これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/09/14 「当てる」

以前行われた脳神経外科学の試験は不合格であったので、本日、再試験を受けた。 本当は、本試験の前に通読できなかった医学書院『標準脳神経外科学』第 13 版をキチンと読んでから受験したかったのだが、 ここ三週間ほど抑鬱状態が続いており、勉強できる状況ではなかった。 昨日夕方、ようやく、なんとか勉強にとりかかったのだが、到底、通読できるような状態ではない。 やむなく、脳血管障害の部分だけ読み、同書の付録である演習問題を解き、本試験を簡略にみなおしただけで受験した。 要するに試験対策特化型の姑息的勉強であり、批判されるべき姿勢である。

やってみて思うのだが、やはり、この勉強法は、間違っている。 出題者の意図を汲み、正解をある程度「当てる」ことは、できるようになる。 しかし、何もわからずにパターン認識で「当てる」のは、コンピューターの得意分野を真似しているだけであって、人間のやるべき仕事ではなく、もちろん、学問でもない。

「当てる」ための勉強を擁護する勢力からは「どこが重要なのか把握する助けになる」という意見も聞かれるが、それは誤りである。 何が大事かなど、人によって、立場によって、異なるのではないか。 なぜ、先生のおっしゃることが大事であると思うのか。なぜ、自分の頭で考えないのか。 だいたい、「試験に出る内容」と「大事な内容」が実は異なることぐらい、皆、本当はわかっているのではないか。

臨床医として働く、という点だけからみれば、「当てる」ことさえできれば十分なのかもしれない。 その意味では、職業訓練学校である一部の医科大学等の学生であれば、それで良い、という考えもあるだろう。 しかし明日の医学・医療を開拓せんと志すならば、すなわち京都大学や名古屋大学等の医学科生であるならば、はたして、どうだろうか。

「当てる」ための勉強が主流になってしまった医学科の現状において、私のように心の弱い者が正統な勉強法を貫こうとすることは、容易ではない。 ましてや、教員が、そういう勉強法を推奨しているような状況においては、なおさらである。 しかし、それは、私が再試験不合格を恐れて姑息的勉強を行ったことを正当化する理由にはならない。

自らの不明を恥じ、悪行を為したことを忘れぬために、ここに記録しておく。


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