これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2014/07/20 確率論

診断学の教科書や『ハリソン内科学』などを読むと、鑑別疾患を絞り込む過程において、 検査の事前確率が云々とか、ベイズ推定が云々とかいうことが書かれていることが多い。 私は診断学の教科書はよく読んでいないが、『ハリソン内科学』の内容と、昨年、私が講義で聴いた内容はほぼ同様だったので、たぶん、どの教科書も似たような内容なのだと思う。 これらの説明は、実は完全に間違っているのだが、なぜか訂正されない。 これは、たぶん、医学教育者の中に確率論をわかっている人がほとんどいないためであると思われる。

まず第一に、根本的な問題として、診断を確率論で議論することは無意味である。 なぜならば、診断は確率事象ではないからである。 確率論で議論しようとすれば、結局は「いかなる確率モデルを用いるか」という問題に帰着するのであるが、現実には、合理的な確率モデルの構築は不可能である。

具体例として、咳嗽を主訴に来院した患者の診断について考える。 まず問診票に「咳が出る」とだけ書いてあるのをみて、肺炎や感冒、肺癌の「事前確率」を、どのように見積もるか。 医師 K が「肺炎、感冒、肺癌、それ以外、の四つに一つだから、全て 25 % である」と言い、 医師 S が「当院における有病率から考えて、肺炎 10 %, 感冒 70 %, 肺癌 5 %, それ以外 15 % である」と言ったとする。 多くの人は、K 氏を藪医者認定し、S 氏を信頼するのではないか。 しかし確率論の立場からいえば、そもそもこれは確率事象ではないのだから「事前確率」は定義できない。 確率事象に近似して考えることはできるが、その場合、どのような確率モデルを使用するかは任意であるから、 K 氏のモデルも S 氏のモデルも、共に正当である。詳しくは「Bertrand の逆理」を調べられよ。

それでも、多くの人は S 氏のモデルを、なんとなく実用的と考えるだろう。 なぜならば、ありふれた「感冒」を、迅速に正しく「感冒」と診断できそうだからである。 しかし S 氏のモデルには、稀な疾患については高い頻度で誤診する、という欠点がある。 逆に K 氏のモデルでは、ありふれた感冒についても診断に手間を要するという弱点はあるが、稀な疾患でも正診に至りやすいという特徴がある。 どちらの立場を取るかは、各々の医師の個性の問題であろう。 結局、診断学で用いる確率には、何らの客観性もない。

第二に、診断過程ではベイズ推定は適用できないという問題がある。 複数の検査を行う際にベイズの定理を用いるには、各々の検査結果が独立であることが前提である。 しかし、たとえば咳嗽患者に対し「発熱はあるか」「痰は出るか」という二つの検査を行うことを考えれば、これらは独立ではない。 なぜならば、痰が出るということは細菌が増殖して炎症が活発に起こっていると考えられ、従って発熱することが多そうだからである。 それにもかかわらずベイズ推定を行えば、「事後確率」を適切に計算することができず、誤診につながる。

もちろん、診断を医師の感性のみに任せず、論理的に詰めることは重要である。 しかし、その際の方法論として「確率」とか「ベイズ推定」とかいう、知りもしない専門用語を用いることを、私は批判しているのである。 医学、医療の世界には、このように、よく理解していない言葉を知ったかぶって用いている場面が少なくないように思われる。

なお、「確率」という語は、医学に限らず広く世間で出鱈目な使い方をされており、 それをみる度に、私はハラワタの煮えくりかえる思いをしている。

7 月 28 日に続く
2015.03.02 誤字修正

戻る
Copyright (c) Francesco
Valid HTML 4.01 Transitional