これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/07/19 付和雷同

昨日の記事で、引用回数をもって論文の評価基準とすることはくだらない、と述べた。 しかし純朴な学生などの中には、このくだらなさを理解できない人もいるだろうから、解説する。

そもそも、引用とは、必ずしも「過去の優れた業績を紹介する」という意味で為されるものではない。 「誤った理解を世に広めてしまった罪深い報告を紹介する」というような、悪い意味での引用も、ある。 ただし、これは数としてはそれほど多くないだろうから、あまり気にしなくても良いだろう。 そこで以下の議論では、おおまかな近似として「引用する」という行為を「褒める」という意味に理解しよう。

「たくさん引用されている論文は価値が高い」という判断は、つまり「多くの人から褒められている論文は価値が高い」という考えに基づいている。 しかし、はたして、それはどうだろうか。 現代においては、星の数ほどの論文が、日々、発表されている。 当然、その著者の中には、優秀な研究者もいるだろうが、そうでない研究者も多いはずである。 また、論文を引用する際には、本当はその対象論文に対し充分に批判的吟味を加えた上で引用するべきであるが、それを本当に実行している者が、はたして、どれだけいるだろうか。

これに関係する話として、リチャード・ファインマンは著書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』の中で、次のように記載している。 第二次世界大戦後の一時期に、リチャードはカリフォルニア州教育委員会の教科書選定委員をしていたが、嫌になって辞めた頃の話である。 長くなるが、重要な話なので、引用する。

一見なかなか良さそうに見えるくせに、だんだん読み進んでゆくと化けの皮がはがれて、本当はおよそお粗末なことがわかってくる。 たとえば四つの絵で始まる本があった。第一の絵は、ぜんまいじかけのおもちゃ、第二は自動車、 第三は自転車に乗った男の子の絵で、第四は何だったか忘れてしまったが、とにかくその一つ一つの絵の下に、 「これは何の力で動くのだろう?」と書いてある。

僕は「ははあ、さてはおもちゃのぜんまいの例から機械の話、自動車のエンジンはどのように動くかを例にとって化学の話、 それから筋肉の動きの例から生物学を話そうというのだな」と察しをつけた。

これなら僕のおやじが話してくれそうなことだ。「お前、何が物を動かしていると思うかね?それはね、実は太陽が照っているからなんだよ。」 それから僕とおやじとで、きっとこれについて次から次へといろんなことを喋りあって大いに楽しんだことだろう。

「ちがうよ。おもちゃはぜんまいが巻いてあるから動くんだよ」と僕が言うとする。するとおやじなら、

「じゃあどうやってぜんまいが巻かれたんだい?」

「僕が巻いたんだよ。」

「それでお前はどうして動けるんだい?」

「物を食べてだよ。」

「その食物は太陽が照るからこそ育つんじゃないか。つまり太陽が照っているから、物は皆動けるんだよ。」

こういう話し方なら運動というものは単に太陽のエネルギーの変形だという概念をはっきりのみこませることができるはずだ。

僕は期待をもって次のページをめくった。ところが答は、ぜんまいじかけのおもちゃのところでは、「これはエネルギーによって動いているのです。」 自転車に乗った男の子のところでも、「これはエネルギーによって動いているのです」と書いてある。 どれもこれも「エネルギーによって動いているのです」だ。

しかし考えてみるとそれだけでは何の意味もなさないではないか。 エネルギーの代りに「ワカリクセス」という言葉だったらどうだろう? 「ワカリクセスによって動いているのです」というのが一般の法則だということにしてみたところで、これからは何の知識も得られはしないではないか。 子供はこれによって何も学びはしない。「エネルギー」だって「ワカリクセス」だって、そのままではただの単語に過ぎないのだ!

ここでぜんまいじかけのおもちゃの中身を調べて、中にぜんまいのあるのをみつけ、ぜんまいについて、そして車輪について学ぶのが本当なのだ。 「エネルギー」なんかどうだっていいじゃないか! しばらくあとになって子供たちが、そのおもちゃは実際にどのようにして動くのかをある程度理解したところで、 はじめてエネルギーのもっと一般的な法則について話し合うことができるというものだ。

(中略)

後になって僕は、カリキュラム委員会が例の「エネルギーによって動くのです」という本を教育委員会に推薦することになったということを聞き、 もう一度だけ最後の努力をしようと思いたった。 そこで僕は公聴会に出席して (カリキュラム委員会の会議では、いつも一般の人も意見が述べられるようになっていた)、なぜこの本が良くないと思うかを説明した。 すると僕の代りに委員になった男が、「しかしあの本は○○航空機会社の六五人もの技師が良いと認めたんですよ」と言った。

なるほどその会社にはたくさん優秀な技師がいるには違いない。 だが六五人もの技師では、さぞその能力の程度も違うだろうし、数の中には無能な連中もいれなくてはなるまい。 (中略) その会社の技師の中から優秀な者だけを選ばせ、その連中に教科書を読ませる方がはるかに賢明な選考法だったはずだ。 僕が六五人の技師の誰よりも利口だと断言することはできないがいくら何でも六五人の平均よりはましなはずだ!

それでもその男は僕の言っていることがさっぱりわからず、とうとうかの本は教育委員会選定教科書として採用されることになったのだった。

つまり「皆が褒めているから、この論文は立派なのだろう」と考えることは、すなわち「私は無能でございます」と言っているに等しい。

たぶん医学科の学生の多くは、このリチャードの記述に対して「まわりくどくて、何を言いたいのかよくわからない」というような感想を持つのではないか。 結論だけを端的に教えられ、それをひたすら暗記する、というような勉強法を二十余年にもわたって続けてきた弊害である。 諸君は、大学に入ってからの六年間で、理工系の学生に比べると、知性の面で遥かに遅れてしまったということを、認識するべきである。 その上で、知性を取り戻そうとするのであれば、ただちに、試験対策特化型の勉強を放棄するべきである。 結果として留年、浪人することになったとしても、人生全体を通してみれば、間違いなく、その方が自身や患者の利益に適う。


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