これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/09/17 病理解剖における説明責任

9 月 21 日の記事も参照されたい。

人が死亡した時、日本国においては、事件性があると判断され、かつ必要と認められれば、司法解剖が行われる。 これは、犯罪捜査のための情報収集などを目的とした解剖であり、遺族は、拒むことができない。 これに対して病理解剖は、患者本人や遺族の同意の下で、患者の体の中で本当は何が起こっていたのかを究明し、 今後の医学の発展のために、未来の別の患者のために、情報収集する目的で解剖するものである。

中には、病理診断には関心があるが病理解剖はやりたくない、という理由で、病理医にはなりたくない、と考える者もいるらしい。 その一方で、誰であったか忘れたが、「病理解剖は、医師が患者に提供する、最後の奉仕である」と、その使命の崇高なることを説いた人もいる。

考え方は人それぞれであるが、たぶん、私のように「ぜひ解剖して欲しい、それも、できれば学生とか研修医とか、若い人にやってもらいたい」などと考えるのは、少数派であろう。 「どちらかといえば、解剖されたくはない」というのが日本人の多数意見なのではないか。 それにもかかわらず「未来の誰かの役に立つのなら」と、解剖を承諾してくれる患者諸氏の厚意を、我々は、決して無駄にしてはならぬ。

現代の医療においては、患者は、自身の病状について正確なことを「知る権利」と、「知らされない権利」を持っており、 治療方針を決定する権利を独占している、と考えられている。 「独占」というのは、医師は助言をするだけであって、決定する権利はない、という意味である。 話は若干逸れるが、家族や遺族にも、患者の情報を知ったり治療方針を決定したりする権利はない。 臨床現場では、トラブル回避の目的から、意識のない患者等について無断で家族に情報提供したり、治療方針の決定を家族に委ねたりする場合があるようだが、 本当は、こうしたやり方は法令に抵触する恐れがある。

それはさておき、法的なことはともかく道義的には、この患者の権利に対する考え方は病理解剖に対しても適用されるべきであろう。 すなわち、解剖された患者には、解剖の所見や、それによって為された医学への貢献について、知る権利がある。 従って、執刀した病理医は、必要とあらば患者に対し正確に説明できなければならない。 しかし、患者は既に死んでいるのだから、と、無意識のうちに軽んじてしまっているのではないか、との疑念を抱かざるを得ない事例を、私は、遺憾ながらみたことがある。 詳細は、さすがに、ここには書けぬ。

あなたの厚意は、明日の医療に役立てるのために確かに受け取りました、と、心を込めて一礼できる病理医に、私はなりたい。


戻る
Copyright (c) Francesco
Valid HTML 4.01 Transitional