学生間の挨拶で、しばしば「おつかれさま」というものを聴く。 どうやら、これは `Hello' の意味で使うこともあれば `Good bye' の意味で使うこともあるらしい。 よく知らないのだが、就職活動用のマナー本の類では、「ごくろうさま」は目下の相手に使うものであり、 「おつかれさまでした」は目上の相手に対して使っても良い、ということになっているらしい。 ただし、そのような記述が、一体、どのような根拠に基づいてなされているのかは、知らない。
古来の礼法では、目下の者が目上の者に対してねぎらいの言葉をかけるのは無礼にあたる。 すなわち「おつかれさま」も、目上の相手に対して用いるのは不適である。 目上の相手に対して何かを言いたいのであれば、「失礼します」とか「ありがとうございました」などを用いるべきであろう。 昨今では、こうした礼法は乱れに乱れているために、あまり気にしない人が多いようであるが、中にはこだわる人もいるので、注意が必要である。 何より、こうした言葉を適切に使い分けるのは、紳士淑女たる者が当然に身につけているべき教養の一部である。 相手が誰であろうと、どのような状況であろうと、同じ「おつかれさま」という言葉で済ませてしまうのは、あまりに下品である。 それに、朝一番に顔を合わせて「おつかれさま」とは、一体、何事なのだろうか。あまりに無思慮な挨拶ではあるまいか。
些細といえば些細なことではあるのだが、そうした細かな点に疑問を抱き、正していくことで学問は発展するのであって、それは医学も例外ではない。 たとえば、手術を受けた患者は、たいてい、一時的に尿が出なくなる。 そこで輸液を行って体液量を増加させ、尿が出るのを待つのがふつうの術後管理である。 しかし、なぜ、尿が一時的に出なくなるのか。 外科学の教科書には、「サードスペースに体液が貯留する」などと書かれているが、これは論理的に筋の通った説明ではない。 これを「そういうものなのか」と無批判に受け入れてしまう者は、あまり良い医師であるとは言えない。
前回の続きである。 移植片対宿主病 (GVHD) については、あまりよく理解されていないらしく、教科書では詳細な記述がなされていない。 まとまったレビューとしては、Ferrara, J. L., et al., `Graft-versus host disease', Lancet 373, 1550-1561 (2009). が参考になる。 フェラーラ氏の立派なレビューを私の手でさらに要約することは憚られるのだが、 しかし「当該文献を参照されたし」で済ませては本日記の存在意義が疑われるから、本記事では、上述のレビューの一部を概説する。 また、単なる概説では私の知性が疑われるから、若干の考察を折り混ぜることにする。
急性 GVHD は、通常の免疫応答が大規模に惹起されるものである。 すなわち、HLA が完全一致していない場合には、不一致の宿主 HLA に対してドナー由来 T 細胞が反応する。 また HLA が完全一致している場合でも、その他のいわゆる `minor antigen' については大抵、不一致があるから、40 % 程度の例では急性 GVHD を来す。
急性 GVHD では、典型的には皮膚, 消化管, 肝臓が傷害されるが、組織学的には以下のような所見がある。 皮膚では表皮基底層でアポトーシスがみられる。また異角化、すなわち表皮の有棘細胞層内における角化した細胞の出現がみられ、 さらにリンパ球が接着して衛星細胞壊死 (satellite cell necrosis) を呈する。 さらにリンパ球の表皮内細胞浸潤 (exocytosis) がみられたり、血管周囲へのリンパ球浸潤がみられる。 消化管では、斑状の潰瘍性病変を生じ、陰窩にはアポトーシス小体や膿瘍がみられる。 また、表層上皮が失われたり平坦化したりする。 肝臓では血管内皮炎 (endothelialitis) や門脈域へのリンパ球浸潤, および胆管破壊がみられる。 ただし移植後は通常、血小板減少症を来しており、肝生検はリスクが高いため、行われないのがふつうである。
さて、問題は、なぜ急性 GVHD では皮膚, 消化管, 肝臓が選択的に傷害されるのか、ということである。 どうやら、この三者の中でも、前二者と肝臓とでは機序がいささか異なるらしい。 というのも、皮膚や消化管は perforin と granzyme による機序でアポトーシスが誘導されるのに対し、 肝細胞は fas によってアポトーシスするらしいのである。 肝細胞はもともと fas を豊富に発現しているらしく、これが肝臓が選択的に傷害される原因の一つであると考えられる。 なお、perforin/granzyme 系と fas 系の違いについては、初等的な細胞生物学の範疇であるので、ここでは割愛する。 気になる人は『細胞の分子生物学』第 5 版などを参照すると良い。
では、皮膚や消化管が選択的に傷害される機序は、どのようなものであろうか。 急性 GVHD の発症には、背景にある悪性腫瘍により、または医原性に、抗原提示細胞 (Antigen Presenting Cell; APC) が活性化されていることが重要であるらしい。 これがドナー由来 T 細胞の活性化, 増殖, 分化, および遊走を惹起する。 その遊走先は、各種サイトカインの分布によって決定されるものと考えられる。 さて、皮膚や消化管は生理的に外部からの刺激を受けやすい器官であり、軽度の炎症は日常的に起こっているものと考えられる。 たぶん、活性化したドナー由来 T 細胞は、こうした軽度の炎症に「引き寄せられて」集簇し、その炎症を激化させるのであろう。
上述の仮説からすれば、急性 GVHD で尿路系が傷害されないのは、単に、ふつうは尿路系では炎症が起こっておらず、活性化した T 細胞が引き寄せられないからである。 従って、たまたま移植直後に尿路系の逆行性感染を来した患者においては、急性 GVHD として膀胱炎や腎盂腎炎が生じやすいと推定される。
なお、慢性 GVHD については機序がよくわかっていないらしい。 症状は膠原病に類似するとされる。 単純に考えれば、免疫寛容が充分に成立せず、自己抗体が産生されることにより多臓器が傷害されるのであろう。
移植片対宿主病 (Graft-Versus-Host Disease; GVHD) とは、造血幹細胞移植、いわゆる骨髄移植を受けた患者において、 移植された細胞から生じる白血球による免疫応答のために、患者の正常な器官が傷害されるものをいう。 初等的な免疫学によれば、ヒトの細胞の大半は HLA (Human Leukocyte Antigen; ヒト白血球抗原) と呼ばれる蛋白質を細胞膜上に発現しており、 移植片のドナーとレシピエントの間で HLA の型が一致していない場合に GVHD が生じると信じられている。 HLA の型は多様性に富んでいるため、一卵性双生児の場合を除いては HLA 型が完全に一致することは稀であり、 造血幹細胞移植の大半は、HLA が完全には一致していない状況で行われる。
さて、本日の話題は、GVHD で傷害されやすい器官は何か、ということである。 GVHD は、ふつう、急性 GVHD と慢性 GVHD に分類される。 急性と慢性は「発症の時期による分類ではない」という点に注意が必要である。 厳密な定義は確立されていないようであるが、GVHD の症状は「急性 GVHD 症状」と「慢性 GVHD 症状」に分類されるらしい。 そして「急性 GVHD」とは「慢性 GVHD 症状を呈さない GVHD」であり、 「慢性 GVHD」とは「慢性 GVHD 症状を呈する GVHD」である、とするのが一般的なようである。 すなわち、急性 GVHD 症状と慢性 GVHD 症状の両方を呈するものは、「重複型の慢性 GVHD」と分類される。 実は急性 GVHD と慢性 GVHD は組織学的に異なるらしく、本当は組織像に基づいて分類する方が本質的であるように思われるのだが、 GVHD の組織像については私はよく理解していないので、本記事では臨床所見に基づく分類にのみ言及する。
「急性 GVHD 症状」としては、発熱や皮疹、黄疸、下痢が代表的である。 すなわち、傷害される器官は皮膚, 肝臓, 消化管である。 これに対し「慢性 GVHD 症状」は膠原病に似た症状であって、傷害される臓器は 皮膚, 口腔, 眼, 消化管, 肝, 肺, 関節・筋膜, 性器が代表的であるらしい。
先日、ある友人との間で「なぜ急性 GVHD では腎臓が傷害されないのか」という疑問が話題になった。 腎臓は血流が豊富で、繊細な毛細血管に富み、いかにもデリケートで GVHD によって傷害されそうな気がしたのである。 しかし、日本血液学会編 『血液専門医テキスト』によれば、腎臓は、典型的には急性 GVHD で傷害されないだけでなく、 慢性 GVHD によって傷害されやすい臓器にすら該当しないらしい。 全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythematosus; SLE) などではしばしば腎臓が傷害されるのに、なぜ、腎臓は GVHD に強いのだろうか。
いまのところ、私は、この疑問に対して回答を与えることができていない。 この問題を解決するためには、一度、GVHD の組織学について勉強する必要がある。
なお、上述の『血液専門医テキスト』は専門医試験対策の下品な書物であるかのように誤解しかねない表題であるが、 実際には血液疾患について詳しく理論的に言及している名著である。
前回の記事に対する補足である。 ときどき「脾機能亢進症」という言葉を耳にすることがある。 これは「脾臓の機能が病的に亢進している状態」を指すものである。 脾臓は免疫にも関係する臓器であるが、「脾機能亢進症」という場合には「赤血球を破壊し、血小板の産生を抑制する」という意味で「脾機能」という語を用いている。
いい加減なテキストでは「脾機能亢進症」を 「脾臓の機能が亢進する病気のことであり、貧血や血小板減少症を来す」というような説明がなされることがあるらしく、とんでもない話である。 正しく医学を修めてきた学生であれば「脾臓の機能が亢進する病気」と聴くやいなや「そんな不思議な病気があるとは、信じられぬ」と反応すべきである。
「脾機能亢進症」は、疾患名ではない。 たとえば重度の肝硬変では、肝内の血管が閉塞し、いわゆる門脈圧亢進症を来し、脾臓に血液が貯留し、脾内の血圧が高くなる。 この場合、結果的に脾臓における赤血球破壊が進み、血小板産生が抑制され、「二次性脾機能亢進症」と呼ばれる。 他にも脾機能亢進症を来す疾患はたくさんあるが、要するに「脾機能亢進症」とは、ある種の疾患に続発する症候をいうのであって、疾患名ではない。
一部の学生からは「しかし特発性脾機能亢進症、あるいは一次性脾機能亢進症の場合には、脾機能亢進症そのものが疾患であろう」との反論があるかもしれない。 しかし、ここで「特発性」とか「一次性」とか言っているのは「たぶん、何らかの原因があるのだろうが、現代医学では未だ解明されていない」という意味なのであって、 「脾機能亢進症は疾患ではない」という見解を否定するものではない。
疾患なのか症候なのか、それとも症候群なのか、といった区別を明確にすることは、病因と病態、すなわち病理を正しく理解し、適切な臨床的対応をする上で必須である。 たとえば脾機能亢進症による貧血への対応としては、可能であれば根本にある疾患の治療を行うべきである。 しかし、もし脾機能亢進症を症候ではなく疾患であると錯覚してしまうと、脾摘、すなわち脾臓を摘出することが根本的治療であるかのように誤認してしまう。 それでも貧血自体は「治る」のだが、根本にある疾患を放置され、必要もなく脾臓を摘出される患者のことを思えば、心を痛めない医師はいないであろう。
脾腫とは、脾臓が腫大することをいう。 時に、脾腫が原因となって血小板減少症を来すことがあるという。 なぜ、脾腫と血小板数が関係するのであろうか。
「血小板は脾臓で破壊される。脾腫により赤血球や血小板が脾臓に留まる時間が長くなり、赤血球や血小板の破壊が亢進する。」という説明を聴いたことがある。 これは一見、もっともらしく、これで納得してしまう学生も少なくないようである。しかし、この説明は無理がある。 子供だましの説明を鵜呑みにすることのないよう、我々は、常に心掛けなければならない。
もし、脾臓を通過する赤血球や血小板のうち一定割合が無作為に選ばれて破壊されるならば、上述の説明は正しそうである。 しかし、事実は異なるらしい。 赤血球には核がなく、蛋白質を合成する能力に乏しいため、産生されてから120日経つ頃には各種の膜蛋白質も変性し、俗な表現をすれば「細胞膜がボロボロ」になる。 この状態では、脾臓内部の複雑な血管網を通り抜けるために必要な細胞膜の変形を為すことができず、赤血球は脾臓の組織に捉えられ、ついにマクロファージに貪食されてしまう、という。 すなわち、脾臓では古い赤血球が選択的に破壊されているのであって、全ての血球から一定割合を無作為に抽出しているわけではない。 なお、血小板が脾臓で破壊されるのかどうかについては、私は知らない。
だいたい、「脾臓は赤血球を破壊する器官なのだから、脾臓が大きくなれば赤血球はたくさん破壊されるようになる」というのでは論理が稚拙に過ぎる。 ひとくちに脾腫といっても、その原因は多様であり、それぞれ区別して議論する必要がある。 しばしば言われるのは門脈圧亢進症による脾腫であって、これは肝硬変などによって肝臓の血管が閉塞ないし狭窄し、脾静脈を流れる血液の行き場がなくなり、 結果として脾臓に血液が貯留し、また脾臓内部の血圧が高くなるものである。 この場合、脾臓内部で血管が変形し、通常よりも赤血球が通り抜けにくくなり、マクロファージに貪食される頻度が増すものと考えられる。
脾腫で血小板減少を来す機序は実は有名であり、トロンボポエチンの破壊が亢進することで血小板産生が減少するためであって、血小板の破壊が亢進するからではない。 トロンボポエチンは血小板産生を促すホルモンであるが、これは腎尿細管上皮細胞などで産生されるらしく、血小板や、血小板の前駆細胞である巨核球によって破壊される。 すなわち、血小板が少なければ血中のトロンボポエチンは増加し、逆に血小板が多ければ血中トロンボポエチンは減少する。 これによって適切な量の血小板数が確保されるのである。 ここで重要なのは、一定に保たれるのは「体全体にある血小板の総数」であって、「単位体積の血液に含まれる血小板数」ではない、という点である。 脾腫によって血液が脾臓に貯留すれば、体全体にある血小板数は一定であっても、単位体積あたりの血小板数は減少する。 これが脾腫による血小板減少症の正体であると考えられている。
この日記について、私が名古屋大学あるいは名大医学科生を酷評していることについて、反感を抱いている人が少なくないことは、私も知っている。 多少、言葉の過ぎるところがあることも認識しており、時折、少しだけ後悔している。
某君から指摘されて、それもそうだ、と思ったのであるが、東海地方には東海地方なりの、医療を巡る問題を抱えている。 東海地方においても、地区によってはひどく医師が不足しており、最低限の医療サービスを提供するために苦心し、多大な犠牲を払っている人々がいる。 それでも東海地方の社会保障を支えるために、自らの人生をなげうっている医師や、その覚悟を決めた学生は確かに存在するのであって、彼らに対しては、私も敬意を抱いている。 私に言葉を正確かつ厳密に操る能力が不足しているために、あたかも名大医学科に属する全ての人を攻撃対象にしているかのように誤解されかねない記述が多い点については、申し訳なく思っている。
