これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
昨晩、自宅近くの路上で、初老の婦人から突然、 500円貸してくれませんか、と声をかけられた。 いかにも憐憫を誘う、弱々しい声であった。 私は拒否して帰宅したが、これによって思い出したことがあるので、記しておく。
乞食とは、厳密には、他人に金品を無心することによって 生活の糧を確保する行為、または、それをする人のことをいう。 従って、見ず知らずの相手にいきなり金を無心する行為自体は乞食にはあたらない。
念のために確認しておくが、ホームレスであるかどうかは、 乞食であるかどうかとは関係ない。 日本では、乞食は軽犯罪法によって禁じられている。 また、ホームレスは街にあふれているが、現代では乞食は極めて稀である。 私はこれまで三十年生きてきて、日本ではほとんど乞食に遭遇したことがない。 一方、ヨーロッパでは、乞食はありふれているように思われる。 私の記憶に強く残っている限りでも、ロシアのとある修道院の門前、 ヴェネツィアの路上、チューリッヒの駅前およびマルセイユの街角で乞食に遭遇した。
2007年の秋にロシアで開かれた学術会議に参加した際、オプショナルツアーとして 近くの修道院を訪れた。 案内してくれたロシア人など一部の人は、門前の乞食に対し多少の金銭を 与えていたようである。 しかし私はそのような場面に初めて遭遇したため、どうすべきか咄嗟に 判断できず、結局、何もしなかった。 後から考えるに、これは何もしなくて正解であったと思う。 その施しが修道院の門前で行われる以上、そこには、 当人達が意識しているかどうかはともかく 宗教的な色彩が含まれるのではないか。 すなわち、与える側にとっては「神前に寄付した」という意味が、 受ける側にとっては「神から与えられた」という意味が、生じるのではないか。 いわば、その施しに関わる両者は神の前に対等の立場にある。 しかし私はキリスト教徒ではない。 私が乞食に金銭を与えるとすれば、それは単に憐憫のみに由来するし、 私はその乞食よりも上の立場にあると認識した上で与えることになるだろう。 それは、神前で行われる対等の清らかな行為を侮辱することになりかねないと思う。
私がヴェネツィアを訪れたのは2008年秋の、よく晴れた日の朝ことであった。 ヴェネツィアでは観光客に対する乞食行為は法で禁じられていると、 私は事前に何かの文書で読んで知っていた。 しかし、観光客が行き交うとある路上の日陰に、一人の女の乞食をみかけた。 彼女は黒い服を着て、路上に跪き、額を地につけ、手を前方に差し出し、 金銭を無心する姿勢を示していた。 私は女を無視してヴェネツィアの街を散策し、昼食をとり、午後になってから 帰路についた。 そのとき、あの女乞食は、まだそのままの姿勢で無心を続けていた。 私は彼女を無視してホテルに戻った。 夕方になり、私はある一つの事実に気がつき、彼女を無視したことを後悔した。 私が彼女の前を朝と午後の二回、通り過ぎたのだが、二回とも、彼女は 同じ位置に座していた。 だが、その間に日は動き、初めは日陰であった彼女の居所も、 午後はひなたになっていた。 その日は暑く、強い日射しの下では喉が渇き、私は観光客向けに売られる 水の高さに辟易していたほどである。 そのような酷暑の中で、彼女は額を地につけ、じっと座っていたのである。 その苦しみは、並大抵ではあるまい。あるいは、聖人であったのかもしれぬ。
ヴェネツィアを訪れたのと同じ2008年の秋に、私はチューリッヒも訪れた。 このとき、駅前で、一人の青年に声をかけられた。 彼がいうには、昨晩から何も食べていない、1ユーロで構わないからくれないか、とのことである。 彼は首を斜めにかしげ、上目遣いであり、なんとなくチンピラ風の雰囲気を漂わせながら、 私に無心したのである。一瞬、私は恐喝されているのかと思ったが、たぶん、あれは乞食であった。 私は彼の要請を拒否した。
2010年の秋に訪れたマルセイユには、たくさんの乞食がいた。 中には同情を誘う内容の身上を書いた看板を立てている者もあったが、 それが英語で書かれていたことを思えば明らかに観光客狙いであり、 その主張も真実かどうかは疑わしいものである。
結局のところ、乞食に金を与えるという行為は、どうも私にはなじまない。 代わりに、教会を訪れた時には懐が許す範囲で多めの寄付をすることにしている。