これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/02/17 復帰

今月上旬に行われた医学と学問を冒涜する低俗な試験のために著しく疲弊した私は、この一週間ほどタマシイを失った抜け殻のような生活をしていた。 しかし、そろそろ、私も人間社会に復帰しようと思う。

例の試験の際、初日の朝の試験室の雰囲気には驚いた。 別段、私語禁止などの規則はないのだが、室内にいる受験生のほとんど全員が参考書の類を開き、黙々と「お勉強」していたのである。 とても友人と雑談できるような雰囲気ではない。 さながら神社仏閣のような静寂であった。 そこで私は廊下に出て友人をつかまえ、敢えて周囲に聞こえるように次のようなことを述べた。 「あの教室の雰囲気は何だ。気持ち悪い。手術室より緊張しているじゃないか。 国家試験に落ちたからといって人が死ぬわけじゃあるまい。あんなので医者になって大丈夫なのか。」 もっとも、最初の一コマが終わると緊張がほぐれたのか、皆、それぞれに雑談を始めた。健全である。

だいたい、あの種の試験の後では、知人同士で答え合わせや、ちょっとした検討会が行われる。 たとえば最終日には、私の近くの席にいた二人組が、ある症例問題について語っていた。 詳細は覚えていないが、要するに敗血症が疑われるような症例であって、まず行う治療として適切なものはどれか、という趣旨の問題である。 一人は「グルココルチコイドの投与」を選んだらしい。 しかし、もう一人は、低血圧まで呈していてショックと考えられるから「大量輸液」であろう、と言っていた。 一般的には、まぁ、後者の方が普通である。 グルココルチコイドは、投与するにしても、もう少し後である。 私も、ここは輸液にしたと思う。 眼窩底骨折の件とは異なり、この場合は大量輸液を不適とする理由はないから、出題者の意図を汲むことに異存はなかったのである。

私は、もちろん、その二人組の名前も所属も何も知らなかったが、ふと「面白そうな話だわい」と思い 「いや、ショックだからこそグルココルチコイドという発想もある」と首をつっこんだ。 こういう場合、名大の同級生であれば「面倒くさい人が来た」などと言いながら、一応、話だけは聞いてくれる優しい人が多い。 しかし残念ながら、この二人からは「何だこいつ、頭おかしいんじゃないか」と言わんばかりの視線を投げかけられただけで、無視されてしまった。遺憾である。

実際、グルココルチコイドには、いわゆる抗ショック作用があると考えられているから、この場合にグルココルチコイドを投与することが不適切であるとまでは言えない。 ただし敗血症の場合、不用意に投与すると感染の増悪を来す恐れがあるため、判断が難しいのである。 こういう時、少しばかり意識の高い学生であれば「エビデンスは、どうなっているのか」などと言うかもしれぬ。 ここでいう「エビデンス」とは、統計的エビデンスのことである。 つまり、グルココルチコイドを投与した場合と投与しなかった場合で、その後の転帰は、どちらの方が良好であるか、という統計のことである。 「転帰」というのは、この場合、致死率とか、平均在院日数とか、客観的に測定できる指標を用いるのが普通である。

しかし残念ながら、そういう統計には、決定的価値はない。 理論上、感染が優位である敗血症に対してはグルココルチコイドは控えるべきであろう。 一方、感染よりも全身性急性炎症反応が優位な場合、たとえば菌血症を伴わない高 LPS 血症のような場合には、グルココルチコイドが有効であろう。 このように、個々の患者の病態に合わせて臨機応変に対応するのが医学的には正しいのであって、 「ショックに対してグルココルチコイドを投与することの是非」については「場合による」としか言えない。 統計というのは、その繊細な判断をする際の補助的情報にしか過ぎないのである。 このあたりのことは、大抵のガイドラインでは冒頭部分に記載されているのだが、読んでいない医師や学生が多い。 なお、敗血症診療ガイドラインでは、グルココルチコイドの投与について「議論がある」というような位置付けにしている。

話は変わるが、旅券の期限が切れていたので先日再発行を申請し、本日、無事に受領した。 私はまだ何も悪いことはしていないし、日本国に対する反乱も企てていないので、問題なく発行されたのである。 21 日から欧州旅行に行くが、旅先での記録は、別途、旅行記としてまとめる予定である。


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