しかし私の信じるところによれば、今の名古屋大学医学部医学科をみて、憤る姿勢をみせないことは、社会に対して不誠実である。 名古屋大学は、いわゆる旧帝国大学の一つである。率直に言って、我々は、エリートである。 エリートというのは、社会的地位を約束された人、という意味ではなく、次代を切り拓く意志を持ち責任を負う人、という意味である。 その責任を勝手に放棄することも、放棄する者を咎めぬことも、いずれも等しく社会に対する裏切りである。 「私は、たまたま名古屋大学に入学しただけであって、エリートではない」という謙遜は、許されない。 名大医学科に最も欠如しているのは「恥」の概念であろう。
臨床実習でカルテを閲覧していると、細かな検査所見に気がつくことがある。 ここでいう「細かな」というのは、臨床医がカルテにわざわざ明記しない、という意味である。 「診断や治療にはほとんど役立たない」あるいは「臨床的に重要ではない」という意味に考えても良いだろう。 直接は診療に役立たないのだから、イチイチ所見としてカルテに記載しない臨床医の姿勢は、適切である。 しかし訓練中の身である学生としては、臨床医の真似をすることが常に正しいわけではなく、検査結果に穴があくほどよく眺め、吟味することが重要である。
たとえば胸部や腹部の CT 画像を眺めると、体内の構造の概略は万人に共通であっても、細部は十人十色であることがわかる。 従って、細部についてよくみれば、他の人の CT 画像ではみられない「特殊な構造」が発見されることは珍しくない。 そして、放射線診断学の教科書で常に強調されるように、こうした「特殊な構造」の多くは病的なものではない。 それ故に、その「特殊な構造」が病的であるか否かを判定するには、同一人について時系列に沿った放射線画像を比較することが重要なのである。 また、放射線レポートでは、病的意義が明らかではなく臨床的に重要ではないと考えられる細かな所見については、しばしば、省略される。 放射線科医は、こうした細かな所見に気付いた上で敢えてレポートでは割愛しているのだから、我々もそれに倣い、 レポートには記載されていない細かな所見にまで気を配りつつ CT 画像を眺めるべきであろう。
血液検査所見にも、実に深淵な物語が隠されている。 我々にとって幸運なことに、血液検査は週に少なくとも二、三回は行われるから、時系列情報が豊富である。 しかも、病理学的な立場からいえば、全ての検査所見には必ず原因と機序があるのだから、 確実な証拠はなくとも、検査所見を合理的に説明できる仮説は立てられるはずである。 この「仮説を立てる」という仕事は、学生にとって良いトレーニングになるであろうし、学生としてのウデのみせ所でもある。 たとえば、手術後に、術前に比して、血中の肝逸脱酵素の濃度が上昇し、活性化部分トロンボプラスチン時間 (APTT) は大きく延長する一方、 プロトロンビン時間 (PT) は大きく変化していない患者がいたとする。 この所見を、単に「手術中の操作で肝臓が軽度の障害を受けた」と説明するのはシロウトである。 これでは、PT が大きく変化していない理由を説明できていないからである。 基本的には全ての所見を合理的に説明するべきであるが、どうしても説明できない部分が残る場合には、 カルテ (学生記録) には「○○の所見が他の所見と合致しない原因は不明である」と明記するべきであろう。
私がみた細かな所見の中で、ずっと気になっているものが一つある。 手術後に、一過性に体液が貯留し、血中ナトリウム濃度が軽度の低下を示し、浸透圧 (計算値) が低下することがある。 この場合、希釈により血中アルブミン濃度や赤血球数密度が減少するが、平均赤血球ヘモグロビン量 (MCH) は変化しない。 単純なモデルで考えれば、この場合、平均赤血球体積 (MCV) は浸透圧差により大きくなりそうなものであるが、現実には MCV が軽度の低下を示すことがある。 これは本当に軽度の低下であって、いわゆる正常範囲からは逸脱しない。 なぜ、MCV が小さくなるのだろうか。本当に小さくなっているのか、それとも検査手法上の問題なのか。 もし合理的な説明を加えられる方がいたら、ぜひ教えていただきたい。
心電図の判読法には、古典的、あるいは正統法、とでもいうべきものが存在する。 流儀に若干の多様性はあるものの、調律をみて、電気軸を確定し、P 波の異常を調べ、PQ 時間を確認し……という具合である。 しかし、この方法は時間がかかる上に、臨床的に重要でない所見をたくさん拾ってしまうために、臨床医の多くは、この正統な手順を踏んでいないらしい。 正統でない判読法として有名なものに、以前に紹介した山下武志氏が『3 秒で心電図を読む本』で述べている手法がある。 山下氏は、正統法が「初心者が時間をかけながら勉強する過程ではこの順序が重要である」と認めた上で、 臨床におけるスクリーニング目的の心電図判読においては、もっと簡略化した手法を推奨しているのである。
ここで、「実際に臨床で行われている手法」にばかり目が行き、いきなり山下氏の手法を修得しようとするのは、昨今の名大医学科における悪い風潮であろう。 山下氏自身が認めているように、心電図を理解する上では、まず正統法を修得することが重要である。 しかし恐ろしいことに、名大医学科においては、この正統法を学生に教えていないのである。 というよりも、系統的な心電図の判読法自体、教えていない。
系統的な判読法を教わらないと、学生は、どうなるか。 試験では、たいてい、異常心電図を示して「いかなる疾患か」と問うような出題しかなされない。 従って、疾患名と典型的な心電図の対応関係だけを記憶するのが、効率的な勉強法となる。理屈など、いらないのである。
臨床実習において実際の心電図をよくみると、「疾患とまではいえないが異常な心電図」が多いことに気づく。 心電計の自動診断機能は、疾患を疑うような著明な異常に対する感度は高いが、こうした軽度の異常については言及しないことも多いようである。 そこで系統的な心電図判読法を修得していれば、こうした場合に、「臨床的に重要ではないが、コレコレの軽度な異常がある」と指摘することができる。 私は、こうした異常所見をイチイチ、カルテに記載することにしている。 もちろん、こうした指摘は、ただちに臨床的に役立つわけではない。 それでも、そうした軽度の異常心電図を「発見」した経験の蓄積は、やがてどこかで役立つであろう。 なにより、他人が気にしない小さな異変に自分だけが気付いている、となれば、心電図を読むのが楽しくなってくる。
このような「迂遠であっても系統的で繊細な理解の重要性」を学生に教えていないという事実は、遺憾ながら、 名大医学科における教育の質の低さを証明しているといわざるを得ない。
ある友人によれば、高カリウム血症の急性症状に対し、対症療法としてグルコン酸カルシウムを投与することがあるらしい。 その機序がよくわからぬ、という問題提示を受けたのだが、私には、よくわからなかった。 そこでグーグル先生に尋ねてみると、いい加減であったり、意味不明であったりする説明が非常に多い。 しかし『ハリソン内科学』などを少し調べてみると、実は単純な機序であることがわかった。
高カリウム血症で恐ろしいのは、心停止である。 これは、高カリウム血症により心筋の静止膜電位が高くなり、電位依存性ナトリウムチャネルが不活化し、あるいは興奮性が高まり、 リエントリー性の致死的不整脈が生じるためである。 不活化と易興奮性は対極に位置するように思われるが、異なる機序が働くため、どちらも起こり得る。詳細は、既に別の記事で述べたように思う。
一方、高カルシウム血症においては、心筋内にカルシウムが貯留することでカルシウム依存性カリウムチャネルが活性化する。 このため、膜電位は低下するし、興奮の閾値は高くなる。 すなわち、高カリウム血症と高カルシウム血症は、心筋の興奮性に関しては拮抗的に作用するのである。 なお、『ハリソン内科学 第 4 版』では「静止電位を変化させずに活動電位の閾値をあげることで興奮性を下げる」とあるが、理論上、静止電位も変化する。 「ハリソン」が言っているのは、「カリウムの透過性はもともと高いため、臨床的に問題となる程度には静止電位の変化は著明ではない」という意味であろう。 また、ナトリウム-カルシウム交換輸送体の作用も関係するかもしれないが、膜電位について考える限りは、その寄与は小さいであろう。
試験対策的な知識として、高カリウム血症は心電図上で QT 延長を来す一方、高カルシウム血症は心電図上で QT 短縮を来すから、 両者は打ち消し合うのだ、と考える者がいるかもしれない。 しかし、両者は異なる種類の QT 変化なのであるから、心電図学的に考えて、この発想は誤りである。
さて、以上の機序から容易に推定されるように、ジゴキシンの投与を受けている患者へのグルコン酸カルシウムの投与はジゴキシン中毒を誘発する恐れがある。 というのも、ジゴキシンは Na/K-ATPase の阻害により心筋内へのカルシウム貯留を促す薬物だからである。 高カルシウム血症は、心筋内への高度のカルシウム貯留を促すことになり、すなわちジゴキシンの作用を増強する結果となる。 従って、思考停止してグルコン酸カルシウムを投与したがためにジゴキシン中毒による致死性不整脈を誘発した、となれば大問題であるから、注意されたい。
元名古屋大学教授の赤崎氏や天野氏らのノーベル物理学賞受賞が決まったという。 この三人が共同受賞というのは、いまひとつ理解できぬところではあるものの、 名古屋大学に所属する工学系出身学生としては、我らが赤崎氏や天野氏の功績が広く世間に伝えられたこと自体は、喜ばしい。
しかし、賞を受けて喜ぶというのは、科学の本来のあり方を歪めているように思われる。 いかなる偉大な科学的業績も、ただ一人の力によって成し遂げられたものではない。 世間から注目されず、称えられることもなく、図書館の埃の影に埋もれてしまった数多くの科学者達の犠牲の上に、 ごく一部の幸運な科学者が、ただ偶然の力によって、最後の一石を積み上げたに過ぎぬ。 その中で、ただ一人を選び出して表彰するということは、連綿と継続された偉業の全容を覆い隠すものに他ならない。
科学者にとって、学問は、人生の目的である。 それにもかかわらず、ノーベル賞の受賞を拒否する物理学者が、かくも少ないという現実は、私には理解できない。
ある友人からの情報によれば、名大医学科四年生の一部が署名を募り、講義の際に全員分のハンドアウトを配布して欲しい、との請願を、大学当局に対して行ったという。 ここでいうハンドアウトとは、要旨だけを記した簡潔な文書ではなく、詳細な講義内容を記載した文書を意味していると思われる。 よもや天下の名古屋大学において、かかる低俗な要求がまかり通るとは思わないが、学生からそのような要望が提出されたこと自体が遺憾である。
ハンドアウトの要求、とだけいえば、学生の勤勉さの表現であるかのように思われるかもしれない。 しかし問題は、彼らが、そのハンドアウトを何の目的に使用するか、ということである。 言うまでもなく彼らは、効率的な試験対策勉強のために、そのハンドアウトを使用するのである。
一部の者は、次のように反論する。 「勉強の入口として、ハンドアウトでよく復習するのであって、特に試験対策というわけではない。」 また、別の者は次のように主張する。 「試験に出題される箇所や、講義で詳述された箇所こそが、医学的に重要なのだ。」 しかし、前者が詭弁であることは、それを口にしている当人が一番よく理解しているであろう。 このような反論をする者は、十中八九、講義プリントや予備校テキストによる「効率的」な学習に注力するのであって、 本当にハンドアウトを入口として成書の熟読にまで至っている学生を、私は一人しか知らない。 後者については論外である。
好意的にみるならば、こうした詭弁を弄して正当化を試みる点について、名大医学科生には、まだ「恥」の概念があると考えるべきかもしれない。 しかし、ろくに講義に参加することもなく、あるいは形だけ出席してノートの筆記に専念するような学生が、 「ハンドアウトで勉強する」などと主張するのは、学問に対する姿勢が大いに歪んでいるといわざるを得ない。 そして、それを容認してしまう教員が少なくないという事実は、名古屋大学の衰退が、もはや修復不能な域に達していることの証左である。
教科書的には、低カルシウム血症は心電図上で QT 延長を来すことになっている。 『心電図の ABC』改訂 2 版によれば、これは ST 部分の延長であり、T 波に異常はみられないという。 たぶん「QT 延長症候群」といえば、致死的不整脈のリスクを増大させる恐るべき異常所見である、と考えている学生が多いのではないか。 先に本日の結論を述べておくと、「QT 延長症候群」という呼称は極めて不適切であり、正しくは 「再分極障害」と「自発的脱分極の亢進」とに分類して考えるべきである。
いわゆる QT 延長症候群の多くは、カリウムチャネルの阻害によって心筋の再分極が障害されることが原因である。 この場合、再分極に時間を要するために、心電図上では T 波が幅広くなる。 100 年前の巨人 Einthoven が興した伝統的な心電図判読法では、これは「QT 間隔の延長」と解釈される。
ここで重要なのは「QT 間隔が延長したから致死的不整脈が生じる」わけではない、ということである。 カリウムチャネルが阻害されたために、静止膜電位がやや高く、すなわち脱分極傾向になり、結果として一部のナトリウムチャネルが不活化し、 リエントリー性の不整脈を生じやすくなるのである。 すなわち、カリウムチャネルの阻害を原因として「QT 間隔の延長」と「致死的不整脈」という二つの結果が生じているのであって、 QT 間隔の延長と致死的不整脈の間に因果関係は存在しない。
では、なぜ低カルシウム血症において QT 延長が生じるのか。 一説には、低カルシウム血症により心筋の膜電位における第 3 相、すなわちプラトー相が延長するために ST 間隔が延長する、という意見がある。 これは部分的には正しく、再分極は部分的にはカルシウム依存性カリウムチャネルによって駆動されるために、 低カルシウム血症においてカルシウムの流入量が減少すれば、再分極は遅れるから、ST 部分が延長し、「QT 間隔の延長」と判定される。
もう一つの考えられる機序は、Na/Ca 交換輸送体を介するものである。 この交換輸送体は、Ca を細胞外に、Na を細胞内に輸送するものであるから、低カルシウム血症においては作用が亢進する。 すなわちナトリウムイオンの細胞内への流入を促進するのであって、洞房結節における第 4 相、すなわち緩徐な脱分極過程を促進することになる。 これは、心電図上では RR 間隔を短縮することになる。 これも、伝統的な心電図判読法においては「QT 間隔の延長」という所見になる。
重要な点は、いずれの機序も第 4 相における膜電位を変化させることはなく、ナトリウムチャネルの不活化を誘発しないことである。 すなわち、低カルシウム血症が致死的不整脈の原因となることは考えにくい。 以上の議論より、カリウムチャネルの障害による「QT 延長」と低カルシウム血症による「QT 延長」は全く性質が異なり、明確に区別されるべきである。
たぶん誤解されがちであるから改めて強調しておくが、私は名古屋大学が大好きである。 医学科の学生の中で私ほど強い愛校心を抱いている者は他にいないであろう、と自信を持っているほどである。 私が名古屋大学医学部の悪口を言うときは、それは間違いなく、愛するが故の批判である。 たとえば私は大阪大学に対して何らの愛着も抱いていないから、仮に大阪大学の学生が不道徳な振る舞いをしても、私は、それをイチイチ批判しない。
さて、名大医学科では、学生有志で集まって『ハリソン内科学』の輪読会を行っていた。 もともと参加者の少ない集まりではあったが、脱落者が続出し、とうとう解散やむなし、という状態になってしまった。 これまで努めて参加してくれていた友人諸君には感謝している。
