これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/03/02 Bertrand の逆理

過日、ベイズ推定を用いる診断法に理論上の問題があることを述べた。 多くの医学科生や臨床医を含め、世間では「確率」という概念を正しく認識していない人が多く、 そのため確率論が誤用されがちである、ということも述べた。 「確率」の概念を正しく認識することの重要性は、確率論の世界では「Bertrand の逆理」によって教えられている。 この逆理は幾何学的な問題について唱えられたものであるが、これを診断学的な問題に置き換えたのが、 昨年 11 月9 日, 10 日に書いた記事である。 しかし、これらの記事はいささか煩雑であり、たぶん、ほとんどの人が読み飛ばしたであろうから、改めて要点だけを抽出すると、次のようになる。

仮に、咳嗽は感度 80 % で肺炎を検出し、感度 60 % で上気道炎を検出するとしよう。 議論を簡単にするため、他の疾患による咳嗽は無視できるほど稀であるとする。 では、咳嗽は、どの程度の特異度で肺炎や上気道炎を検出するのだろうか。

たとえば、ある医院で呼吸器疾患を有する患者に限って統計をとり、肺炎の有病率が 5 %, 上気道炎の有病率が 80 %, であったとする。 小さな医院では、呼吸器疾患といえば、まぁ、風邪なのである。 このとき、特異度を計算すると、咳嗽は特異度 49 % で肺炎を検出し、特異度 80 % で上気道炎を検出することになる。 従って、肺炎について陽性尤度比は 1.6, 陰性尤度比は 0.4 となるから、咳嗽があるならば肺炎である「確率」が少しばかり高くなる、ということになる。 これに対し上気道炎については陽性尤度比 3.0, 陰性尤度比 0.5 となるので、咳嗽があるならば風邪である「確率」は、なかなか高くなる、といえよう。

次に、ある大病院で呼吸器疾患を有する患者に限って統計をとったところ、肺炎の有病率は 60 %, 上気道炎の有病率は 5 % であった。 風邪で大病院を受診する人は稀であるし、大病院では肺癌などの患者も多いために、このような有病率になる。 この場合、咳嗽は特異度 93 % で肺炎を検出し、特異度 49 % で上気道炎を検出する。 すなわち肺炎について陽性尤度比は 11.4, 陰性尤度比は 0.2 であるから、咳嗽があれば、肺炎が強く疑われることになる。 一方、上気道炎については陽性尤度比 1.2, 陰性尤度比 0.8 であり、咳嗽があっても風邪の「確率」は少しだけ高くなるに過ぎない。

以上のことから、特異度は、医療機関によって異なるのである。当然、尤度比も医療機関によって異なる。 換言すれば「肺炎でない患者が咳嗽を呈しない確率、すなわち特異度は、不定である」といえる。 「確率が不定」とは、一体、どういうことなのか。意味がわからない。これが「Bertrand の逆理」である。

同様の疾患であれば、どの医療機関であっても感度は大きく変わらない、という仮定は、概ね妥当であるように思われる。 一方、特異度は有病率によって大きく変化し、従って、尤度比も医療機関によって著しく異なるのである。 従って、「肺炎でない患者が、咳嗽を呈しない確率」などというものは、普遍的な値としては存在しない。 それなのに、まるで普遍的な「特異度」なるものが存在するかのように考えることが、そもそも誤りなのである。

そこで「マクギー」などの流儀では、「検査前確率」を臨床経験に基づいて調整せよ、ということになっている。 ところが、経験的に検査前確率を調整するぐらいなら、そもそも、経験に基づいて自院での感度, 特異度を設定すれば良いのであるから、 わざわざ文献に記載されている感度, 特異度, 有病率の値を利用する意味がない。

2015.03.06 語句修正

戻る
Copyright (c) Francesco
Valid HTML 4.01 Transitional