これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
夏の学校では、残念なこともあった。 初日に行われた、乳癌における癌幹細胞に関する講演の際のことである。 この講演におけるスライドは、医師や医学部生よりは、もう少し素人に近い人を対象にしたものであるように感じられ、 発表資料の使いまわしなのではないかと感じられたことが、まず残念であった。
しかし、より重大な問題は、質疑応答の際に起こった。 私は、質疑応答の最初に挙手し、名古屋大学五年生という肩書と氏名を名乗った上で、「癌幹細胞の定義は何でしょうか」と質問した。 その際、なぜか会場から、笑いが湧き起ったのである。 私には、なぜ笑いが生じたのか全く理解できなかったが、とにかく質問の意図が伝わらなかったのだろうと考え、 「つまり、何をもって癌幹細胞というのでしょうか」と、言い直した。
以前に書いた「貧血」という語の定義を巡る混乱などからわかるように、 医学の世界では、しばしば、言葉の定義が軽視されている。 しかしながら、これも以前に紹介した前川孫次郎が主張したような理論的考察を行おうとすれば、 言葉の定義を曖昧に済ませるわけにはいかないことは当然である。 そこで「癌幹細胞」という言葉を考えると、これは定義が全く定まっていない用語である上に、 今回の講演でも明確な定義が述べられていなかったのだから、私の質問は、全く正当なものであったと思われる。 それにもかかわらず会場から笑いが起こったのは、一体、どういうことなのか、さっぱり理解できない。
何より大きな問題は、私は自分が学生である旨を明言してから質問したのにも関わらず、笑いが生じた、という点である。 ふつう、学生は「自分の質問は的を外していないだろうか、笑われないだろうか」と心配しながら、勇気を振り絞って質問するものである。 仮に質問内容が荒唐無稽であったとしても、それを笑うということは、学生の勇気をくじき、若芽を摘み取る行為である。 もちろん私自身は、あのような笑いを受けたからといって何ら萎縮することはないが、あの笑いをみた他の学生は、どう感じたであろうか。 遺憾なことに、中部地方の病理医には、教育に対する意識が決定的に欠如していると、言わざるを得ない。
私が質問をして笑われたのは、今回が初めてではない。 特に印象に残っているのは、高知で開催された原子力学会であったように思うから、「2008 年 秋の大会」であったのだろうか。 そうであれば、当時、私は大学院博士課程一年生であったことになる。 詳しい内容は忘れたが、原子炉の新しい燃料配置についての安全性の評価だか何だかを行った結果を報告する発表であり、 学術的というよりは、業務内容の報告というべき発表であった。 私は原子力発電所の管理業務についてはよく知らなかったので、原子炉物理学の観点から、 「その検査では、これこれの点についての安全性は評価できていないように思われるが、どうなのでしょうか」というような質問をした。 このとき、会場が爆笑したのである。 すると、私の後ろに座っていた重鎮と思われる人物が起立して、 「その点については、別に検査を行っているので、大丈夫である」という趣旨の発言をした。
なぜ爆笑が起こったのか、真相はわからない。 もし、無知な学生の的外れな質問を嘲笑したのであれば、極めて悪質である。 そうやって学生を辱め萎縮させることで、次代を担う人材を失い、それが学界や業界の衰退につながるのである。 しかし、たぶん、あれは、そういう笑いではなかったのだと思う。 業務として原子炉の管理を行っている人々は、決められた検査を決められた通りに行っているだけであり、 その検査の限界だとか、安全性だとかについて、自分たちで検討しているわけではない。 従って、検査自体の弱点を指摘する私の質問をそもそも理解できず、まるで言葉の通じない外国人がいきなり登場したかのように感じられ、笑ってしまったのだと思う。 上述の重鎮の人物は、そのあたりの事情を察し、ただちに私を助けに入ってくれたのであろう。
たぶん、同様の経験をした学生は、私だけではないと思う。 しかし、これらの事例は、笑った者が自らの不見識を露呈しただけのことであり、 笑われた側には何の落ち度もないのだから、諸君は、自信を持って質問するべきである。