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Willem Einthoven はオランダの生理学者であり、心電図の技法を発見した偉人である。 彼は数学にも優れており、心電図学の黎明期に巨大な足跡を遺した。 彼自身には何の責任もないことであるが、彼は、彼以降の心臓生理学者に比べてあまりに優秀であったために、 彼が便宜的に導入した心電図判読法は、百余年が過ぎた現代においてもなお用いられている。
たぶん、Einthoven は、彼が発明した手法そのものが、これほどの長期間にわたり臨床的に使用されることになるとは予想していなかったのではないか。 彼自身は理論を尊ぶ、優れた科学者であったようだが、その Einthoven ですら心臓の電気的活動を適切な理論によって説明することはできなかったらしい。 そこで彼は心臓生理学を無視した便宜的な手段により心電図の臨床応用を可能たらしめたのである。
Einthoven の最大の発明は、電気軸の概念である。 これは何らの生理学的実体をも伴わない便宜的な概念に過ぎないのだが、しかし心電図から得ることのできる平均電気軸は、心臓疾患の診断に有用である。 そして昨今の医科学生は、理論を放棄し、ただやみくもに先人の教えを暗記するという愚行に走る傾向があるらしく、 Einthoven の電気軸に基づく診断法を、ただ、機械のように暗記しているようであり、実に嘆かわしい。
さて、私は近年、心電図を定性的に理解するための理論について考えてきたのだが、 ヘミブロックと軸偏位の関係、すなわち左脚前枝ブロックが左軸偏位を来し、左脚後枝ブロックが右軸偏位を来す、という現象を説明できず、苦しんできた。 過日、同級生の某君から、なぜヘミブロックが軸偏位を来すのかと問われたことを契機に、あらためて思案を重ねたところ、次のような結論に至った。 簡潔にいえば、我々は電気軸などという、Einthoven の亡霊のような無意味な概念に捉われすぎていたのである。 より生理学的実体に基づく細胞外液電位を定性的に議論すれば、ヘミブロックと軸偏位の理解は、それほど難しくはない。
まず左脚前枝ブロックから考える。 基本的には、右脚ブロックや左脚ブロックと同様の理論で説明できるのだが、左脚前枝の支配領域は左脚後枝の支配領域に近接しているため、QRS 幅の延長は軽度である。 また、左脚前枝の支配領域は、通常ならば Purkinje 繊維に添って下向きに伝導するため、心臓下方の細胞外液が高電位になる。 しかしブロックがあれば左脚後枝から固有心筋を介して「前向きの伝導」で興奮するため、心臓下方の高電位は著明ではなくなる。 従って、いわゆる下壁誘導において、QRS 群の後半で電位差は小さくなり、あるいは陰性の波、すなわち S 波となる。 しかし I 誘導などでは著明な変化はみられないため、左軸偏位となる。
次に左脚後枝ブロックを考える。 左脚後枝の支配領域は、いわゆる後壁の周辺である。この場合は、ブロックが生じても心臓下方の細胞外液電位については著変を来さない。 ここで心臓の解剖を思い起こせば、左室後壁は、かなり左の方に位置している。 この左室後壁や左室側壁の周囲の細胞外液高電位が I 誘導の R 波の源なのである。 さて、左脚後枝ブロックでは、こうした左室後壁や側壁の一部が前枝支配領域からの「後向きの伝導」で興奮するために、 左方の細胞外液高電位が著明でなくなるから、I 誘導などの R 波が減高し、あるいは S 波となる。 結果として、軸は右方に偏位する。
当然のことであるが、もともと平均電気軸が -20 度であった心臓に軽度の左脚後枝ブロックが合併しても、電気軸は正常範囲に留まるため、 いわゆる右軸偏位の診断基準を満足しない。 これに対し、平均電気軸が 80 度の心臓に軽度の左脚後枝ブロックが合併した場合は、診断基準を満足するであろう。 このように、平均電気軸に基づく診断は感度も特異度も低いため、本来は、波形をイチイチ調べて診断するべきであるし、 標準十二誘導心電図は必ずしも診断に適した電極配置ではない。 こうした議論を理解できる学生の少ないことは、実に遺憾である。
なお、以上の内容は、後日、私が実名で公開している心電図学の定性理論の書に転載する予定である。