これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2014/05/05 緊張感

5 月 1 日の記事の続きである。

学問の場においては、教授と学生、あるいは先輩医師と後輩医師の間であっても、基本的には対等の立場で議論するべきである。 相手が教授であろうと先輩であろうと関係なしに、疑問点や不明な点は指摘するべきなのであって、 相手に恥をかかせまいと不要な配慮をしてはならない。 こうした姿勢で学問に臨むことは、京都大学に限らず、まともな理工系大学においては常識であるように思われるのだが、 医学界においては、どうであろうか。

京都大学や名古屋大学などの名門であれば、学生も充分に勉強しているから、講義をする先生方も大変である。 うかつなことを喋れば、すかさず学生から鋭い質問が提出されるし、 時には、教授でさえ深く考えていなかった問題点を学生に指摘されることもある。 当然、質問に対してうまく答えられないことなど、日常茶飯事である。

誤解している人がいるようだが、質問に対して答えられないことは、教授や先輩医師にとって恥ずかしいことではない。 というよりも、そもそも、質問に対しては必ずしも答える必要はない。 教授と学生とで、一緒に疑問点を提出し合い、共に議論し、解決の道を模索することこそが大学における教育である。 旧制第三高等学校が目指し京都大学が引き継いだ「自由」の学風は、そうした教育の実現のために必要であったし、 名古屋大学も同様に自主自律の精神を尊んでいる。

もし「正しい答え」を教えてもらうことを期待して教授に質問する学生がいるとすれば、それは、とんだ勘違いである。 また、正しく答えることができないような小難しい質問を繰り出す学生を「生意気だ」と考える教授がいるとすれば、非常に残念なことである。 大学における学問は、教授と学生が対等の立場に立ち、適切な緊張感を持って対話することによって初めて成立するのである。

名古屋大学の名門たる所以は、一つには、こうした適切な緊張感を保つことのできる教授が少なくないことである。


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