名大医学科には、参加者を公募する形の学生自主勉強会は少ない。 エラい先生に指導してもらう、あるいは監督してもらう、という形式の勉強会はあるようだが、学生が自主的自律的にやろう、という意欲は乏しいのである。 本来、大学は学生が自ら学ぶ場であったはずなのに、名大医学科には、そのような気概は皆無なのである。 名古屋大学は愛知医学校から始まったのであり、すなわち医学部こそが名古屋大学の中核であるにもかかわらず、 その自主自律の精神を医学科が率先して放棄してしまったことは、皮肉であると言わざるを得ない。
あまりに近視眼的なのである。 学生の中には「研修医になってすぐに役立つ知識や技能」については、それなりに関心を示す者もいるが、 『ハリソン内科学』のような「すぐには役立たない、マニアックで学究的な内容」に関心を持つ学生は稀なようである。 すぐに役立つ知識や技能を詰めこめば、もちろん、初期臨床研修医になってからは無敵であり、大活躍し、同期の研修医から羨望や尊敬を集めるであろう。 だが、基礎学識に裏付けられない臨床知識は発展に乏しく、まさに砂上の楼閣である。 そのことを、教授陣の多くが指摘しているにもかかわらず、どうやら馬耳東風であるらしい。 このように長期的視野を欠いていることは、試験対策に特化してしまった医学科生の最大の弱点であるように思われる。
もちろん、こうした名大医学科の現状に多少の危機感を覚えている学生は少なくないようである。 しかしそれでも、医師国家試験合格率などを根拠に、「我々は旧帝国大学たる名門、名古屋大学なのだ」と思い、 「北陸の某地方大学ごときには負けない」などと、密かに考えているのであろう。 これがトンデモナイ勘違いであるということを、いずれ、彼らは思い知るであろう。
医学が自然科学か人文科学か、という議論は、単に分類上の問題として解釈するならば、実にくだらない、どうでも良い話である。 しかし、これを医師としてのあり方、医療に向き合う姿勢を巡る倫理上の問題と考えるならば、実務上、重要な議論であろう。
いわゆる理系、文系という呼称は、概ね、自然科学を専門とするか、人文科学を専門とするか、という意味で使われているように思われる。 自然科学とは、英語でいう science, あるいは physics と同義と考えてよい。 これに対し人文科学は、欧米における歴史的経緯から、leberal arts, あるいは単に art, と呼ばれる分野である。
私は欧米の医学事情には昏いのだが、少なくとも日本では、「医学を修める」といえば「医者になる」とほぼ同義に解釈され、 「たくさん暗記しなければならない」という印象があるだろう。 現に、知識をたくさん身につけた学生が「優秀である」とされ、尊敬される傾向があるように思われる。 これは物理学や工学とは対照的であり、物理を学ぶ学生の間では、知識の持ち主は「マニア」とみなされることはあっても、「優秀である」という評価にはならない。 さまざまな物理定数を記憶していることはあまり重要視されず、手元に『理科年表』を置いておけば充分だと考えられている。 すなわち優秀な学生とは、自由な発想や優れた思考過程の持ち主をを言うのであって、知識などは、必要に応じて書籍やコンピューターで調べれば良いのである。
さらに、いわゆる理系の学生は、文系の学生を「ただ丸暗記するだけの連中」とみなして、軽蔑する傾向があるのではないか。 本当は、人文科学においても自由な発想や柔軟な思考が要求されるのであるが、人文系学生の中には暗記だけで試験を凌ぐ者が少なくないために、 人文科学全体が不当に貶められているのである。
以上の観点から、しばしば、「医学は文系である」というようなことを言う者がいる。実は私も、以前は、そのように思っていた。 しかしガイドラインに盲従し、「マニュアル医療」を施す医師は専門医を称するにふさわしくない、ということは、 昨今の専門医制度改正を巡る議論の中で、しばしば言われている通りである。 医学は本来、単なる暗記と訓練の集大成ではなく、高度な知性を要する活動なのである。
ところで、医学の世界における論文のようなものには、「症例報告」と呼ばれる種類のものがある。 これは、臨床医が比較的珍しい症例に遭遇した際に、「このような例がありました」と学会等に報告するものである。 学生の中には、症例報告などくだらない、学術的にはほとんど意味がない、というような悪口を言う者もいる。私も、かつては、そうであった。 だが、冷静に考えれば、それは誤りである。 何も考えずに、単に経験を報告するだけであれば、確かに、症例報告には大した意義はないであろう。 しかし真に優れた臨床医は、患者の状態の背後にある生物学的、病理学的な現象を鋭い観察によって見抜き、適切な考察に基いて治療を行い、 その結果を注意深く見守るのではないか。 その考察、観察を報告することが、どうして、学術的に無意味であろうか。
事実であるかどうかは知らないが、先日、ある友人から、次のような噂を聞いた。 臨床実習の際に某教授が、とある社会的に繊細な問題を伴う先天性疾患について、「名大医学科の学生の中にも患者がいる」という趣旨の発言をした、というのである。 もしこれが、たとえば感冒であるとか、急性虫垂炎であるとか、誰でも患う可能性があるような疾患であるなら問題はない。 しかし、先天性で社会生活に影響があり、その疾患について知られることを望まず、秘匿して生活している患者も少なくないとあれば、そうはいかない。
教授は個人名を挙げたわけではないというから、個人情報保護の観点からは、重大な問題はない。 たぶん、教授は「身近な所にもいるよ」ぐらいのつもりで発言したのであろう。 しかし、それであれば罹患率を示して例えば「三学年に一人ぐらいはいることになる」などと言えば充分なのであって、「現に患者がいる」とまで言う必要はない。 「学生の中に実際に患者がいるかどうか」を、特別の必要なしに言及するのは、医療倫理の観点からは言語道断である。 もし、本当に教授がそのような発言をしたのであれば、医師として、医学部教授としての、資質を欠くと言わざるを得ない。
教科書の好みは人それぞれであるから、万人にオススメの教科書は存在せず、各自が好みに応じて選ぶべきである。 とはいえ、全ての本にイチイチ目を通すのも大変であるから、他人の意見も、少しは参考になるだろう。 私の場合、教科書を選ぶ際には、出版社を重視する。以下に、私が購入して気に入った教科書を、出版社別に挙げる。 ただし私は、これらの書物の全てを通読したわけではないので、ひょっとすると不適切な紹介があるかもしれない。 通読した上での書評は、卒業する頃に書くことにする。
メディカル・サイエンス・インターナショナル (MEDSi) は、米国の名著の和訳を多く出版している。 もちろん筆頭は『ハリソン内科学 第 4 版』であり、医学科生は、卒業までに、これを一度は通読するのが望ましいだろう。 ただし、翻訳が不適切な部位も散見されるので、可能であれば原書で読む方が良い。 他には『ハーバード大学テキスト 病態生理に基づく臨床薬理学』『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』 『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理 第 3 版』『体液異常と腎臓の病態生理 第 2 版』が代表的である。 これらは、臨床医学と基礎医学の橋渡しをすることを重視し、理論的に臨床医学を説明する名著である。 特に「臨床薬理学」は、臨床的に広く用いられる薬物の作用機序を、生理学の復習と共に詳述しており、全ての学生に強く推薦したい。 「血液疾患」「心臓病」「腎臓」は、いささかマニアックではあるが、これらの領域に関心のある学生にはオススメである。 『臨床神経生理学』は説明が丁寧で詳しく、わかりやすい。『エッセンシャル 免疫学 第 2 版』は、図解が良い。 『MRI の基本 パワーテキスト 第 3 版』は、MRI の原理を詳細に説明する名著であるが、いささか難解である。 多少は物理学の心得がある私にとって「いささか難解」なのだから、たぶん、高卒でそのまま医学部に入った学生にとっては「極めて難解」であると思われる。 後述する秀潤社の『決定版 MRI 完全解説 第 2 版』と併せて読むのが良い。
医学書院は、日本発の臨床医学書の出版元として、非常に信頼できる。 『医学大辞典』は、辞書として有用である。 『臨床検査データブック』は、臨床検査値に異常が出るメカニズムやレビューの紹介がなされており、医学科五年生以上ならば、常に手の届く場所に置いておくと良い。 『臨床中毒学』はやや専門性が高いが、中毒の機序や毒物動態を明快に記載しており、いざという時に役立つかもしれない。 基礎医学においても『神経解剖カラーテキスト 第 2 版』は写真が豊富で、説明も詳しく、参考になる。 医学書院で有名なのは「標準」シリーズであるが、これは国家試験を強く意識した構成になっているものが多く、知識の詰め込みになりがちであり、推奨できない。 私は、他に良い教科書がない場合に、「第二選択」として購入している。
南山堂は、臨床医学において医学書院と双璧を成す出版社であろう。 『新耳鼻咽喉科学 改訂 11 版』『TEXT 眼科学 改訂 3 版』『TEXT 麻酔・蘇生学 改訂 4 版』は、いずれも丁寧な説明が加えられており、 学部学生の教養としては充分であると思われる。 基礎医学については『解剖学講義 改訂 3 版』と『組織学 改訂 19 版』が良い。
金原出版は各種ガイドラインの出版で有名である。 『臨床検査法提要 改訂第 33 版』は、各種臨床検査の手法の解説書であり、ふと疑問が湧いた時にページをめくると良い。 『TNM 悪性腫瘍の分類 第 7 版 日本語版』は、手元にあると役に立つ。
文光堂『小児科学 改訂第 10 版』は、説明が丁寧で、機序への言及も豊かであり、たいへん、よろしい。 『血液細胞アトラス 第 5 版』は、血液疾患の顕微鏡的所見について、豊富な写真を示して解説しており、血液内科学を学ぶ上で必須である。 基礎医学では『寄生虫学 第 3 版』がオススメであるが、内容が単調であり、通読するには根気がいる。
朝倉書店は『内科学 第 10 版』で有名である。「ハリソン」より内容が少なく、読むのに時間は要しないが、マニアックな記述が乏しい。 どうしても「ハリソン」を読む気になれない人は、せめてこちらを通読するべきである。
中山書店の『あたらしい皮膚科学 第 2 版』は図や写真が豊富であり、単著であることからストーリーも一貫している。 『心エコーの ABC』は、心エコーの画像を解読する際に役立つ。
南江堂はの『血液専門医テキスト』は専門医試験対策向けということであるが、血液疾患について詳細な記述がなされており、学部学生にとっても有益である。 『NEW 法医学・医事法』は読みやすくて良いのだが、カラー写真の乏しいことが残念である。 南江堂は基礎医学において良書が多いように思われるが、私は、あまり縁がなかった。 『ネッター解剖学アトラス 原書第 5 版』は良い。 学部一年生程度の初学者であれば『シンプル生化学 改訂第 5 版』も良いだろう。
秀潤社の教科書は図解が多く、書名もいささか世俗的である。 しかし前述の『決定版 MRI 完全解説 第 2 版』の内容は、一切の妥協なしに厳密さを追求したものであり、書棚に飾って恥ずかしい類の本ではない。 『皮膚病理イラストレイテッド 2 免疫染色』も、「何を染めているのか」「なぜ、それで診断できるのか」の説明を重視したものであり、 皮膚科医や病理医を目指す学生にはお勧めである。
羊土社『スクワイヤ 放射線診断学 (Sixth Edition)』は、説明が丁寧かつ明快であり、写真も多く、放射線診断学の入門書として優れているが、 出版が 2005 年であり、いささか古いのが問題である。
東京化学同人は『生化学辞典 第 4 版』『細胞機能と代謝マップ』が臨床医学を学ぶ中で湧き起こる疑問の解決に有用である。 『ストライヤー生化学』は良書であるのだろうが、結局、キチンと読んでいない。
ELSEVIER は『ガイトン 生理学 原著第 11 版』が、生理現象を理論的に説明する名著である。 『ロビンス 基礎病理学 原書 8 版』は病理学の入門書であるが、疾患概念の説明が必ずしも明確ではない点が残念である。 また「ロビンス」は翻訳の質に一部残念な点があるため、できれば原書で読むべきである、と、名古屋大学の学生としては遺憾であるが、言わざるを得ない。
共立出版の『読影の基礎 第 3 版』は診療放射線技師を目指す学生向けだが、医学科生にも、放射線解剖の教科書として良い。 『新ミトコンドリア学』は非常に専門的なので、ミトコンドリア愛好者以外には勧められない。
Newton Press の『細胞の分子生物学 第 5 版』は、教養として、学部一年生ないし二年生にオススメである。
総合医学社『10 日で学べる心電図』は、心電図解読法を学ぶには最適である。
11 月に、第 3 回 名古屋大学英語プレゼンテーションコンテスト 2014が開催される。 これは、予め定められたテーマについて口頭発表を行い、そのプレゼンテーション技術を競うコンテストである。 参加資格は、日本語を母語とする名古屋大学の学部学生・大学院生であり、帰国子女でない者、である。 エントリー締切は 10 月 18 日であり、個人または三人一組で申し込むことができる。 私は、これに参加することを検討しているが、未だプレゼンテーションの骨子が定まっておらず、間に合うかどうか不明である。
本日の話題は、発表者ではなく、聴衆の方である。 このコンテストでは、発表者を募るポスターだけでなく、 聴衆としての参加を呼びかけるポスターも掲示されている。 このポスターには、プレゼンテーションの質は、聴衆の質によって大きく左右される、ということが書かれている。 これは確かにその通りであって、聴衆がキチンと自分の方を向いていて、時にうなずき、時に笑ってもらえれば、こちらとしては、たいへん、話しやすい。 一方で、聴衆の多くがうつむいていたり、「何を言ってるのか、わかんねーよ」とでも言うような顔をされると、発表者も焦るし、とても話しにくい。 「聴く技術」は、重要なのである。
名古屋大学医学部医学科の学生の多くは、残念ながら、この「聴く技術」が非常に乏しい。 だいたい、講義室の座席が後の方から埋まっていき、前三列ほどが空席になっている時点で、聴衆としての自覚に乏しい。 講義中も、無表情にメモを取るばかりであり、中には堂々と途中入退室する不届き者までいる。 いったい、講師の話にうなずき、首をかしげ、あるいは首を振って反対の意思を表明するなど、コミュニケーションを取る努力をしている学生が、どれだけいるのだろうか。 以前にも書いたが、単に出席して座ってメモを取るだけの学生は、自分が講義を妨害しているということを自覚するべきである。
名大医学科にも優秀な学生はいるのだが、彼らも大抵は後方に着席している。 そこで「もっと前に来なさいよ」と声をかければ、まず間違いなく「前に行きすぎると、スクリーンが見にくい」と反論される。 このように、優秀な学生でさえも自分が情報を受け取ることにばかり集中し、講師に対して講義中に情報発信する努力を怠っていることは、実に遺憾である。 また、つまらない配慮によって講義中の質問を自粛し、講義終了後にまとめて質問しようとする姿勢も、よろしくない。 もちろん、「講義中に発言してはいけない」というような意味不明な空気が強く流れているのは事実であるから、講義中に質問するのは非常に難易度が高い。 私自身、講義中に挙手して発言する際には、かなりの気合とエネルギーを必要とする。 それでも、可能であれば講義中に質問を試みるぐらいの意欲は、誰もが持つべきであろう。
糖代謝異常症とは、糖代謝の異常に起因する疾患の総称である。 先天性に生じるものの大半は、糖代謝に関係する酵素の機能または発現に障害を有することに起因し、 基本的には、生化学的に考えて自明な症状を呈するが、いささかの例外はある。 後天性に生じるものとしては、糖尿病が有名である。
