これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
昨今の科学技術の発展により、技術的には、医療行為として手を出すことができる範囲は格段に広くなった。 顕著なのは再生医療や移植技術、生殖補助医療、そしていわゆる延命治療である。 しかし医学の目的が人類の福祉、幸福にあるとする立場からは、 技術的に可能であっても手を出すべきでない領域が存在すると思われる。
たとえば、現代では「死」の定義が曖昧になってきた。 以前であれば、脳、心臓、呼吸器の健全性は互いに密接に関係しており、 一者が機能停止すればやがて他者も機能を停止することは不可避であった。 従って、死の定義としては「これらの三者が機能停止した状態」というようなもので十分であった。 しかし近年では、脳が機能停止しても人工呼吸により当分の期間は心臓や呼吸器を動かすことはできるようになった。 これを死とみなすかどうかについては、いわゆる臓器移植の問題と絡んで長年の議論になっているものの、 国民的な合意は得られていない。
現代の医学では、心臓が機能停止しても、呼吸器が機能停止しても、それをもって死とは認定しないし、 もちろん、臓器移植のためのドナーになることはない。 大脳が機能停止し、意識を取り戻す期待が全く持てない患者についても、同様である。 では、どうして脳全体が機能停止した患者からは、臓器を取り出すことが許されるのか。 大脳が機能停止して脳幹は動いている、いわゆる植物状態と、脳幹も停止した状態とで、いったい、何が違うのか。
脳幹には、呼吸中枢などの生命維持に不可欠な機能がある。 では、呼吸中枢が、そんなに重要なのか。 現行基準では、脳幹が全滅して呼吸中枢が失われても、大脳や小脳の一部が活動していれば、脳死とは判定しないではないか。 いったい、どういう論理なのか。 これに対して、Wikipedia 日本語版によれば、英国では脳幹の機能低下をもって脳死とみなすらしい。 これならば、合理性はある程度は保たれる。 ただし、脳幹が失われても人工呼吸器を用いれば心肺機能を維持できるという事実を考えると、 英国方式であっても、完全に合理的であるとはいえない。
結局のところ、脳死患者からの移植を認める日本の現行基準には、何らの合理的根拠もない。 移植を行いたいという医学界からの要請と、とにかく命をつなぎたいという患者や家族の希望、 そして論理的、科学的妥当性に対する大半の国民の無関心の産物が、脳死患者からの臓器移植ではないか。
私は、思想上の理由から、臓器移植自体に反対であり、臓器を提供する意思も、移植を受ける意思もないし、特に脳死患者からの移植には強く反対する。 思想上というよりは、信仰上、と言いたいのであるが、私は特定の宗教団体に帰属していないので、思想上、とした方が世間での通りは良いであろう。 また、臓器移植と同様に、私は ES 細胞や iPS 細胞を使った再生医療にも反対である。 この日記は、あくまで医学的な内容を中心とし、宗教問題はあまり扱いたくないので、要旨のみを記す。
私は、人工授精を認めない一方で臓器移植を認める一部宗教団体の姿勢に疑問を感じている。 生命の誕生は神が司る聖らかなものであり、それは正しい結婚と正しい性行為の結果としてのみ生じ得る、というのが彼らの考え方であろう。 誕生が神聖であるならば、どうして、死が神聖でなかろうか。 心臓に不可逆な異常が生じ、いずれ死を免れ得ぬ事態に陥ったとすれば、それは神が死を命じたということではなかろうか。 技術的に可能だからといって、それを移植によって当面回避することが、はたして神の命に従う行為なのか。人類の幸福につながる行為なのか。 人工的に受精卵を作る行為と、いったい、何が違うのか。 神が死を命じるならば、黙って従うべきではないか。 「神」という語に違和感があるならば、「自然の定め」とでも言い換えても良い。