これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
心臓には Overdrive Suppression という現象がある。日本語では高頻度駆動抑制などと訳されることもあるが、 そのままオーバードライブ サプレッションと言う方が、よく通じるであろう。 心臓の調律は、普段は洞房結節が担っているが、病的状態では房室結節や His 束、あるいは Purkinje 繊維などが調律を担うこともある。 しかし、洞房結節からの信号が突然、途絶えた場合、たとえば完全洞房ブロックが発作性に生じた場合などは、 房室結節による補充調律が直ちには生じない。 そのため、数秒から数十秒、あるいは一分以上の期間にわたり心静止してしまう。 このように、頻回の刺激を受けている特殊心筋の自動能が抑制される現象のことを Overdive Suppression と呼ぶ。
たとえば房室結節リエントリー性の上室性頻拍の患者に対し、迷走神経刺激法によるリエントリーの解除を試みる場合を考える。 このとき、もし洞房結節が Overdrive Suppression により自動能を一過性に失っているならば、リエントリーを解除すると直ちに心静止するであろう。 単純に考えると、脳が重篤な傷害を受けたり、死亡する恐れがあるので、速やかに胸骨圧迫を行うべきではないか、とも思われる。 はたして、迷走神経刺激法というのは、それほど危険な手技なのだろうか。 それとも、洞房結節は Overdrive Suppression を来さない何らかの機構を備えているのだろうか。
そもそも Overdrive Suppression は、どういう機序によるのであろうか。 `Hurst's The Heart 13th Ed.' をみると、 「よくわからないが、細胞内へのナトリウムイオンの蓄積により Na-K ATPase の活性が亢進するせいではないか」というようなことが書かれている。 一見、論理は通っているのだが、この理屈が正しいならば、洞房結節も Overdrive Suppression を来すはずである。本当だろうか。 Vassalle によるレビュー (Circulation Research 41, 269-277 (1977).) は、Overdrive Suppression の研究の歴史をよくまとめたものである。 この歴史を、簡略にまとめて紹介しよう。
Overdrive Suppression の現象は、臨床ではなく基礎生理学の研究の中で発見されたらしい。 これを初めて明確に記載したのは、1884 年の Gaskell の報告のようである。 しかし、この頃には Overdrive Suppression と、迷走神経刺激による自動能低下は明確に分けて認識されておらず、混乱した議論が続いた。 というのも、実験的に動物の心臓を電気刺激した場合、心筋だけでなく迷走神経も刺激されてしまうため、何が起こっているのか、あまり明確にできなかったのである。
この分野の議論が進んだのは 1960 年代に入り、人工ペースメーカーが臨床的に使われ始めてからである。 人工ペースメーカーが故障して動作停止した場合、Overdrive Suppression による心静止のために患者は死亡する恐れがある。 それを防ぐためにはどうすれば良いか、という観点から、Overdrive Suppression の機序を解明する必要がある、という認識が広まったのである。 こうした必要に応えるような研究を興すことができたのは、それまで臨床的な要求とは関係なしに 基礎生理学的基盤を築いてきた Gaskell や Erlanger, Hirschfelder らの功績である。 ノーベル賞をはじめとして科学的業績を表彰することの問題点は、こうした先人の働きが低く評価され、 最後に形を仕上げた者だけが高く評価される点にある。
話を元に戻すが、1963 年、Vincenzi と West は、細胞内に電極を配置したり印加電圧を適切に設定することにより、迷走神経の刺激を避け心筋を選択的に刺激した。 この場合も、Overdrive Suppression は生じたのである。 さらに 1965 年、Lange は迷走神経を切除しても Overdrive Suppression に変化は生じないことを示した。 これらの研究により、Overdrive Suppression は迷走神経刺激とは別の現象である、という事実が明確になったのである。
1977 年の時点では、Overdrive Suppression は、細胞内の Na イオン濃度上昇、もしくは K イオン濃度の低下により、 Na-K ATPase の活性が亢進しているためであろう、する意見が多かったようである。 つまり、このポンプは膜電位を低く、つまり「大きなマイナス」にする方向に働くから、第 4 相の緩徐脱分極を抑制する、という理屈である。 論理はもっともらしいが、本当に、そんなことで興奮は抑制されるのだろうか、と考えるのは自然なことである。 この点について、Gadsby と Granefield は、1979 年、細胞内 K の枯渇ではなく Na の蓄積によってポンプが活性化している、ということを実験的に示したらしい。 この実験は面白そうなので、彼らの報告はキチンと読んでおこうとは思っているが、まだ目を通していない。
以上のことから考えると、理屈としては、洞房結節でも Overdrive Suppression は起こるはずだ、といえる。 実際、起こる。 いわゆる洞不全症候群の診断目的で行われる洞房結節回復時間というのは、この Overdrive Suppression から回復する時間を測定するものである。 しかし洞房結節の場合、His 束などに比べると、この回復が非常に速いようである。 従って、リエントリーを解除する目的での迷走神経刺激法で患者が死亡することは、よほど特殊な状況でない限りは、ない。 こうした洞房結節の特殊性は、カルシウムチャネルが云々という事情が関係するようであるのだが、そろそろ長くなってきたので、続きは別の機会にしよう。