糖尿病は「1 型糖尿病」「2 型糖尿病」「その他の糖尿病」に分類される。 まず「その他の糖尿病」は、既知の遺伝子異常による糖尿病や、いわゆる二次性糖尿病をいう。 「1 型糖尿病」は、何らかの機序により膵島β細胞が破壊されることによりインスリン分泌が絶対的に欠乏するものをいう。 「絶対的」とは、9 月 18 日に書いた「機能的」に対応する語であり、インスリンの量自体が正常よりも少なくなっていることを意味する。 1 型糖尿病の大半は自己免疫性である、と書いてある教科書が多いが、実際には、これが自己免疫性であることを直接的に証明した人はいない。
1 型糖尿病の診断には、しばしば抗インスリン抗体や抗 GAD 抗体が用いられる。これらの抗体を有する糖尿病患者は、大抵、1 型である、と考えるのである。 GAD とは Glutamic Acid Decarboxylase のことであり、グルタミン酸からカルボキシ基を除いて GABA (γアミノ酪酸) を産生する酵素である。 これは脳を中心として全身にみられる酵素であり、膵島β細胞においてもシナプス様微小胞の周囲にみられる。 GAD には 67 kDa のものと 65 kDa のものがあり、1 型糖尿病患者ではしばしば、65 kDa のものに対する自己抗体が産生されるらしい。 ただし、これらの「自己抗原」はβ細胞の表面には発現していないため、こうした自己抗体そのものはβ細胞の破壊を誘発しない。
このように、疾患の本態とは直接関係しないと考えられる自己抗体が産生されるという点では、1 型糖尿病と膠原病は類似している。 たぶん、これらの疾患には、共通の自己抗体産生機序が存在するのであろう。 この機序を明らかにすることで、膠原病や 1 型糖尿病を根治し、あるいは進行を抑制することが、可能になると期待される。
他に有名な糖代謝異常症としては、糖原病がある。これはグリコーゲン代謝に関係する酵素の先天的異常に起因する疾患の総称である。 朝倉書店『内科学』第 10 版では、糖原病の定義について「グリコーゲン (糖原) 代謝に関与する酵素の遺伝的欠損により, 肝臓や筋などにグリコーゲンが病的に蓄積してその臓器障害を引き起こすとともに, 病型により低血糖を呈する疾患である.」としているが、 これは正しい定義ではない。 いわゆる O 型糖原病はグリコーゲン合成酵素の欠損であるから、グリコーゲンは蓄積しない。 もし、この朝倉の定義に従うならば「O 型」を「糖原病」と記載するべきではない。 「朝倉内科学」は良書であり、医学書の中では定義を明確に記している方であるが、それでも、ときどき、このように詰めの甘い記述がみられる。
糖原病 I 型は、グルコース-6-ホスファターゼ欠損症である。糖新生でグルコース-6-リン酸が生成されても、それを脱リン酸化できないため、空腹時低血糖などを来す。 組織学的には、肝臓や腎臓に多量のグリコーゲンが蓄積するという。肝臓は自明として、なぜ、腎臓にグルコース-6-ホスファターゼが関係するのか。 `Lehninger Principles of Biochemistry sixth edition' によれば、 `This Mg2+-activated enzyme is found on the lumenal side of the endoplasmic reticulum of hepatocytes, renal cells, and epithelial cells of the small intestine' とある。 どうやら、腎臓の尿細管ではヘキソキナーゼとグルコース-6-ホスファターゼが拮抗しているらしく、患者においてはヘキソキナーゼが優勢となり、 グリコーゲンが大量に蓄積するものと思われる。 細胞中のグルコース-6-リン酸の量などに応じてヘキソキナーゼを不活化すれば済む話だと思うのだが、どうやら、そのような機構は存在しないらしい。
朝倉『内科学』の糖代謝異常の節を読んで、理解に苦労したのがフルクトース-1,6-ビスホスファターゼ欠損症である。 これは名称の通り、糖新生で「解糖系を逆行する」ための三つの「迂回路」のうちの一つである。 糖新生が行われないために、グリコーゲンが枯渇した空腹時に低血糖を来す。 根治は不可能であり、対処としては「飢餓状態を避け, フルクトースや砂糖の摂取を控えることが必要」とされる。 糖新生ができなくても、フルクトースからビルビン酸を産生することは可能であるのに、どうしてフルクトースを避ける必要があるのか。
この問題については『ハリソン内科学』第 4 版も、文光堂『小児科学』も触れていないのだが、 `Nelson Textbook of Pediatrics 19th Edition' には解説があった。 `Infusion of these gluconeogenic precursors results in lactic acidosis without a rise in glucose;' というのである。 すなわち、吸収されたフルクトースの大半は一旦肝細胞に取り込まれてリン酸化される。 これが再び血中に出るためには、糖新生の後半部分を経て、グルコースに変換される必要がある。 従って、フクトース-1,6-ビスホスファターゼ欠損症患者がフルクトースを摂取すると、肝細胞にばかり糖が蓄積し、全身には運搬されないのである。 そのため過量のピルビン酸が肝細胞内で生じ、結果として NAD+ が欠乏し、乳酸を生じるものと考えられる。
ひょっとすると、このあたりの事情は、生化学をキチンと学んだ二年生にとっては常識であるかもしれない。 私は生来のナマケモノであり、生化学を詳しく学んでいなかったため、いまさら慌てている次第である。
一部の医師や医学科生は「勤務医の給料は、時給換算では安い」という妄言を、しばしば口にする。 私は、こういう金の話が嫌いではあるが、医師が不当にも享受している特権を批判するためには、事実関係を明らかにする必要があるため、ここに概説する。
厚生労働省の報告によれば、 医療法人が運営する一般病院における常勤医師の平均給与は、賞与を含めれば 1500 万円を超える。 国立病院ではやや低いが、それでも 1400 万円は下回らない。 なお、この調査において、いわゆるアルバイトによる収入が含まれているのかどうかは、不明である。
これに対し、国税庁の報告によれば、 正規雇用の給与所得者の平均給与は 468 万円であり、男性に限れば 521 万円である。
以上の数値を元に、勤務医の給料を時給換算で評価する。 「世間一般」の代表として男性の正規雇用労働者の給与を採用することにするが、実際には、 日本人の約半数は女性であり、しかも近年では非正規労働者が増加していることを忘れてはならない。
世間一般における残業の実態は不明であり、いわゆるサービス残業が横行しているとされるが、 とりあえずは厚生労働省の毎月勤労統計調査に基づき、 月に 10.9 時間、週に 2.5 時間の時間外労働だけが行われているとする。 週 40 時間を基準とすれば、年 2210 時間の労働を行っていることになる。 このとき、世間の正規雇用労働者の平均時給は 2357 円である。
勤務医の給与は「時給換算では安い」というのだから、医師は時給 2357 円未満で長時間労働を行い、1500 万円の給与を得ているはずである。 すなわち、週の労働時間は少なくとも 122 時間である。 休日は存在しないものと仮定しても、勤務医は一日あたり少なくとも 17.4 時間は働いていることになる。 なるほど、医師は、確かに激務である。
もしかすると、彼らは、「我々は大学受験の勝者であり、エリートなのに、それに相応の報酬を貰っていない」という意味で 「時給換算では安い」と言っているのかもしれない。 そうであるならば、まるで自分達が理学部や工学部などの人々よりも偉いかのような、とんでもない誤解である。 あるいは、「人の生命を預かる重要な仕事なのに」と思っているのかもしれない。 しかし生命を預かる仕事は医師ばかりではないし、 仮に患者が死亡したからといって、よほど重大な故意や過失がない限りは、医師が責任を問われるわけではない。
「時給換算では安い」と言っている人々は、たぶん、何かを勘違いしている。
以前に参加した、日本病理学会中部支部 夏の学校で、ある人から「病理を題材にした漫画がある」という話を聞いた。 調べてみると、月刊アフタヌーンに連載されている「フラジャイル」というものらしい。 私は、定期的に漫画雑誌を購読する習慣はないのだが、これは面白そうであったし、 単行本が出版されるのは先の話になりそうであったで、電子版のバックナンバーを購入して読んでみた。
「病理漫画」という触れ込みではあるのだが、どうやら病理部と臨床検査部が合体している病院、という設定であるらしく、初回には病理診断が登場しなかった。 しかし病理診断と組織学的診断は同義ではなく、臨床検査所見あるいは画像所見、病歴などは全て病理診断の一部であるから、 これは病理漫画の初回として、実に理想的であるといえよう。 一方で、神経内科に医者がたくさんいるのに、病理部に医師一人と技師一人しかいないというのは非現実的だ、という批評や、 主人公の病理医が喫煙をするのはいかがなものか、という批判もあるらしい。 そうした若干の違和感はあるものの、札幌医科大学附属病院病理診断科・病理部の長谷川医師が監修しているというだけあって、たいへん、面白い。 私は病理医の卵になる前の卵母細胞に過ぎないから、あまり偉そうなことは言えないのだが、 この漫画は、臨床病理の魅力を余す所なく、かつ不適切な誇張なしに、伝えているように思われる。
作中で指摘されているように、我々は、患者に感謝されることもなく、患者が治って退院していく姿を見送ることもなく、そして治療における決定権もない。 しかしながら、病理学に対する愛と、病理診断に対する誇りを持って、臨床医の診断を支え、縁の下から患者を守ることが、我々の使命である。
私は常々、名古屋大学医学部医学科に対する批判を述べてはいるが、ひょっとすると、私は名大医学科生を過大評価しているのかもしれない。 例えば9 月 19 日には、彼らは楽に稼げる道を選ぼうとしているのではないか、と述べた。 しかし、よくよく思案してみると、彼らがそのようなことを考えているとは思われない。 実際のところは「何も考えていない」のではないか。
医学科生の多くは何らかの部活動を行っており、先輩から、試験対策やら病院選びやらの「ありがたい話」を聞いているらしい。 あるいは、親が医者だという学生も多いらしく、医者とはどのような職業か、ということを、常々、親から聞いていると思われる。 もし、こういう先輩や親が立派な医師ばかりであるなら問題ないのだが、遺憾ながら、 世の中には倫理観を欠き、あるいは学識に乏しい医者が、少なくないのではないか。
医者の仕事を、「診断基準や標準的治療法を記憶し、ガイドラインに沿って診療すると」だと勘違いしている者は、世の中に少なくないようである。 あまり具体的なことを述べると障りがあるため詳細は割愛するので関係者以外にはわかりにくいだろうが、名大病院にも、明らかに見識の低い医師が少なくない。 ガイドラインの冒頭には、ほぼ必ず、「ガイドラインは医師の裁量を制限するものではない」という旨の注意書きがあるのだが、 現実に、自己の責任と学識によってガイドラインに沿わない診療をできる医師は、多くないものと思われる。 このことを危惧する声は識者の間では大きいらしく、専門医制度改正を巡る議論の中でも、 マニュアル通りの診療しかできない医師が「専門医」の肩書を振りかざす事態を懸念する意見が強いという。
何も考えていない学生は、そうした識者の危惧にもかかわらず、眼前の試験に合格することに注力し、上司から咎められないように、責任逃れの診療を行う医師になるであろう。 しかし「ガイドラインに従った」ということは、その診療行為を正当化する根拠にはならないことを、我々は忘れてはならない。 手塚治虫の「ブラックジャック」をはじめとして、医療漫画や医療ドラマをみて「カッコイイ」と感じる学生は少なくないと思われるが、 彼らの、こうした保守的な姿勢は、そのカッコよさとは対極にあるということを、はたして、彼らは認識しているのだろうか。 それとも、ひょっとすると、経験さえ積めば立派な医師になれるとでも思っているのだろうか。
ところで、9 月 16 日の毎日新聞配信記事によると、兵庫県立淡路医療センターで心電図異常アラームに看護師らが気づかずに放置し、 男性が死亡した事故について、県が遺族に解決金 300 万円を支払うことで和解したという。 これについて、思う所のある医師や学生は、少なくないであろう。
昨年 10 月 16 日にピエール・キュリーについて書いた。 彼の妻はマリー・キュリー、いわゆる「キュリー夫人」である。 マリーの人生については、娘のエーヴ・キュリーが書いた『キュリー夫人伝』という伝記が詳しい。 原書はフランス語であるが、白水社から、川口篤らの共訳によるものが 1988 年頃に、その後、河野万里子訳のものが 2006 年に出版された。 残念ながら私は原書と河野訳しか所有していないが、すぐ近くにある名古屋工業大学の図書館は、川口ら共訳を所蔵している。
『キュリー夫人伝』には、当然、ピエールのことも少なからず記載されている。 以下に、私の特に気に入っている部分を引用する。
マリーと出会う直前に、35 歳のピエールは、次のようなことを日記に書いていたという。(川口ら共訳)
女というものは、われわれよりもはるかに生きるために人生を愛している。 女性の天才はまれである。 それゆえわれわれが、ある神秘な愛に導かれて、自然に反した道のなかに没入しようとするとき、またわれわれの心を動かす人間的なものからわれわれを遠ざけるような仕事に、 あらゆるわれわれの思惟をささげようとするとき、われわれは女性と戦わねばならないのだ。 母親というものは、たとえそのために子供がいつまでもいくじなしでいなければならないとしても、なによりも先に子供の愛を要求する。 恋をする女はまた恋人を占有することを望み、恋愛のひとときのためには、世界でもっともりっぱな天才を犠牲にすることもいとわない。 のみならず、この戦いはほとんどつねに不公平であることを免れない。 なぜなら女性は、人間と自然の名によってわれわれを引き戻そうとする有利な立場にたっているからである。
ひょっとすると、「人間性」を重んじる医学ばかり勉強してきた人には、ピエールが何を言っているのか、理解できないかもしれない。 そこで、野暮ではあるが解説を加える。 彼は、科学を「自然に反する道」と表現し、いわゆる「人間らしさ」を捨てなければ、真に科学を探求することはできない、と言っているのである。 女性と仲良くしたいという人間的欲求はピエールにもあったが、その欲求に負けては、真の科学者たることはできない、と覚悟しているのである。 ここで注意すべきは、真に科学者たる女性は稀ではあるが存在し、そういう女性とならば、共に人生を歩むことができる、と暗に述べている点である。 もちろん、後に出会ったマリーは、そういう女性であった。
なお、現代の女性が「女性の天才はまれである」のくだりを読んで憤慨するのは当然である。 しかし、高等教育を受ける女性が少数であったという当時の情勢を鑑みて、どうか、ピエールの無礼な記述を許していただきたい。
また、1903 年頃、彼らの周囲で不幸が続いた時期に、次のようなことがあった。長くなるが、引用する。(河野訳)
一度、ただ一度だけ、ピエールが嘆きのことばをもらしたことがある。ごく低い声で、こうつぶやいたのだ。
「それにしても、きついな、われわれが選んだ人生は」
マリーは、そんなことないわ、と言おうとしたが、かかえつづけていた不安を、おさえることができなくなった。
ピエールがここまで弱気になるのは、体力が尽きかけているからなのでは?
