これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
たぶん、ほとんどの学生は、血圧というものを理解していない。 物理学、特に力学をキチンと修めていないのだから、仕方のないことではある。 これは、どうやら日本の医科学生に限ったことではないらしい。 米国の著名な教科書である `Guyton and Hall Textbook of Medical Physiolosy 13th Ed.' をみても、「学生にどうやって血圧の概念を教えるか」で苦労している様子がうかがえる。 そして残念なことに、キチンと理解できる説明には、なっていない。 「ガイトン」ですら、こうなのだから、たぶん世の中に、血圧を適切に教えている生理学の教科書は存在しないのではないかと思う。 そこで私がガイトン先生の代わりに、何回かに分けて、血圧という概念を解説することにしよう。 もちろん、我々は医者であって物理学者ではないから、物理学的に本当に厳密な議論は、しない。 相対性理論だの素粒子だのといったムズカシイことは省略して、しかも微分積分の細かな議論はゴマカシてしまおう。
まず「力」とは何か、ということは、議論しない。マジメに議論すると、ものすごく難しい話になるからである。 だいたい日常生活における「力」のイメージのままで、構わない。 力の大きさは、ふつう、「ニュートン」の単位で表す。ニュートンを表す記号は N であって、1 N とは 「質量 1 kg の物体に対し、毎秒 1 m/s の加速度を与える力の大きさ」である。 従って「N」という単位は、「(kg m) / s2」という単位と全く同じである。 たとえば、体重 60 kg の学生が毎秒 3 m/s の勢いで加速しているとすると、この学生には 180 N の力が加わっているはずだ、ということになる。 余談であるが、私は中学生だか高校生だかの頃に、この「毎秒 1 m/s」という表現を用いたところ、教師から「m/s2」とする方が良い、と指導された。 まぁ、物理の世界では確かにそうなのだが、加速度という概念を簡明に、素人にもわかりやすく伝えるには、「毎秒 1 m/s」の方が良いと、今でも思っている。
次に「圧力」である。圧力とは「単位面積あたりに加わる力」のことをいう。 圧力の大きさは、ふつう、「パスカル」の単位である。記号では Pa であって、1 Pa とは 「1 m2 あたり 1 N の力が加わっているときの圧力」のことである。 たとえば、3 m2 の板の上に 12 N の力が加わっている場合、板にかかる平均の圧力は 4 Pa である。
まぁ、ここまでは問題あるまい。ヤヤコシイのは次からである。
「血圧」というのは、「血管内を流れる血液の圧力」である、と、いいたいところであるが、上述の圧力の定義からは、「液体の圧力」というのは意味がわからない。 血管内に微小な領域、たとえば小さな架空のガラス板が存在すると考えて、そのガラス板を押す力、とでもいいところだが、 直観的には、そのガラス板を置く向きによって「押す力」も変わりそうな気もする。 いや、それ以前に、ガラス板を置くことによって流れが変わってしまい、何をみているのか、わからなくなってしまうではないか。 どうやら、血圧というものを定義する前に、我々は「圧力」の概念を拡張して、もっと広い意味で定義し直す必要がありそうだ。
いきなり「液体の圧力」を考えるのは難しいから、まずは「気体の圧力」を定義することにしよう。 それも、一般論だとワケがワカラナクなるから、「密閉された容器に入っている気体の圧力」に限ることにしよう。 しかも都合の良いことに、この容器の蓋はピストンになっていて、我々が自由に押したり引いたりできる仕掛けになっていることにする。 もちろん、このピストンはすごく軽くて、質量は 0 と近似できるものとする。
まず、我々がピストンに触れていないとき、容器内の気体の圧力は、場所によらず一定であり、0 Pa である、と定義してしまおう。 「場所によらず一定」として問題ないのか、という疑問もあるだろうが、とりあえずは、そう決めてしまう。 もし後で問題が生じたら、その時に定義を修正すれば良い。 また、物理を少し勉強した人なら「0 Pa ではなくて 1 気圧じゃないの?」と思うかもしれない。 それは完全に正しい指摘なのだが、医学では、大気圧を基準とした相対圧力を使うのが普通である。 後でわかることだが、その方が臨床的には便利なのだ。
さて、我々がピストンを押したり引いたりしている時、我々はピストンに圧力をかけていることになる。 この「ピストンにかかっている圧力」のことを、「中の気体の圧力」と呼ぶことにしよう。 これにより、かなり特殊な状況に限られるが、気体の圧力を定義することができた。
次に、血圧計を作ろう。 我々の (架空の) 血圧計は、中に空気を容れた小さな袋である。この空気は、ふつうの環境では 1 nL の体積を持っている。 もちろん、nL というのは μL の 1000 分の 1 を表す単位である。 この袋を、さきほどのピストン付き密閉箱に入れ、温度は 37 ℃に保ったままで圧力を様々に変えてみよう。 イロイロ実験してみたところ、どうやら、「箱の中の圧力」と「袋の体積」とは、一対一に対応するらしいことがわかった。 「なんで、そうなるのか」というのは、たいへん適切な疑問なのであるが、その議論をここで始めると読者がいなくなってしまうから、後回しにしよう。 とりあえず一対一対応であることが「経験的に」わかったから、我々は、圧力を様々に変えて血圧計の体積を測ることで、両者の関係を一覧表なりグラフなりにすることができる。
血圧を測定する際には、この血圧計をカテーテルの先端にとりつけて、患者の血管内に挿入する。 そして任意の部位に血圧計が届いたら、超高分解能の CT で血圧計の体積を測定するのである。 すると、さっき作った一覧表を使って体積を圧力に換算することで「血液の圧力」がわかる、という寸法である。
以上により、我々は「血圧」を「(架空の) 血圧計で測定できる値」として定義することができた。 定義はできたが、こんな強引な定義であるから、一体、血圧というものにどんな意味があるのかは、まだわからない。
ところで、なぜ、飛行機は空を飛ぶことができるのか。誰しも、子供の頃は不思議に思ったであろう。 そして周囲の大人は、誰一人、納得できる説明をしてくれなかったに違いない。 中学生か高校生の頃に、ふと疑問に思って調べてみた人もいるであろう。 すると「ベルヌーイの定理が云々」と書いてあって、たぶん、大半の人は理解できずに、やはり諦めたのではないだろうか。
実の所、血圧も飛行機も、同じような話なのである。ベルヌーイの定理抜きには、どちらも理解できない。
ベルヌーイの定理というのは、要するに流体に関するエネルギー保存の法則である。高校時代に習った、アレである。 ただ、流体ならではの項が入ってくるから、少しだけ複雑にみえるに過ぎない。 そこで次回は、ベルヌーイの定理の話をする。