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2014/12/23 わかりやすい説明

学生が講義や教科書を評するとき、「わかりやすい」という表現は、しばしば、褒め言葉として用いられる。 たとえば「あの先生の講義はわかりやすい」とか、「この教科書はわかりやすい」とかいえば、それは、高く評価していると解釈するのが普通である。 しかし、医学に限らず学問は、大学で扱うような専門的な水準においては、非常にわかりにくいものである。 それを、わかりやすく説明しているとすれば、たぶん、何かをごまかして、正確でない説明をしている。

私の得意分野である心電図学において、例を挙げよう。 しばしば判断に悩む事象として、「心房粗動」と「心房細動」の鑑別がある。 心房粗動とは、概ね定まった伝導路を通る心房のリエントリー性不整脈であり、 心房細動は、不定な伝導路を通る心房のリエントリー性不整脈である。 専門外の人にとってはチンプンカンプンであろうから、これを「わかりやすく」説明すると、たとえば次のようになる。

心房粗動とは、心房の中にある電気的刺激の通り道がおかしくなって、心房の収縮と弛緩を高頻度で繰り返している状態であり、 心房と心室の同期がとれていないことから、心房は実際にはほとんど機能していない。 これに対し心房細動とは、心房の中にある電気的刺激の通り道がデタラメになって、もはや心房は収縮も弛緩もしていない状態である。

この「わかりやすい」説明の何がおかしいかというと、私は「収縮」とか「弛緩」とかいう言葉を、非常に漠然とした、曖昧な意味で使ったために、 実際には何を言っているのか、全然、わからないのである。 というのも、心筋細胞一つ一つを観察すれば、心房粗動だろうと心房細動だろうと、キチンと収縮や弛緩を繰り返しているはずである。 一体、私が述べた「収縮」とか「弛緩」とかいうのは、何のことなのだろうか。私自身、わからない。 素人を相手に、わかったような気分にさせて「教え方が巧い」と評価されることが目的であるならば、このような、実際には意味のわからない説明で 煙に巻いてしまうのも、一つの手段であるかもしれない。 ひょっとすると、予備校講師には、こうした技能に長けた人が多いかもしれぬ。 しかし学生は素人ではないのだから、こうした説明に満足してはならない。

さて、学生向けの参考書では、「心房粗動は RR 間隔が一定であるが、心房細動では RR 間隔が不定である」などと書かれていることがあるらしい。 実に、わかりやすい。臨床的には、そういう例が多いのであろうし、医師国家試験に出題されるような典型的症例では、そのようになっているのであろう。 しかし本当は、RR 間隔は一つの判断材料にはなるものの、決定的ではない。心電図学は、そのような「わかりやすい」ものではないのだ。 たとえば、さまざまな程度の房室ブロックが存在するために RR 間隔が不定になる心房粗動もあるし、 逆に完全房室ブロックがあれば、心房細動でも RR 間隔は一定になる。 また、心房粗動では鋸歯状の P 波がみられ、心房細動では f 波や F 波がみられる、と書かれていることもあるようだが、 鋸歯状 P 波は不明確なこともあるし、f 波や F 波が存在しない心房細動もある。 このように、心房細動と心房粗動を鑑別するには、定義を正しく認識し、理論的に解釈することが必要である。 それにもかかわらず「まずは、わかりやすい説明で理解して……」などと言う者がいるが、彼らは、定義も理解せずに、一体、何をどうやって「理解」しているのだろうか。


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