これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/11/18 Fontan 手術

私は外科学に疎い。何より手先の作業が苦手なので、外科というものが、どうにも好きになれないのである。 だが外科理論は、面白い。 「なぜ、手術の後には体液が貯留傾向になるのか?」という問題は非常に興味深いのだが、この件は、また別の機会に述べることにしよう。 本日の話題は、先天性三尖弁閉鎖症などに対して行われる Fontan 手術という手術法である。 この手法については T. B. Fredenburg らがレビュー (Radiographics 31, 453-463 (2011).) を書いているので、これを踏まえて概説する。

三尖弁というのは、右心房と右心室の間にある弁のことであるが、これが先天的に閉鎖または高度狭窄している例がある。 その場合、たいてい、心房中隔欠損と心室中隔欠損を合併している。 ふつう、心臓の発生過程では心室中隔や心房中隔が形成され、ヒトは二心房二心室になるのだが、なぜか、 三尖弁閉鎖がある場合には、この中隔形成が不完全になるのである。詳しい機序は、知らぬ。 ともあれ、この中隔形成不全のおかげで、右心房から左心房、左心室、右心室を経て、静脈血は三尖弁を通らずに肺動脈に達することができるので、 一応、出生することができる。 もし中隔が完全に形成されてしまったら、血液は循環することができなくなり、死産となるであろうが、なぜか、そうはならないのである。

三尖弁閉鎖症においては、大静脈から来た静脈血と肺静脈から来た動脈血が右心房で混ざってしまうため、大動脈を流れる血液の酸素飽和度が低くなる。 従って末梢組織で酸素が欠乏し、いわゆるチアノーゼを呈することがある。平たくいえば、一種の先天性心不全である。 放っておけば、非代償性心不全となり、死亡する。

「治す」という表現は適切ではないように思われるが、なんとか心臓の機能を向上させるための手術として、いわゆる Fontan 手術が行われる。 これは F. Fontan らが 1971 年に提案した手術法 (Thorax 26, 240-248 (1971).) および、その変法である。 変法という外科用語は「考え方は同じようなものであるが、具体的なやり方を変更した手術法」という意味である。 これに対しオリジナルの手術法を「原法」と呼ぶ。

さて、医学書院『新臨床外科学』第 4 版では、Fontan 原法を「心房中隔欠損を閉鎖し, 右心耳と肺動脈を吻合する.」としている。ここまでは良い。 しかし図では、上大静脈と右肺動脈をも吻合し、上大静脈の心房側断端は閉鎖するように描かれている。 一体、この上大静脈と右肺動脈の吻合には、どのような意味があるのだろうか。

Fontan 手術の目的は、とにかく動脈血と静脈血が混ざるのを避ける、ということである。 そのために心房中隔欠損を閉鎖し、静脈血をそのまま肺動脈に送り込むように、経路を変更する。 その観点からは、上大静脈と右肺動脈の吻合は、無駄な操作であるように思われる。

実は、これを理解するには、Fontan 以前の手術法を知らねばならない。 Fontan より前に 1954 年から 1958 年にかけて Glenn が提案した手術法は、上大静脈を右肺動脈に吻合する、というものであった。 これだと動脈血と静脈血の混合は残ってしまうが、いくらかマシにはなる、ということである。 Fontan は、この Glenn 手術を前提として、さらに動脈血と静脈血の混合をも解消するための手法として、今日でいう Fontan 手術を編み出したのである。

私と同じように「先行する Glenn 手術は省略可能なのではないか?」ということを考えた外科医も、もちろん、いたらしい。 彼らは、一種の Fontan 変法として、上大静脈をいじらずに、心房中隔欠損閉鎖および肺動脈の右心房への吻合のみを行う手法を実践したようである。

さて、これらの手法を用いた場合、血液を肺循環に送り出すための駆動力は、右心室ではなく、専ら右心房に依存することになる。 「心室より力は弱くなるが、三尖弁閉鎖症では右心房が代償性に肥大しているし、まぁ、何とかなるだろう」と、Fontan は考えたようである。

ところが、実はそうでもなかった。 この手術を行うと、やがて右心房は拡大し、収縮力を失い、機能しなくなるどころか、むしろ心房内に乱流を生じてエネルギーを喪失せしめ、 かえって肺循環への血流を阻害することになるらしい。 これは、大雑把にいえば「右心房の容量負荷のため」というようなことになるのだろうが、この「容量負荷」という言葉の意味は極めて曖昧である。 学生に、何となく分かったような気分にさせるための方便に過ぎない。 実際のところ Fontan も、そういうことが起こるとは予想していなかったようである。

とにかく、Fontan 原法はまずい。そこで外科医が何を考えたのか、という点については、そろそろ長くなってきたので、次回にしよう。

2015.11.18 一部勘違いを修正

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