人は、いささか心が純真であり過ぎるか、さもなければ科学的素養の乏しい人である。 上述のような、魔法のような便利な解析手法など、存在するはずがない、と直観するのが、科学者としての当たり前の感性である。 実際、ロジスティック回帰分析は「各因子は、互いに独立である」という強力な仮定に基づいている。 現実には、性別や年齢と、喫煙習慣や食物繊維の摂取量との間には相関があるだろうから、この仮定は満足されない。 すなわち、厳しい視点からすれば、こうした解析にロジスティック回帰分析は適用不能である。 もし、なんとか適用しようとするならば、相応の、何らかの特殊な工夫が必要なのである。 冒頭で述べた論文では、この独立性の仮定を満足していないにもかかわらず、何らかの工夫をした旨の記述がなかった。
また、統計を議論するならば、誤差のことを忘れるわけにはいかない。 たとえば大腸癌の罹患率の調査結果に男女差があったとしても、それが単なる統計的な誤差の範囲でないことを示さなければ、 「大腸癌の罹患率には男女差がある」という結論を導くことはできない。 それにもかかわらず、この論文では、統計誤差の議論が全くなされていなかった。 試しに私が統計誤差を自分で計算してみると、論文中で「差があった」と述べられている項目のうち少なからぬものは、統計誤差の範疇であった。
私は、著者は一体何者なのかと思って調べてみた。 すると、どうやら、某大学の、ご立派な肩書を持つセンセイ方のようである。 ということは、たぶん真相は、次のようなものであろう。 著者らは、ロジスティック回帰分析を用いることの理論上の問題や、統計誤差の問題については、よくよく理解しているはずである。 しかし、他に適切な解析方法がみあたらないため、問題点は敢えて無視して、何くわぬ顔でロジスティック回帰分析を行ったのであろう。 また、統計誤差をまともに検討すると、統計学的に有意な差があまり生じないために、敢えて誤差を議論しなかったのであろう。 そして、これを掲載した論文誌の編集者も、調査自体には意義を認めていたために、解析手法の問題については敢えて目をつぶったのであろう。
要するに、著者も編集者も、学問を冒涜しているのである。 あのような論文を読んで怒りを感じない者は、科学者ではない。
私は、四年前ほどに、京都大学大学院博士課程を中退した。 三年間在籍した上での、満期での退学であるが、いわゆる認定退学 (単位取得退学) ではない。 いわゆる単位取得退学とは、「あとは博士論文を書くだけである」という状態での退学をいうのであって、 退学後の一定の期間内に学位論文を提出し認められれば、博士の学位を得ることができる。 しかし私の場合は、満期ではあったが単なる中退であったので、学位論文を提出する資格も得られなかった。
最近では、他人に問われた際には「学位を取ってから辞めれば良かったと、少し後悔している」と答えることにしている。 これはこれで、嘘偽りのない言葉ではあるのだが、もし実際に我慢して学位を取得してから辞めていたならば、それはそれで、後悔しただろう。 学位だけをみれば、ないよりはある方が良いに決まっているが、自己の理念を曲げてまで学位を取得するぐらいなら、 自身への忠実さを保って学位を放棄する方が、よほど、美しい。
世の中には、過程より結果を重視する人もいて、彼らには、私の言動は理解できないであろう。 それはそれで良いのであって、そうした多様性こそが、社会全体にとっては必要なことである。
医師国家試験も同様である。 これを医師になるための通過儀礼と割り切るならば、一切の余念を捨てて、試験合格のために徹した勉強をするのは、合理的ではある。 しかし、そうした卑屈な勉強をすることで、何か失うものがあるのではないか。 合格は目指すにしても、そのために譲ってはいけない線が、ある。 医師になった後に、一生、後悔することにならないよう、よくよく考えて行動するべきであろう。
名大医学科生の間では、かなり、非常識な言動がまかり通っている。 たとえば、病院内での実習中など公の立場にある時には、親しい友人であっても、あだ名などで呼ぶことは慎しむべきであり、姓に敬称を付して呼ぶのが社会常識である。 これは通常、大学で教わるような性質のことではなく、社会生活の中で当然に修得すべき作法であるから、「教わっていない」とか「言われていない」とかいう弁明は認められない。 また、講義中に講義室の前側の扉から出入りしてはいけないとか、試験でカンニングをしてはいけないとか、 図書館内で飲食してはいけないとか、食堂で性器や便の話をしてはいけないとか、このようなことも、言われねばわからない、あるいは言われてもわからない者がいる。 ひょっとすると、これらが道徳に反すると理解した上で、敢えてそのように振る舞うことをカッコイイ、あるいは面白いと思っているのかもしれないが、 それならば彼らの知能は小学生レベルであり、大学に入る資質を有していない。 こうした不道徳な言動をみてみぬふりをすることは、これもまた不道徳であるから、私は、適宜、その旨を指摘することにしている。 しかし、どうやら彼らは私のことを「アイツは、細かすぎる、アイツこそ非常識だ」などと認識しているようであり、私の言葉には、大抵、耳を貸さない。