ひょっとしたら、おそろしい不治の病にかかっている?
わたしにしても、どうしてこの重い疲労感がとれないの?
死の影が、すでに何か月もマリーにつきまとっていた。
「ピエール!」
のどをしめつけられたような、悲嘆に暮れた声に驚いて、ピエールはマリーのほうを見た。
「なに?どうしたの?」
「ピエール……もしわたしたちのうちのどちらかが死んだら……残されたほうは、ひとりでは生きていけないわ。
わたしたちはおたがいに、おたがいがいなかったら生きてはいけないの。そうでしょ?」
ピエールは、ゆっくりと首をふった。
妻として、愛に生きる者として、マリーは一瞬みずからの使命を忘れて、思わず口走ったのだ。
彼はそれによって、逆に思い出したのである。
科学者には、科学を投げだす権利などないことを。
科学者の人生の目的は、科学であることを。
彼は、悲痛にこわばったマリーの顔を、じっと見つめた。それから、きっぱりとこう言った。
「それはちがう。なにがあろうと、たとえ魂のぬけがらのようになろうと、研究は、つづけなくてはならない」
理想の夫婦像である。
一年ほど前に、「病気がみえる」シリーズに対する批判を述べた。 このシリーズは、主要な疾患について、その典型的な所見を図解や写真で簡明に説明していることから、名大医学科においても大人気である。 しかし、このシリーズは「臨床において重要なこと」のみしか書いておらず、記述が厳密でない、という点を挙げて、 看護学科の学生には適していても、医学科の学生が読むには不適であると、私は批判したのである。 五年生になった現在でも、未だにこの「病気がみえる」シリーズを参照する学生が多いようであり、たいへん、よろしくない。
「病気がみえる」シリーズの最大の欠点は、疾患概念を正しく説明しておらず、また検査所見についても 典型的な事項を列挙するのみで、何らの理論的解説も加えられていないことである。 たぶん、臨床特化型の学生からすれば、臨床的に重要なのは検査所見がどうなるか、という事項のみであり、 その背景にある理論や基礎医学は、どうでもいい、ということなのだろう。 そのような丸暗記知識の蓄積では、現実に来院する多彩な患者に対応することはできない、 ということを教授陣は繰り返し説諭しているのだが、その言葉は、彼らには届かないようである。
とりあえず国家試験に合格し、いわゆる common disease を、そこそこ診療できるようになれば、一応、医者として働くことはできる。 非定型的な患者には全く対応できないのだが、そういう患者には大学病院を紹介して、自分では診療しないことにすれば良いのである。 多くの学生や研修医が common disease を重視し、非定型的な患者への対応能力を軽んじるのは、これが理由であろう。 中には「そういうわけではないけれど、まずは common disease を診られないと……」と言い訳する学生もいるようだが、 彼らが「common disease 云々の前に、まずは医学をキチンと学ばないと……」と言わないのは、不思議である。
問題の根源の一つは、日本の医療保険制度にある。 現行制度では、非定型的で難しい患者に対し、高度な学識と診療能力によって適切な対処をしたとしても、それは診療報酬には反映されない。 極めて典型的な虫垂炎も、診断や治療に苦慮する虫垂炎も、包括払い制度の下では、同じ虫垂炎として診療報酬が算定されるのである。 その結果、難しい症例を大学病院に押しつけて、「簡単な」症例ばかり取り扱う医師の方が、 その難しい症例を引き受ける医師よりも、稼げるのである。 開業医であれば、このように定型的な症例をたくさん処理することで 2500 万円ほどの平均年収を得ることができるし、 勤務医であっても、そのような定型的な症例を中心に扱う病院で働けば、大学病院よりも高い収入を得ることができるという。
大学で生きる我々は、好んで犠牲になっているわけではない。 彼らに見捨てられた患者の助けを求める声に対して、応えられるのが我々しかいないから、その役目を引き受けるのである。 大学に残るというのは、そういうことである。 真に仁術たる医学は、ここにある。
医学の専門家でない読者や、医学科三年生以下の学生のために、まず糖尿病性ケトアシドーシスとは何かを述べる。 糖尿病とは、何らかの事情により、インスリンが機能的に不足する疾患である。 「機能的に不足」というのは、実際にインスリンの量が不足している場合だけでなく、 インスリンの量は充分であるのに、細胞がインスリンに反応しなくなっている場合も含む、という意味である。 インスリンは、おおまかにいえば「細胞にブドウ糖を利用させる作用を持つホルモン」であるから、 これが機能的に不足すれば、細胞内ではブドウ糖が不足する。 なお、神経細胞は例外的にインスリン非依存的にブドウ糖を利用するため、糖尿病においては神経細胞にブドウ糖が蓄積し、 ソルビトールを経てフルクトースに変換されて過剰に蓄積し、浸透圧が異常に上昇して細胞変性を来すことがある。 このソルビトールへの変換を阻害することで神経細胞を保護するのが、アルドース還元酵素阻害薬である。
さて、糖尿病患者においては、多くの細胞はブドウ糖欠乏状態にあるため、肝臓などではエネルギー源として脂肪酸が動員される。 すなわちβ酸化が行われるわけであるが、この産物であるアセチル CoA が過剰になると、その一部はケトン体に変換される。 ケトン体とは、具体的にはアセト酢酸, ヒドロキシ酪酸, およびアセトンである。 このうち前二者は多くの細胞でエネルギー源として利用されるが、酸性であるため、ケトン体が増加すると血液の pH は低下する。 これが糖尿病性ケトアシドーシスである。
糖尿病性ケトアシドーシスの治療は、科学的根拠に基づく糖尿病診療ガイドライン 2013 によれば、生理食塩水の大量輸液およびインスリンの少量持続静注が基本である。 ここで当然に生じるべき疑問は、なぜ生理食塩水なのか、ということである。 生理食塩水には、血液に比べて多量のナトリウムが含まれているから、多量の生理食塩水輸液は高ナトリウム血症を来す恐れがある。 また、ナトリウム輸液といえば、低ナトリウム血症に対して過度に急速な補正を行った際には橋中心性髄鞘崩壊症が生じ得る、という話が想起される。 しかし等張な生理食塩水であれば、脳浮腫が起こることはあっても橋中心性髄鞘崩壊症は稀であるらしく、実際には高ナトリウム血症だけ警戒すれば良いらしい。
生理食塩水ではなくリンゲル液を使ってはどうか、というのは自然な発想である。 インターネット上の無責任な言論の中には、リンゲル液に緩衝液として含まれる乳酸や酢酸が悪影響を及ぼす可能性を懸念するものがある。 しかし、これは全く的外れであって、重炭酸リンゲル液を使えば済むだけのことである。
前述のガイドラインによれば、糖尿病性ケトアシドーシスにおいては、発症までに通常、体重の 10 % 程度の水と、10 mEq/kg 程度のナトリウムが失われているらしい。 体重 60 kg とすれば、6 L の水と 600 mEq のナトリウムであるが、生理食塩水は 154 mEq/L であるから、6 L の生理食塩水には 924 mEq のナトリウムが含まれる。 すなわち、本当に生理食塩水だけ輸液したならば、ナトリウム過剰となる恐れがある。 そこでガイドラインをよく読むと、血糖が 250-300 mg/dL となった頃には 5-10 % ブドウ糖を含むナトリウム含有維持輸液に切り換えよ、とある。
要するにガイドラインは、電解質を適切にモニタリングしながら、高ナトリウム血症を来さないように注意しつつ、 適切な輸液を行え、といっているのである。 リンゲル液でなく生理食塩水を使うのは、多くの場合に患者はナトリウム欠乏状態にあるから、というだけのことなのだ。
なぜか、医学研究では「有意差」という言葉が好んで用いられる。 しかも恐ろしいことに、この言葉を使っている者の多くは、「有意差」という言葉の統計学的意味をよく理解していないように思われる。 今は臨床志向が強い学生であっても、たぶん就職すれば上司の命によって論文を読み、あるいは学位取得を目的として大学院に進み、 カンファレンス等で「有意差が云々」と発表することになるのであろうから、こうした統計学の基礎を理解していくことは重要である。
臨床試験において、新薬 A の有効性を確認するためには、どうするか。 二重盲検を行い、一つの群には新薬 A を、もう一つの群には従来薬 B を、投与し、転帰をみるのが普通である。 結果として「『どちらの群も、転帰は同じようなものである』と解釈するのは無理がある」ということになれば、「有意差があった」ということになる。 たとえば、致死率の高い疾患について、A 投与群における致死率が PA ± σA, B 投与群における致死率が PB ± σB と推定されたとしよう。 この σA や σB をどのように推定するか、という問題にも非常に重要で深淵な議論があるのだが、 今回の主題からは逸れるので割愛する。
簡便な方法として正規分布を仮定し、数学的な議論を省略して結論を述べれば A 群と B 群の致死率の差は (PB - PA) ± σ, ただし σ = (PA2 + PB2)1/2 である。 もし PA > PB であれば A が B より優れているとは考えにくいので論外であるから、 ここでは PA < PB の場合のみ考える。 統計学の詳細な議論は省略するが、正規分布を仮定する場合には 「実際には両者の致死率に差異がないにもかかわらず、たまたま統計的なばらつきによって PB - PA > 3 σ となる確率は 0.1 % 程度であるから、この場合、 「『どちらの群も同じ致死率である』と解釈するのは無理がある」といえる。すなわち「有意差があった」ということになる。
ここでは PB - PA の値自体は評価されていない点が問題である。 たとえば PB = 0.200, P A = 0.199 であっても、σ < 0.001 であれば「有意差あり」なのである。 だいたい研究論文には医療経済の概念が欠如しているから、有意差さえあれば、その差の大きさはあまり議論されないことが多い。
一方で、「二つの群に差異がない」ことを主張する際に、「有意差がない」という表現する人が稀にいるが、これは誤りである。 いい加減な実験や調査で、σの値が大きければ、実際には両群に大きな差があったとしても、統計的には「有意差なし」となるのである。 もし「両群に差がない」ことを主張したいのであれば、適当な正の値 d を設定して「『両群の差は d 以上である』と解釈するのは無理がある」ことを示す必要がある。 すなわち、先の例でいえば |PA - PB| < d - 3 σ であることが示されれば、 信頼度 99.9 % で、両群の差は d 未満である。
しかし不思議なことに、このように「両群に差がない」ことを示す論文は、世の中に多くない。 これが、実験的に「差がない」ことを示すのが困難な例が多いためなのか、 それとも「差がない」という主張の学術的価値が、しばしば不当に低く評価されるためであるのかは、不明である。 冷静に科学の目でみれば、「理論的には差が生じると予想される二群の間に、実際には差が生じなかった」ということを証明するのは、 「理論的に差が生じると予想された二群の間に、実際に差が生じた」という論文よりも、より重要であるように思われる。
富山の医療は、危機的な状況にある。 県下唯一の医学部である富山大学医学部からは、毎年 100 名程度の卒業生が輩出される一方、 県内で初期臨床研修を受ける者は、県外の大学出身者も含めて五十余名であるという。 しかも、その大半は富山大学出身者または富山県出身者であり、特に縁のない者は十名にも満たないらしい。 もちろん、富山県は医師で溢れているわけではなく、慢性的に人手不足であるから、 県厚生部医務課などが中心となって、医師確保に苦心している。
こうした状況は、富山県に限らず、福井県や鹿児島県をはじめとして、多くの地方で共通しているものと思われる。 従って、医学部編入においても、少なからぬ地方大学は、臨床医として地元で活躍してくれそうな人材を優先して選ぶのではないか。 そうした中で富山大学は、別の記事に書いたように、病理志望を明言する私に対し 「研究の道に進むのは結構なことであるが、今から病理と決めてかからずに、免疫学とか、ウイルス学とか、幅広くみていくと良いだろう」と述べた。 他大学の面接で、基礎研究志向であることを述べては否定され続けてきた私にとって、これは、まったく予想もつかない言葉であった。 この一事が、私の進路を決めたといって良い。
名古屋大学の諸君は、いわゆる関連病院を見学して、熱烈な勧誘を受け、あたかも自分が必要とされているかのように錯覚していることだろう。 しかし、彼らが必要としているのは単なる人手であって、別に、どの学生であろうと、同じことなのである。 実際、彼らには全ての学生が同じ顔にみえているのであって、それ故に、部活動は何をやっているか、などという、 およそ医学とは何の関係もない質問によって、個々の学生を区別しているのである。
富山大学は、新しい風を必要としている。 編入試験合格者の顔ぶれをみても、およそ医学や生物学とは関係のない、異色の経歴の持ち主を敢えて選んでいるのは、富山大学ぐらいのものである。 富山はやがて、日本の医学の中心となるであろう。 どうせ就職するなら、本当に自分を必要としてくれる所に、行きたいとは思わないか。 自分にしかできない仕事がある場所で、働きたいとは思わないか。
私は、医学部編入試験の際に富山大学を受験した、ということを除けば、特に富山に地縁も血縁もない。 しかし、初期臨床研修を受ける場所として、富山は魅力的な土地であると感じている。
我々は、東海地方においては無敵の名古屋大学医学部医学科であるから、おとなしく東海地方で就職すれば、まず間違いなく、一生、安泰である。 平均年収 1100 万円以上が保証され、社会的ステータスを持ち、日々の診療を「激務だ」「時給換算では安い」などとぼやきながら、 時給一万円やら時給二万円やらのアルバイトをして高給外車を乗りまわす将来が、保証されている。
諸君は、いったい、いつから、そのような卑屈な精神の持ち主になってしまったのか。 「人の命を救う崇高な仕事である」と称してはいるが、実は、その治療法を編み出したのは赤の他人であって、諸君は、その真似をしているに過ぎない。 社会一般と比較して考えれば、これは到底、1100 万円に値する仕事ではないのだが、 しかし確固たる既得権益の構造があるために、この経済的恩恵が保証されているのである。
