これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
名古屋大学医学部の関係者に、後藤新平の名を知らぬ者はいないであろう。 後藤は幕末の仙台藩出身の医師であり、やがて愛知県病院で医師となり、後に愛知県病院長兼愛知県医学校長となった。 もちろん、愛知県医学校というのは名古屋大学医学部の前身であり、愛知県病院というのは、附属病院にあたる。 なお、名大医学部のウェブサイトの沿革では「愛知医学校」となっているが、 「愛知県医学校」としている文献もある。どちらが正しいのかは、よく調べていないので、知らぬ。 後藤は、その後、南満州鉄道株式会社、いわゆる満鉄の初代総裁になったり、台湾総督を務めたりし、さらに逓信大臣、内務大臣、外務大臣などの任にあたった。 これらの経歴の中で、後藤は特に公衆衛生の重要性を説き、その実施に尽力したことで高名である。 名古屋大学医学部では、偉大な先人の一人として後藤を称えている。
しかしながら、名古屋大学における後藤の取り扱い方は、どうも事実と少し異なるのではないかと思われる。 私は一次史料にはあたっていないが、山岡淳一郎『後藤新平 日本の羅針盤となった男』では、次のように描かれている。
「コレラの伝染が拡大してからでは手遅れだ。平静な状態から衛生に務め、予防しなければならない。(中略)
戦争が起きてから砲弾を造るのでは遅すぎるのだ……」
だが、打てど響かず。誰も伝染病を防ぐ衛生論議に加わろうとはしなかった。
医師たちは多くの患者を集めることに熱中していた。
あるいは病院施設の建設に血道をあげていた。新平の話し相手は、お雇い外国人医師のローレッツしかいなかった。
また、後藤は遊説中に暴漢に襲われた板垣退助を診察したことがあるが、それについて山岡氏は次のように記している。
新平は、板垣を診たときのようすを語っている。
「やっぱり私を青僧だと思っているような感じがするので、板垣の室に入って、
『御負傷だそうですな、御本望でしょう。』と、一喝食わしてやった。(後略)」(『文藝春秋』昭和二年四月号)
板垣は「あいつを医者にしておくのはもったいない。政治家にしたらおもしろい」と新平を評したというが、これも真実かどうかは怪しい。
新平が板垣の前で堂々と振る舞えたのは、長与から「内務省衛生局御用係採用」の内命が届いていたからでもあろう。(中略)
新平は患者の獲得に汲々とする病院に未練はなかった。
もちろん、これは山岡氏や、氏が参考にした文献による偏見であって、実際には、後藤はもう少し丁重に扱われていたのかもしれない。 しかし、後藤が病院長兼校長を一年かそこらで辞し、官僚に転向したのは事実である。山岡氏の書き方で、概ねは当っているものと思われる。
先に書いた某病理医の件もそうであるが、愛知、名古屋という土地には、異質なものを排除し、 仲良しグループで既得権益を囲い込み、変化を嫌う風潮があるのではないか。 彼らは「それで世の中はまわっているのだから」などと弁明する。 これを井蛙という。