これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
しばしば、他人に意見を押しつけてはいけない、などと言われる。 特に、私は好戦的な少数意見の持ち主のようであるから、多数派から煙たがられ、そのように言われる。 この場合、私はやむなく、ハハハ、と笑って、その場を去ることにしている。
しかしながら、はたして、彼らは自分の考えを我々に押しつけてはいないのか。 ここでいう「彼ら」とは、「学問への姿勢や学び方は個人の問題であって、他人にとやかく言われる筋合いはない」などと考える人々のことである。 彼らによれば、他人の学習姿勢に口を挟む私のような人間は、他人に意見を押しつける野蛮人だ、とのことである。 彼らの主張をきくと、大抵、「他人に迷惑をかけているわけではないのだから、勉強の仕方は各自の勝手である」というような発言が聞かれる。 ここで私が問題にしたいのは、はたして、彼らは他人に迷惑をかけていないのか、という点である。
まず第一に、私は、彼らによって多大な迷惑を被っている。 たとえば、大学の講義とは、本来、講師が一方的に話すような場ではなく、講師と学生の間で活発に議論を行う場である。 しかし彼らは、講義中に私語をすることはあっても、公的な発言をすることは滅多になく、結果として講義の成立を妨害している。 こうした講義への積極性を欠く姿勢によって、どれだけ私が迷惑し、苦痛を感じているか、彼らは考えたことがあるのか。 自分達が授業妨害しているという認識を、持っているのか。 また、講義以外の場で、学生同士が学問的な議論をすることは、試験対策を別にすれば、稀である。 このようにして、学問の話をしない風潮を作り出すことで、我々に迷惑をかけるばかりではなく、 大学全体の学術水準を低下させ、ひいては日本および世界全体における科学の発展を阻害しているわけである。 これをもってして、なお、「他人に迷惑をかけているわけではない」と言うのか。
第二に、これは医学科に限ったことであるが、彼らが試験特化型の勉強をすることによって、医師国家試験のあり方を歪めている。 医師国家試験は、単純知識を問う問題が大半であり、高度な思考を要求するものではないらしい。 従って、頭をカラッポにして、ひたすら暗記した方が、効率的に合格できるという。 しかも、医師国家試験は相対評価される部分があるので、他の受験生の動向を無視することができないのだ。 馬鹿じゃないのか、と思うのだが、残念ながら医師国家試験とは、そういう馬鹿な試験であるらしい。 それというのも、学生連中が、かかる腐敗した国家試験のあり様に迎合し、丸暗記勉強法を実施するせいである。
第三に、これが最も重要であるのだが、彼らのそうした勉強法により低水準の医師が量産され、現に、患者その他の国民が不利益を受けている。 幸か不幸か、患者の多くは医学の素人であるから、自分が何をされているのか、よくわかっていないので、それを迷惑とは感じないことが多いようである。 また、医療保険の無駄遣いについても、国民の多くは無関心であるから、それを迷惑とは思っていないようである。 しかも、だいたい藪医者は感覚が麻痺しているから、自分が他人に迷惑をかけているという自覚がない。 なお、具体例を挙げると角が立つので、それは控える。
彼らの反論は、概ね、次の二点である。 一つは「我々は、君の口出しによって直接的に迷惑を受けているが、君のいう『迷惑』は全て間接的なものばかりだ。」というものであり、 もう一つは「我々の言動によって君が迷惑しているというならば、それを迷惑に感じる君の方がおかしい。我々の方が多数派なのだ。」というものである。 しかし、前者は勘違いであり、彼らが暗黙の了解により結託することで、私に対し、あくまで直接的に迷惑をかけているのである。極めて陰湿である。 後者は民主主義を否定するかのような暴論であり、多数派であることは、彼らの言動を正当化する根拠にはならない。
何が言いたいかというと、主義主張の異なる人々が共に生きていく以上、互いに迷惑をかけるのは当然であり、 意見が対立するのも自然なことであるから、結果として意見を押しつけることになるのは、あたりまえだ、ということである。 彼らは、たぶん無意識なのだろうが、彼らの考えを「当然のもの」として振る舞い、彼らの言動を容認するよう我々に強要し、すなわち意見を押しつけている。 一方で、我々は彼らの言動を批判することによって彼らを不快にさせ、すなわち我々の意見を彼らに押しつけている。 そこで「意見を押しつけるな」と言って批判を封じ、無言の圧力によって付和雷同を促すのは、協調的であるとは言わない。 衝突を繰り返しながら、妥当な点、いわゆる落とし所を探すのが「和」というものではないか。