これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
昨日、ふらりと大学生協の書籍部を訪れた際、金原出版『TNM アトラス』第 6 版という書物をみつけた。 中をみると TNM 分類の図説である。しかも編集は、TNM 分類を制定している UICC であり、要するに公式アトラスなのである。 私はオオヨロコビして、直ちに購入した。 そして、道行く知人・友人をみつけるたびに「どうだ、うらやましいだろう」などと自慢したのである。
TNM 分類というのは、悪性腫瘍の広がりの具合を記述するための国際的指標であって、Union for International Cancer Control (UICC) という 識者が集まった国際委員会によって制定された分類法である。 癌の「ステージ」とか「病期」とかいう表現は、近年では一般大衆にも知られつつあるようだが、その病期は、多くの場合、TNM 分類に基づいて評価される。 現時点で最新の TNM 分類は Seventh Edition であり、これを日本語訳したものが金原出版『TNM 悪性腫瘍の分類』第 7 版として出版されている。 昨日購入した「TNM アトラス」は、これにカラーの図説を付したものであり、アトラスとしては第 6 版であるが、内容は TNM 分類の第 7 版である。
この『TNM アトラス』には正誤表が付されており、みると口唇癌および口腔癌について T4a の定義に「骨皮質に浸潤するもの」とあるのは誤りで、 正しくは「骨髄質に浸潤するもの」である、と書いてある。 これは非常に重大な間違いである。 アトラスではない方の『TNM 悪性腫瘍の分類』ではどうなっているのか、と思って調べると、「皮質骨に浸潤するもの」となっている。 日本頭頸部癌学会編『頭頸部癌取扱い規約』第 5 版も「皮質骨に浸潤する腫瘍」としている。 ついでに手元にあった日本頭頸部癌学会編『頭頸部癌診療ガイドライン 2013 年版』をみると、これも口腔癌の T4a は「皮質骨に浸潤する腫瘍」となっている。
私は、骨の「皮質」というのは緻密骨のことであると思っていたのだが、ここに勘違いがあるといけないので、一応、調べてみた。 まず南山堂『解剖学講義』改訂第 3 版や南山堂『組織学』改訂 19 版では、骨については「皮質」という語を用いておらず、「骨質は緻密質と海綿質に分けられる」とのみある。 そして「緻密質と海綿質は臨床では, 緻密骨と海綿骨といわれている.」とある。 私は基礎寄りの人間のつもりであったが、無意識に、基礎解剖学用語ではなく臨床用語を使っていたらしい。 意識的に臨床用語を使うならともかく、無意識なのはいけない、と反省した。 次に医学書院『医学大辞典』第 2 版をみると「緻密質」と「緻密骨」「皮質骨」は同義である、としている。「骨皮質」という語は記載がない。 そして S. E. Mills `Histology for Pathologists' 4th Ed. では `Cortical bone, also known as dense compact bone...' とある。 要するに、これらの語は全部同じ意味である、という点に異論はないらしい。
話を口腔癌の T 分類に戻す。TNM 分類の正本は、英語版の `TNM Classification of Malignant Tumours' である。 UICC の本部はスイスのジュネーヴにあり、米国式ではなく英国式の英語が用いられているらしく、`Tumors' ではなく `Tumours' である。 私は英国派なので、こういう記述をみると、嬉しくなる。 さて、口腔癌の T 分類のページを開くと、次のように記載されている。 `T4a (lip) Tumour invades through cortical bone...' 'T4a (oral cavity) Tumour invades through cortical bone...'
`Into' ではなく `through' であるから、「皮質骨に浸潤する」ではなく「皮質骨を貫通して浸潤する」という意味なのである。 誰かが最初に誤訳したのを、そのまま転載してしまったために、誤った記載が広まったものと考えられる。 国際共通基準として定められた TNM 分類を、日本においてのみ異なった解釈で運用していたとすれば、これは重大な失態、大事件であると思うのだが、 この件が専門家の間でどのように扱われているのかは、知らぬ。 たとえば、今後、臨床研究等で過去の臨床データを比較検討する場合などは、こうした基準の差異が存在することを前提に解析せねばならず、実に困る。 なお、幸か不幸か、「頭頸部癌診療ガイドライン」を読む限りでは、口腔癌に対しては詳細な治療アルゴリズムが確立されていないらしいので、 この誤訳のために病期を過大評価されて不適切に過剰な治療を受けた、という患者は、ほとんどいないのではないかと思われる。
ところで、この `through cortical bone' という表現は、完全に臨床医の立場からみたものである。 つまり、X 線画像や CT では、緻密質が高吸収域として認められるので、それを貫通しているかどうか、という定義が、臨床的には使いやすいのである。 しかし病理医の立場からすると、あまり美しい定義ではないように思われる。 というのも、「緻密質を貫通した先」には、骨である海綿質と、造血の場である骨髄がある。 「骨髄にまで浸潤している」という事実には重大な意義があるが、「海綿質にまで浸潤している」という事実に重大な臨床的意義があるとは思われない。 従って、病理組織学的な立場からすれば、T4a の定義はむしろ「骨髄にまで浸潤している」とするべきであろう。 もちろん、実際上は「海綿骨には浸潤しているが骨髄には浸潤していない」という状況は考えにくいので、このあたりは美的センスの問題に過ぎない。