私は、臨床実習の際に、ある医師から「医学は頭を使うが、医療はあまり頭を使わない」という指摘をいただいた。 たぶん、それは正しく、診察方法、診断の手順、治療の手順を修得することに特別な学識は必要ない。 なぜか日本では、医師になるには高等学校の物理や数学で良い成績を修める必要があるらしいが、 実際には、そのような能力は、医療においてほとんど必要ない。 本当は医師になるのにアタマはほとんど必要なく、高卒の若者に技能だけ教え込めば必要充分なのであるが、 某業界団体などを中心とした磐石な利権構造があるために、受験戦争という無意味な競争を戦い抜いた「勝者」にのみ、医師たる資格が賦与されているに過ぎない。 諸君は、そうした「大人の事情」による利権構造に便乗し、せっかく鍛えた明晰な頭脳を使うことを放棄して、 ただ、名古屋大学関連病院ネットワークという巨大な組織の中で一兵卒として、人生を送ろうとしているわけである。
それに満足する者は、関連病院なる仕組みの中で、ヌクヌクと暮らしていけば良い。 私はそういう連中を軽蔑しているし、そういう連中で埋まった名大ネットワークが、やがて腐り、倒壊することや、既にその兆しが表れていることを知っているが、 わざわざ自分の人生を費やしてまで、彼らを助けてやろうとは思っていない。 たぶん、彼らも私を必要とは思っておらず、もし私が名古屋大学に就職したならば、いずれ教授の怒りを買って追放されるであろう。
新しい医学、医療のあり方を開拓していくには、名古屋大学のような巨大な組織では、困難なのである。 富山大学のような地方大学であれば、かえって、その規模の小ささゆえにコマワリも効くというものであろう。 そして富山大学は、開学以来、「知の東西融合」を唱え、独自の路線を歩む崇高な理念を掲げ、 そして既存の枠組みにとらわれず広く人材を求める懐の広さを有している。
大船を降りるには勇気がいるものだが、降りてみれば、意外と、小船の方が快適なものである。
思うところあり、先日、富山駅前の某ホテルで開催された富山県臨床研修病院合同説明会に参加した。 私は、病理医志望であることや、既に意中の病院があることを明言した上で、富山大学や、いくつかの市中病院のブースで説明を受けた。 合同説明会は 16 時から 20 時まで行われ、その後に帰宅することは困難であったため、 当日は富山で一泊し、翌日に富山市内を散策してから特急「しらさぎ」で約四時間をかけて、名古屋に戻った。
富山駅の近くには、富岩運河環水公園 (ふがんうんがかんすいこうえん) という公園があり、ここから富山港まで、運河を下る遊覧船が運行されている。 私は、こうした乗り物が好きなので、せっかくだからと、これに乗船してみた。 この遊覧船はボランティアによるガイドつきであり、そのガイドが言うには、この船は屋根に太陽光発電パネルを装備しており、 電気モーターで動くために二酸化炭素を排出せず、環境負荷が軽いのだという。 もちろん、これは詭弁であり、太陽光パネルだけでは動力をまかなうことができないから、実際には商用電源に大きく依存している。 太陽光パネルは製造時に莫大な二酸化炭素を放出するし、商用電源は火力発電所において化石燃料を大量消費している。 すなわち、この船は「この場では」二酸化炭素を放出していないが、「別の場所で」大量の二酸化炭素を放出しているのであって、特に環境負荷が軽いわけではない。 しかしながら、こうした欺瞞に満ちた説明に対して、ナルホド、といわんばかりに頷いているツアー客が少なからずいたために、 私の心中では怒りが沸々とわいてきたが、さすがに、それを公然と口にするような大人気ない振舞いは、慎んだ。
私は、無計画にも帰りの特急の時刻を確認していなかったため、「しらさぎ」は 14 時 03 分の次が 16 時 11 分であるにもかかわらず、 14 時 20 分頃に富山駅に到着してしまった。 そこで、近くを流れる神通川を眺めて待ち時間を過ごすことにした。 富山の医師として、越中の苦楽を司ってきた神通川をよくみておくことは重要である、と考えたのである。 神通川には「神通大橋」という大きな橋がかけられており、これは富山駅から徒歩 10 分ほどの地点にある。 私は、これを東から西に渡り、また西から東に渡り、富山駅に戻った。 神通川は、私が想像していたよりも、雄大であった。 この河は古来、氾濫を繰り返してきたらしく、明治 32 年から 36 年にかけて流れを大幅に変える治水工事が行われるまで、幾度となく周辺の集落を襲ってきたらしい。 その治水工事について記した表示板が神通大橋西詰にあるのだが、そこに「明治三十二年 (一八八九年)」と書かれていたことが、いたく印象的であった。
医師国家試験に合格するには、膨大な知識が必要である、というようなことが、世間では言われている。 私は医師国家試験の問題をほとんどみたことがないので、この噂が正しいかどうかは、知らない。 しかし周囲の学生や研修医らの言動をみるに、医師になるためには、膨大な臨床医学知識をひたすら暗記する勉強法が主流であるように思われる。
たとえば、肺腺癌が縦隔リンパ節に転移していることを示唆する造影 CT の画像をみたとする。 このとき、肺腺癌の組織像や、リンパ節の組織学的構造あるいは免疫系における働きについて、頭の片隅にでも意識しながら画像をみている学生が、一体、どれだけ、いるだろうか。 「CT 上では明らかなリンパ節転移は認められない」ことと「リンパ節転移がない」ことの違い、あるいは 「CT 所見としてリンパ節転移が疑われる」ことと「リンパ節転移が認められる」ことの違いを、どれだけ意識して画像をみているだろうか。 「シスプラチンとエトポシドの併用化学療法」と聴いて、どれだけの学生が、その作用機序に思いを馳せるだろうか。 もし、これらをよく認識しないままに漫然とカルテをみているとすれば、彼らはこれまで、何のために病理学や薬理学といった基礎医学を学んできたのだろうか。 もちろん、一部の優秀な学生は、これらを常に意識して診断し、勉強しているであろう。 しかし「国家試験や臨床で直ちに役立つ知識」にばかり飛びつく一部の者については、ある種の疑念を禁じ得ない。
工学部出身の私からみれば、こうした勉強法は明らかに異常であるが、現在の医学教育においては、 近視眼的な知識をひたすら積み重ねていった者こそが高く評価されるのかもしれない。 ひょっとすると、医師の中にも、エトポシドが何をする薬なのか理解しないままに、「抗癌剤である」ぐらいの認識で患者に投与している者がいるかもしれない。
四年前、大学院を辞めることを決意した際に、某教授から言われた次のようなことが、強く印象に残っている。
現代では、大学としては、入学させた学生は原則として卒業させなければならない。 そのため、あまり優秀でない学生が不当に高く評価されているようにみえる場面は、確かにあるかもしれない。 しかし、卒業してしまえば、キチンとやってきた者と、そうでない者の間には明確な実力の差があり、そこは正当に評価される。 学生時代に受ける評価など、とるに足らない問題である。
医学の世界において、私が、どちら側の学生に分類されるのかは、知らない。 ただ、信じる道を行くのみである。
言葉遣いといっても、敬語を使えとか、丁寧に話せとか、そういう低レベルの話ではない。
患者の生活歴などに言及する際に、たとえば `your husband' とか `your wife' という意味のことを言いたくなることがある。 この場合、日本語では、どのように表現するのが適切であろうか。 たぶん、多くの医師が用いているのは「ご主人」とか「奥様」とかいう表現であろう。 しかし「主人」という言葉は、英語でいう `master' の意味であって、「妻は夫の所有物である」という概念が普通であった時代の名残りであると考えられる。 これは現代では不適切な表現であり、実際、一部の女性は「私は夫の奴隷ではない」と言って、この表現を嫌うようである。 同様に「奥様」も、貴族の妻が屋敷の奥に住んで表には出てこなかった時代と関係すると推定され、適切ではない。 私自身も、独身ではあるが、仮に将来結婚したとして、妻のことを「奥様」などと呼ばれれば、あまり愉快な気持ちはしないであろう。 従って、私も他人に対し、なるべく、「ご主人」「奥様」などとは言いたくない。
そこで中立的な表現を探すと「夫」「妻」「配偶者」などが思い当たるが、口語においては前二者は謙譲語に類する使い方をされるため、 「あなたの夫は……」などと表現するのは失礼である。 そうしてみると、「あなたの配偶者は……」という表現が残るのだが、これは実に不自然な日本語である。
このように、現代の日本語では `husband' や `wife' を意味する適切な表現が存在しないように思われる。 いっそのこと、「あなたのワイフは……」と言ってしまう手もあるかもしれないが、これでは、少しばかり卑猥な印象を受ける人もいるかもしれない。 仕方がないので、私は、不自然ではあるが「あなたの配偶者は……」という表現を、基本的には用いようと思っている。 それで相手が理解できずに「エッ!?」というような顔をしたら、そこで改めて「奥様は……」と言い直せば良いのではないだろうか。
他に、いささか悩ましいのが、患者の氏名を確認する際の表現である。 「確認のため、お名前をフルネームで伺ってもよろしいでしょうか」などと言えば無難ではあるのだが、 私は「お名前をフルネームで頂戴してもよろしいでしょうか」という表現を好んでいる。 インターネット上などに溢れている、主に新社会人などに向けたマナー講座、敬語講座の類では、どうやら 「お名前を頂戴する」というのは不適切な表現、誤った敬語として有名であるらしい。 というのも、「頂戴する」というのは「『物品を』もらう」という意味であって、「教えてもらう」という意味ではない、ということらしい。
ひょっとすると、伝統的な日本語としては、「名前を頂戴する」というのは誤りなのかもしれない。 しかし英語では `May I have your name?' というのは、ビジネスの場において相手の名を問う普通の表現である。 もちろん `May I ask your name?' という表現もあるが、これは、 「ご迷惑でなかったら、お名前を教えていただいてもよろしいでしょうか?」とでもいうような、とても丁重な質問である。 従って、医師が患者に対し診察上の必要な質問として氏名を問うには、`May I ask your name?' では丁寧に過ぎ、かえって不自然である。 そこで、自然な表現である `May I have your name?' を日本語に訳せば「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」となるだろう。
もちろん、英国における自然な表現を日本語に訳したものが、日本においても同様に適切であるとは限らない。 しかし、婉曲表現、比喩表現は日本人が得意とし好むものである。 英国人が `May I have...' と婉曲に表現している以上、それに対抗する意味で、 日本語でも「頂戴してもよろしいでしょうか」と表現するのは、この国際化の時代においては妥当であろう。
医学部の教授などと話をすると、しばしば、「研究志向」とか「リサーチマインド」とかいうものが重要であると説かれる。 これは、臨床医として働くにしても、常に学問としての医学を探求する姿勢を保つことが必要だ、という意味である。 そうした探究心を持つ医師がいなければ、医学の発展はなく、医療の改善もない。 そのため、臨床医であっても、一定の期間は学術研究に従事し、博士の学位を取得することが推奨されている。 しかし、「博士 (医学)」の学位は、ほとんどの大学において審査基準が緩いため、 一定の期間、臨床の片手間に実験を行って、それなりの実験結果が出て、一応は論文になっていれば、学位の取得は認められることが多いという。 すなわち、実験作業さえ適度に行えば、学術的探究心が乏しい者であっても博士の学位を得られるのが現状ではあるまいか。
名古屋大学医学部の学生の大半は、興味が専ら臨床に向いており、学問としての医学に対する関心は希薄な例が多いように感じられる。 その結果、「臨床的にはどうすれば良いか」といった小手先の技術にばかり注目し、 その背景にある深淵な学術的理論的根拠には思いが及ばないことが多いのではないか。 過去にも何度か書いたが、現在の医学部の多くでは「なぜ?と疑問を持ちなさい」という教育はなされていないらしく、 その一方で教授陣は「学術的探究心」を求めるという矛盾した状況にあり、教育理念が欠如しているのではないかと疑われる。
2 月 11 日に「医療」と「地域医療」は同義なのではないか、ということを書いた。 しかし近頃になって、「医療」のうち、学術的探究心を重視せず、臨床診療に特化したものを「地域医療」と呼ぶのではないか、と思うようになった。 実際、少数の医師で多くの患者に対応しなければならない、いわゆる野戦病院においては、深淵な医学の世界に思いを馳せる余裕はなく、 いかに速く正確に診察し治療するか、という技術に特化した医師が求められるのであろう。 現在の日本においては、そうした医師が地域の医療サービスを支えているのであって、そうした臨床特化型の地域医療医は、確かに必要である。
このような事情を考えれば、学生の多くが既に臨床特化の姿勢をみせていることは、日本の医療を支えるという観点からは、妥当であるかもしれない。 しかし研究医側の立場からいえば、こうした学生に対しては、ある種の不信感を抱かざるを得ない。 というのも、医師の世界においては、研究よりも臨床の方が圧倒的に儲かるのである。 なぜならば、詳しい仕組みは知らないのだが、臨床医には時給一万円とか、場合によっては時給二万円とか、 世間を馬鹿にしているとしか思えないような高給の「アルバイト」があるらしいからである。
臨床特化の学生は、表向きは「私は研究なんて、そんな大層なことはできないんですぅ」とか、 「患者さんと直に接して、治してあげたいんですぅ」とか殊勝なことを言っているが、 本心では、この破格の収入に惹かれているのではないか。
