これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
過日、へるす出版『救急診療指針』改訂第 4 版を眺めていて、おや、と思ったことがある。 「眺めていて」というのは、「読んでいて」といえるほど丁寧に、気合を入れて著者と向き合ってはいなかった、という意味である。
同書の 372 ページに「AMI の新定義: 心筋障害マーカーである心筋トロポニン値が上昇した場合を AMI とする定義に改訂された。」とある。 AMI とは、急性心筋梗塞 (Acute Myocardial Infarction) のことである。 この「心筋障害」が「心筋傷害」の誤りであろう、ということはさておき、この定義はおかしい、と私は思った。 心筋トロポニン、特に臨床的に重視されるトロポニン T は、筋原繊維のみでなく、心筋の細胞質にも存在する。 金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版によれば、急性心筋梗塞においては虚血早期に細胞質から可溶性トロポニン T が流出し、 4-5 日経ってから筋原繊維由来の不溶性トロポニン T が流出するという。 前者の可溶性トロポニン T は、心筋が壊死には至らない、すなわち病理学的に心筋梗塞には至っていない程度の虚血においても流出すると考えられるから、 血中トロポニン T 濃度の上昇を伴う不安定狭心症は存在するはずである、と考えたのである。
そこで、この「定義」を主張している元の文献が何なのかと探ってみたところ、 `Third Universal Definition of Myocardial Infarction' (Circulation, 126, 2020-2035 (2012).) に、たどりついた。 厳密にいえば、「救急診療指針」は、この文献より古いので、同書の記載の根拠は別の文献であろうが、そのあたりは枝葉末節であろう。 `Third Universal Definition' は、それなりに長い報告なので全部を読んではいないが、定義については、次のように記載されている。
The term acute myocardial infarction (MI) should be used when there is evidece of myocardial necrosis in a clinical setting consistent with acute myocardial ischemia. Under these conditions any one of the following criteria meets the diagnosis for MI:
私が訳すと、次のようになる。
急性心筋梗塞という語は、心筋虚血が存在すると考えられる臨床的な状況において、心筋壊死が認められた場合に用いられるべきである。 この観点から、以下の基準のいずれかに合致する場合には急性心筋梗塞と診断できる。
99 パーセンタイル基準値上限、というのは「健常人のうち 99 % は、血中トロポニン T の濃度がこの値以下である」というような基準値のことである。 つまり、健常人であっても 1 % の人は、この値を超えているわけである。 換言すれば、この診断基準は、実は心筋梗塞ではなく不安定狭心症であるような患者について、1 % 程度は急性心筋梗塞と誤診しても仕方ない、と考えていることになる。 心筋梗塞を見逃すリスクの方が、この誤診よりも重大であるという判断であろう。 さらにいえば、この診断基準では血中トロポニン T 濃度の「高値」を問題しているのであって、「上昇」ではない。 「上昇」というのは、同じ人の過去の検査値と比較した場合の話であるから、両者は区別を要する。 もちろん、血中トロポニン濃度が基準値上限未満であっても、濃度上昇があるならば、心筋傷害を疑うのは合理的である。 実際には、臨床医の中には「高値」のことを「上昇」などと表現する者も多いが、たぶん、彼らは臨床検査医学に疎いのであろう。
また、この `Third Universal Definition' では、トロポニンは、あくまで診断基準として記載しているのであって、定義ではない。 日本の救急医療関係者には診断基準と定義を区別しない人が少なくないらしく、 日本版敗血症診療ガイドラインにおいても、 全身性炎症反応症候群 (Systemic Inflammatory Response Syndrome; SIRS) や敗血症の診断基準を「定義」と表現している。 しかし本来、「定義」とは「必要十分条件」と同義である。 「急性心筋梗塞の定義」を満足しない急性心筋梗塞は一例として存在せず、また「急性心筋梗塞の定義」を満足する患者は例外なく急性心筋梗塞である。 このあたりの言葉の用法に注意が必要である。