これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/03/22 学生が高度に臨床的な技術や知識を学ぶこと

3 月 24 日の補足も参照されたい

学生が高度に臨床的な知識が技術を学ぶことについては、議論の余地があるだろう。 たとえば、様々な疾患の診断基準や分類法について学生が勉強することの是非である。 世の中に「診断基準」や「分類」というものが存在することを知らないのは、さすがにまずいので、少なくとも多少は勉強しなければならないことには、議論の余地があるまい。 しかし診断基準や、疾患の分類、たとえば悪性腫瘍の TNM 分類などを記憶することに、どれほどの意義があるかは、疑わしい。 こうした細かな基準の中には、医師国家試験などで出題されるものがあると聞くが、本当は、 電子カルテ上ですぐに参照できるようにするなり、診察室に掲示するなりすれば良いのではないか。 あるいは、TNM 分類などはハンドブックに付箋をつけて机上に置いておけば、それで十分ではないか。 特に、これらの基準が理論ではなく臨床的な観察や統計を根拠として定められている場合には、それを記憶することの診療上の価値は乏しい。

本日の主題は、上述の記憶のことではなく、巷で学生を対象に行われている勉強会や講習・セミナーの類についてである。 私の印象では、こうした公開の学習会は、各専門学会主導のものを別にすれば、救急医療や総合診療の分野の、特に臨床的な診断や手技を扱うものが多いように思われる。 総合診療については、近年、学生や若手医師を中心に流行しているらしいから、学習会が多いのも理解できる。 問題は救急医療であって、これはおそらく、少なからぬ病院では救急外来を初期臨床研修医が中心となって運用していることから、 「卒業後に直ちに必要となる知識や技能」として、学生に人気なのだと思われる。

そもそも救急外来を研修医中心に運用すること自体にも疑問はある。 時に誤解されるが、救急医療は、医療の基本でも基礎でもない。 少なくとも日本の場合、救急外来は原則的には正しく診断を行う場ではなく、おおまかに言えば「急がねば取り返しのつかない事態に陥る恐れのある患者」だけを見極めて 「とりあえず重大な事態を回避するための処置」だけを行い、後の正確な診断や治療は専門科に委ねることが多いらしい。 これは、医師が誰しも当然に修得しているべき技能ではなく、高度に専門的な技能である。 たまに「もし市中で医師が急病人に出会った時、救急医療の技能がなければ困るではないか」などと言う人もいるが、 そういう場合には設備も薬剤もないのだから、救急外来における技能とは、直接は関係ない。 この意味ではむしろ、疾患を「直接」観察する病理診断の方が、よほど医療の基本・基礎というべきであり、初期研修では病理診断を必修にするべきかもしれない。

こうした救急医療の取り扱いは別にしても、学生が早い段階、特に四年生ないし五年生以下の段階で臨床的な手技を学ぶことは、 私は、無益というよりも、むしろ有害なのではないかと思う。 数学にたとえれば小学生に微積分の高度にマニアックな公式を教え込むようなものであって、 一見、英才教育のようにみえるが、実は教育としては非常によろしくないのではないか。 段階を飛ばした勉強をすることで、物事の本質、根本が、みえなくなってしまうのではないか。

しばしば総合診療の分野で扱われる診断学について考える。 以前にも書いたが内科診断学は、内科的な学識を根拠に、所見から、患者の体内で起こっている現象を推定するものであるから、 基本的には内科学の「逆引き」である。 従って、本来、内科学を修得することなしに内科診断学を修めることは、不可能である。 しかし、よほど勤勉な一部学生を別にすれば、内科学をあまりよく理解していない状態で、総合診療的な診断学をかじる例が、少なくないのではないか。 換言すれば「なぜ、それで診断できるのか」ということを理解しないままに、診断方法を機械的に習得しているのではないか。 もちろん「いや、きちんと原理まで理解している」と主張する者も少なくないだろうが、それは、先生のおっしゃることを暗記しているだけではないのか。 理解するとは、先人の言行を真似ることをいうのではなく、その背景にある医学的哲理を自らのものとし、自然な思慮の結果として、先人と同じ結論を得ることをいうのではないか。 この意味において、病理学 (病理診断学ではない) を修めることは、医学において最も基本的なことの一つである。 臨床医学の多くの部分は、病理学的理解から発する自然な思考の結果として得られるからである。 すなわち、病理学抜きには、臨床医学の理解は不可能である。

単に私が不勉強なだけかもしれないが、私は、未だ、診断学や臨床的手技を学ぶ段階には至っていないと自覚している。 おそらく、私が今、そうした技能を学べば、まるで自らが臨床手技を理解したかのように錯覚し、基礎的な医学を疎かにし、医の基本を忘れ去ってしまうであろう。 あるいは医学的に誤った高度に臨床的な対応を習得してしまうかもしれぬ。

私は病理医志望であるが、学生の頃に病理を志しても、臨床研修を経るうちに、より臨床的な方向に関心が移る者が少なくないという。 そのため、某病院の病理部長に病理医志望である旨を告げた時には「心を強く持ちたまえ」という、ありがたい助言をいただいた。 臨床の魅力、あるいは魔力は、それほどに、強いようである。 私は生来、意志薄弱であるから、よほど強く警戒していなければ、病理医 (の卵、になる前の卵母細胞) としての誇りをやすやすと失い、凡庸な医師になってしまうであろう。 その意味でも、高度に臨床的な技能を現段階で学ぶことに対しては、慎重にならざるを得ない。

いささか別の話になるが、時に、学生だけの勉強会では間違った方向に議論が進んでしまうかもしれないから、 矯正してくれる監督者・指導者がいた方が良い、ということを指摘される。 そもそも何をもって「間違っている」と言うのかわからないが、仮に学生同士の議論で「間違った」結論に至ったとして、何が問題なのか。 議論の結果として誤った事実認識が生じたとしても、そのような誤解は、いずれ適切な時期に自ら矯正される。 仮に結論が間違っていたとしても、そうした思慮・議論を繰り返すことで、はじめて、深淵なる医の哲理を垣間みることができるのである。 学問とは、本来、そういうものである。 むしろ、「すぐに役立つ知識や技能」に飛びつき、医学的思考を欠き、診療の背景にある深遠な哲理に近づくことさえなく、 ただ機械のように先人の軌跡を踏襲ことの方が、よほど有害ではないか。

なお、基礎医学の教授陣の多くは、ここで私が述べたような趣旨のことを、さんざん学生に説諭していたのだが、 遺憾ながら、多くの学生の心には届かなかったようである。


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