以前にも書いたが、おおまかにいえば、放射線診断は「どういう疾患なのかわからない患者」に対して 「たぶん、この疾患である」と推定することに長けている。 これに対し病理診断、正確には組織学的診断は「どういう疾患か概ね推定できている患者」に対して 「その疾患で間違いない」と保証することに長けている。 その意味では、診断や治療の経過を左右する力は放射線診断の方が強く、病理診断は多くの場合、臨床診断を再確認しているに過ぎない。
素人には、いかなる疾患なのかわからない患者に対し、少しばかり「ムムム…」と考えた後に 「この疾患であろう」と診断を下す放射線科医の姿は、実にカッコ良くみえるであろう。 これは、医療面接と身体診察だけで「この患者は○○病である」と言い当てる総合診療医のカッコ良さと同種のものである。 しかし冷静に、専門的な視点から考えれば、放射線科医や総合診療医は、統計的な情報に大きく依存して、 「いかにもありそうな疾患」を言っているのであるから、稀な疾患や、非定型的な所見を呈する患者を診断することは、比較的、不得手であろう。
たとえば、身体診察と単純 CT の所見から、確信を持って「肝細胞癌」という診断を下した医師がいるとすれば、その者は、神でなければ藪医者である。 医学的には、身体診察と単純 CT では、肝細胞癌と転移性肝癌とは鑑別不可能だからである。 血液検査や造影 CT の所見も併せてみて「肝細胞癌」と診断する医者は、ふつうである。 いわゆる腫瘍マーカーと造影 CT を併せれば、肝細胞癌と転移性肝癌は、かなりの精度で鑑別できるからである。 しかし、この際に「これは明らかに肝細胞癌だ。絶対だ。間違いない。」とまで言い切った者がいるとすれば、その者は、たぶん医者ではなく、 国家試験対策ばかり勉強している蒙昧な学生である。 腫瘍マーカーや造影 CT は、感度・特異度がだいぶ高いとはいえ、非定型的な検査所見を示す患者もいるため、「絶対」とまでは言えないはずだからである。 「間違いない」などと断言するには、病理診断が不可欠である。
臨床的には、患者の病状は常に変化するし、生検は侵襲性が強いものであるから、病理診断をせずに、 すなわち確信までは持たない状況で診断を確定し、治療せねばならぬことも少なくない。 その場合には、臨床医は統計的な情報や自身の経験を頼りに、エイヤッと診断しているわけであり、 いわば、最後の一歩は目をつぶって駆け抜けているわけである。 この駆け抜ける勇気は臨床医にとって重要な資質であるが、時に、誤った方向に走ってしまうことも不可避である。 我々病理医の責務は、こうしてあらぬ方向に走り出した臨床医を制止し、不適切な治療から患者を守ることである。
上述のように、臨床医に対し「もし誤った方向に走り出した時は、私が責任を持って止めてやる」と保証し、 臨床医が安心して診断できる環境を作ることこそが、病理医の職務である。 それを実現するためには、病理医は検鏡室にヒキコモって標本だけをみているわけにはいかず、 臨床現場を知り、臨床医との綿密なコミュニケーションを確保する必要がある。 将来、病理医たらんとする我々は、初期臨床研修においても、そうした視点を常に保つべきであろう。
Positron Emission Tomography (PET) は、β+ 壊変する核種によって標識した薬剤が集積する部位を調べる核医学検査である。 すなわち、薬剤に含まれる放射性同位元素が壊変時に陽電子 (positron) を放出し、この陽電子は短い距離を飛んだ後に電子と対消滅を起こす。 このとき、511 keV の二つのγ線が生成され、これらは概ね 180 度の方向に飛んでいく。 従って、向かい合う二つのγ線検出器が同時に 511 keV のγ線を検出した場合、両者を結ぶ直線上でβ+壊変が起こったと推定される。 γ線は光速で移動するから、この直線上のどこで壊変が起こったかを知ることは、検出器の時間分解能の制約のため不可能である。
PET の空間分解能は 1 mm 程度が限界であるため、1 cm 程度より小さな病変を検出することは極めて困難であるとされる。 この空間分解能の制約は、概ね二つの原因に依る。 一つは、陽電子の飛程が 0.1 mm ないし 0.5 mm 程度あるために、壊変が起こった部位と対消滅が起こる部位がずれることである。 もう一つは、消滅γ線が厳密には 180 度の方向に飛ばないことであり、こちらの方が分解能への影響は大きい。
さて、問題は、既知の腫瘤性病変の性状を知る目的で PET の施行を検討した際に、 病変が 5 mm 程度と小さいことを理由に PET を行わない、という判断が妥当か、という問題である。 通説では、「1 cm 程度より小さな病変は PET では検出できない」ということを根拠に、PET の適応外と考えるらしい。 確かに、悪性腫瘍の転移を検索する目的の PET であるならば、その判断は正しい。 しかし、既知の腫瘤性病変の性状評価が目的であるならば、はたして、空間分解能は問題になるだろうか。
「1 cm 程度より小さな病変は PET では検出できない」というのは、 「実際には高集積していないのに、たまたま統計的なゆらぎによって高信号になった部分」と 「本当に高集積しているから、然るべき結果として高信号になった部分」とを鑑別することが難しい、という意味である。 これは、「実際に高集積していても、高信号にならない」という意味ではない。 なぜならば、病変が 5 mm もあるならば、これは PET の分解能よりは大きいのであるから、はっきりとした高信号にみえるはずなのである。
さらにいえば、病変が特に小さな、たとえば 0.5 mm 程度の腫瘤であったとしても、適切な統計的処理を行えば、それを病変として認識できる可能性はある。 というのも、このような小さな高集積領域は PET 画像上では「1 mm 程度の広がりを持ったやや高集積の領域」としてみえるのであって、 「周囲と同程度にしか集積していない領域」として写るわけではない。 実際、近年では「不確定性原理の壁」を越えた光学顕微鏡が開発されており、統計処理によって、 原理的には分解能をいくらでも小さくできることが、実証されたのである。
以上の考察から、適切な情報処理さえ行えば、0.5 mm 程度の腫瘤性病変の性状を PET によって調べることは、充分に可能であると考えられる。
臨床医学において、しばしば出鱈目な使い方をされる用語の一つに「鑑別診断」がある。 少なくとも名古屋大学医学部医学科では、多くの学生が「鑑別診断を挙げる」などという表現を用いる。 たとえば、患者の病歴や身体診察所見に基づいて「鑑別診断を挙げ」て、さらに必要な検査について考える、という具合である。 この場合、彼らは「鑑別すべき疾患」という意味で「鑑別診断」という語を用いているのだろうが、それは誤用である。 これが全国的に行われている誤用なのか、それとも名古屋大学の方言なのかは、知らない。
医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば、「診断」とは「面接・診察・検査などによって得られる所見に基づいてなされる疾病・病勢・予後などに関する医学的結論」をいう。 そして「鑑別診断」とは「ある症候の原因となっている疾患を, 類似した他の疾患と識別すること」である。 すなわち、他の疾患との鑑別に重点をおいて診断することを「鑑別診断」というのであるから、鑑別診断は「挙げる」ものではなく「行なう」ものである。 上述の例でいえば、患者の病歴や身体診察所見により「鑑別すべき疾患を挙げ」、さらに必要な検査を行うことで「鑑別診断する」のが正しい。
The New England Journal of Medicine の Case Records では、`the value of liver function' などの不適切な表現が慣習的に用いられている一方で、 `differential diagnosis' については、適切に使用されている。 すなわち、鑑別すべき疾患を列挙した上で、論理的に診断を行うことまで含めて `differential diagnosis' としているのである。この点は、さすがにハーバードである。
8 月 26 日に書いたように、私は今のところ、初期臨床研修を受ける病院として北陸の某新設大学を筆頭候補に考えている。 こうした地方大学病院は、名古屋大学などに比べると、医療機材が比較的乏しく、人が少ないことが弱点であろう。 しかし、少なくとも初期臨床研修に限っていえば、医療機材の良し悪しは、それほど重要な問題ではないと思われる。 もちろん、CT 装置も MRI 装置も持っていない、などという病院はいかがなものかと思うが、 CT 装置が 64 列か 320 列か、などという違いは、研修の質にはほとんど関係ないであろう。
だが、人が少ない、という点は、いささか気にはなる。大学病院の長所の一つは、学生がいる、ということである。 たとえば、研修医と学生の合同勉強会としてthe New England Journal of Medicineに連載されている Case Records of the Massachusetts General Hospital の検討会などを行えば、双方にとって大いに勉強になるであろう。 ここで重要なのは、エラい先生方に監督し教導してもらうのではなく、あくまで研修医や学生といった若手が主体となって勉強会を行う、ということである。 教えてもらうのではなく自ら学ぶ、という姿勢の欠如こそが、現在の医学部教育の重大な問題点である。
問題は、地方大学において、こうした自主勉強会に参加し積極的に討論する意欲的な学生や研修医が、どれだけいるのか、ということである。 ひょっとすると、中途半端な名門大学よりも地方大学の方が、学問に対する情熱溢れる学生が多いのかもしれないし、 逆に、意欲のある学生は金沢大学などの近場の名門に抜けて行ってしまっているのかもしれない。 しかし、いずれにせよ、名古屋大学の惨状を思えば、それより酷いということは、あるまい。
昨年 11 月 3 日に、白衣で食堂を訪れる不衛生な医療関係者の話を書いた。 当時、私は、名古屋大学病院の職員が衛生観念を欠いていることを指摘したつもりであった。 しかし複数の大学病院を見学して気づいたのは、どうやら名古屋大学は相対的にみれば特別に水準が低いわけではなく、 むしろ日本の医療関係者全体が低レベルなだけかもしれない、ということである。
北日本の某名門大学附属病院の正門には、恐るべき注意書きが掲示されていた。 「白衣での外出禁止」という意味のことが、書かれていたのである。 白衣で敷地外に出てはいけないなどということは世界の常識であるが、なぜ、わざわざ掲示をしてまで注意喚起しているのか。 おそらく、正門前の蕎麦屋あたりに白衣で入店した者が過去におり、大学に苦情が寄せられたのであろう。 他に、中国地方の名門でも、北陸の新設大学でも、白衣で食堂を訪れる職員は少なくなかった。
現実問題として、白衣を逐一着脱するのは面倒であるから、そのまま食堂に行きたくなる気持ちは、理解できないでもない。 しかし「白衣は汚い」ということは世界の常識であって、このこと自体を否定する医療関係者は、さすがに存在しないであろう。 それにも関わらず、「面倒だから」というだけの理由で白衣のまま食堂を訪れるのは、いかなる信念に基づく行動なのだろうか。 そのうち、「面倒だし、どうせ手袋をつけるのだから」と、手術前の手洗いを省略する外科医が現れるのではないかと、私は危惧している。
病院見学で病理部門を訪れた際には、私は教授らに対し、病理診断のあり方に対する疑問を提示したり、 病理学上の問題に対する意見を質問の形で投げかけてみたりした。 私について知ってもらうには、学問の話をするのが最も簡単であると考えたからである。 北の名門大学では、私は膠原病に関する疑問を発した。
膠原病は、結合組織など全身の組織に炎症を来す疾患群のことであり、 具体的には全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythematosus; SLE; 「全身性」をつけずに「紅斑性狼瘡」と呼ぶのが普通である) や皮膚筋炎などである。 これらは原因不明な上に根本的な治療法も知られておらず、糖質コルチコイドなどを用いた対症療法が治療の中心となる。 膠原病においてみられる炎症は、直接的には自己抗体によるものらしく、一種の自己免疫疾患であるとする意見が多いようである。 しかし、膠原病において完全に特異的な、あるいは感度が極めて高い自己抗体は知られていない。 SLE においては抗 DNA 抗体が有名ではあるが、SLE の全てがこれを伴うわけではないし、発症直後には抗 DNA 抗体陰性である例も少なくない。 すなわち、抗 DNA 抗体は SLE から結果的に生じると考えるべきであって、SLE の原因と考えるのは無理がある。
私の想像では、膠原病の本質は自己免疫疾患ではない。 たぶん、ゲノム上の何らかの異常が疾患の本質なのであって、自己抗体の産生は、その結果に過ぎない。 膠原病に癌がしばしば合併するのは、これが理由であって、単に慢性炎症から発癌しているわけではないと思われる。 では、ゲノムの異常は、どこの細胞で生じているのか。それは、私が今後、明らかにしていきたい課題の一つである。
もう一つの問題は、膠原病の分類である。 現行の分類、SLE だとか全身性硬化症だとかは、症状に基づく区分であって、これは疾患というよりは症候群というべきものである。 疾患の本質を正しく認識することで、合理的な分類を新たに構築することができれば、膠原病の根治療法の開発につながっていくであろう。
北日本の某名門大学附属病院の見学に行ってきた。これも、放射線部門と病理部門の見学である。 この大学病院における診療・研究・および教育体制は非常に素晴らしく、特に病理部門の見学においては、 ここは日本で最も優れた病院なのではないかと思ったほどである。 どのように素晴らしいのか、ぜひここで紹介したいのだが、当事者がウェブサイト等で宣伝していないので、 部外者である私が勝手に言いふらすのも憚られるから、詳細は割愛する。
しかし自分の進路、という観点からは、 1) 北陸の地方新設大学 2) 北の名門大学 3) 名古屋大学 4) 中国の名門大学 の順番で、現時点では考えている。
