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医学が自然科学か人文科学か、という議論は、単に分類上の問題として解釈するならば、実にくだらない、どうでも良い話である。 しかし、これを医師としてのあり方、医療に向き合う姿勢を巡る倫理上の問題と考えるならば、実務上、重要な議論であろう。
いわゆる理系、文系という呼称は、概ね、自然科学を専門とするか、人文科学を専門とするか、という意味で使われているように思われる。 自然科学とは、英語でいう science, あるいは physics と同義と考えてよい。 これに対し人文科学は、欧米における歴史的経緯から、leberal arts, あるいは単に art, と呼ばれる分野である。
私は欧米の医学事情には昏いのだが、少なくとも日本では、「医学を修める」といえば「医者になる」とほぼ同義に解釈され、 「たくさん暗記しなければならない」という印象があるだろう。 現に、知識をたくさん身につけた学生が「優秀である」とされ、尊敬される傾向があるように思われる。 これは物理学や工学とは対照的であり、物理を学ぶ学生の間では、知識の持ち主は「マニア」とみなされることはあっても、「優秀である」という評価にはならない。 さまざまな物理定数を記憶していることはあまり重要視されず、手元に『理科年表』を置いておけば充分だと考えられている。 すなわち優秀な学生とは、自由な発想や優れた思考過程の持ち主をを言うのであって、知識などは、必要に応じて書籍やコンピューターで調べれば良いのである。
さらに、いわゆる理系の学生は、文系の学生を「ただ丸暗記するだけの連中」とみなして、軽蔑する傾向があるのではないか。 本当は、人文科学においても自由な発想や柔軟な思考が要求されるのであるが、人文系学生の中には暗記だけで試験を凌ぐ者が少なくないために、 人文科学全体が不当に貶められているのである。
以上の観点から、しばしば、「医学は文系である」というようなことを言う者がいる。実は私も、以前は、そのように思っていた。 しかしガイドラインに盲従し、「マニュアル医療」を施す医師は専門医を称するにふさわしくない、ということは、 昨今の専門医制度改正を巡る議論の中で、しばしば言われている通りである。 医学は本来、単なる暗記と訓練の集大成ではなく、高度な知性を要する活動なのである。
ところで、医学の世界における論文のようなものには、「症例報告」と呼ばれる種類のものがある。 これは、臨床医が比較的珍しい症例に遭遇した際に、「このような例がありました」と学会等に報告するものである。 学生の中には、症例報告などくだらない、学術的にはほとんど意味がない、というような悪口を言う者もいる。私も、かつては、そうであった。 だが、冷静に考えれば、それは誤りである。 何も考えずに、単に経験を報告するだけであれば、確かに、症例報告には大した意義はないであろう。 しかし真に優れた臨床医は、患者の状態の背後にある生物学的、病理学的な現象を鋭い観察によって見抜き、適切な考察に基いて治療を行い、 その結果を注意深く見守るのではないか。 その考察、観察を報告することが、どうして、学術的に無意味であろうか。