はたして、非常識なのは、どちらか。 彼らは、たぶん認識していないのだろうが、「名大医学科」という肩書は、かなりの程度、世間では免罪符として通用してしまうらしい。 彼らが非常識な言動をしても、世間は「名古屋大学医学部といったら、偉い人達なのだから、多少の悪い点は許してあげるべきだ」とか、 「医者の多くは非常識で世間知らずだから、医学部生の非常識な言動も、仕方ない」とか思うのである。 その結果、医学部生の方も「世間では、これで通用するのだ」と勘違いし、自分達の偏狭な社会でしか通用しない歪んだ認識が、 まるで社会から許容されているかのように錯覚しているのである。
もちろん、私も、私の考えが比較的、社会常識に近いと信じるだけの具体的で明確な根拠は、有していない。 従って、蓋然性は極めて低いとはいえ、彼らの考えこそが社会常識であり、私の方こそが本当に非常識なのかもしれない。 その場合、私は確信犯であるということになるが、それならそれで、私は、自身の信じる所に基づいて行動するだけのことである。
以前紹介した「フラジャイル」という病理漫画の単行本が、先日、発売された。 もし、この日記を読んでくれている名大医学科の人の中で興味のある人がいたら、ロッカー室の机の上で供覧に付されているので、ぜひ、一読されたい。 もっとも、第 4 話の展開は少し、いかがなものかとは思う。
単行本の帯には「あなたが癌かどうか診断するのは外科医である。○か×か。」と書かれており、たいへん、素晴らしい。 優秀な外科医は 90 % 程度の精度で癌を正しく診断できるといわれるが、要するに 10 % 程度は、どうしても誤診するのである。 これは外科医の技能の問題ではなく、画像や臨床検査に基づく診断の、本質的な限界であると考えられる。 しかし、いくら外科医の過失ではないとはいえ、実際には良性疾患なのに癌と誤診されて手術されるのでは、患者はたまったものではない。 もし病理診断がなければ、そのような誤診に基づく手術が多発し、しかも、その誤診は永久に気づかれない。 そうした不幸な事態を防ぐのが、我々の使命である。
もっとも、「フラジャイル」は病理漫画と称してはいるが、半分は臨床検査漫画である。 病理と臨床検査は、似てはいるが、一応、別の分野であり、大抵の病院では異なる部門が担当しているようである。 たぶん臨床検査医の人々は、いささか苦い顔をして「それは病理じゃねーよ……」と思いながら、この漫画を読んでいるであろう。
少なくとも名大医学科の学生の間では、公正さを軽視する風潮があるように思われる。 すなわち、俗な表現でいえば「やったもの勝ち」を認め、法律用語でいうところの自力救済を是としているのである。 たとえば、私の知る限りでも、次のような事例がある。
ある時、食堂で二人の学生が、次のような内容の会話をしていた。 彼らは、人数限定のある勉強会を主催しており、先着順の参加受付を、インターネット上で行っていたようである。 ところが参加希望者の中には、あまり歓迎されない人物も含まれていたらしい。 そこで彼らは、申込順を少し操作して、その人はギリギリのところで申込が間に合わなかったことにしてはどうか、というような相談をしていたのである。 もちろん、人が集まれば相性のような問題もあるから、参加をうまく断りたくなることはあるだろう。 しかし、そういう不公正な謀略を、他人に聞かれるような環境で練るとは、一体、どういう神経をしているのだろうか。 公然と話すのは憚られる内容だ、という認識は、ないのだろうか。 この二人と私は、一応、互いに顔と名前ぐらいは知っているような関係であったが、この件以来、私は彼らを「そういう人々」だと認識している。
他の事例として、名古屋大学附属図書館医学部分館の閲覧席には、多量の私物が放置されている。 これは、少なからぬ学生が閲覧席を勉強スペースとして使用する一方で、席を確実に確保し、 また勉強道具を運搬する手間を省くために、閲覧席を私物化しているものと推定される。 当然、このような行為は容認されていないのだが、当局も繰り返し警告するばかりで、 実際に私物を撤去するなどの措置を講じてこなかったために、不正な占拠が常態化してしまったのである。 さすがに最近では、入口付近の閲覧席については私物を撤去すると公式に宣言されたが、 これでは、奥の方の閲覧席については私物化を暗に認めていることになる。
