これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/03/03 SIADH による意識障害に対する輸液 (症例提示)

ややマニアックな生理学の話である。臨床知識の話ではないことに注意して、次のような症例を考えていただきたい。

F 医師は、東京都の某離島において、島で唯一の診療所に勤めている。 島に住む 88 歳の女性である名古屋ウメさん (仮名) が肺小細胞癌に罹患していることが分かったが、 手術や根治的な抗癌剤治療には耐えられそうにないので、積極的な治療は控え、緩和ケアを重視した診療を続けていた。 名古屋さんは、最近、足がむくむ、ということを気にしていたが、投薬治療は拒否していた。

ある台風の晩に、名古屋さんは意識障害を来し、息子が運転する軽トラックで診療所に搬送されてきた。 診察所見は、以下の通りであった。 意識障害がみられ、Glasgow Coma Scale (GCS) は E 3 V 3 M 6 = 12 点、すなわち中等症であった。 体温 36.2 ℃, 脈拍数 92 /min, 血圧 120/75 mmHg, 呼吸数 18 /min, SpO2 98 % (室内気) と、バイタルサインに異常はみられなかった。 全身に軽度の浮腫を認めたが、それ以外の身体診察所見は正常であった。ただし神経学的診察は行わなかった。 名古屋さんはこれまで小細胞癌以外は健康で、特に既往歴もなく、薬物投与も受けていない。サプリメントや漢方薬も使用しておらず、違法薬物とも無縁である。 血液検査をしたところ、Na+ 107 mEq/L, K+ 4.2 mEq/L, Cl- 70 mEq/L と、著明な低ナトリウム血症, 低塩素血症がみられた。 その他の検査所見に明らかな異常はなく、血糖値も正常であった。

F 医師は、抗利尿ホルモン不適正分泌症候群 (Syndrome of Inappropriate ADH secretion; SIADH) による低ナトリウム血症、と診断した。 これは、しばしば肺小細胞癌などに合併するもので、腫瘍細胞などから抗利尿ホルモンが異常に多量に分泌されるものである。 このため、腎尿細管における水の再吸収が亢進し、尿量が減る。 さらに体液が不適切に貯留するために、浮腫を来すことがあり、また、希釈性に血中ナトリウム濃度が低下する。 これが高度に進めば、意識障害などの神経症状を来すことがある。 血中カリウム濃度が正常であったのは、レニンの分泌が抑制されていたためであろう。

F 医師の診療所には、基本的な薬剤は全て揃っている。 そこで彼は、低ナトリウム血症を補正するための輸液を行うことにした。 念のため救急医学の教科書を開いて確認すると、3 % 程度の高張食塩水を使い、0.5 mEq/(L hour) 以下の速度で補正すると良い、と書かれている。 そこで、体液の貯留が気になったのでフロセミド (ループ利尿薬) を併用しつつ、高張食塩水の輸液を開始した。 しかし彼は内心、不安であった。こんなことをしたら、脳の神経細胞が萎縮して変性し、名古屋さんは死んでしまうのではないか、と心配していたのである。

彼は先日、MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理 第 2 版』の教科書に記されている次の式を読んで、ウムム、ナルホド、と感心したばかりであった。

血漿浸透圧 ≒ 2 × (細胞内液や細胞外液に含まれるナトリウムおよびカリウムの総量) / 体重

この式は、浸透圧は、ほとんどナトリウム塩やカリウム塩によって形成されている、という近似に基づいている。 もう少し詳しく書けば、細胞外液の浸透圧は概ねナトリウム塩によって、細胞内液の浸透圧は概ねカリウム塩によって、形成されているのである。

さて、名古屋さんは体重 40 kg であったので、総体液量は概ね 20 L である。 従って、教科書に記載されている計算式によれば、血清ナトリウム濃度を 107 mEq/L から 120 mEq/L まで上げるとすれば、 260 mEq のナトリウムを投与すれば良い、ということになる。

ここで、聡明な F 医師は、躊躇した。 もし、投与したナトリウムが全身の体液に等しく分布するならば、確かに 260 mEq のナトリウムが 20 L の体液に広がり、血清ナトリウム濃度は 120 mEq/L になるであろう。 しかし体液のうち、細胞内液と細胞外液の比は概ね 2:1 であり、ナトリウムはほぼ細胞外液にのみ分布し、細胞内液にはほとんど移行しない。 従って、投与したナトリウムは細胞外液にのみ留まり、細胞内外に著しい浸透圧較差を生じ、結果として細胞内から細胞外への水の移行を促すのではないか。 その場合、たとえば脳の神経細胞が萎縮し、重度の脳傷害を来すのではないか、と考えたのである。

もちろん、F 医師の懸念は、杞憂である。 彼の考察の、どこが間違っているのか。長くなってきたので、解説は後日にする。


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