これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
医学部の学生の大半は、とても、礼儀正しい。 わからないことを先生に質問する時も、控えめに「あのぅ、このへんが、よくわからないんですぅ」 とでもいうように、「教えを乞う」形で質問する人が多いように思う。
その点、私は少しだけアグレッシブであるかもしれない。 私は基本的に「おかしいじゃないか、教科書が間違っているんじゃないか」 と言わんばかりの勢いで、相手を睨みつけるように質問することが多いように思う。 工学部時代の私は、相対性理論にくってかかり、「アインシュタインは馬鹿じゃないのか」などと言った覚えがある。 もちろん、さすがにアインシュタインは優秀な物理学者であり、私は後で言葉を翻して 「負けた、アインシュタインは正しい」と言うはめになったのだが、若い学生は、そのくらいの勢いで議論するべきであると思う。 私がおかしいのか、京都大学工学部がおかしかったのか、それとも実は名古屋大学医学部がおかしいのか、 よくわからないのだが、京都大学工学部には私と似た流儀の学生が少なからず存在したことを思えば、 今の名古屋大学医学科は、実にさびしい。
私の流儀も少し行き過ぎであるかもしれないが、教科書を疑うことは、学問的に重要である。 しかし、私が教科書の記述に対し疑問を呈すると、かなり多数の学生は「それで良いから、そうなっているのだろう」 などと言い、私の疑問を無視しようとする。 そうでない学生も、あくまで教科書の記述は正しいと信じた上で私の説を打ちまかそうとするのであり、 私と一緒に教科書を批判してくれるような学生には、残念ながら、名古屋大学では出会えていない。 確かに、教科書の記述を頭から信じた方が、臨床医としては出世するだろうとは思うのだが、 ちょっと、皆、「良い子」でありすぎるのではないだろうか。
こういうことを考えると、実に、憂鬱になる。 私は、疑問を呈すること、それを他人に投げかけること、それに回答しようと思慮を巡らせることは、 医学的に重要であり、医療の発展に不可欠であると確信している。 しかしながら、残念なことに現在の名古屋大学医学科には、そうした姿勢を推奨する空気は存在しないように思われる。 これが私の思い違いであるならば良いのだが、もし本当に、 思考停止して教科書の暗記に走った学生や医者が高く評価されるとすれば、それは危機的である。
こういう環境にいると、もうどうでもいいや、という気分になってくる。 名古屋大学医学部の未来がどうなろうと、東海地方の医療が崩壊しようと、私の知ったことではない。彼らの責任である。 大学院を辞めた頃と同じで、私が生きていようがいなかろうが、大差なく、どうでもよいような気がしてくる。 とはいえ、自己診断ではあるが、私は大うつ病エピソードの診断基準は満足していないので、 まぁ、たぶん鬱病ではないし、今のところはまだ大丈夫だと思う。 ただ、こういうことを、わざわざここに書いている時点で、正常な精神状態とはいえないかもしれない。