これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
ある友人からThe World Economy Forumが The Global Gender Gap Index 2015という報告を発表したことを教えられた。 標題の通り、世界各国における男女隔差を数値化したものである。 たいへん興味深いものであるので、キチンと読もうと思ってはいるが、なにぶん私は日本語に比べて英語が不得手なので、少し時間がかかるかもしれない。
この記事は、数値の算定方法と日本に関する数値だけを簡略にみただけの時点で書いている。 しかし、それだけでも、この index が信用ならない、ということは確信できた。 この報告に挙げられているスコアは、おおまかにいえば男女が完全に等しいときに 1, 全く等しからぬときに 0 となるものであり、「客観的」な統計的に基づいて計算される。 日本について、Education の分野については隔差が小さく、全 145 ヶ国中で 84 位ではあるものの、スコア自体は 0.988 と、そこそこ高値である。 私の印象では、日本における男女の教育隔差は、かなり大きく、0.988 という値は、高すぎるように思われる。 そこで首をかしげながらスコアの算定方法をみて、納得した。 Education に関するスコアは、初等教育や中等教育、高等教育を受けている人の割合の男女差をみているものであって、 しかも重み係数の関係上、高等教育の有無は、あまり重視されていないのである。
日本の場合、男女問わず、ほぼ全員が中学校までの教育は受けているし、高校への進学率も高い。大学進学率は女性の方が低いが、それでも少なからぬ女性が大学に行く。 従って、スコア算定の上では、あまり男女差がないようにみえる。 ただし、ここでは、京都大学も、地方の女子短大も、同じ扱いである。 日本の大学、特に物理系では男女比の偏りが著しく、京都大学工学部物理工学科では、私の同級生の 97 % が男性であった。 もちろん、入試の時点で女性が男性より不利な扱いを受けているわけではないだろう。 また、欧米では女性の物理学者など珍しくないのだから、これが生物学的な男女差に由来するわけでもないだろう。 要するに日本においては、無茶苦茶な話であるが、「女は物理や数学なんか、やるものではない」という暗黙の認識が未だに広く存在し、 女性は幼少の頃より、そういう教育を受けているものと推定される。 こうした不当で無意味に差別的な取り扱いは、残念ながら数値化しにくく、この報告には取り入れられていないのである。
男女分離主義者の主張として典型的なのは「男と女は生物学的に違うのだから、相応の差異は生じて然るべきである」というものである。 それは、その通りであって、たとえばトイレを男女別に設けることは合理的であるし、 また法的な婚姻を男女間に限定することが明らかに不当であるとまではいえない。 ただし、子供を作らない、あるいは作れない異性カップルも婚姻制度により法的に保護されることを思えば、 同性カップルを同様に保護する法的制度は必要であろう。
我々が問題にしているのは、そうした生物学的な差異の限度を超えた社会的隔差である。 たとえば上述の物理教育に関していえば、暗黙のうちに、女性が物理や数学の教育を受ける機会を制限していることが問題なのである。 これは男女平等の権利という観点からも問題であるが、才能の芽が埋もれ、人材を有効活用できていないという点も重要である。 平たくいえば、無能な男性を一人の技術者として雇い、その妻を家事に専念させるよりは、 有能な女性を一人の技術者として雇い、その夫を家事に専念させた方が、社会的に有益である。 女性は出産が云々という意見もあるが、そんなものは適切な社会制度さえあれば何とでもなることが、欧州諸国で既に証明されている。
この問題は、男女双方の多数派に問題がある。 男性の中には、「女より優位にありたい」「女を支配下に置きたい」という歪んだ野蛮な欲求の持ち主が、遺憾ながら少なくないのではないか。 たとえば、自分より恋人あるいは妻の方が高収入であることがわかった時、落ち着かない気分になる男は少なくないのではないか。 また少なからぬ女性にも、容姿・容貌を気にしすぎるきらいが、あるのではないか。 もちろん、人間であれば、男女を問わず、美しくありたいと思うのは当然である。ここで言っているのは、程度の問題である。
こうした点について、分離主義者は次のように述べるであろう。 「本人が納得しているなら、良いではないか。女性にだって、機会は均等に与えられているのだから、それで良いではないか。」 しかし、上述の教育のことを考えれば、本当に機会が均等であるとは思われない。 また「本人が納得しているなら良い」という理屈に対しては、次回、反駁する。