これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
過日の記事で、私は北陸の某地方大学で初期臨床研修を受ける予定である旨を記した。 私のスポンサーである父は、私の意向に対して難色を示しているようであるが、母が丸く収めてくれているようであり、実にありがたいことである。 先の記事では書き忘れたが、その大学が優れた人材を広く集める度量において日本一であることを示す証拠が、一つだけ、存在する。 医学部編入試験を受ける者の間ではよく知られているのだが、この大学は一次試験として書類選考を行い、 二次試験として筆記試験を行い、三次試験として一泊二日の合宿形式での面接を行っている。 特に三次試験では数名の教授が一日半を費しているのであるが、当然、準備にはそれ以上の時間をかけているはずである。 わずか 5 名の新入生を選ぶためだけに、そこまでの手間をかけている大学は、日本広しといえども、他にない。 何より、日本の原子力学界から逐われ、医学界からも拒まれつつあった私をも受け入れる器の広さは、燕の昭王に比類する。
燕国の昭王は、中山国の遺臣である名将・楽毅を登用し、彼に軍事を委ねることで、当時大国であった斉国を滅亡寸前にまで追い込んだ名君である。 即位して間もない頃の昭王に対し、郭隗という臣は、郭隗自身を重く用いることを進言した。 暗愚な王であれば、郭隗の進言を私利私欲のためだと短絡的に判断し、彼を遠ざけたであろう。 しかし昭王は明君であり、彼の進言を容れたのである。ここで重要なのは、郭隗は有能な人物ではあったが、しかし天下無二とまでいうほどの人物ではなかった、という点である。 もし彼が無能であったならば、それを重用する昭王も暗君として世に知られてしまったであろう。 しかし彼は「そこそこ有能」であったために、自分は郭隗よりは有能だ、と自負する天下の名士が昭王の下に集まった。 これが「先ず隗より始めよ」という故事成語の由来である。 昭王の下に集まった名臣の中には、先に述べた楽毅も含まれていたのだから、燕の最盛期を築いた最大の功労者は郭隗であったと言うこともできる。 ただし、昭王の次に王となった恵王は暗君であり、昭王の偉業は全て、恵王の代に失われてしまった。
私は、自分が楽毅になれるとまでは思っていないが、郭隗ぐらいには、なれるであろう。 唯一の問題は、昭王に巡り合うことができるかどうか、である。
なお、度量で知られた歴史上の人物としては孟嘗君も有名である。 孟嘗君は古代中国の貴族であり、多数の食客を抱えていたが、その中には、鶏の鳴きまねが巧い、などの意味不明な技能の持ち主も数多く含まれていた。 しかし孟嘗君が命を狙われたとき、その鶏の鳴きまねによって窮地を脱することができたという。 ただし宋の名士である王安石であったか誰かは、孟嘗君の食客はつまらぬ人物ばかりであり、 それ故に孟嘗君の危機を未然に察知して防ぐことができなかったのだ、と酷評している。 もちろん、この批判には、孟嘗君自身も二流の人物だ、という意味が含まれている。