これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
正直に言うと、私は、患者と接するのは苦手である。苦手なだけでなく、好き嫌いでいえば、どちらかというと、嫌いである。 すると、大抵の人は「君は、医師に向いていないのではないか」と言うであろう。 もし医学科の入試の面接であれば、たぶん、これを言った時点で不合格になるであろう。 しかし、本当に、それは医師にとって重要な資質なのか。医師と看護師を混同してはいないか。
「患者さんと接するのが好き、得意」と自称する学生や医師の中には、基礎医学に疎く、それどころか臨床医学にも疎く、 単に臨床手技と診断マニュアルだけを身につけている者も少なくない。 彼らには、医師としての資質があるというのか。
一部の学生や医師の、患者さんと話をするのが好き、という心情には、邪な優越感から発している面はないだろうか。 診てあげる、治してあげる、という、明確な上下関係からくる優越感である。 患者をみて「かわいそう」と思うことはあっても、医師自身が苦しむことはなく、その意味では、実に楽な立場にいる。 しかも、それで高額な給料をもらえるのだから、たいへん、結構なご身分である。
臨床実習では、適切な診断ができずに苦心する例や、適切な治療を行うことができない例にも遭遇するし、時には誤診した例をみることもある。 そうした時、患者と接するのが大好きな学生は、一体、何を思っているのか。 彼らの本音についてはよくわからないが、だいたい、彼らは自分や医療者に甘いのではないか。 「誤診したのは、明確な所見がなかったのだから仕方ない」とか、「患者が死亡したのは、そもそも治療法がなかったのだから仕方ない」とかいう具合である。 本当に所見はなかったのか。検査所見の解釈は、適切であったか。 CT を撮らなかった主治医の判断は適切だったのか。本当に治療法はなかったのか。ガイドラインの記載は信頼できるのか。
彼らは、ガイドラインや診療マニュアルに従って、訴えられない程度の診療さえ行っていれば、自分に合格点を出しているのではないか。 既存の枠組みを越えて患者を助けに行くことは、自分ではない、誰か他の人の仕事であると思ってはいないか。 本当に、患者のことを考えているのか。 そういう無責任な人間に、本当に、医師としての資質があるのか。
ひょっとすると、彼らのいう「医師に向いている」という言葉は、「訴訟リスクを回避する」「医師としてうまく立身出世する」という意味なのかもしれない。 それならば、認める。彼らは医師に向いているし、私は、明らかに医師に向いていない。見境なしに突撃しすぎであることは、私も自覚している。 だが、そういう「医師に向いていない医師」を欲する大学や病院もあり、そうした大学こそが、明日の医学・医療を切り開くのである。