また、鶴舞キャンパスには「旧西病棟」という古い建物があり、まもなく解体される。 この建物の四階には 10 室ほどの「ゼミ室」があり、予約して鍵を借りることで誰でも使用できる、ということになっている。 しかし実際には、これらのゼミ室は一部の者が私物を搬入して不法に占拠し、「部外者」が使用することはマナー違反とされていたらしい。 彼らが留置している私物には暖房器具なども含まれていたため、防災上の重大な懸念があったが、 大学当局、すなわち学務課は、これについて警告を繰り返すのみで、実際の措置は何ら講じてこなかった。
彼らがこのように不法占拠を行う背景には、自習室がないなど、鶴舞キャンパスの劣悪な学習環境がある。 そこで一部の学生は、個別に大学当局と交渉し、彼らだけのための居室を確保することに成功した。 これは、形式的には正当な手段で確保されたものではある。 しかし、自分達だけ居室が欲しい、などと特別扱いを要求する学生側も厚顔ではあるが、それを容認する当局は、一体、何を考えているのか。
このように、不公正ではあるが正当に確保された「居室」には「編入生研究室」も含まれる。 これは、その名が示す通り、編入生のための居室である。いかなる名目で貸与されているのかは、わからぬ。 ひょっとすると、編入生はカリキュラムが変則的であるために、組織学の自習のための部屋として貸与されているのかもしれないが、 実際には、ほとんど、そのような使い方はされていない。 私も編入生であり、この「編入生研究室」を使用しており、蔵書を蓄えるための本棚も置かせてもらっている。
さて、上述のような状況において、私が「編入生などの一部の学生だけ特別に居室が与えられている現状は、正直、どうかと思われる」という趣旨の発言をすると、大抵、 「そう思うなら、編入生研究室を使わなければよい。」などという指摘が返ってくる。 これは詭弁であり、論点のすりかえである。 イチイチ説明するのも馬鹿らしいが、敢えて述べれば、私は「私は使いたくない」と言っているのではなく、「皆、使うべきではない」と言っているのである。 これに対する反論として「君が使わなければ済む」などというのは、論理が破綻している。 また、もし実際に私が編入生研究室の使用権を放棄した上で同様の主張をしたならば、今度は「君も編入生研究室を使えば良い。」などと言われるであろう。 「君も編入生研究室を使う権利を保有しているのに、一体、何の不満があるのか」というのである。 彼らの基本的な考え方は、「他人のことに口を出すな」ということなのだろう。
要するに彼らには、公正さ、英語でいうところの fairness という概念が欠落しているのだ。 医師の卵として、たいへん立派な倫理観である。
ある人が、かつて、ブログで次のような趣旨のことを書いていた。その人は、当時、某大学医学部医学科六年生であった。
昼休みに食堂で、ある下級生が「午後の講義に出たくない。家に帰って漫画でも読もうかな。」などと発言し、それに対し周囲の仲間がケラケラと笑っていた。 つまらない講義が存在するのは事実であるが、それをサボって漫画を読むとは何事か。 世の中には、医師になりたくて、大学に通いながらも再受験で医学部を目指しているような、志の高い人もいるのだ。 それに対し、勉強はできてもモチベーションの低い、このような学生連中は、医師としての適性を欠くのではないか。
ここで非難されているような連中が、科学者の卵としての意識に乏しい不良学生であるという点については、いささかの異論もない。 しかし、大学に通いながらの再受験で医学部を目指すのが「志の高い人」なのかというと、疑問を感じる。 本当に医学部に入りたかったのなら、なぜ、浪人しなかったのか。 一応は関心を抱いて入ったはずの大学を、なぜ、やめようとしているのか。 そもそも、なぜ、そんなに医学部に行きたいのか。
私は、医学部を志望した動機について、本当にナルホドと思えるような理由を述べている人をみたことがない。 私自身にしても、かなり不純な動機であった。 ひとたび足を踏み入れた学問分野に対し、そう簡単に見切りをつけて再受験で医学に逃げるような人は、医学の道に転進しても、やはり早々に理想を失うのではないか。
医学は、たぶん、ほとんどの人にとって、外からみて想像するほどには、面白くない。 本当に医学を好きで医学を学んでいる人は、ごく一部だけである。
ここまで書いて思い出したのだが、同級生に一人、二年浪人して大学に入った上に、大学院修士課程を中退して医学部に来た猛者がいる。 当人が言うには、医学部に行きたいという気持ちを、ずっと引きずっていたのだという。
そう考えると、なるほど、大学に通いながら再受験する者の中にも、極めて稀には、志の高い人もいるかもしれぬ。
