これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2014/02/11 長尾健太郎君を偲んで

長尾健太郎君が亡くなっていたということを知ったのは、つい先日のことである。 たぶん彼は私のことなど覚えていないだろうが、私にとっては、彼は人生の目標であった。

私が初めて彼の存在を認識したのは、小学校六年生の時であったと思う。 私は当時日能研多摩センター校に通っていて、自慢ではないが、校内では成績の一、二を争う位置にいた。 全国でいえば二番手集団で、毎週行われるテストでは 50 位以内の常連、時には 10 位以内に入るし、100 位に入らなければかなりの不調、というところであった。

月に一度の公開模試では、非日能研生すなわち外部生も多数受験する。 こういう試験にはクセのようなものがあるので、だいたい、外部生は不利である。 たとえば私は、当時日能研と同程度の規模であった四谷大塚の公開模試を、試しに受験してみたことがある。 結果は 313 位ぐらいであった。私にしてみれば、とんでもなくひどい成績であるが、 日能研の先生方がいうには、「地の利を考えれば、そんなものだろう」とのことであった。

長尾君は、当時SAPIXに通っていたらしいのだが、あるとき、日能研の公開模試を受けたことがある。 彼はそのとき、全国一位をさらっていった。 私にしてみれば、日能研のトップ集団である益本君、甘利君、手塚君、龍岡君といった連中でさえ手の届かない位置にいるのに、 そうした英才達を飛び越えたところに、長尾という男が現れたのだ。 我々にとって、長尾健太郎の名は忘れられないものになった。 その後、私は麻布中学に進学することになったが、長尾は開成中学らしい、という噂を聴いた。

私は中学で囲碁部に所属したが、長尾君も、開成で囲碁部に入ったらしい。 麻布と開成は互いの文化祭を訪問して交流戦を行っている他、東京都の囲碁大会には私も彼も参加していたから、 何度か、彼と対局する機会があった。もちろん、勝負にならなかった。

私は、自分と彼との実力差を弁えていたから、あるとき、真似碁で挑んだことがある。 真似碁というのは、ルール上は認められているが、勝ちに執着する卑怯な打ち方であると思っていただければ良い。 中盤で長尾君のミスもあり、一時は私が優勢になったが、終盤には私が緩み、結局は負けてしまった。 その次に彼と対局した時も、私は真似碁を挑もうとしたが、彼は「またか」という顔をして 序盤から真似碁外しの手を放ち、また、私は負けた。

高校三年生の時、私は進路を決めかね、とりあえず一年は浪人するか、と決めていた。 噂では、長尾健太郎は東大理科 I 類に行くとのことであった。 もし彼が東大理 III すなわち医学部に行っていたら私は彼を軽蔑していただろうが、理 I ではそうもいかない。 私は「たとえば北海道大学などに行くのであれば恐ろしいことだが、 開成から東京大学などに行くとは、所詮、世間の価値観から離れられない男である。」などと負け惜しみを言うので精一杯であった。

その後、彼は京都大学大学院で博士の学位を得、ポスドクを勤めた後に名古屋大学で助教になったらしい。 東京から京都、名古屋とは、まったく、偶然の一致というものである。

実績からいえば、誰がどうみても、私より長尾君の方が優秀であろう。 だが、学問というものは、試験の点数や職歴、論文数などで単純に語れるものではない。 まだまだ、これからだと、私は密かに思っていた。

残念である。

いつまで残っているかわからないが、一応、 彼のサイトへのリンクを残しておく。 他に、長尾君の後輩にあたるという人物の日記も紹介しておこう。 こちらも。


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