これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
学問の世界においては、年次などというものは、ほとんど何の意味も持たない。 たとえば大学院生の場合であっても、研究遂行能力であるとか、発表技術だとかいう点について、上級生の方が下級生より優れている、という傾向は、あまりみられない。
かつて大学院時代、私は、相手が上級生であろうが下級生であろうが構わずに、その主張する内容について納得のいかぬ点は全力で批判した。 それが、科学に対する誠実な態度であると信じていたからである。 この件について、大学院を中退する際、教授からは、もう少し指導的というか教育的な配慮が欲しかった、という趣旨のことを言われた。 この教授の言葉は、理解できる。たとえ科学的に誠実であったとしても、その言葉が相手の心に届かなければ、学問的にも教育的にも、価値が乏しいと考えられるからである。
しかし、これについては、今でも迷っている。 中学校や高等学校ならともかく、大学において、教員と学生、あるいは学生同士の指導は、どうあるべきなのか。 常に対等の立場として議論するのが、旧制第三高等学校時代から続く、我が京都大学の伝統ではなかったか。 他人を指導する、などという、おこがましい考えは、学問の場にふさわしくないのではあるまいか。
対等に接する、という意味では、小児相手の臨床実習が想起される。 私は、小児医療に特別強い関心があったわけではないのだが、なりゆき上、小児や乳児、あるいは新生児の診察を行う機会が、何度かあった。 だいたい小児科では、聴診することを「モシモシする」などと表現することが多いようである。 しかし私は、この種の「子供扱い」が苦手である。 自分が幼少の頃、そういう対応をされて不快に感じた記憶があることが、その一因であろう。 従って、私は小児や新生児が相手でも、大人に対するのと同様に、一貫して「胸の音を聴かせてください」などと表現している。 もちろん基本は敬語である。
ある時、某小児科教授も若い頃は幼児相手にも全て敬語であった、という話を聴いて、私は、安心した。