産科婦人科学には、良い日本語の教科書がみあたらない。 医学書院『標準産科婦人科学』は医師国家試験を意識しすぎであるし、 南江堂『NEW 産婦人科学』は事象の羅列のきらいがあり、ストーリー性に乏しい。 学生に人気なのは「STEP シリーズ」の婦人科と産科らしいが、これは「国試本」という位置づけであり、 「監修の序」では監修者が「自慢じゃないが学生時代から現在に至るまで週刊誌と漫画以外には、表から裏まで読み通した本はない」などと不勉強自慢をしているありさまである。 科学者の誇りにかけて、このような本を読むわけにはいかぬ。眼が腐る。
図書館に行くと、英語の教科書には、なかなか良さそうなものが豊富に揃えられている。 もし、私が産科婦人科に情熱を燃やしているのであれば、こうした本のうちから一冊を選んで購入したであろうが、 あいにく私は女性と胎児と英語が苦手であるため、なかなか、そのような気が起きぬ。 MEDSi あたりの出版社が名著の一冊でも翻訳・出版してくれていてもよさそうなものである、と、うらめしく思っている。
「診断的治療」という言葉がある。 これは診断のために行った医療行為が、結果的に治療行為となる現象をいう。 たとえば、乳房の「しこり」すなわち腫瘤を主訴に来院した女性に対し、乳癌の可能性を考慮して穿刺吸引細胞診を行ったとする。 穿刺吸引細胞診とは、病変部に細い針を刺し、そこに含まれる細胞や組織を吸い取り、それを顕微鏡で観察することで診断するものをいう。 乳房の腫瘤は、乳癌であることもあるが、良性の繊維嚢胞性変化、いわゆる乳腺症のこともあるし、そもそも疾患ではない正常組織のこともある。 特に、腫瘤が実際には嚢胞であった場合、穿刺吸引細胞診を行うことで嚢胞の内容物が吸い取られ、腫瘤が消失することがある。 この場合、診断目的であった穿刺吸引細胞診が結果的に治療にもなっていたわけで、診断的治療となったのである。
時に、「診断的治療」という文句が不適切に用いられることもある。 たとえば、「疲れやすく、急に立ち上がると眩暈がする」という 20 代の女性に対し、問診と身体診察を根拠に「鉄欠乏性貧血であろう」と考え、鉄剤を投与したとする。 この場合、貧血であろう、という推測は正しいとしても、その原因が「鉄欠乏」であると考える根拠は「若い女性の貧血は鉄欠乏が原因であることが多い」ということだけである。 もちろん、世の中には他の原因によって貧血を来す若い女性も少なくないのだから、血液検査もせずに「鉄欠乏性貧血」と決めつけるのは無理がある。 そこで「診断的治療」と称して鉄剤を投与したのである。 鉄を投与して症状が軽快したなら鉄欠乏性貧血であったとわかるし、症状が続くなら別の疾患を考える、というわけである。
患者に対し誠実であろうとするなら、まずは次のように説明するべきである。 「若い女性の貧血は、鉄欠乏が原因であることが多い。その場合、鉄を充分に摂取すれば治る。 しかし稀ではあるが、白血病や再生不良性貧血などの重篤な疾患であることもある。それらは、血液検査によって調べることができる。」 その上で、もし患者が血液検査を希望しないならば、鉄剤を投与して様子をみれば良い。 医師の方から「たぶん鉄欠乏性貧血だから、鉄を補給すれば良い」などと言ってはならぬ。
総合診療医に憧れる一部の学生などは「熟練した医師ならば、問診と身体診察で 7 割から 8 割は正しく診断できる」などと、うそぶいている。 彼らの主張は概ね正しいのだが、問題は、残り 2 割から 3 割の誤診の内容である。 たとえば「身体診察で肺炎と診断したが、胸部 X 線写真では肺炎の所見がなく、診断を感冒に訂正した」というような誤診なら、問題ない。 しかし「鉄欠乏性貧血だと診断したが、2 ヶ月後に急性白血病だとわかり、治療をしたが患者は死亡した」というような誤診は、取り返しがつかぬ。
「診断的治療」という表現で正当化できるのは、それが診断方法として適切である場合に限られる。
本日の話題は、言葉を発し、あるいは文章を記す際の、言葉遣いを厳格にすることの重要性についてである。 医学部学生の多くは、言葉を正しく使う、ということに無頓着であるように思われる。 たとえば「大きくなる」というような意味の医学用語には「腫大」「肥大」「過形成」「腫瘍」「腫瘤」などがあるが、 これらを意識して適切に使い分けている学生は多くないのではないか。
作家の中には、英語でいう `Look' あるいは `See' を意味する日本語としては「みる」とか「視る」とかいう表現を用い、「見る」とは書かない、という人もいるらしい。 なぜならば「見」とは、もともと受け身を表す字であり、`Look' の意味ではないから、とのことである。確かに、漢文学では「見」は受け身の意味である。 この話を読んで以来、私は、なるべく「見る」という表現を用いないようにしている。 さすがに、医師がここまでのこだわりを言葉に対して持つ必要はないだろうが、少なくとも、医学用語については適切な言葉遣いを心がける必要がある。
