これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/10/10 福島原発事故と甲状腺癌

原発事故により、甲状腺癌は増えるのかどうか、あるいは増えたのかどうか、という点について、議論が続いている。 さる 9 月 30 日にも、Epidemiology誌に 新しい報告が掲載された。 この問題については、純粋な医学的関心ではなく、ある種の政治的あるいは社会的意図をもって主張がなされることが多いので、だいたい、議論がかみ合わない。

この種の疫学調査について、よく指摘されるのは「甲状腺癌にはラテント癌が多い」という点である。 ラテント癌とは、生涯にわたって無症候性で、死後の解剖によって初めて発見されるような癌のことである。 甲状腺の他に、前立腺もラテント癌が多いことで有名である。 積極的に超音波などを用いて甲状腺癌や前立腺癌をスクリーニングすると、こうしたラテント癌が、しばしば発見される。 これは放置しておいても何も問題がないのだが、進行性の、治療を要する癌との鑑別は困難であるため、外科的切除などの不必要な「治療」を受けてしまうことがある。 注意すべきなのは、たとえ外科的に切除された標本をあらためて病理診断したとしても、 それが「本来治療不要であった癌」なのか「治療するべき癌」なのかを鑑別することは一般には難しい、という点である。 症状が出てしまった癌や転移してしまった癌が「治療するべき癌」なのは確かだが、無症状の段階では、人間には両者を鑑別できないのである。 従って、積極的にスクリーニングを行えば、みかけ上、甲状腺癌が「増えた」かのような疫学データが得られてしまうのである。

これについては、たとえば福島県と富山県で同時にスクリーニングを行って結果を比較する、というようなことを行い 「福島では、富山県より明確に甲状腺癌が多い」というような結果が出れば、原発事故との関連を疑う根拠になる。 しかし、これにはかなりの労力と資金を要するから、実際には行われていないようである。 それに準ずる方法として、上述の報告では、福島県内で被曝の多い地域と少ない地域を比較して「甲状腺癌の罹患率に 2.6 倍の差があった」としているが、 95 % 信頼区間は (0.99, 7.0) となっており、統計的に有意な差は認められていない。 この報告を読む限りでは、この 95 % 信頼区間について、多重検定の問題をどう扱っているのか、よくわからない。 研究計画の立て方にもよるが、もし多重検定の問題が存在しており補正がなされていないなら、本来の 95 % 信頼区間は、もっと広いことになる。

なお、統計的に有意な差があっても、それが本当に意味のある差であるとは限らない。 この種の統計の場合、「甲状腺癌」の定義としては穿刺吸引細胞診における「悪性または悪性疑い」というものを用いることが多いようである。 この「悪性疑い」というのが曲者なのである。 細胞診というのは、たとえプロフェッショナルであったとしても、検鏡所見だけで「これだ」と断言できるようなものではない。 患者の臨床的背景も考慮して、総合的に診断するのが原則である。 たとえば顕微鏡的所見が全く同じであったとしても、患者が富山の住民なのか、福島で被曝した人なのかで、診断が変わるのは病理診断学的におかしなことではない。 「たぶん大丈夫そうだけど、福島だしなぁ。ちょっと怖いなぁ。際どいけど悪性疑いにしておくか。」ぐらいの判断は、充分にあり得る。 あるいは、そこまで明確な認識がなくても、無意識にバイアスが入るのは当然のことである。 臨床医にならんとしている学生諸君は、病理診断依頼書に「甲状腺癌疑い」と書くか「甲状腺癌の除外目的」と書くかで、 診断結果が変わる可能性がある、という事実を、よく認識しておく必要がある。

従って、キチンと評価しようと思うならば、二重盲検を行わなければならない。 たとえば富山で行った細胞診の標本と、福島で行った細胞診の標本とを適当に混ぜ合わせて、 診断する人は、それが富山なのか福島なのかわからないような状態で判定を行うのである。 もちろん、そのような比較を行うのは大変な労力と資金を要するが、疫学調査で因果関係を示す、というのは、そのくらい、難しいことなのである。

なお、公正を期すために明言しておくが、私は、いわゆる原子力村の出身者であり、「原発に依存することはやむを得ない」とする立場である。 ただし、今はもう原子力を生業とはしていないし、する予定もないので、いわゆる御用学者の類ではない。


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