これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2014/08/16 定義と診断基準

8 月 12 日に、癌幹細胞の定義について質問して笑われた件を書いたが、 臨床医学においては、しばしば定義と診断基準が混同されるという問題もある。 Wikipedia は論外として、医学書院『医学大辞典』などでも、定義や診断基準、あるいは典型的な症候を明確に区別していないことがあるが、 時に、これは大混乱を招く。 そこで、本記事では、定義と診断基準を区別して認識することの重要性を概説しようと思う。

たとえば、全身性炎症反応症候群 (Systemic Inflammatory Response Syndrome; SIRS) という概念がある。 これは、何らかの事情により「全身性に急性炎症反応が起こることによって生ずる一連の症候」をいう。これが定義である。 多くの場合、定義というものは定性的に述べられるものであって、具体的な検査値などを規定するものではない。 従って、定義から直接診断しようとすると、主観の入る余地が多いため、医療者間でのコミュニケーションに支障を来す恐れがある。 それゆえに、検査所見について一応の基準を設けることが有益であると考えられて設定されたのが診断基準である。 SIRS の場合であれば、「体温が 36 度以下または 38 度以上」「脈拍数が毎分 90 回以上」「呼吸数が毎分 20 回以上または PaCO2 が 32 mmHg 以下」 「白血球数が 1,2000 mm-1 以上または 4000 mm-1 以下、あるいは未熟顆粒球が 10 % 以上」の四項目のうち、 二項目以上を満足する場合に SIRS と診断するのが一般的である。 しかし、これは定義と一致しないことは明白である。 たとえば急性骨髄性白血病患者では、全身性の炎症がなくとも白血球数が減少し、発熱することもある。 あるいはインフルエンザでも、発熱して脈拍数が増加するのは自然なことであるが、特に全身で炎症が起こっているわけではない。 さらにいえば、全身性の炎症があるならば白血球数は増加または減少するはずであって、 白血球数がいつも通りであるならば、その時点で SIRS は否定できそうである。

すなわち、診断基準は臨床上の便宜を考えて定められているのであり、その疾患の必要条件でもなければ十分条件でもない。 膠原病、たとえば全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythematosus; SLE) に至っては、疾患概念も曖昧な上に臨床上の診断基準も存在しない。 一応、米国リウマチ学会が診断基準を提示してはいるが、これは主に学術研究のための客観的基準であって、 臨床的な診断には必ずしも有用ではないとされる。 これらの事情により、診断基準は必ずしも疾患の本態を反映するものではなく、 また、疾患概念を適切に表現しているとも限らない。

先日、三年生と CBT の話をしていた時、というよりも CBT の悪口を言っていた時、手近にあった「クエスチョン・バンク」を開いたところ、おかしな問題があった。 「急性骨髄性白血病においてみられないものを選べ」というような問題で、選択肢に 「発熱」とか「組織の腫脹」とかに混ざって「t(9;22) の転座」というようなものが混ざっていたのである。 もちろん、t(9;22) で有名なのは BCR-ABL であり、これは慢性骨髄性白血病や急性リンパ性白血病でしばしばみられるが、 急性骨髄性白血病では典型的ではないから、これが正解である。 BCR-ABL は定義上、慢性骨髄性白血病の必要条件ではあるが、十分条件ではなく、健常人でも BCR-ABL が認められることがある。 従って、典型的ではないが、急性骨髄性白血病でも t(9;22) の転座がみられることはあるはずであって、「みられない」と断言することはできない。 これは、定義と診断基準を混同した出題であろう。

このように、「○○の疾患において、△△はみられない」といえる例は、比較的、少ない。 例えば、胃癌において胃底腺が嚢胞状の拡張を示しながら増生することは特に典型的ではないが、しかし、そのような組織学的所見がみられても不自然ではなく、 胃底腺ポリープから癌が生じたものと推定できる。 従って、「胃癌において、胃底腺の嚢胞状の拡張はみられない」という表現は誤りである。 これに対し「胃の過形成性ポリープでは、胃底腺の嚢胞状の拡張はみられない」というのは正しく、 なぜならば胃底腺の嚢胞状の拡張があれば、それは胃底腺ポリープであり、過形成性ポリープとは区別されるからである。 このような、(少なくとも学生にとっては)マニアックな鑑別を議論するのでなければ、「△△はみられない」という条文が正しいと言える例は、稀である。

なお、私は基本的に診断基準等については、ガイドラインや教科書を参照することにしているが、 現在は旅行中のため、この記事を書くにあたり、診断基準の具体的数値は Wikipedia を参考にした。情報の正確性については不明である。

2014/08/17 「急性リンパ性白血病」を「急性骨髄性白血病」に、「瀘胞性リンパ腫」を「急性リンパ性白血病」に修正した。 とんでもなく恥ずかしい間違いであるが、瀘胞性リンパ腫で BCR-ABL がみられることは稀である。 また、急性リンパ性白血病では、しばしば BCR-ABL 陽性であり、慢性骨髄性白血病の急性転化との鑑別が問題となる。

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