たとえば、世間では「前立腺肥大症」という疾患があるかのように誤解されているが、これは正しくは「前立腺過形成」である。 「肥大」とは個々の細胞が大きくなることをいうのであるが、この疾患では細胞の大きさは変わらず、細胞の数が増えているのだから、これは「過形成」である。 一部の学生は「意味は伝わるのだから、どちらでもいいではないか」と言う。 彼らの気持ちは理解できなくもないが、そうした甘えは、時に重大な過ちの原因となる。 たとえば放射線画像をみて、心臓が大きくなっていることを「心臓が肥大している」と表現する者が、稀にいる。 ところが、「心臓が肥大している」と言う場合には、個々の心筋細胞が大きくなった結果として、ふつうは心室の空間が狭くなっている状態を意味する。 この場合、胸部単純 X 線写真では、必ずしも心陰影の拡大を伴わない。 心陰影が拡大しているならば、それはむしろ心室が「拡張」しているのであって、心肥大とは大きく異なる現象である 実際には「拡張」であるのに「肥大」と述べて誤解されるようでは、とても意思疎通することができない。
他の例を挙げると、身体診察において触診で肝臓を触知することは、必ずしも肝臓の腫大を意味しない。 正常の大きさの肝臓でも、肝臓を触知できる人は少なくないのである。 また打診で肝臓の大きさを「測った」結果として大きかったとしても、肝臓の形態や大きさには個人差があり、必ずしも腫大していることを意味しない。 それにもかかわらず、身体診察所見で「肝臓の腫大」と述べる医師や学生は、稀ではない。
このような「伝われば良い」という考え方をしていると、論理の不正確さをみのがしてしまう恐れがある。 というよりも、論理に気を配るならば、どうしても、言葉には正確にならざるを得ない。 たとえば、血液検査所見でアラニンアミノトランスフェラーゼ (ALT) やアスパラギン酸アミノトランスフェラーゼ (AST) の活性が高いことを 「肝機能障害」と表現する者は少なくない。 しかし、ALT や AST の血中活性の高値は肝細胞傷害の程度を表す指標であって、肝臓の機能を反映するものではない。 典型的なのは重度の肝硬変であって、肝機能は高度に低下していても、ALT や AST の活性は、それほど高値にはならない。 逆に、ALT や AST の血中活性が極端な高値であっても、もともと予備能の大きい人であれば、肝機能は保たれているかもしれない。 その一方で、血中の間接ビリルビン濃度高値, 直接ビリルビン濃度低値, アルブミン量低下などがそろっていれば、これは 亜急性ないし慢性の肝機能低下と考えられる。 つまり「肝機能傷害」は、検査結果の「所見」ではありえず、所見を医師が翻訳した結果である「解釈」なのである。 こうした点の区別を意識せずに、血液検査所見として「肝機能低下」と言う者は、思慮が浅薄である。
最後に私自身の反省であるが、私はこれまで、ALT や AST について「血中濃度が高い」とか「多い」とかいう表現をしてきたように思われる。 しかし、実際に血液検査で測定しているのは、これらの酵素の「活性」であり「量」ではない。 従って、正確には「血中活性が高い」などとするべきである。 これを「濃度が高い」などと表現しては、血液検査の実際について無頓着であることの証拠である、との批判を免れ得ない。
やや専門的な話題が続く中で、特に今回は高度に専門的な話である。 医学の専門家でない人にはわかりにくい内容であることを、予めお詫び申し上げる。 また、いささかデリケートな内容も含まれるが、これはあくまで一学生の見解であり、医学界における共通認識ではないことを、改めて認識した上で、お読みいただきたい。
今日、ある同級生から「膵管内乳頭粘液性腫瘍」という疾患について教わった。 実は私は、そのような疾患があることを、今日になるまで知らなかった。 別の同級生から以前に名称だけ聞いたことがあったのだが、「フゥム、よくわからん疾患であるな」という程度に思い、よく調べずに放置していたのである。 この疾患については『ハリソン内科学』第 4 版では詳述されていないため、朝倉書店『内科学』第 10 版に基づいて概要を記す。
「嚢胞」とは、「袋のようになった構造物」という意味であり、肝臓や腎臓など、さまざまな臓器で形成され得る。内部には、ふつう、液体成分が入っている。 この液体成分について、糖蛋白質に富んでいれば「粘液性」といい、そうでなければ「漿液性」という。血液が入っている場合には「血性」と呼ばれる。 膵臓に嚢胞が形成されたものを、臨床的に「嚢胞性膵腫瘍」と呼ぶことがある。 ただし、病理学的には「腫瘍」とは「自律的に増殖して大きくなるもの」という意味であり、 いわゆる嚢胞性膵腫瘍の中には、厳密な意味では腫瘍ではない、つまり自律的には増殖しないものも含まれているようである。
