これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
本日は、昨日の「スターリングの法則」を踏まえた上での、心室拡張期の話である。 特に、房室弁が開いた後の期間に注目する。 よくある横軸に心室容積、縦軸に心室内圧をとったグラフでいえば、左下の点から右下の点までの間である。 この 2 点の間では、心室内圧は厳密には一定ではない。 では、具体的に、内圧はどのように変化するだろうか、という問題を考える。 この部分のグラフの形状については、多くの教科書が無頓着であり、それぞれに異なる形を描いている。
`Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology' は、まず最初は徐々に圧が下がるが、やがて上昇に転じ、最後に心房収縮によりグイッっと上がる、という図を描いている。 よくよく考えてみれば、これが一番正しい。 MEDSi 『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』第 3 版では最後の心房収縮の部分が省略されているし、 医学書院『標準生理学』第 8 版は最初から圧は単調かつ滑らかに上昇するかのように描かれているが、これらは、いずれも、おかしい。
房室弁は、薄く、しなやかであるので、大動脈弁や肺動脈弁とは異なり、速やかに開閉する。 心房と心室の圧の大小関係が逆転する際に、ほぼ瞬間的に開閉すると近似してよかろう。 従って、心室の弛緩により心室内圧が心房内圧と等しくなった時点で、ただちに弁は開き、静脈系から心房を経て心室に至る血液の流れが生じるとみてよい。 その後、心筋はさらに弛緩するから、その期間は心室内圧が減少するのである。
心室が完全に弛緩しても、心室への血液の流入は止まらない。 この時点では、心室より静脈の方が少しだけ高圧だからである。 この圧力差ゆえに、心室はさらに拡張し、心室壁は弾性エネルギーを蓄えることになる。 この圧力が何に由来しているのかを認識しておくことは重要である。 毛細血管や静脈には、自律的に収縮する機構はほとんど存在しないのだから、血液を心臓に送り込み心室を拡張させるエネルギー源が、どこか別に存在するはずである。
このエネルギー源は、大動脈などの、弾性繊維に富む太い動脈である。 これらの血管は、心臓からの拍出によって伸展し、弾性エネルギーを蓄える。 細動脈や毛細血管、細静脈は、かなり大きい抵抗を持っているので、全ての血液が一度に流れていくことはできず、一時的に動脈内に蓄えられるのである。 エネルギーの観点からすれば、一旦、血液の運動エネルギーが動脈壁の弾性エネルギーに変換される、と言っても良い。 このエネルギーが心室拡張期に放出され、血液の運動エネルギーに再変換されて静脈系に運ばれ、さらに心臓に還って心室壁を伸展させるのである。 従って、たとえば動脈硬化が進み拡張期血圧の低下している高齢者においては、この部分の心室拡張が損なわれる。
では、大量輸液を行って循環血液量が増加している状態では、どうなっているのか。 増加した体液は、主に静脈に貯留するであろうが、一部は心臓や動脈に蓄えられる。これによって、心筋も動脈壁も、伸展した状態になる。 静脈壁は、変形はするが、あまり伸展しない。格好つけた表現を用いれば、静脈壁はコンプライアンスが低いのである。 この壁伸展の弾性力は、力学的な観点からすれば、血圧と釣り合っていることになる。
以上のことから、大量出血を来した患者に対して生理食塩水や Ringer 液を輸液することは合理的である、といえる。 血液量が減少した患者においては、心室収縮期に血液を動脈内に蓄えるまでもなく、ほとんどそのまま毛細血管や静脈に送ることができてしまう。 従って、心室拡張期において心室筋が弛緩しきった後には、もう血液が心室に流入しないから、結局、心拍出量は少なくなる。 これに対して輸液を行った場合、血液は多少薄くなってしまうが、度が過ぎない限りは、心拍出量増加の利益の方が大きい。 たとえば血液量を 10 % 増加させた場合、ヘモグロビンは 9 % 程度薄くなるが、心拍出量は 15 % も 20 % も多くなることが期待できるのである。 また、同様に考えて、この状況において β1 刺激薬を投与しても、ほとんど意味がないこともわかる。