これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2014/05/06 ベルヌーイの定理

血液や循環器の勉強をしていて思うのだが、どうも、血圧というものをよく理解していない人が少なくないようである。 名著『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』でさえ、血圧については時に子供騙しの説明をしているほどである。 特に問題となるのは、弁膜症、たとえば僧帽弁狭窄症において、なぜ左心房の血圧が上昇し、さらに肺高血圧が生じるのか、という問題であろう。 この現象は、上述の教科書によれば「受動的メカニズム」と「反応性メカニズム」によって生じるという。 後者については、詳細がいまいちよくわかっていないようであるが、何らかの経緯により肺小動脈が繊維化することによって生じるらしい。 一方、前者についてはよくわかっているのだが、物理学、特に初等的な流体力学を理解することなしには、適切な説明をすることができない。 しかし現在の医学科のカリキュラムではベルヌーイの定理すらまともに教えていないようであるから、 一般的な医学科生には、このあたりの病態生理を理解するのは困難であろう。

以上のような事情から、多くの学生は漠然とした直観的解釈によって「なんとなく」血圧というものを理解しているのではないか。 また、「ハーバード大学テキスト」も含めて、多くの教科書は漠然とした説明によって学生をわかった気にさせているように思われる。 しかし、そうした曖昧な解釈では時に重大な過ちを冒すことになるし、なにより、「なんとなく」の理解では患者に対し自信を持って正確に説明することができない。 そこで、本記事では僧帽弁狭窄症において肺高血圧症が生じる受動的メカニズムを説明する。 とはいえ、さすがに初等物理学から話を始めると長くなるので、 エネルギー保存の法則や次元解析、および層流と乱流の違いについては既知であるという前提で書くことにする。

血圧の問題を考えるには、ベルヌーイの定理を用いるのが良かろう。 ベルヌーイの定理は、層流についてのエネルギー保存の法則を定式化したものである。 心臓の中の血流が層流かどうかという点には、いささかの疑問があるが、定性的な議論であると割り切るならば、層流と近似して概ね問題あるまい。 ベルヌーイの定理の詳細は流体力学の教科書に譲るとして、心臓の議論に限ってエネルギー保存の関係を表せば、 血液が非圧縮性流体であるという近似の下で、次のようになるだろう。

圧力のエネルギー + 血液の運動エネルギー + 血液の位置エネルギー = 一定

次に各項が、どのような物理量で表現できるのかを考える。 上述の式は積分型でも微分型でも成立するはずであるが、ここでは微分型で議論しよう。 これは、平たくいえば「単位体積あたりのエネルギー」について議論する、という意味である。

まず「圧力のエネルギー」は、血圧に比例すると考えられる。血圧は臨床医学的には mmHg の単位で表現されるが、 これは SI 単位系では N/m2 と同じ次元を持っている。 従って、血圧を P とし、適切な無次元の係数 A を用いて

圧力のエネルギー = AP

と表せる。というのも、エネルギーの単位である J は Nm と同じ次元であるから、 「単位体積あたりのエネルギー」は N/m2 と同じ次元となり、すなわち圧力と同じ次元になるからである。

同様に、血液の流速を v とすれば、Ns/m3 と同じ次元を持つ係数 B を用いて

血液の運動エネルギー = Bv

となる。

血液の位置エネルギーは、頸静脈の怒張などを議論する際には重要であるが、今回は議論を簡単にするために一定であるとみなすことにしよう。

以上の議論から

AP + Bv = 一定

という関係が成立する。 血圧の基準点は、臨床医学的にはともかく物理学的には任意であるから、ここでは上式を

AP + Bv = 0 mmHg

と書き換えることにする。 この式を用いて、僧帽弁狭窄症における左心房や肺循環の血圧を考えよう。

まず心室収縮期の左心房血圧であるが、僧帽弁が狭窄していれば血液は緩徐に流れるようになるため、v が小さくなる。 すると、エネルギー保存の関係により P が大きくなるわけである。 この圧力 P の変化は、心房壁が伸展することによる弾性エネルギーの変化に由来する。 これが左心房の血圧が上昇する理由である。

さらに血流の上流まで遡り、肺血圧を考えよう。肺血圧という言葉は「肺のどの部分の血圧なのか」をごまかした不適切な表現ではあるが、 今回は肺の中での血圧分布を問題にしていないので、肺の平均血圧、ぐらいの意味で、この語を用いることにする。 エネルギー保存の式から、肺血圧は肺における流速のみによって一意に定まるのであって、実は左房圧とは直接は関係ないことがわかる。 これは直観に反するようだが、よく考えると、左房圧が上昇すると肺における流速が低下し、その結果として肺血圧が上昇しているのである。 これが、受動的メカニズムによる肺高血圧の機序である。

このエネルギー保存則は、肺動脈楔入圧の測定原理を理解するためにも重要である。 すなわち、肺の小血管を閉塞させて流速を 0 にすれば、その位置における血圧は下流にある左心房の血圧と一致する。 ただし、これは左心房における流速が 0 であることと、測定位置と左心房の間に高低差がないことを仮定している。

2014/05/18 語句修正

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