いわゆる嚢胞性膵腫瘍のうち、内容物が粘液性のものを「粘液性嚢胞腫瘍」、漿液性のものを「漿液性嚢胞腫瘍」と呼ぶ。 また、膵管内で乳頭状の増生を示し、すなわち膵液を運ぶ管の中でニョキニョキと多数の角を生やすような格好で増殖し、多量の粘液を分泌するものを 「膵管内乳頭粘液性腫瘍」と呼ぶ。 いわゆる嚢胞性膵腫瘍には他の型もあるが、ここでは割愛する。
膵管内乳頭粘液腫瘍の成立過程は不明である。 しかし「朝倉内科学」の記述から考えると、 最初は過形成すなわち非腫瘍性病変であったものが、やがて腺腫すなわち良性腫瘍になり、腺癌すなわち悪性腫瘍になるのではないかと推定される。 「朝倉内科学」によれば、膵管内乳頭粘液腫瘍が悪性化した場合、切除しても 60 % 以上の例で再発するという。 この記述を信じるならば、良性であると悪性であるとにかかわらず、可能であれば、膵管内乳頭粘液腫は切除するのが良いように思われる。
しかし帝京大学附属病院 肝胆膵外科などによれば、 症状がある場合や悪性が疑われる場合は切除するものの、良性で早期であるならば経過観察とすることも多いという。 そのように対応されることの根拠は、公益財団法人 がん研究会によれば、 膵管内乳頭粘液腫瘍は「がん化していても膵管の中にがんがとどまっていることが多いため、ポリープを残さないように切除すれば 100% 近く治すことができ」るためらしい。
このように、膵管内乳頭粘液腫瘍の取り扱いはイマイチよくわからないのであるが、それもそのはずである。 「朝倉内科学」が挙げている参考文献をみると、「この疾患にどう対応すれば良いか、未だ定説はなく、議論がある」という意味のことが書かれているのだ。
昨日の記事に対する補足である。 昨今の医学界では「エビデンスに基づく」という言葉が「統計に基づく」という意味で用いられることが多いため、私は苦々しく思っている。 というのも、統計を偏重するあまりに理論的な問題を軽視してしまい、明らかに誤った方法で「エビデンス」を用いている例を、しばしば目撃するからである。
昨日の例で考える。『マクギーの身体診断学』改訂第 2 版など多くの教科書では、ある疾患について診断する際、「事前確率」には有病率を用い、 身体所見の結果から、既知の感度や特異度を用いてベイズ推定する、という意味のことが書かれている。 厳密には、事前確率は有病率そのものではなく、医師の経験からくる「補正」を加えるのであるが、これは話の本題ではないので、ここでは省略する。 「有病率」とは、「全体に占める、その疾患の患者の割合」である。 「全体」とは何か、ということが問題になるが、ふつうは、その医療機関を受診する患者全体と考えるようである。 ここまでは「マクギー」にも書かれている。
実は、上述の方法に忠実に診断すると、誤診する。昨日の記事で挙げた数値を用いて考えよう。 小児科医院の院長である K 医師が、某大学病院における大規模な調査で得られた「エビデンス」を用いて、自院を訪れる 200 人の患者について、感冒であるかどうかを診断した。 彼は経験的に、自院を訪れる患者の 90 % は感冒であることを知っているから、感冒の「事前確率」は 90 % である。
患者のうち 109 人が咳をしており、91 人は咳をしていなかった。 K 医師はまだ知らないのだが、咳をしている患者のうち 108 人と、咳をしていない患者のうち 72 人が、感冒の患者である。
K 医師は、「マクギー」の教えに従って、次のように考えた。 検査前オッズ Opre は、O pre = 0.9 / 0.1 = 9 である。 陽性尤度比 LR+ は、某大学病院のデータから LR+ = 0.6 / 0.7 = 0.86 である。 また陰性尤度比 LR- は、LR- = 0.4 / 0.3 = 1.3 である。 従って、咳をしている患者の検査後オッズ O+post = 9 * 0.86 = 7.7 であり、 咳をしていない患者の検査後オッズ O-post = 9 * 1.3 = 11.7 である。 すなわち、咳をしている患者の検査後確率 P+post は P+post = 7.7 / 8.7 = 0.89, 咳をしていない患者の検査後確率 P-post は P-post = 11.7 / 12.7 = 0.92 となる。 結論として、咳をしている患者のうち 97 人が感冒であり、また咳をしていない患者のうち 84 人が感冒であると推定される。
