これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2014/07/11 質問をするということ

私は、教員に対し質問を発するときは、なるべく、クローズド・クエスチョンの形で問うようにしている。 すなわち、「○○なのは何故ですか」などと問うのではなく、 「○○なのは△△だからでしょうか」というような形で質問するのである。 前者のような、いわゆるオープン・クエスチョンで質問するのは簡単であり、比較的、頭を使わない。 しかし後者の形式で問うには、まず自らの頭で仮説を立てなければならず、そのためには、質問の前に、その問題についてよく考える必要がある。 このように、質問をする前に自分の頭で考える、ということ自体が、「質問をする」という行為の目的の半分を占めているのであって、 相手からの回答を取得することは、残りの半分でしかない。

このようなことを書くと、一部の学生からは「なんと自分勝手な奴だ」などという批判を頂戴するかもしれない。 しかしながら、たぶん、教員や研究者の大半は、私の考えを「あたりまえだ」と言って支持するだろう。 少なからぬ教員が、学生 CPC 等の場で「質問をせよ」と我々に教えているのは、上述のように、 質問を発するために思考すること自体が、勉強になるからである。

時には、相手からの回答を全く期待せず、単に疑問を提示することのみを目的として質問することもある。 以前、病理学の某教授に対し、次のような質問を投げかけたことがある。 「現在の病理診断は、基本的には形態学の上に立脚している。 しかし原理的には、形態学的異常を伴わない悪性腫瘍というものも、存在するはずである。 そう考えると、形態学に基づく病理診断には限界があるのではないか。」

私は、教授から何か有益な回答が得られると期待していたわけではなく、日頃の疑問を口にしてみただけのことであった。 しかし、教授は次のように即答した。 「我々の目に形態学的異常が映らなかったとしても、それは、観察の方法が正しくないからであろう。 適切な方法で調べれば、必ず、形態の異常が存在するものと考える。 まぁ、その問題については、いろいろな人に質問してみると良い。」

私は、「負けた」と思った。


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