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以前にも何度か似たようなことを書いたが、臨床現場では、奇異な略語が、しばしば用いられるらしい。 たとえば (急性) 虫垂炎は英語で (acute) appendicitis であり、カタカナではアッペンディシティスであるから、 略して「アッペ」という。この表現は、手塚治虫のブラックジャックでも多用されている。 また、癌の転移は英語で metastasis でありメタステイシスであるから、「メタ」という。
臨床の医師は多忙であるから、「転移」という三音節の語を発音する時間を惜しんで 「メタ」という二音節の語を用いることには、一定の合理性がある。 しかし、こうした俗語を大学の講義で使い、学生に教え込むのは、いかがなものであろうか。
専門用語は、それぞれに意味が定義されており、学術的な議論をする上では、それらを正確に使い分けねばならない。 たとえば「びらん」と「潰瘍」は似たようなものではあるが、これらを混同して使ってしまうと、 まともに皮膚や消化管の疾患を議論することができない。 なので、特に学生は、言葉を正確に理解し、正確に使えるように訓練する必要がある。 たとえば、前述の「びらん」とは表皮や粘膜が部分的にもしくは全体的に欠損している状態を指すのだが、 これは内視鏡的所見としては、赤くみえる。 だからといって、赤くみえれば「びらん」である、というわけでは、もちろん、ない。 従って、内視鏡的に発赤してみえることを「びらんがある」と表現してはならない。 これは、特に子宮膣部の病変を議論する際には重要である。 これらの用語は、学会などがまとめて、公式な定義として公表されている。
それに比べれば、メタとかアッペとかいう略語は、公式な合意を得た表現ではない。 本当に一音節の差を重視している場合を別にすれば、わざわざ、そうした俗語を使うのは、なぜだろうか。 転移とか虫垂炎とかいう正確で公式な語を、なぜ、使わないのか。 「臨床用語に精通しているオレ、カッコイイ」とでも思っているのだろうか。 少なくとも、我々学生には十年早いのではないか。
略語以外にも、不適切な俗語がある。 たとえば、いわゆる大腸菌 O157 である。 O157 とは、細菌を細胞壁に含まれるリポ多糖の抗原性によって分類した場合の、 157 番目に定義された抗原を有するもの、という意味である。 専門家以外にはややこしいが、要するに大腸菌を細胞壁の構造によって分類したものだと思って良い。 これは、その大腸菌が毒性を持っているかどうかとは、直接は関係ない。
人によっては、アレ、と思うかもしれない。 O157 の大腸菌といえば、腸管からの出血を来し、時々流行して死者も出ている、恐ろしい大腸菌のことだ、 と思っている素人は多いであろう。 医師の中にも「O157 は腸管出血性大腸菌である」などと思っている人がいるらしく、とんでもないことである。
「腸管出血性大腸菌の中には、O157 に分類されるものが多い」というのは事実である。 しかし、O157 ではない腸管出血性大腸菌もあるし、O157 でも無毒なものもたくさんある。 腸管出血性大腸菌のことを意味したいのであれば、O157 ではなく EHEC (entero-hemorrhagenic Ecsherichia coli) などの用語を使う必要がある。
医学の世界には、このような、似ているが意味の異なる単語がたくさんある。 これらを正確に使い分けるよう注意していれば、メタとかアッペとかいう曖昧な略語は、 恐ろしくて、とても使えたものではない。