このように、K 医師は咳をしている患者については過小評価、咳をしていない患者については過大評価してしまった。 参考までに述べれば、もし彼が自院における感度と特異度を知っていて、それを用いて計算していたならば、 咳をしている患者のうち 108 人, 咳をしていない患者のうち 72 人, と正しく推定できていた。
今回の例では、自院における正しい感度, 特異度を用いれば「あぁ、咳をしている患者は、感冒だな。咳をしていない患者については、よくわからないな。」と言えるのだが、 某大学病院におけるデータを使ってしまったために「咳をしている患者も、咳をしていない患者も、感冒なのかどうか、よくわからないな。」となってしまった。 もし逆に、この小児科医院におけるデータを用いて某大学病院で「エビデンスに基づく診断」をやったならば、 「咳をしているから、まず間違いなく、感冒である。」という論理が成立してしまい、肺癌や肺炎の患者を見逃してしまうことになる。
このように、「感度」や「特異度」を議論する際には、「いかなる患者群について調べたのか」という点が、非常に重要である。
診断学では、疾患と検査について「感度」と「特異度」の概念が重要である。 診断学の場合、「その疾患を有する患者において、その検査結果が陽性となる頻度」を「感度」といい、 「その疾患を有さない患者において、その検査結果が陰性となる頻度」を「特異度」という。 ここで重要なのは、感度や特異度は、その検査の対象となる集団によって大きく異なる、ということである。 遺憾ながら現在の医学教育では統計学は非常に軽んじられているため、この重大な事実をよく理解していない医師や学生が少なくないようである。
いくつかの架空の例で、「咳がある」という症状が、「上気道炎」つまり感冒に対して、どの程度の感度と特異度を有するかを考える。 まず、ある小児科医院で統計をとったところ、「感度 60 %, 特異度 95 %」という結果になった。 つまり「感冒である人の 60 % は咳をしており、感冒でない人のうち 95 % は咳をしていない」ということである。 この数値からは「咳をしている人は、まぁ、たぶん、感冒である」といえるが、「咳をしていない人は感冒ではない」とはいえない。
次に、試合を終えたプロのサッカー選手を対象に調べてみたところ、「感度 10 %, 特異度 99 %」となった。 どうして小児科医院の例より感度が低く、特異度が高くなったのかというと、咳をしていて感冒を疑われるような選手は、試合に出ないからである。 この集団では、感冒の「典型的な症状」は「軽度の発熱はあるが咳はない」というようなものであるから、咳の感度は低いのである。
そして某大学病院で調べてみたところ、今度は「感度 60 %, 特異度 30 %」となった。感度は小児科医院と同程度であるが、特異度が低いのである。 これは、大学病院では肺炎やら肺癌やら、感冒以外の原因で咳をする患者が多いからである。 従って、小児科医院の場合とは異なり「咳をしているからといって、感冒であるとはいえない」ということになる。
このように、感度や特異度は対象とする集団の性質によって大きく異なるのだから、 眼前の患者を診断する際に、教科書に記載されている感度や特異度の値をそのまま使うのは不適切である。 このあたりの問題については『マクギーの身体診断学』などの教科書にも明記されてはいるのだが、よく認識していない学生が多いのではないか。 特に、身体診察を重視する総合診療医を目指す学生は、この点をよく注意するべきである。
どうやら医療の世界では、血圧計の読み方について不可思議で不合理な慣習があるらしい。 自動血圧計の場合、ふつうは血圧がデジタルで表示されるので、読み方が問題になることはない。 しかし正確に血圧を測定するには、自動血圧計よりも、水銀柱の血圧計と聴診器を使った方が良いとされる。 そして、この血圧計には大抵、2 mmHg 刻みで目盛がつけられている。 そのため、「手動で正しく血圧を測定したならば、その測定値は偶数になるはずである」などという医師が少なくないらしい。 たとえば学生が「121 mmHg」という血圧を記録したならば、「君、それは自分で聴診器を使って測ったわけではないよね?」などと言われるのである。 このような主張をする医師は、率直に申し上げると、物理学の基礎を理解していないものと思われる。