地方大学の弱点は、人が少ない、ということであろう。学問は一人で行うものではないから、この弱点は、意外と、重大である。 しかし、そうした環境の中で孤軍奮闘する人々がいるのであって、また彼らは、その学問と志を受け継ぐ若い人材を必要としている。 私が行かなければ、一体、誰が行くというのか。
また、恵まれた環境、整った教育体制、名門のブランドが、はたして、本当に我々の未来を明るくしてくれるのかという疑問もある。 たとえば日本で最も優れた教育体制を誇る京都大学について考えれば、その卒業生の大半は、あまり大した人物になっていない。 極めて稀に、突然変異的に天才というべき卒業生、たとえば湯川や朝永のような傑物が現れるから勘違いされるだけであって、ほとんどの卒業生は、凡庸である。 むしろ、格下にみられがちな大阪大学の方が、優秀な人物を数多く輩出している。 と、いう話を、入学直後の 2002 年 4 月に、私は某教授から聴いた。
正直な気持ちを率直に述べれば、私は、上述のような考察とは全く無関係に、北陸の某地方大学に熱情を寄せている。 三年前、私が大学院を中退し、人生の路頭に迷い、ほとんど全てを諦めていた時に、あたたかい言葉をかけ、私を受け入れることを表明してくれたのは、あの大学であった。 もし、彼らが私を必要としてくれるのであれば、どうして、それに応えないという選択があろうか。
昨日の記事でプラセボ効果に言及したが、この「プラセボ効果」については 通常の医学教育ではあまり詳しく扱われないようにも思われるので、ここに概説する。 なお、プラセボ効果については私が三年生の頃、某所における学生の集まりで、漢方薬とプラセボ効果の関連という観点から調べて発表したことがある。 その時の発表スライドの草稿は、私が実名で書いているウェブサイトに置いた。 本記事の一部は、そのスライドからの転載である。
「プラセボ効果」の定義は、人によってやや異なるが、Clinics in Dermatology, 31, 86-91 (2013). は、広義のプラセボ効果についてのレビューである。 ここではプラセボ効果は、1) 「薬を飲んだから治るはずだ」という思い込みの効果 2) 本当の薬を一定期間投与した後に偽薬に切り換えても効果が生じる、というもの 3) 錠剤の色や形状などによって効果が変化する、というもの の 3 通りに分類される。狭義では 1) のうち、患者側の思いこみによる効果に限定して「プラセボ効果」と呼ぶこともある。
プラセボ効果として歴史的に劇的であったのは、1950 年代に行われた、狭心症に対する内胸動脈結紮術である。 The American Journal of Cardiology, 5, 483-486 (1960). および The New England Journal of Medicine, 260, 1115-1118 (1959). に、その内容が記されている。 これは、内胸動脈を結紮することで冠状動脈の血流が増え、狭心症の自覚症状が軽減される、という理屈であったが、 実際には、開胸だけして結紮を行わずに、そのまま閉胸した場合でも同様の効果が得られた。 時に、これを「プラセボ効果により狭心症が治った」と表現されることがあるが、これは誤りである。 上述の論文によれば、結紮を行った場合でも行わない場合でも、心電図上では狭心症の改善は認められず、 自覚症状の改善は単なる心理的な要因による疼痛緩和であり、虚血は改善していない、とのことである。
Psychotherapy and Psychosomatics, 68, 221-225 (1999). や Psychosomatic Medicine, 72, 192-197 (2010). によれば、 乾癬にはプラセボ効果を利用した治療が有効である。 乾癬は、自己免疫的な機序により表皮のターンオーバーが亢進する疾患であるが、 これは催眠療法や偽薬を用いた治療で軽快することがある。 これは上述の狭心症の例とは異なり、実際に寛解している点が特徴である。 また、鎮痛剤に偽薬を混ぜた場合、偽薬でも高い鎮痛効果が得られることも知られている。
このように、詳細な機序は不明であるが、疼痛緩和や、たぶん免疫系の制御については、プラセボ効果は大きな影響を与えるらしい。 そこで、これを治療に応用しようとする考えもあるが、プラセボ効果を最大限に用いるためには患者を騙さねばならず、 インフォームド・コンセントの観点から倫理的な葛藤があり、現状ではあまり頻用されていない。
さて、昨日の IgA 腎症であるが、これも詳細な機序は不明であるが、たぶん乾癬と同様に自己免疫が関係する疾患である。 従って、たぶん、プラセボ効果は IgA 腎症に対しても大いに影響するであろう。 そこで口蓋扁桃摘出術という侵襲の大きな「治療」を行えば、狭心症に対する内胸動脈結紮術と同様に患者に強い思い込みを与え、 免疫系に変化をもたらし、症候の改善をもたらすことは充分に考えられる。 もし、そうであるならば、口蓋扁桃摘出術が IgA 腎症に「奏効」することは事実であるが、 それはプラセボ効果のおかげなのだから、もっと侵襲性の低い治療法で代替できるはずである。
先日、「中国の名門大学」の病理部門を見学した。 ここでも、「北陸の新設大学」と同様に、病理医は組織学的診断だけをやれば良いというものではない、 というメッセージをいただき、放射線医学に傾きかけていた気持ちが、ふたたび病理に戻りつつある。
標本の切り出しを見学した際に、IgA 腎症の治療のために口蓋扁桃を摘出するのは一般的である、という話を聴いて、驚いた。 ひょっとすると昨年、腎臓内科あたりの講義でも聴いたのかもしれないが、全く記憶にない。 ただし、これは主に日本だけで行われており、海外では一般的ではない、との話であったので、名古屋に戻ってから調べてみた。
私が腎臓病の教科書として用いている MEDSi『体液異常と腎臓の病態生理』第 2 版では、口蓋扁桃摘出術については記載がない。 朝倉書店『内科学』第 10 版では「古くから扁桃摘出が行われてきた. 近年, 長期予後でその効果がわが国より報告されたが, 海外から否定論文もあり世界的には普及していない.」とある。 また、MEDSi『ハリソン内科学』第 4 版では「小規模研究で, 特定の IgA 腎症患者群に対する有効性が報告されている。」となっている。 つまり、有効だとする報告はあるが、信憑性はイマイチだ、ということであるらしい。 なお、MEDSi は海外の教科書の翻訳物を多数、出版している。 臨床的な内容を基礎医学から切り離さずに、理論的に説明する名著が MEDSi には多いように思われる。 私の蔵書には他に南山堂と医学書院が多く、南江堂は比較的少ない。
IgA 腎症は、上気道炎などに続発して、IgA 抗体で形成される免疫複合体が腎糸球体に沈着するメサンギウム増殖性腎炎である。 IgA 抗体や免疫複合体が形成される機序は不明であるが、しばしば末期腎不全に至る恐ろしい疾患である。 口蓋扁桃摘出術は、口蓋扁桃における不適切あるいは過剰な免疫応答により IgA 抗体が産生されている、という推論に基づくものである。
私自身は、口蓋扁桃摘出術には違和感をおぼえる。 疾患の本質が口蓋扁桃の異常であるとは思われないし、IgA の異常産生が主として口蓋扁桃で行われているというわけでもなさそうだからである。 臨床的に口蓋扁桃が奏効したという報告については、二重盲検が不可能であることから、プラセボ効果を念頭に、慎重に解釈するべきである。
この日記は、私の医学界における軌跡を記録する目的であるので、あまり政治的なことを書くつもりはない。 しかし自分の進路に関係する範囲においては、政治問題や社会問題に言及しても、日記の趣旨を損なうことはないだろう。
私は、日本の風土や文化、すなわち the country of Japan は好きであるが、国家としての日本国, the nation of Japan, は嫌いである。 少なくとも戦後の日本は、外交においては米国追従が基本であり、国際的信頼を損ねているように思われる。 たとえば、前述のようにパレスチナ問題についてはシオニスト寄りの立場であるし、 21 世紀に入って米軍がアフガニスタンやイラクに侵攻した際には、積極的に米国を支持した。
若干、話が逸れるが、イラクでは 1991 年湾岸戦争の停戦後も、英米はイラク領空に「飛行禁止区域」なるものを一方的に設定した。 これはクルド人の保護などを名目にしてはいたが、国連決議すら経ていないものであり、何らの法的根拠も存在しない。 英米は、この空域を飛行するイラクの航空機を撃墜し、また金属加工工場を空爆するなどの軍事行動を継続したが、 日本をはじめとした諸外国は、これに対し非難や介入を行わなかった。 イラクが、いわゆる大量破壊兵器を保有しているのではないか、との疑惑を受けて国連の査察団を受け入れた後も、こうした攻撃は継続された。 国連査察団がイラク当局に対して偵察機の使用許可を求めた際も、イラク側は、英米による空爆が継続される限りは、 対空砲火で応戦せねばならず、国連機を誤射する恐れがあるから、事前に飛行計画を提出せよ、と要求した。 これは至極当然の反応であると思われるが、当時の日本のマスコミは、「イラクは査察に非協力的である」というような論調であった。
また、いわゆる北朝鮮による拉致問題では、「一時帰国」との約束であった五名の被害者を、北朝鮮に戻らせなかった。 これは「人道的配慮」であるが、それならば初めから「一時帰国」などと約束するべきではなかった。 また、国連安全保障理事会や日本国は、北朝鮮による人工衛星発射実験を「ミサイル発射実験」として非難しているが、 なぜか日本の H2A ロケットについては「弾道ミサイルの開発である」として批判されることはない。 ここには、何らの公正さも認められない。
このように、遺憾ながら日本国は、自分達の利潤のためには正義と公正さを放棄し、外国との公式な約束を平然と反故にするような国家なのである。
私は将来的には、インド共和国で働きたいと考えている。 インドの国内事情は惨憺たるものである。特に地方では、憲法で禁じられているカースト差別が未だに存続し、 性犯罪の被害者が私刑を受けるという理解不能な蛮行が蔓延している。 これが重大な問題であるということは、インドの指導者も一般大衆もよく認識しており、より良い国を作ろうと努めているが、 教育も産業も何もかも不足しているのが現状である。 そこで私は、科学者、教育者として、インドの未来を築く若者達の助けになりたい。
インドは長らく英国の植民地であったが、第二次世界大戦後に独立した。 この国は、独立以来、一貫して自主防衛、中立の立場を保っている。 極東軍事裁判、いわゆる東京裁判では、英米蘭仏など連合国の非人道的な行為を非難し、東條らの「人道に対する罪」を裁くのであれば ルーズベルトやチャーチルらも同罪である、という趣旨の主張をした。 独立直後で核兵器もなく、ともすれば植民地に逆戻りしかねない不安定な政情であったにもかかわらず、である。 また、核不拡散条約は、既に核兵器を保有している国の「保有する権利」を認めた上で、それ以外の国が新規に保有することを禁じている点について 不平等条約である、として批判し、これに加入せず、独自に核兵器の開発を行った。 イラク戦争の際も、ドイツやフランスが態度を決めかねている中で、率先して 「国連決議がない限りは、インドは軍を派遣せず、介入しない」と宣言した。
すなわちインドの外交姿勢は「筋を通す」ということで一貫している。
私は過日、中国地方の名門医学部附属病院についても、初期臨床研修先として検討するため、見学に訪れた。 こちらは、とりあえず放射線部門を見学し、初期臨床研修を担当する部署からの説明を受けた。
さすが名門であり、放射線部門では MRI や CT などの装置も先端的なものが豊富に揃えられており、指導医の数も多く、見事なものであった。 しかし、名古屋大学附属病院と較べて格段に良い環境であるとまでは思われなかった。 また某北陸地方の大学附属病院に較べると、診療科内の風通しの良さ、すなわち教授と他のスタッフの間の垣根の低さ等については、優れていないように感じられた。
初期臨床研修を担当する部署での説明の際に訊いてみたところ、この大学では初期臨床研修を終えた者のほとんど全ては、 同大学、または、いわゆる関連病院で後期研修を受けるのであり、他大学などに出ていく者は滅多にいない、とのことであった。 というよりも、他大学に転出するという発想がないらしく、「初期臨床研修後の進路はどうなっているか」という私の質問の意味を理解できないようであった。
一部の病院においては、研修医に限らず勤務医が異常な超過勤務を行っているという。 そうした病院は、研修医を「医師免許を有する、比較的安い労働力」として扱っているのであって、それは教育でも研修でもないように思われる。 私は、そういう病院では勤務したくないので、「研修医の超過勤務状況は、実際のところ、どうでしょうか」と問うてみた。 担当者は「社会人としての責任を持って云々」と言い、はっきりとは答えず、はぐらかされてしまった。 しかし、過労死の危険がある水準での超過勤務を、しかも事実上、超過勤務手当なしで行うのは、「社会人としての責任」の域を逸脱している。 すなわち、この担当者は研修に対する学生側の不安に対して無理解なのであって、あまり信頼できない印象を受けた。 これは、名古屋大学医学部附属病院卒後臨床研修・キャリア形成支援センターのセンター長らが、 我々に対し実に誠実に接してくださるのとは対照的である。
また、些細なことではあるかもしれないが、初期臨床研修の応募資格も気に入らない。 名古屋大学や北陸の某大学は「医師免許を既に取得しているが、初期臨床研修を終えていない者」の応募を認めているのに対し、 中国の名門では、少なくとも募集要項上は、次回の医師国家試験受験者に限定している。 すなわち、医師免許取得直後に初期臨床研修を行わず、先に大学院博士課程に進学した者が、その後に初期臨床研修を受ける、というようなあり方を否定しているのである。 こうしたキャリアパスの多様性を認めない狭量な大学を、私は、好かぬ。
結局、同じ牛尾であるならば、 敢えて名古屋を去りたいとは思われず、中国に行くよりは、初期臨床研修を終えるまで名古屋大学に残ろうと思う。
私は今月末に北の名門を見学する予定であるが、現時点では、研修先候補として 1) 北陸の新設大学 2) 名古屋大学 3) 北の名門 4) 中国の名門 の順位で考えている。