これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2013/11/19 十年前を振り返って

昨日の話の続きである。 京都大学時代のことを思い返して、つくづく、反省した。

工学部時代の私であれば、よほど退屈でつまらない授業であるならばともかく、 基本的には、授業中にも積極的に発言していた。 たとえ入門的な内容であっても、教員が我々に対し真摯に語りかけてくれる限りにおいては、 私も全力で応えたし、ましてや、最初から最後まで一言も発言しないなどとは考えられなかった。

最も印象に残っているのは、私が四年生の時、卒業要件の単位数を満足していなかったために受講した、 全学共通科目 (いわゆる一般教養) で二年生配当の「振動・波動論」である。 私にとっては熟知している内容の授業であったが、私は最前列に座って授業中にベラベラと発言した。 担当の教員は、年度末に定年退職する保健学科の方で、よく私の意を汲んでくれ、しばしば発言機会を与えてくれた。

たとえば、ばねの話をした時、「重りに加わる力は、位置 x の函数として F(x) のように表せるだろう」と 教員が言った時、私はすかさず「先生」と声を挙げ、 「どうして力は位置だけの函数で表せると考えられるのでしょうか。 たとえば、どういう経路を通ってその位置に辿り着いたかによって、力の大きさが変わっても良いのではないでしょうか」 と述べた。 京都大学では、こうした非常識な発言が否定されることはなく、むしろ推奨される。 教員は「なるほど。確かに加速度などによって力が変わることもあり得るが、 ここでは入門編として、位置だけの函数で表現できることにしよう」とおっしゃった。

さらに話が進み、「ばねの伸びが長くなるほど、重りに加わる力も大きくなる。では、どんどんばねを伸ばしていったら、どうなるか」 と先生はおっしゃりながら、チラリと私の方に視線を投げかけられた。 私は、先生の意図を汲み「壊れる」と述べた。 「そう、壊れる。つまり、力が伸びに比例するというのは、一定範囲における近似の話なのであって、 それが絶対の真理であるかのように誤解してはならない」というような話を、先生は続けたのである。

私は別に優等生ではないので、常に教員に対して協力的であったわけではない。 話がフーリエ変換に及び、三角波をフーリエ変換するとこのような格好になる、というような例が示された時のことである。 先生の書いた式では、三角波を表す式と、それをフーリエ変換した式とがイコールで結ばれていたため、私は 「先生、この式は、何か変です。左辺には微分不能な点があるのに、右辺は至るところで無限回微分可能ですから、 これはイコールのはずがありません。イコールではない何かのはずです」と述べた。 当時、私は四年生で、量子物理学について卒業論文を書いていたわけだから、 フーリエ変換におけるギブズの現象だとか、線形空間における距離だとかいうことは、一応は理解していたし、 なぜ先生がイコールで書いたのか、とか、厳密にはどういうことなのか、とか、 そういうことは全て理解していた。 理解した上で、半ば茶化すような、悪戯のような気持ちで、指摘したわけである。 先生も、たぶん、私が本当は理解していることを知っていたのだと思う。 その上で「なるほど、確かにこれは厳密にイコールであるとは考えにくい。しかし、ここは入門編ということで、 イコールではないかもしれないけれど似たような何かだということで、厳密な議論は省略していこう」と、おっしゃったのである。

実は、この講義には、私と同じ研究室に所属していた同級生の彼女さんが出席していたらしい。 その同級生から聞いた話では、彼女さんは「変な人と先生が、二人の世界を展開していた」と言ったそうである。

このような京都大学時代のことを考えると、この十年間で、どうも私は少しばかり衰えてしまったようである。 これは京都大学と名古屋大学の違いだとか、工学部と医学部の違いだとかいう要素もあるかもしれないが、 基本的には、私が学問に対する積極性を失い、受け身になりかけているせいであろう。

非常によろしくない。


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