測定は、目盛より一桁小さな値を単位として行う、というのが世界の常識である。 目盛が 2 mmHg 刻みであるならば、測定値は 0.2 mmHg 単位で記録するのである。 これは、以下のような理由による。 水銀柱の高さが、ピッタリと目盛に一致することはない。 血圧を 2 mmHg 刻みで読もうとすると、たとえば「120 mmHg の目盛と 122 mmHg の目盛の中間点の近くであって、やや 120 mmHg の方に近い」という状態と 「118 mmHg の目盛と 120 mmHg の目盛の中間点の近くであって、やや 120 mmHg の方に近い」という状態は、いずれも「120 mmHg」と記録されることになる。 しかし両者は異なる状態なのであって、測定者も、その違いを認識しているはずである。 これを「120 mmHg」と一緒の表記で記録してしまっては、その微細な違いを無視し、情報を切り捨てて記録することになる。 そこで正しい測定法としては、「ほとんど完全に 120 mmHg と 122 mmHg の中間点である」ならば「121.0 mmHg」と書き、 「やや 120 mmHg に近い」なら「120.8 mmHg」などとする。 「120 mmHg の目盛よりも少しだけ低い」なら「118.8 mmHg」とすれば良い。 このようにして、「みたままの情報を、切り捨てることなしに記録する」ことができるのである。 細かなことをいえば、ノギスなどの装置で長さを測る場合には目盛通りに読むのだが、これは別の話である。
従って、もしインチキをした学生を咎めるならば、ほんとうは、次のように言うべきである。 「聴診器を使って測ったなら、小数点以下の値も記録されるはずである。 整数で書いているということは、君、どういうわけだね?」
とはいえ、学生が小数で血圧を記録した場合、その真意を指導者に理解してもらうことは至難であろう。 また、血圧は生理的にも大きく変動するものであるから、1 mmHg 以下の精度で測定することには、あまり意味がないともいえる。 こうした事情を踏まえると、「本当は小数で記録するのが正しい」ということを認識した上で、 指導者の嗜好に合わせて記録するのが、遺憾ながら現実的である。 この不適切な慣習は、我々が指導者になってから正せば良い。
敗血症性ショックの話である。 先日少しだけ言及したサードスペース理論については、後日、補足する。
敗血症とは、感染により、全身で急性炎症反応が生じるものをいう。 なお、日本版敗血症診療ガイドラインでは定義と診断基準が混同されているので、学生諸君は注意されたい。 重症の敗血症では全身の血管が拡張し、適切な血流を保つことができなくなり、末梢組織で循環不全を生じることがある。これを敗血症性ショックという。 循環不全とは、組織が必要とする酸素や栄養を充分に供給するだけの血流が保たれていない状態のことである。 軽症あるいは初期の敗血症では、全身の血管が拡張するものの、生理的な代償反応により末梢組織での循環不全を来さないこともあり、これを hyperdynamic state という。 これに対し、実際に循環不全を来しているものを hypodynamic state と呼ぶ。 一部には hyperdynamic state も「ショック」に含める流儀もあるようだが、そもそもショックとは末梢組織の循環不全のことをいうのだから、 現に循環不全を来してはいない hyperdynamic state をショックに含めるのは不適切である。
先日、某所で私は、数名の同級生と合同で敗血症性ショックの症例について発表した。 このとき、会場にいた同級生の某君から、鋭い質問が飛んだ。 「血圧低下などの明らかな循環不全の徴候を呈する前に、意識障害や呼吸状態の悪化を来したのは、なぜか」というのである。
医学科低学年あるいは専門外の読者のために、彼の質問の意味について補足する必要があるだろう。 敗血症で不幸にして患者が死亡する場合、たいてい、その原因は循環不全である。 全身の血管が拡張し、血流を保てなくなり、脳に充分な酸素を供給することができず、死亡するのである。 また「呼吸状態の悪化」とは「血液に酸素が充分に取り込まれていない」という意味である。 我々が発表した症例では、血圧低下などが明らかになる前に、意識障害や呼吸状態の悪化がみられた。 これは簡単には説明できないように思われるが、どう解釈しているのか、と、彼は我々に問うたのである。
私は、他人の発表に対してはネチネチと細かな質問を行うが、どうやら、自分の発表に対してはいささか、批判的吟味が足りないようである。 彼の質問は、至極あたりまえの疑問であるにもかかわらず、指摘されるまで、私は、その問題をまったく認識していなかったのである。 よくよく反省しなければならぬ。 会場では私は彼に充分な回答をすることができなかったため、彼は不満そうな顔をしていた。 家に帰ってよくよく吟味してみたところ、たぶん、意識障害は次のような機序で生じているのだろうという結論に至った。
基本的には、敗血症においても脳では著明な炎症反応はみられない。 従って、全身の至る所で血管が拡張するものの、脳の血管はあまり拡張しない。 心臓から送り出される血液の大半が脳以外の部分に流れていくから、脳の血流は欠乏する。 その結果、脳では酸素が欠乏し、意識障害を来すのであろう。