これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2014/09/12 医療面接における言葉遣い

言葉遣いといっても、敬語を使えとか、丁寧に話せとか、そういう低レベルの話ではない。

患者の生活歴などに言及する際に、たとえば `your husband' とか `your wife' という意味のことを言いたくなることがある。 この場合、日本語では、どのように表現するのが適切であろうか。 たぶん、多くの医師が用いているのは「ご主人」とか「奥様」とかいう表現であろう。 しかし「主人」という言葉は、英語でいう `master' の意味であって、「妻は夫の所有物である」という概念が普通であった時代の名残りであると考えられる。 これは現代では不適切な表現であり、実際、一部の女性は「私は夫の奴隷ではない」と言って、この表現を嫌うようである。 同様に「奥様」も、貴族の妻が屋敷の奥に住んで表には出てこなかった時代と関係すると推定され、適切ではない。 私自身も、独身ではあるが、仮に将来結婚したとして、妻のことを「奥様」などと呼ばれれば、あまり愉快な気持ちはしないであろう。 従って、私も他人に対し、なるべく、「ご主人」「奥様」などとは言いたくない。

そこで中立的な表現を探すと「夫」「妻」「配偶者」などが思い当たるが、口語においては前二者は謙譲語に類する使い方をされるため、 「あなたの夫は……」などと表現するのは失礼である。 そうしてみると、「あなたの配偶者は……」という表現が残るのだが、これは実に不自然な日本語である。

このように、現代の日本語では `husband' や `wife' を意味する適切な表現が存在しないように思われる。 いっそのこと、「あなたのワイフは……」と言ってしまう手もあるかもしれないが、これでは、少しばかり卑猥な印象を受ける人もいるかもしれない。 仕方がないので、私は、不自然ではあるが「あなたの配偶者は……」という表現を、基本的には用いようと思っている。 それで相手が理解できずに「エッ!?」というような顔をしたら、そこで改めて「奥様は……」と言い直せば良いのではないだろうか。

他に、いささか悩ましいのが、患者の氏名を確認する際の表現である。 「確認のため、お名前をフルネームで伺ってもよろしいでしょうか」などと言えば無難ではあるのだが、 私は「お名前をフルネームで頂戴してもよろしいでしょうか」という表現を好んでいる。 インターネット上などに溢れている、主に新社会人などに向けたマナー講座、敬語講座の類では、どうやら 「お名前を頂戴する」というのは不適切な表現、誤った敬語として有名であるらしい。 というのも、「頂戴する」というのは「『物品を』もらう」という意味であって、「教えてもらう」という意味ではない、ということらしい。

ひょっとすると、伝統的な日本語としては、「名前を頂戴する」というのは誤りなのかもしれない。 しかし英語では `May I have your name?' というのは、ビジネスの場において相手の名を問う普通の表現である。 もちろん `May I ask your name?' という表現もあるが、これは、 「ご迷惑でなかったら、お名前を教えていただいてもよろしいでしょうか?」とでもいうような、とても丁重な質問である。 従って、医師が患者に対し診察上の必要な質問として氏名を問うには、`May I ask your name?' では丁寧に過ぎ、かえって不自然である。 そこで、自然な表現である `May I have your name?' を日本語に訳せば「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」となるだろう。

もちろん、英国における自然な表現を日本語に訳したものが、日本においても同様に適切であるとは限らない。 しかし、婉曲表現、比喩表現は日本人が得意とし好むものである。 英国人が `May I have...' と婉曲に表現している以上、それに対抗する意味で、 日本語でも「頂戴してもよろしいでしょうか」と表現するのは、この国際化の時代においては妥当であろう。


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