これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
「かもしれない」とか「否定できない」とかいう言葉は、便利である。 「感染を否定できないので抗菌薬を用いる」とか、「多剤耐性菌かもしれないのでカルバペネムを使う」とかいう具合である。
物理系の学生は、大学に入ると、まず「『かもしれない』という言葉を使ってはいけない」と教わる。 「かもしれない」で良いのなら、何でも言えるのであって、その発言には意味がないのである。 「感染症かもしれない」という場合には「感染症ではないかもしれない」のであって、全く無責任で、情報を含んでいないのである。 だから、実験レポートや論文などの真面目な文章には「かもしれない」という表現は、決して、使わない。
一部の人は「臨床現場では、充分な鑑別診断を行う時間的余裕がないことも多く、『かもしれない』で治療を開始せざるを得ない」と反論する。 具体的には敗血症に対する治療などが念頭にあるのだろう。 実際、敗血症診療ガイドラインにおいても、敗血症が疑われる状況においては、確定診断を待たずに治療を開始することが推奨されている。
しかし、それでも「かもしれない」という語を、認めるわけにはいかない。 「かもしれない」を認めてしまうと、たとえば、次のような主張が成立してしまう。 「心肺停止しても、必死に祈祷を行えば、生き返るかもしれない」 「アガリクスを飲めば、癌が治るかもしれない」 「肺癌でも、放っておけば勝手に治るかもしれない」 なにしろ、これらの「インチキくさい」治療法を否定する証拠は存在せず、「かもしれない」という意見を否定することはできないのである。 特に、肺癌の例についていえば、経過観察で免疫機構により治癒する例は、確かに存在するらしいのである。
多くの学生は、これに対し「アガリクスにはエビデンスがない」などと反論するが、エビデンスのない治療など、いくらでも存在する。 彼らは「エビデンス」という言葉を、都合の良い場合にのみ後付けで用いているのであって、実はエビデンスの有無によって治療方針を決定しているわけではない。 本当は「ガイドラインにそう書いてあるから」とか「偉い先生がそう言っていたから」というような理由で、治療方針を決定しているのである。
つまり「かもしれない」という表現は、別の理由で結論が既に決まっている場合に、後付けで、もっともらしく説明する目的で利用されているに過ぎない。 先の敗血症の例でいえば、本当は「敗血症かもしれない」という理由で治療を開始しているのではなく、別の合理的根拠に基づいているのである。 すなわち、特異度は低くても感度の高い所見が複数あるならば、「敗血症である」と診断して治療を開始することは有益だと考えられている。 「敗血症かもしれない」と考えているのではなく、「敗血症である」と断言しているのである。 結果的に、後から「敗血症ではなかった」とわかったならば、その時、診断を修正すれば良い。
この「間違っていたら後から修正すれば良いのであって、とりあえずは断言する」という姿勢は、科学の世界では常識である。 間違い、それを訂正することの積み重ねによって、社会は進歩するのである。 これに対し「間違ってはいけない」などと尻込みして、無難に、予防線を張って「かもしれない」と謙虚に述べることは、結果として、何も生み出さない。
間違ったとしても、それが合理的な推論であったならば、後で訂正すれば問題ない。 しかし「かもしれない」と述べて論理の通らない治療を行うことは罪である。 このあたりに、名医と凡医の境界があるのではないか。